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     ◆


「ということなんですけど、覚えてますか?」
 昴星の語った櫻川との接点にしばし考え込む。当時、櫻川が何人か迷子を案内所まで連れて行ったり、模擬店のスペースに遊びに来た子供がいたのだ。十年以上前のことなので記憶があやふやになっている点があり、どの子供が昴星だったのか判別できない。
「やっぱり、そんな昔のこと覚えてないですよね…」
「いや、覚えてないわけじゃない」
 見る間に気落ちしていく昴星に罪悪感を感じ、櫻川は咄嗟に言葉を発していた。
 嘘ではないが、正確には「どの子供が昴星だったのかは分からないが、自分のところへ遊びに来た子供がいたことは薄っすらとだが覚えてないわけじゃない」である。
 ただ、ひとつ引っかかっていることはある。
「何で俺だって分かったんだ。十年以上昔のことだろう。雰囲気や人相もあの頃とだいぶ違うと思うが?」
「それは……、最初は気付いていませんでした。颯…、友人にブローチの相談をした時に、それなら工学部が良いんじゃないかって話になって。どういう伝手を使ったのはかわからないんですけど、櫻川先生が彫金できるってことを調べて。祖母の大事なものだし実際にどんな人なのか気になるから、調べてみようと何度か遠目で確認してるうちに」
 そこまで話すと、櫻川が大きな溜め息を吐いた。
「それで俺の周りをチョロチョロしてたのか。初めは襲われるんじゃねえかってハラハラしてたわ」
「こんな大男襲いませんよ。失礼ですよ先生」
「お前だって失礼だろ。無意味につけ回されてる俺からしてみれば、ただのストーカーだぞ」
「ストーカー?! ……そりゃ先生からしてみればそうかもしれないけど、僕にもちゃんと大義名分があって…」
 だんだんと尻すぼみになる昴星を見下ろすと、何故だか分からないが既視感を覚えた。昔もどこかで同じような光景を目にしている気がする。
 そして唐突に思い出した。
 とっさに昴星のあごを掴んで櫻川の方へ顔を向けさせると、びっくりして目を見開く。宝石のような瞳の色は、やはりアンバーだった。
「ちょ、またですか! もう!」
 するりと櫻川の手から離れ、昴星は警戒心むき出しにしながらも、頬を紅潮させ胸のあたりを押さえた。
 パズルのピースがかちりとはまる。
 街灯でキラキラと光る瞳に吸い込まれそうになる感覚を、以前もどこかで感じていたはずなのに思い出せなかったのは、二度と会うことはないと思っていたからだ。
「お前は、あのときのボウズか……?」
「あ……、思い出してくれたんですか? そうです!! 先生がデモンストレーションで作った指輪を僕にくれて。今でもちゃんと持ってるんですよ」
 ほら、と言って昴星は嬉しそうに首元へ手を突っ込み、チェーンに通した指輪を引っ張り出して見せた。
 現れたのはいたってシンプルな太めのシルバーリングに、五角形に形成されたアンバーを埋め込んだ、特に抜きん出た特徴はない指輪だ。ただ、指輪の材質が六角ナットの鉄であるため、銀と比べると相場に雲泥の差が出てくる。
「それを、よく見せてくれ」
 櫻川は身を乗り出し、昴星の首元で光る指輪を手に取る。埋め込まれたアンバーをじっと見つめると、立ち上がり奥の部屋へ引っ込んだ。奥の部屋では、櫻川はがたがたと物音をさせ、何事かと様子を見守っていた昴星の元へ戻ると、手にはルーペを携えていた。
 さきほどより昴星との距離を詰め、アンバーをルーペ越しに入念に見つめる。
「…Volevo incontrarmi」
 櫻川は感嘆の面持ちで聞き馴染みのない言葉を発し、昴星の目を見据える。お互いに無言のままにらみ合いが続き、耐えられなくなった昴星はしぶしぶ訊ねた。
「……何ですか?」
 櫻川はアンバーを握りしめ、
「返してくれ」
「……は?」
「返してくれ」
   抑揚のない声で、二度も同じことを言った。
「いや、だから…。ホント何言ってんですか。これ、くれたの先生ですよ?」
「確かに俺がお前にやったものだ。だが、悪いとは思うがお前が持っていて良いものじゃない」
 櫻川は理不尽な要求をしごく当然といった顔で言ってのける。俺様が過ぎる。
「何ですかそれ。意味わからないんですけど」
 昴星は呆れて半目になりながらも、アンバーから手を引かない櫻川から目を離さなかった。お互いさらににらみ合いが続く。
 昴星にとってはいつも身に付けている愛着のある指輪だが、さりとてそれが意固地になるほど大切なものかというとまた別の話だ。櫻川が必要であるなら返すことも吝かではない。だが、事情も説明せず「返してくれ」では不信感が募る。
