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 大学入学を機にこの1LDKマンションで一人暮らしを始め、この部屋とも十五年ほどの付き合いになる。当時築浅物件だったマンションは、年月とともに古さを醸し出し、使い込まれた水回りはカルキがこびり着いてくたびれた印象だ。実際、十五年も使用すれば入居当初のようにはならない。
「思ってたより庶民的ですね…」
 興味津々で部屋を見て回った挙句、がっかりした顔でそんな感想を述べる昴星に、櫻川は疲れがどっと出てきた。
「何を想像してたんだお前は…」
 キッキンに置いたコーヒーメーカーで、ボタン一つで淹れたコーヒーをカウンターテーブルに置き、自分用もまた同じように淹れる。アルコールを抜くために水分を取るつもりでコーヒーを淹れたが、昴星と居ると悪酔いしそうだ。
「あ、デロンギ!    これめちゃくちゃ高いやつじゃないですか。先生やっぱり稼いでんだあ。違うなあ」
 コーヒーメーカーを矯めつ眇めつしながら値踏みしている昴星を置いて、二人分のコーヒーを手にローテーブルへ向かう。櫻川は二人掛けソファの中央に座り、一応客人でもある昴星のためにオットマンを足で移動させ座席を作ろうとしたが、そのまま自身の足を乗せた。用途としては間違いではない。
 ふと、この見るからに『人生イージーモードでここまで来ました』と言わんばかりな学生に、世間の厳しさを分からせる使命感がわいてきたのだ。
「素直さは美徳であると同時に、これから社会人になる者には欠点でもある」
「…急に何ですか?」
 コーヒーマシンを納得するまで堪能してからやってきた昴星は、ソファの真ん中でふんぞり返り、その上オットマンに足を乗せている櫻川の姿に怯むことなく胡散臭い笑顔を貼り付けた。
「何でも思ったことを発すればいいわけではない。一度TPOに合っているか咀嚼してから」
「つまり〝言葉を選べ〟と」
 櫻川が全てを言い終わる前に結論を述べる。笑顔を崩さない昴星の出方を伺っていると、櫻川の足元ーーオットマンの前ーーにしゃがみ込み、失礼します、と一言言ったと同時にオットマンを素早く引き抜いた。
「っ、いってぇ!!」
 重力のままがつんと踵に衝撃が走り、櫻川はソファの上で飛び上がる。
「借りますね」
「借りますね、じゃねーわ!! 順序おかしいだろ!!」
「先に先生が意地悪するからですよ」
 昴星はちゃっかりオットマンに座り、櫻川が淹れたコーヒーをいただきます、と言って口を付ける。
「やっぱ美味いなぁ。うちにもこれ欲しい」
 一口飲み、しみじみ呟く横顔がほころんでいく姿に目を奪われ、櫻川は毒気を抜かれてしまう。
 昴星に対していちいち目くじらを立てるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。埋められない溝なのだろう。相手はひと回り以上違う、まだ学生なのだからこちらが折れてやるべきか、と思って嘆息すると、
「先生、またコーヒー飲みに来ていいですか?」
 まったく意に介していない反応が返ってきた。
「…まじか、学生…」
 動じない若者の感覚に慄きながら、吐いた息をまた取り込むように吸い込み櫻川は眉間を揉みほぐした。
「どうせ一人で飲んでるだけでしょ? 俺、コーヒー好きなんで減価償却できるくらい、協力しますよ」
「そんなもん頼んでねーわ」
「何でですか。こういうのは誰かと共有するのが醍醐味なのに」
「俺はひとりで満足してるし、入り浸ろうとするな。ここは学生の溜まり場じゃないからな」
 櫻川が注意をするも、昴星は分かっているのかいないのか、返事だけしてコーヒーを味わっている。がっくり項垂れそうになりながらも、本来の用件を思い出し顔を上げた。
「お前をここに呼んだのは、例の〝レッド・ベリル〟についてだ」
「やっと修理してくれる気になったんですか?」
 櫻川がレッド・ベリルの件に触れると、昴星は興味なさげな表情を一変し、身を乗り出してきた。
「話を聞くだけだ」
「往生際が悪いなぁ」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあ何が問題なんですか?」
「問題だらけじゃねーか!」
「そんな大きな声出さないでください。近所迷惑ですよ」
 お前のせいだろうという言葉を飲み込み、何度か深呼吸して平常心を取り戻す。普段から生徒とあまり関わらないように過ごしてきたからか、扱い方が分からない。それとも昴星は特別扱い辛いタイプなのだろうか。いずれにしても秘境の種族と会話しているような意思疎通の難しさを感じる。
「…どこの世界に〝現物は持って来れないけど修理をしてほしい〟なんておかしな注文付けるやつがいるんだよ。俺は一休さんじゃねえから頓知の回答をなんぞ出るか」
「頓知じゃないし、〝今は〟持って来れないって言ったけど、そのうち必ず持って来れます」
「だから何で修理する物が持って来れないか説明しろ。そもそも誰の物だ」
 言い澱む昴星を腕組みながら答えを待っていたが、ふと嫌な想像が過ぎり声を上げる。
「まさか盗品か!?」
「違います! ブローチは祖母の物なんですけど、修理の話をしたら持ち出す許可が取れなくて…」
 すかさず訂正したが、その言葉尻は歯切れが悪い。まだ何かあるのか、と思わなくもないけれど、犯罪の片棒を担ぐわけではなさそうなので気付かぬふりで頷く。
「まあ、そうだろうな」
「そうだろうって…」
 まだ何か言い募ろうとするのを遮って、櫻川は淡々と続ける。
「よく理解していないみたいだから言うが、レッド・ベリルの希少性を鑑みたら迂闊には修理に出せないはずだ。そもそも、ベリルでなくとも、素性の怪しいところへ修理に出すのは言語道断。出したが最後、二度と手元に戻ってこないこともあるんだ」
「…だから、先生だったら安心かと思って」
 昴星は少し躊躇いながらも、信頼を寄せるしおらしい態度を見せる。最初からこれなら櫻川とてもう少し態度は軟化していたのだろうが、如何せん違う種族。結局どこかの段階で交渉決裂していただろう。とは言え、交渉も何も始まってもいないのだが。
「その〝安心〟はどこから来てるんだ」
「だって先生、アクセサリーとか自分で作れるんでしょ? だったら公的身元もしっかりしてるし、持ち逃げすることだってないだろうなって」
 しおらしさが一転、昴星はパッと表情を明るくして打算を含んだことを本人を前に言ってのけた。たいして関わりなどない大学の一生徒と准教授。あけすけな物言いができるほど近しい関係ではない。言うなれば昨日今日出会ったような存在だ。桐島の店でもただの客と店員の立ち位置だった。
 変わったのは今日。動いたのは櫻川だが、まだ一生徒の枠ははみ出ていない。当然遠慮や気遣いはあって然るべきだと思う。だがしかしーーー。
 櫻川は今までの昴星とのことを回想し、秘境の種族ではなく地球外生命体と思うことにした。理解したら負けな気がする。
「そもそも、俺が彫金を出来ることはどこで知った」
 気を取り直して一番引っ掛かっていたことを尋ねる。
「どこで知ったも何も…」
 昴星はコーヒーを一口啜り、眉を八の字にしてため息を吐いた。
「俺が知ってるんです。先生が彫金できるってこと」
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