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第九話 約束はあやなす空が連れてくる
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一学期の定期試験が済み、夏休みまでもうひと踏ん張りという頃、瑞月も結日と同じくバイトを始めた。高校入学の頃より計画していたことで、普段使いのお小遣い稼ぎ半分、そして進学資金作りが目的と両親の許可を得た。
高校生になってからの部活動も委員活動にも触れずにいたのは、そのためだ。
初めての社会進出は、親に囲われた子どもからの卒業のように心地よい緊張を採用の知らせをもらった時感じたが、恵風との時間が減ってしまう現実と自身の目的のジレンマからの脱却ができぬまま、寸前まで二の足を踏んでいたのは秘密だ。
因みにバイト先は自宅から徒歩圏内の蕎麦屋である。
🌱
天候に恵まれたこの日、全学年での競技大会が行われた。ひとつの枠に名乗りを上げた者が集中し、ジャンケン抽選となったのだが恵風は見事な即負け。狙った次の枠の、女子200メートル徒競走を今全力で走行中だ。
「エッちゃ~ん!エッちゃ~~ん!頑張れーー!!」
青空の下、黄色い歓声と野太い声援に混ざる聞き覚えのある声の主は、自分のクラスの女子の応援は他力に預け、ゴールからひたすら恵風に声援と愛を送る。
「エッちゃーんホラ、ここだよ!ミズキはここだよーーっ!!」
そのそばには同じクラスTシャツを着ている、バカ笑いしている友だちがいた。瑞月はいつも真剣だ。本当は笑われるなんて心外なことなのだろう。自分もそうではあるが、なぜか瑞月を人は笑い、不思議がったりする。それにしても笑いすぎじゃないのか。そう言えば、自分が引き出されたらしい春の自己紹介について、無許可でネタにされていたというとんでもない話は、一体どんな内容だったのか。非常に気になっていながら、いつも聞こうと思って忘れる。
などと考えているうちに無事にゴールを果たした。この現実逃避は中々良い作戦だ。内容はファンタジーより、アクションかサスペンスが相応しい。
「おめでとうエッちゃん!頑張ったね!でも君の本当のゴールはミズキの胸!ここだよ!さあおいで一等賞だ!」
恵風の200メートル徒競走の結果は、6人中の4位。スポーツがあまり得意な方ではなかった。狙っていたのは一番楽と思えた100メートル走であったが、恐らく結果に差異はないと思われる。
自身の全力である疾走後の乱れた呼吸と形相だけで瑞月を追いやり、席に戻る前にグラウンド脇の木陰に転がった。陰の芝の上はヒンヤリと気持ちよく、真上の空に自然と目が行った。競技の喧騒も程よいボリュームで、このままここに居たいくらいだと恵風は思った。けれど実行委員を推薦され、部活もバイトもしていなかった恵風は承諾し、これを担っていたためノンビリも出来ない。今日までの準備で、バイトを始めた瑞月との下校は疎い状態が続いていた。
ふと気がつくと、すぐ隣の木立の陰に自分と同じように、ひとりで芝に座る同じ学年の女子がいた。いつからそこにいるのか、クラスTシャツが見えないほどキッチリとジャージを着込み、小さく座っている。気温に相応しくない着こなしは見学者なのだろうかと、恵風は何か訳ありな気配を感じとった。目が合い、その子は居心地が悪くなったのか、間もなくそこから去ってしまった。
「このあと後片付けだから、今日もムリかもー」
「分かった 一応ギリギリまで待つね」
こんな調子で近頃はバラバラに下校し、そしてこの日も瑞月が乗り自分も乗るはずだったバスを、生徒会室の時計を見ながら見送った。外の大きな体育用具は男子に任せ、外で使って汚れた用具の拭き取り、元に戻すという作業をしていた。
