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「だぁーっらぁ!俺はいつも言ってっけど、なーんもしてねーっつの! 相手が勝手に誤解すんだもんよおー」
 男はべらんめえ口調で一枚板を使用したカウンターテーブルに、だん、と音を立てて酒の入ったグラスを置いた。
 金曜の夜、十時過ぎ、繁華街にほど近い居酒屋『kirishima』は、他店に負けず劣らずの賑わいぶりに、男の立てた音をさほど気にする客はいない。鰻の寝床のような細長い店の中は、入り口から見て右手にカウンター席が八つ。左手に4人掛けテーブル席が三つ。そのさらに奥は半個室のような衝立てと簾で区切られた座敷が左右に三つずつ並んでいて、カウンターの数席を除けば他は全て埋まっていた。BGMはジャズが流れているがそれに耳を傾けるものはいない。
「じゃあ誤解されるようなことしたんだろ」
 カウンターから店主が、男の前に揚げたばかりの天ぷらを差し出す。海老、穴子、野菜の搔き揚げとちくわの磯辺揚げ。どれも地場ものだが、ちくわの磯辺揚げは店のメニューにはない。男の好物をさり気なくサービスで出しているのだ。
「してねえ…してねえけど! 気がついたらホテルで、やる前に逃げたんだよ」
 心底悔しそうな顔で、男は頭を掻きむしった。
「そこは理性があったんだな」
「うるせえ。俺はいつも理性的だ。ただ、頭と下半身が別の動きをするだけだ…」
「駄目じゃねえか」
「仕方ねえだろ男なんだから。それに気が付いたら女が乗っかってたんだよ」
「何だその羨ましい展開は」
 店主はカウンターに肘をかけ、本格的に男の話し相手の体勢に入る。一通り注文がはけて、スイーツやアルコール類といった、バイトが中心となって作業する注文になり手が空いたのだ。
「正直…美人だった…」
 そう男は苦々しげに吐き出すと、グラスを一気に呷る。
「何だよ、今度は美人局だったのか?」
 茶化す店主に、男は真顔でたっぷり五秒はためて口を開くと、
「未成年だった」
 と、抑揚なく返した。
 店主は無言で眉間を押さえ、溜め息をついた。
「今日は好きなだけ呑め。俺が許す」
「お前の許しなんかいるか。勝手に飲むに決まってんだろ」
 悪態をつきながら、男はちくわの磯辺揚げに齧り付く。
「ただじゃねーからな」
「傷心の俺にどんだけ心が狭いんだ! お猪口並みか!」
「ぶっ」
 カウンター内で皿洗い中、二人の会話を聞くとはなしに聞いていた柊木ひいらぎ昴星こうせいは、とうとう我慢できずに吹き出した。
「すいません。お二人の掛け合いが面白くて、つい…」
「新しいバイトか」
「そう。半月ほど前に入ってきた柊木君。カフェとかに居そうなイケメンだけど、よく働くんだよ」
 店主が手招きして昴星を、カウンター向かいの男の近くへ呼び寄せる。
「確かにこの店には浮いてんな」
「言い方!」
 男の言葉に顔には出さないが少なからずショックを受けていると、店主は慌てて昴星を庇うように背に隠した。
「うちの大事な看板娘…じゃない、看板息子にケチつけるなら出禁にするぞ」
「この俺が男を褒めてんのに、何なんだ」
「お前が先月入ったバイトをいびって辞めさせたからだろ!」
「知るか。基本的な対人スキルがないものを接客なんぞさせるからだろ」
「誰でも初めからスムーズに出来たら苦労するか! だからお前は結婚できねーんだよ」
 言った後、店主はしまったとばかりに掌で口を覆った。
 覆水盆に返らず。
 溢れた水は元に戻らないように、言ってしまった言葉も消えることはない。
「俺は結婚出来ないんじゃなくて、独身主義なんだ」
 数秒の沈黙のあと、男は静かに立ち上がり、昴星に「勘定」とだけ告げた。
「あ、はい! ただいま!」
 昴生は慌ててカウンターを出てレジに回る。伝票を受け取り合計金額を告げると、男は財布から紙幣を数枚抜き出し釣りも取らずに出て行った。
「お客様! お釣り!」
 急いでキャッシャーを閉じて男を追いかけようとしたら、店主が苦笑いしながら昴生に手招きする。お釣りを握ったまま店主のところへ行けば、おもむろに小銭の溜まった布袋を出してきた。
 聞けば男が機嫌が悪いときは、決まって釣りを受け取らずに帰るらしい。本人に返すと知らんの一点張りでどうしようもないから、袋に入れて預かっているのだそうだ。
 来るたび何かしらのサービスをするのは、昔馴染みとういうだけではないようだ。
 困ったやつだよ、というわりには全く困った感じでもなく、むしろ楽しんでいるかのような店主に、
「仲が良いんですね」
 と布袋に釣銭を入れながら声を掛ければ、う~んと顎に手を当て考え込む。
「ま、機嫌がよけりゃな」
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