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あ、と小さく声を上げる。
訝しげに昴星を見ながら通り過ぎる人たちに構っていられなかった。きっとあの人だ。
昴星は小さな手を握りしめ、母に先に行くとだけ告げ走り出した。
慌てて息子を呼び止める声に、すぐそこだと行き先を指さしながらも足を止めない。
一年ぶりに、昴星は母の母校、櫻川女子大学へ来ていた。小学二年、八歳の秋のことだ。
十一月上旬の土日は、地元ではどこの学校も文化祭を催している。櫻川女子大学も例にもれず、今日は文化祭の開催日だ。一般開放されたキャンパス内は、地元の老若男女であふれ返っていた。
「お兄ちゃん!」
まっすぐ目的の相手がいるテントまでたどり着くと、そこには会いたかった人の周りを、四、五人の女性が囲んでいた。当時の昴星の目にはただ仲良く話しているだけのように見えていたが、青年ばかりの隣のテントからは、何やら殺気立った空気が漂っていた。
不思議に思っていたが、たんに女性を侍らせていただけだと昴星が気付くのは何年か後のことである。
「……ああ?」
怪訝な顔で見下ろすのは、小学生の昴星でも分かりやすいほどの男前で、デニムにフード付きトレーナーは誰もが着ている組み合わせだが、彼が着るとそれだけで様になる。
「なあに? 弟くんが遊びに来たの?」
その場に居た女性たちが興味津々で昴星を囲み、可愛いと言っては頭を撫でてくる。慌てて隠れるように彼の背後へ逃げ込もうとしたら頭を鷲掴みされた。
「弟が居た覚えはねぇな」
「弟になった覚えないし! 去年も来たじゃん! ほら、好きな食べ物とか色とか、いっぱい話したこと忘れたの?」
鷲掴みされた頭をふりほどきながら訴えれば、彼は顎に手をやり考え込んだ。
「ああ、あの泣き虫坊主か」
「なっ…泣き虫じゃないし…」
「へえ?」
尻窄みになる昴星ににやにや小馬鹿にしたような顔で見下ろすのは、当時大学二回生の櫻川譲治だった。
「やっぱり帰る…」
「冗談だ。今日は母ちゃんにちゃんと言ってきたか?」
「言ってきた」
「…というわけで、俺は今からこいつの面倒見るから解散な」
「ええ?! 嘘でしょー!」
あきらかにブーイングの嵐が巻き起こっているのを物ともせず、櫻川は何処吹く風で長机に並べた金属部品を検分し始めた。
机には金属を加工した商品も並べられ、アクセサリーなどはピアスもあり、通りがかる女性は自然と足を止める。櫻川といえば接客するわけでもなく、色味や幅の違う六角ナットを吟味している。昴星は、今から何が始まるのだろうと、わくわく心躍らせながら真剣な面持ちの櫻川を見上げていた。
一年前に母と訪れたときは、あっという間に迷子になって途方に暮れた。この広いキャンパス内をどうやったら母を探し出すことができるのか、周りを見回しても誰一人として知り合いもおらず、昴星は小学一年生にして「絶体絶命」という言葉を体感した。なんなら背中に背負っているようだった。そんな時にあらわれたのが櫻川だ。そのときも女性を両手に侍らせ、呆然としている昴星の頭を鷲掴み、「母ちゃんと逸れたのか?」と威圧感たっぷりに聞いてきた。態度こそ横柄だが、昴星にとっては声をかけてくれる大人も居なかったため、まさに地獄で仏に出会ったような心境だった。
ほっとして涙を浮かべると、櫻川はぎょっとして慌て始めた。結果、今日のように両手に侍らせていた女性たちを解散させ、昴星を案内所まで送り届けてくれた。その後も櫻川はそのまま居座り、親が来るまでの数十分、学校のことや友達のこと、食べ物の好き嫌いなどたわいもないことを尋ねてきた。一つ一つ話していくうちに気持ちが落ち着き、あっという間に迎えがやってきた。母は櫻川に何度も頭を下げて礼を言い、昴星の手をぎゅっと握りしめた。
親とはぐれた心細さを埋めようとする優しさは、誰でも持ち合わせているわけではない。ましてや見知らぬ子供を安全なところへ連れて行くにも躊躇われるご時世だ。善意が正しく人に伝わって、母に伝わって、昴星が一番ほっとした。
子供の足りない言葉を埋めるように、微笑んだ母の顔は一生忘れないだろう。
本当に、人は見かけによらないものだ。
一年前の出来事を回想しながら櫻川の横顔を眺める。
「おまえ、名前は何つった?」
「こうせい。すばるぼしで昴星。分かる?」
「ああ…王者の星か。厳つい名前だ。いいじゃねえか」
褒められて嬉しくなり、にこにこと得意げな顔をしてみせると、櫻川はふっと小さく笑った。
「まあ、今の昴星じゃあ王というより王子だな。人々が傅く威厳はねえけど、自然と人を惹きつける何かはあるみたいだし」