乗り物の時間に合わせなければならない者が、ひとりふたりとこの場を出て行き、生徒会室には元の半分もいなかった。恵風の場合はいつもの一本を逃すと、次までが長いバス待ちの時間。もう慌てる必要はなかった。
そんな所に、外から戻って来た二年生の男子がヒョイと姿を現した。
「まだ終わりそうもない?外は終わったよコッチも適当に片付けて、帰っていいんじゃない?みんな勝手に帰ってるよ」
誰となく話していたうわさ話を、突然思い出した。その話はこの二年生と、あの子のことではなかったか。カンパを募った一行が、恵風の不在時に教室に現れたと言う。何となく耳に入っていただけで、詳しくは知ろうとしないでいた。滅入りそうな内容だと感じたからだ。
「ねえ、一年生の君、時間大丈夫なの?何番バス?電車?」
「えっと31番です…」
「あ、同じだね終わらせて一緒に帰らない?……あっ彼氏が待ってるとか?」
恵風はこの奇妙な展開に驚いて、声を出さずに頼りなげに首を振った。
本望とは真逆なことに引きずり込まれる予感がしたのは、首を振ってからだ。”結構です”と、ろくに話をしたこともないこの相手に、断る勇気を出そうも間に合わなかった。
バス内では帰宅の社会人とも重なり当然座ることも出来ず、脚の踏ん張りが乏しい恵風は揺られて揺られて、その度にこの二年生がサポートしてくれた。のだが、それを優しさとは受け取らず、これもまた真逆の受け取り方を恵風はしていたのである。
終点の街駅に到着した所で、やっと息が付ける思いだった。
「ねぇこの後…」「じゃあお疲れさまでした!」
聞こえていない顔を装い言葉を遮り、挨拶時の一瞬の愛想だけで背中を向け振り切った。何とも疲れる時間だった。
帳を下ろし始め夜に飲み込まれている最中の夕焼け雲の中を、沈み掛けの太陽に反射して光る小さな星を見て恵風は思う。
詳しくは知らないけど、早く元気になってね……
と、昼間に会ったあの子に向けて思った。
恵風は自分で気付かないでいるが、納得して自分の傍に置くものの基準は既にでき上がっている。
🌱
「鳥海さんいますか」
「はい!」
「急で申し訳ないのだけど今期最後の作業が出来てしまったので、放課後生徒会室に来て下さい 都合が悪ければ…」
「大丈夫です行きます」
「じゃあよろしくお願いします」
昨日までの競技大会実行委員会は解散し、次はクラスの常任である美化委員会からの呼び出し。休み前は何かと忙しい。恵風は美化委員だった。
「ってことで、また一緒に帰れるか分かんない 今日もバイトでしょ?」
「仕方ないね ギリギリまで待ってるから」
「うん」
「……美化委員の委員長さんって、スッゴイイケメンだね」
「デッショー……ホンッとカッコイイの!柳原さんって言うんだけどねクスッ」
面倒と言われがちな委員会は、美化委員会だけはそれほど面倒に感じないという界隈での話だ。この柳原が姿をチラリとでも見せただけで、付近の女生徒が浮き立つ。弁当広げた昼休みの教室が、ひととき薔薇が薫る別世界となった。
「……俺より?」
「ェエ?」
「ねえ 俺よりもカッコイイって、君は思ってる!?」
「……」
美化委員の今期最後の仕事とは、早い話が水場に置かれている手洗い洗剤の容器に洗剤を注ぎ足して行く作業。次期に繰り越す量を把握するためだと言う。
学年ごとに持ち場が与えられ、恵風たち一年生は校舎の一階部分をグルリと割り当てられた。この雑用が終われば解散だ。早い所済ませて帰ってしまおう。
一年生の委員たちはものすごい早さで終わらせ、恵風以外の一年生は”バス!電車!”とそれぞれ慌しく、挨拶も早々に生徒会室を出て行った。
時計を見るとバス時間まで少し余裕が残っており、恵風はそこにとどまって柳原の後任の為にとひとりで備品の整理整頓をしていたところに加わった。恵風のこんな世話焼きな質が、よく人から物を頼まれる素となっている。