 そのうえ昴星が持っていていいものではないとは、一体どういうことなのか。分不相応という意味にも、贈る相手を間違えたという意味にも聞こえ、釈然としない。おまけに櫻川の表情からも何も読み取ることもできない。至って見慣れた機嫌の悪い顔だ。
 昴星は、こうなったら意地でも渡すものかとめらめら闘志を燃やし、何か打開策はないかと思い巡らす。パーソナルスペースの狭い昴星でさえも、お互いの距離が近すぎて落ち着かないのも一因だが、物理的にも精神的にもフラットな状態に戻りたいのだ。
 そしてふと思い付く。
 あまり使いたくない手ではあるが、なりふり構っていられない。
「……絶対返しません。だって、こんなに長い年月を共にしてきたのに。これのおかげで頑張れたこともあるんですよ」
 昴星は涙目で悲しみを表現しようとするも、ふつふつとわく不満が瞳を潤すことはなく、下がり眉と唇を噛みしめるにとどまった。非常に不本意ではあるものの、しかし効果は抜群だった。
 櫻川は動揺したのか目を泳がせ、しばらくするとがっくりと項垂れた。そして、
「……まあ、最初に俺が間違えたのが悪いしな」
 と、諦め悟った顔で呟くと、気持ちを切り替えたのかまたふんぞり返るようにソファに腰掛け直した。昴星は手元にあるコーヒーカップに視線を落とす。
 昴星の気持ちはすっと落ち着いたものの、気分はすっきり晴れない。
 情に訴えることで櫻川の人間性を知ることができたが、逆もまた然り。訴えた昴星自身の人間性も分かるということだ。それは諸刃の剣であり、悪人になり切れない昴星もまた罪悪感を感じることとなった。
 沈黙の中、ぬるくなったコーヒーをすすりながら落し所がないかと考える。
 櫻川の言い方には憤慨したものの、昴星に相手を困らせてまで意地を張るほど我の強さは持ち合わせていない。それに昴星は櫻川と敵対したかったわけではないのだ。むしろ擦り寄ってでも懐柔しなければすべてが無駄になる。
 優先すべきは祖母マリアのブローチの修理、ただそれだけだ。
「先生……だったら、この指輪と交換条件にしてもらえませんか?」
   神妙な面持ちで顔を上げれば、櫻川の驚いた顔と出くわした。櫻川は口を開きかけ、一度真一文字に結び直し、意を決したように恐る恐る口を開く。
「本当にいいのか……?   大事にしてたんだろう」
「……よく分からないですけど、僕のところにあるのが手違いだったんでしょ? だったら先生のところへ戻るのが最善だろうし。それに……修理してもらえるなら何だっていいんです」
 前言を撤回する形になった昴星は、慎重に言葉を選び、少し笑顔を見せつつも困ったように眉を下げた。
「早く祖母に持って行きたいし」
 櫻川にとどめを刺すように呟いた言葉は、意図せず昴星の心を揺らす。
 祖母との思い出がぽろぽろと溢れだし、閉じ込めたはずの感情が涙腺を刺激した。
 両親不在の最初の夜、中学の運動会のお弁当、入学式や卒業式。孫のためにたくさんの愛情と手間暇を惜しまずかけてくれたこと。思い出せばきりがない。
 昴星は気持ちに蓋をするように欠伸でごまかし、櫻川の出方を伺う。
「どうですか、先生。やっぱりダメですか? 僕もう眠たくなってきたんですけど……」
 櫻川ははっとして壁掛け時計を見る。時刻は二十四時に差し掛かっていた。
 ソファにもたれていた姿勢を正し、櫻川はゆっくりと首を縦に振った。
「分かった。お前の言う通りにしよう。……いや、責任を持って修理させてもらう」
 ようやくスタートラインに立った昴星は、さっそくネックレスチェーンを外し、馴染みのあるアンバーの嵌った指輪をそっと渡した。櫻川はそれをしばらく眺めた後、胸ポケットへ落とした。
「さあ、家まで送ってやるから案内しろ」
「え、先生……ビール飲んでましたよね。飲酒運転はやめてください」
「馬鹿。いつ俺が車を運転するっつった」
「じゃあ誰が運転するんですか。あ、タクシーか」
「ま、そんなもんだ」
 昴星が訝しみつつも帰り支度をしている間に、櫻川は背中を向けてどこかへ電話をかける。数コールで繋がり、要件を告げるとすぐに通話を終えて振り返った。
「二、三分で着くそうだ。行くぞ」
 昴星に声をかけ、背中を向けた櫻川は、先に玄関へ向かう。後ろを歩く昴星は知る由もなかった。このとき櫻川がほくそ笑んでいたことを。
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