「ひきつける?」
意味が理解できず首を傾げていると、櫻川はサイズ違いのナットを並べて吟味していた手を止めた。
「ああ…そうだな。例えば引力で引っ張られるような感覚で、勝手に目が向いてしまうとか、何故だかその存在が気になってしまう───、その瞳(め)に吸い込まれそうだ、てことだ」
「へー。よく分かんないけど、何か気になったら惹きつけられてるってこと?」
「そうだ。そんで、俺はおまえの瞳に惹きつけられてる。その瞳の色は元々か? それともコンタクトでもしてるのか?」
「ううん、違う」
昴星はきっぱりと否定したあと、少し困ったように眉を下げた。
「…ときどき意地悪言ってくるやつがいるけど、おばあちゃんと同じ色だし、僕は好きなんだ」
櫻川は目を細め、ひとつ頷くと昴星の頭を撫でながら肯定した。
「確かに良い色だ。その色はアンバーって言ってな、宝石で例えるなら琥珀だ。琥珀は厳密にいうと宝石ではなく樹脂なんだが、インクルージョンだと研究対象にもなる希少な石で、価値も高くなるから市場に出まわることが…」
櫻川は滔々と語っていたが、ふと昴星の不思議そうな顔を見て口を閉じた。
「何でやめちゃうの? お兄ちゃんもっと話していいのに」
にこにこと昴星がそう言うと、櫻川は大きな溜息をこぼした。
「ガキに言っても仕方ねぇし。それに客寄せ用に仕事しねえとな」
「そっか。なら僕ここで見てるね」
「ああ。危ねぇからそこから顔出すなよ」
櫻川は、昴星が頷いて大人しく座っているのを確認すると、あらかじめ幅を切り落としてあるナットをつまみ上げ、パイプ椅子に腰掛けた。
初めて見る道具もあり、興味津々で見ていると、櫻川はテーブルに固定された工具の電源を入れた。すると先端が高速回転し、モーター音が響く。つまみ上げたナットをそれへ近づけると研磨し出し、さらに期待値が上がった。棒状のヤスリと電動の研磨機をかわるがわる使い熟し、しばらく同じ作業を繰り返していた櫻川だったが、ふと手を止め昴星を見た。
「おまえ、名前に星が入ってるし星の王子様だから、星だな」
「え? なんのこと?」
「まあ、出来てからのお楽しみな」
そう言うと、櫻川は再び作業を開始した。それから作業が終わるまで、櫻川も昴星も一つのナットに視線を注いでいた。
あ、と小さく声を上げる。
訝しげに昴星を見ながら通り過ぎる人たちに構っていられなかった。きっとあの人だ。
昴星は小さな手を握りしめ、母に先に行くとだけ告げ走り出した。
慌てて息子を呼び止める声に、すぐそこだと行き先を指さしながらも足を止めない。
一年ぶりに、昴星は母の母校、櫻川女子大学へ来ていた。小学二年、八歳の秋のことだ。
十一月上旬の土日は、地元ではどこの学校も文化祭を催している。櫻川女子大学も例にもれず、今日は文化祭の開催日だ。一般開放されたキャンパス内は、地元の老若男女であふれ返っていた。
「お兄ちゃん!」
まっすぐ目的の相手がいるテントまでたどり着くと、そこには会いたかった人の周りを、四、五人の女性が囲んでいた。当時の昴星の目にはただ仲良く話しているだけのように見えていたが、青年ばかりの隣のテントからは、何やら殺気立った空気が漂っていた。
不思議に思っていたが、たんに女性を侍らせていただけだと昴星が気付くのは何年か後のことである。
「……ああ?」
怪訝な顔で見下ろすのは、小学生の昴星でも分かりやすいほどの男前で、デニムにフード付きトレーナーは誰もが着ている組み合わせだが、彼が着るとそれだけで様になる。
「なあに? 弟くんが遊びに来たの?」
その場に居た女性たちが興味津々で昴星を囲み、可愛いと言っては頭を撫でてくる。慌てて隠れるように彼の背後へ逃げ込もうとしたら頭を鷲掴みされた。
「弟が居た覚えはねぇな」
「弟になった覚えないし! 去年も来たじゃん! ほら、好きな食べ物とか色とか、いっぱい話したこと忘れたの?」
鷲掴みされた頭をふりほどきながら訴えれば、彼は顎に手をやり考え込んだ。
「ああ、あの泣き虫坊主か」
「なっ…泣き虫じゃないし…」
「へえ?」
尻窄みになる昴星ににやにや小馬鹿にしたような顔で見下ろすのは、当時大学二回生の櫻川譲治だった。
「やっぱり帰る…」
「冗談だ。今日は母ちゃんにちゃんと言ってきたか?」
「言ってきた」
「…というわけで、俺は今からこいつの面倒見るから解散な」
「ええ?! 嘘でしょー!」
あきらかにブーイングの嵐が巻き起こっているのを物ともせず、櫻川は何処吹く風で長机に並べた金属部品を検分し始めた。