「鳥海さんも帰っていいのに ここは気にしなくていいよ、急な話だったんだから」
「あ…はい えっと、少しだけ……」
高校の三年生にもなるとすっかりオトナの風合いだ。特にこの柳原は見かけの容姿と折り重なり、美化委員の中にも秘かに焦がれている子がいるのではと、恵風は勝手に推測する。
「いつも一緒にいるコって、もしかして彼氏?」
「あっ…い、いえ友だちです」
みんなの憧れ的先輩が普段の自分を見ていた思いがけなさに、恵風は心を開き始める。昨日の二年生とは雲泥の差を思わずにはいられない。
けれど瑞月を彼氏と言われるのは、やはり通過儀式みたいなものなのだろうか。
「あっはっはっはっ」
「?」
「ごめん 私も異性の友だちがいてね、鳥海さんと同じ気持ちによくなった」
「そうなんですか?」
「高校は離れちゃったけどね……付き合い始めた子が出来たって……だから最近会ってないな」
生徒会室があるフロアは一般の生徒はほとんど立ち入ることがなく、放送室がそばにあったりと元々静かな場所だ。どこからともなく遠くから時々聞こえるほどの物音。その静かな中をふたりで淡々と作業をこなしていった。
「あっ…」
止めていたヘアクリップが不意に外れ、柳原の足下に転がった。はらりと下りた髪の隙間から目をこらし、掴もうと手を伸ばす。
その時に柳原の手に触れてしまい、恵風は思わず手を引っ込めた。自分の不自然なふるまいを、柳原は変に思わなかっただろうかと顔が熱くなった。
「はい どうぞ」
「すみません ありがとうございます」
幾分頬を熱くしている恵風を見る柳原の瞳はなにか物言いたげで、それに添うように髪留めを直しながら同じく瞳で問いかける恵風。その問いかけに返して来たのは――
「さっきの……私の友だちにね」
「はい」
「昔、告白されたことがあって……」
「……」
「私はずっと友だちの気持ちでいたから、ビックリした」
そう言い、笑った顔を恵風に向ける。でもそれは少し寂しそうに恵風には映った。
「ビックリして……ごめんしか言えなかった」
遠くの方から、吹奏楽部のバラバラな楽器の音が聴こえる。いつも当たり前にある自分らを取り巻く空気に、恵風は少し緊張を感じた。
開いた窓からの風が日に焼けて黄ばんだカーテンをドレスのように揺らし、外活動の部員たちの言葉で取れない声が時折流れ込み、他に誰もいない部屋でふたりは声を潜めて話す。
やがて生徒会室に戻って来た二年生と、入れ替わるように恵風はそこを抜けた。時間にしたらきっとほんの僅か。そんな僅かな時間に恵風が受け取ったものは、時間以上なのはもちろん。抱えられないものを受け取ってしまった。
「ミズキーッ!」
「エッちゃん!!」
ちょうどバスのステップに足を掛けてる瑞月を見つけ、恵風は大声で呼んだ。バスの運転手が「早くしてね」とクラクションを小さく一回鳴らす。片足をステップに掛けたままの瑞月は伸ばしていた手で恵風を引っ張り、勢いづいて瑞月の胸で恵風のホッペが弾む。カップルがただバスに乗り込むだけで、大騒ぎしていると端から見えたことだろう。けれどそれまでの情景が一転したのはすぐのことだった。突然涙を零した恵風に瑞月が驚き声を上げた。
「エッちゃんどうしたの!!?」
「はあ……やっと一緒に帰れるね」
と、泣きながら笑って答える恵風に、瑞月はどう応えていいのか分からない。長く長く感じる時間をいつかのようにずっと手を握り、やがて最寄りの駅舎を潜ったところでポソッと瑞月が声を出した。
「どうしたのエッちゃん」
「……」
「なにがあったの?」
「……」
「……バイトいいや……送ってくよ」
「ダメ、ここでバイバイ」
「……でも……」
「ごめん大丈夫だよミズキ バイト頑張って……ほら、いってらっしゃい!」
「エッちゃん……」
「行かないと遅刻しちゃうよ ミズキが歩いたらわたしも行く 大丈夫」
それでも瑞月の曇り顔が晴れるまでには及ばない。バイトに向かわなければいけない足も一向に動く気配もなく、握られたままの手も離そうとしない。
もう随分昔のように感じる。 夕日を浴びながら、たくさん笑って走って跳んだ。
意識してわざと繋がなかった手は、転んだり躓いた時だけ繋がった。
ケンカしたり泣いたこともあったけれど、謝って来るのはいつも瑞月の方だった。悪いのは自分も一緒。なのに素直に言葉が出なかった。今と少しも変わらない。ちゃんと言葉にして言わないと。
”バイバイまた明日” また明日会えるからね。
繋いだり繋ぐのを躊躇ったりの手を振り合って、明日の約束。
毎日楽しいのはあの頃から。瑞月がいて良かった。
だからいなくて寂しい時がやっぱりある。
約束だよ また明日ね 明日になったらまた明日 そしてまた明日 ずっとずっとだよ
繋げて行こうね約束だよ
きっとふたりでそう思っていたね
絶対に手放してはいけないものだと分かったら、そしたらちゃんと自分で言うんだ。自分の中から声がするその言葉を。
「ミズキ 大好きだよ ずっと一緒にいて」
「……!」
「……早くバイト行って!じゃないとわたしも帰らない」
「分かった 分かったよエッちゃん 後でラインする」
「うん 頑張ってね」
「じゃあね気を付けて帰ってね」
好きなひとが自分にいるって 好きって言える相手がいるって
そして自分を好きだと言ってくれるひとがいるって とても素敵なことだ
そう、先輩が教えてくれた
「もう少しで任期も終わり 私たち三年生は卒業して行くだけ 三年間はあっという間だった……心残りはしたくないって……本当はいつも思ってるの」
彼女は恵風の唇を指で触り撫でた。
それはまるでキスをされたような甘い感覚だった。
「心残りも後悔もしたくない でも簡単に言葉にできないってこともある……友だちにごめんしか言えなかったけど、反対側で羨ましいとも思ってた いつか高校生だった時を思い出したら……その時はあなたの幸せも祈ってる」
柳原は恵風に、自分の友だちのように心を渡したわけではない。
けれどそれはとても切なくて苦しくて、恵風はなにも返すことができなかった。
高校生になってからの部活動も委員活動にも触れずにいたのは、そのためだ。
初めての社会進出は、親に囲われた子どもからの卒業のように心地よい緊張を採用の知らせをもらった時感じたが、恵風との時間が減ってしまう現実と自身の目的のジレンマからの脱却ができぬまま、寸前まで二の足を踏んでいたのは秘密だ。
因みにバイト先は自宅から徒歩圏内の蕎麦屋である。
🌱
天候に恵まれたこの日、全学年での競技大会が行われた。ひとつの枠に名乗りを上げた者が集中し、ジャンケン抽選となったのだが恵風は見事な即負け。狙った次の枠の、女子200メートル徒競走を今全力で走行中だ。
「エッちゃ~ん!エッちゃ~~ん!頑張れーー!!」
青空の下、黄色い歓声と野太い声援に混ざる聞き覚えのある声の主は、自分のクラスの女子の応援は他力に預け、ゴールからひたすら恵風に声援と愛を送る。
「エッちゃーんホラ、ここだよ!ミズキはここだよーーっ!!」
そのそばには同じクラスTシャツを着ている、バカ笑いしている友だちがいた。瑞月はいつも真剣だ。本当は笑われるなんて心外なことなのだろう。自分もそうではあるが、なぜか瑞月を人は笑い、不思議がったりする。それにしても笑いすぎじゃないのか。そう言えば、自分が引き出されたらしい春の自己紹介について、無許可でネタにされていたというとんでもない話は、一体どんな内容だったのか。非常に気になっていながら、いつも聞こうと思って忘れる。