机には金属を加工した商品も並べられ、アクセサリーなどはピアスもあり、通りがかる女性は自然と足を止める。櫻川といえば接客するわけでもなく、色味や幅の違う六角ナットを吟味している。昴星は、今から何が始まるのだろうと、わくわく心躍らせながら真剣な面持ちの櫻川を見上げていた。
一年前に母と訪れたときは、あっという間に迷子になって途方に暮れた。この広いキャンパス内をどうやったら母を探し出すことができるのか、周りを見回しても誰一人として知り合いもおらず、昴星は小学一年生にして「絶体絶命」という言葉を体感した。なんなら背中に背負っているようだった。そんな時にあらわれたのが櫻川だ。そのときも女性を両手に侍らせ、呆然としている昴星の頭を鷲掴み、「母ちゃんと逸れたのか?」と威圧感たっぷりに聞いてきた。態度こそ横柄だが、昴星にとっては声をかけてくれる大人も居なかったため、まさに地獄で仏に出会ったような心境だった。
ほっとして涙を浮かべると、櫻川はぎょっとして慌て始めた。結果、今日のように両手に侍らせていた女性たちを解散させ、昴星を案内所まで送り届けてくれた。その後も櫻川はそのまま居座り、親が来るまでの数十分、学校のことや友達のこと、食べ物の好き嫌いなどたわいもないことを尋ねてきた。一つ一つ話していくうちに気持ちが落ち着き、あっという間に迎えがやってきた。母は櫻川に何度も頭を下げて礼を言い、昴星の手をぎゅっと握りしめた。
親とはぐれた心細さを埋めようとする優しさは、誰でも持ち合わせているわけではない。ましてや見知らぬ子供を安全なところへ連れて行くにも躊躇われるご時世だ。善意が正しく人に伝わって、母に伝わって、昴星が一番ほっとした。
子供の足りない言葉を埋めるように、微笑んだ母の顔は一生忘れないだろう。
本当に、人は見かけによらないものだ。
一年前の出来事を回想しながら櫻川の横顔を眺める。
「おまえ、名前は何つった?」
「こうせい。すばるぼしで昴星。分かる?」
「ああ…王者の星か。厳つい名前だ。いいじゃねえか」
褒められて嬉しくなり、にこにこと得意げな顔をしてみせると、櫻川はふっと小さく笑った。
「まあ、今の昴星じゃあ王というより王子だな。人々が傅く威厳はねえけど、自然と人を惹きつける何かはあるみたいだし」
「ひきつける?」
意味が理解できず首を傾げていると、櫻川はサイズ違いのナットを並べて吟味していた手を止めた。
「ああ…そうだな。例えば引力で引っ張られるような感覚で、勝手に目が向いてしまうとか、何故だかその存在が気になってしまう───、その瞳(め)に吸い込まれそうだ、てことだ」
「へー。よく分かんないけど、何か気になったら惹きつけられてるってこと?」
「そうだ。そんで、俺はおまえの瞳に惹きつけられてる。その瞳の色は元々か? それともコンタクトでもしてるのか?」
「ううん、違う」
昴星はきっぱりと否定したあと、少し困ったように眉を下げた。
「…ときどき意地悪言ってくるやつがいるけど、おばあちゃんと同じ色だし、僕は好きなんだ」
櫻川は目を細め、ひとつ頷くと昴星の頭を撫でながら肯定した。
「確かに良い色だ。その色はアンバーって言ってな、宝石で例えるなら琥珀だ。琥珀は厳密にいうと宝石ではなく樹脂なんだが、インクルージョンだと研究対象にもなる希少な石で、価値も高くなるから市場に出まわることが…」
櫻川は滔々と語っていたが、ふと昴星の不思議そうな顔を見て口を閉じた。
「何でやめちゃうの? お兄ちゃんもっと話していいのに」
にこにこと昴星がそう言うと、櫻川は大きな溜息をこぼした。
「ガキに言っても仕方ねぇし。それに客寄せ用に仕事しねえとな」
「そっか。なら僕ここで見てるね」
「ああ。危ねぇからそこから顔出すなよ」
櫻川は、昴星が頷いて大人しく座っているのを確認すると、あらかじめ幅を切り落としてあるナットをつまみ上げ、パイプ椅子に腰掛けた。
初めて見る道具もあり、興味津々で見ていると、櫻川はテーブルに固定された工具の電源を入れた。すると先端が高速回転し、モーター音が響く。つまみ上げたナットをそれへ近づけると研磨し出し、さらに期待値が上がった。棒状のヤスリと電動の研磨機をかわるがわる使い熟し、しばらく同じ作業を繰り返していた櫻川だったが、ふと手を止め昴星を見た。
「おまえ、名前に星が入ってるし星の王子様だから、星だな」
「え? なんのこと?」
「まあ、出来てからのお楽しみな」
そう言うと、櫻川は再び作業を開始した。それから作業が終わるまで、櫻川も昴星も一つのナットに視線を注いでいた。
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