などと考えているうちに無事にゴールを果たした。この現実逃避は中々良い作戦だ。内容はファンタジーより、アクションかサスペンスが相応しい。
「おめでとうエッちゃん!頑張ったね!でも君の本当のゴールはミズキの胸!ここだよ!さあおいで一等賞だ!」
恵風の200メートル徒競走の結果は、6人中の4位。スポーツがあまり得意な方ではなかった。狙っていたのは一番楽と思えた100メートル走であったが、恐らく結果に差異はないと思われる。
自身の全力である疾走後の乱れた呼吸と形相だけで瑞月を追いやり、席に戻る前にグラウンド脇の木陰に転がった。陰の芝の上はヒンヤリと気持ちよく、真上の空に自然と目が行った。競技の喧騒も程よいボリュームで、このままここに居たいくらいだと恵風は思った。けれど実行委員を推薦され、部活もバイトもしていなかった恵風は承諾し、これを担っていたためノンビリも出来ない。今日までの準備で、バイトを始めた瑞月との下校は疎い状態が続いていた。
ふと気がつくと、すぐ隣の木立の陰に自分と同じように、ひとりで芝に座る同じ学年の女子がいた。いつからそこにいるのか、クラスTシャツが見えないほどキッチリとジャージを着込み、小さく座っている。気温に相応しくない着こなしは見学者なのだろうかと、恵風は何か訳ありな気配を感じとった。目が合い、その子は居心地が悪くなったのか、間もなくそこから去ってしまった。
「このあと後片付けだから、今日もムリかもー」
「分かった 一応ギリギリまで待つね」
こんな調子で近頃はバラバラに下校し、そしてこの日も瑞月が乗り自分も乗るはずだったバスを、生徒会室の時計を見ながら見送った。外の大きな体育用具は男子に任せ、外で使って汚れた用具の拭き取り、元に戻すという作業をしていた。
乗り物の時間に合わせなければならない者が、ひとりふたりとこの場を出て行き、生徒会室には元の半分もいなかった。恵風の場合はいつもの一本を逃すと、次までが長いバス待ちの時間。もう慌てる必要はなかった。
そんな所に、外から戻って来た二年生の男子がヒョイと姿を現した。
「まだ終わりそうもない?外は終わったよコッチも適当に片付けて、帰っていいんじゃない?みんな勝手に帰ってるよ」
誰となく話していたうわさ話を、突然思い出した。その話はこの二年生と、あの子のことではなかったか。カンパを募った一行が、恵風の不在時に教室に現れたと言う。何となく耳に入っていただけで、詳しくは知ろうとしないでいた。滅入りそうな内容だと感じたからだ。
「ねえ、一年生の君、時間大丈夫なの?何番バス?電車?」
「えっと31番です…」
「あ、同じだね終わらせて一緒に帰らない?……あっ彼氏が待ってるとか?」
恵風はこの奇妙な展開に驚いて、声を出さずに頼りなげに首を振った。
本望とは真逆なことに引きずり込まれる予感がしたのは、首を振ってからだ。”結構です”と、ろくに話をしたこともないこの相手に、断る勇気を出そうも間に合わなかった。
バス内では帰宅の社会人とも重なり当然座ることも出来ず、脚の踏ん張りが乏しい恵風は揺られて揺られて、その度にこの二年生がサポートしてくれた。のだが、それを優しさとは受け取らず、これもまた真逆の受け取り方を恵風はしていたのである。
終点の街駅に到着した所で、やっと息が付ける思いだった。
「ねぇこの後…」「じゃあお疲れさまでした!」
聞こえていない顔を装い言葉を遮り、挨拶時の一瞬の愛想だけで背中を向け振り切った。何とも疲れる時間だった。
帳を下ろし始め夜に飲み込まれている最中の夕焼け雲の中を、沈み掛けの太陽に反射して光る小さな星を見て恵風は思う。
詳しくは知らないけど、早く元気になってね……
と、昼間に会ったあの子に向けて思った。
恵風は自分で気付かないでいるが、納得して自分の傍に置くものの基準は既にでき上がっている。
🌱
「鳥海さんいますか」
「はい!」
「急で申し訳ないのだけど今期最後の作業が出来てしまったので、放課後生徒会室に来て下さい 都合が悪ければ…」
「大丈夫です行きます」
「じゃあよろしくお願いします」
昨日までの競技大会実行委員会は解散し、次はクラスの常任である美化委員会からの呼び出し。休み前は何かと忙しい。恵風は美化委員だった。
「ってことで、また一緒に帰れるか分かんない 今日もバイトでしょ?」
「仕方ないね ギリギリまで待ってるから」
「うん」
「……美化委員の委員長さんって、スッゴイイケメンだね」
「デッショー……ホンッとカッコイイの!柳原さんって言うんだけどねクスッ」
面倒と言われがちな委員会は、美化委員会だけはそれほど面倒に感じないという界隈での話だ。この柳原が姿をチラリとでも見せただけで、付近の女生徒が浮き立つ。弁当広げた昼休みの教室が、ひととき薔薇が薫る別世界となった。
「……俺より?」
「ェエ?」
「ねえ 俺よりもカッコイイって、君は思ってる!?」
「……」
美化委員の今期最後の仕事とは、早い話が水場に置かれている手洗い洗剤の容器に洗剤を注ぎ足して行く作業。次期に繰り越す量を把握するためだと言う。
学年ごとに持ち場が与えられ、恵風たち一年生は校舎の一階部分をグルリと割り当てられた。この雑用が終われば解散だ。早い所済ませて帰ってしまおう。
一年生の委員たちはものすごい早さで終わらせ、恵風以外の一年生は”バス!電車!”とそれぞれ慌しく、挨拶も早々に生徒会室を出て行った。
時計を見るとバス時間まで少し余裕が残っており、恵風はそこにとどまって柳原の後任の為にとひとりで備品の整理整頓をしていたところに加わった。恵風のこんな世話焼きな質が、よく人から物を頼まれる素となっている。
「鳥海さんも帰っていいのに ここは気にしなくていいよ、急な話だったんだから」
「あ…はい えっと、少しだけ……」
高校の三年生にもなるとすっかりオトナの風合いだ。特にこの柳原は見かけの容姿と折り重なり、美化委員の中にも秘かに焦がれている子がいるのではと、恵風は勝手に推測する。
「いつも一緒にいるコって、もしかして彼氏?」
「あっ…い、いえ友だちです」
みんなの憧れ的先輩が普段の自分を見ていた思いがけなさに、恵風は心を開き始める。昨日の二年生とは雲泥の差を思わずにはいられない。
けれど瑞月を彼氏と言われるのは、やはり通過儀式みたいなものなのだろうか。
「あっはっはっはっ」
「?」
「ごめん 私も異性の友だちがいてね、鳥海さんと同じ気持ちによくなった」
「そうなんですか?」
「高校は離れちゃったけどね……付き合い始めた子が出来たって……だから最近会ってないな」
生徒会室があるフロアは一般の生徒はほとんど立ち入ることがなく、放送室がそばにあったりと元々静かな場所だ。どこからともなく遠くから時々聞こえるほどの物音。その静かな中をふたりで淡々と作業をこなしていった。
「あっ…」
止めていたヘアクリップが不意に外れ、柳原の足下に転がった。はらりと下りた髪の隙間から目をこらし、掴もうと手を伸ばす。
その時に柳原の手に触れてしまい、恵風は思わず手を引っ込めた。自分の不自然なふるまいを、柳原は変に思わなかっただろうかと顔が熱くなった。
「はい どうぞ」
「すみません ありがとうございます」
幾分頬を熱くしている恵風を見る柳原の瞳はなにか物言いたげで、それに添うように髪留めを直しながら同じく瞳で問いかける恵風。その問いかけに返して来たのは――
「さっきの……私の友だちにね」
「はい」
「昔、告白されたことがあって……」
「……」
「私はずっと友だちの気持ちでいたから、ビックリした」
そう言い、笑った顔を恵風に向ける。でもそれは少し寂しそうに恵風には映った。
「ビックリして……ごめんしか言えなかった」
遠くの方から、吹奏楽部のバラバラな楽器の音が聴こえる。いつも当たり前にある自分らを取り巻く空気に、恵風は少し緊張を感じた。
開いた窓からの風が日に焼けて黄ばんだカーテンをドレスのように揺らし、外活動の部員たちの言葉で取れない声が時折流れ込み、他に誰もいない部屋でふたりは声を潜めて話す。
やがて生徒会室に戻って来た二年生と、入れ替わるように恵風はそこを抜けた。時間にしたらきっとほんの僅か。そんな僅かな時間に恵風が受け取ったものは、時間以上なのはもちろん。抱えられないものを受け取ってしまった。
「ミズキーッ!」
「エッちゃん!!」
ちょうどバスのステップに足を掛けてる瑞月を見つけ、恵風は大声で呼んだ。バスの運転手が「早くしてね」とクラクションを小さく一回鳴らす。片足をステップに掛けたままの瑞月は伸ばしていた手で恵風を引っ張り、勢いづいて瑞月の胸で恵風のホッペが弾む。カップルがただバスに乗り込むだけで、大騒ぎしていると端から見えたことだろう。けれどそれまでの情景が一転したのはすぐのことだった。突然涙を零した恵風に瑞月が驚き声を上げた。
「エッちゃんどうしたの!!?」
「はあ……やっと一緒に帰れるね」
と、泣きながら笑って答える恵風に、瑞月はどう応えていいのか分からない。長く長く感じる時間をいつかのようにずっと手を握り、やがて最寄りの駅舎を潜ったところでポソッと瑞月が声を出した。
「どうしたのエッちゃん」
「……」
「なにがあったの?」
「……」
「……バイトいいや……送ってくよ」
「ダメ、ここでバイバイ」
「……でも……」
「ごめん大丈夫だよミズキ バイト頑張って……ほら、いってらっしゃい!」
「エッちゃん……」
「行かないと遅刻しちゃうよ ミズキが歩いたらわたしも行く 大丈夫」
それでも瑞月の曇り顔が晴れるまでには及ばない。バイトに向かわなければいけない足も一向に動く気配もなく、握られたままの手も離そうとしない。
もう随分昔のように感じる。 夕日を浴びながら、たくさん笑って走って跳んだ。
意識してわざと繋がなかった手は、転んだり躓いた時だけ繋がった。
ケンカしたり泣いたこともあったけれど、謝って来るのはいつも瑞月の方だった。悪いのは自分も一緒。なのに素直に言葉が出なかった。今と少しも変わらない。ちゃんと言葉にして言わないと。
”バイバイまた明日” また明日会えるからね。
繋いだり繋ぐのを躊躇ったりの手を振り合って、明日の約束。
毎日楽しいのはあの頃から。瑞月がいて良かった。
だからいなくて寂しい時がやっぱりある。
約束だよ また明日ね 明日になったらまた明日 そしてまた明日 ずっとずっとだよ
繋げて行こうね約束だよ
きっとふたりでそう思っていたね
絶対に手放してはいけないものだと分かったら、そしたらちゃんと自分で言うんだ。自分の中から声がするその言葉を。
「ミズキ 大好きだよ ずっと一緒にいて」
「……!」
「……早くバイト行って!じゃないとわたしも帰らない」
「分かった 分かったよエッちゃん 後でラインする」
「うん 頑張ってね」
「じゃあね気を付けて帰ってね」
好きなひとが自分にいるって 好きって言える相手がいるって
そして自分を好きだと言ってくれるひとがいるって とても素敵なことだ
そう、先輩が教えてくれた
「もう少しで任期も終わり 私たち三年生は卒業して行くだけ 三年間はあっという間だった……心残りはしたくないって……本当はいつも思ってるの」
彼女は恵風の唇を指で触り撫でた。
それはまるでキスをされたような甘い感覚だった。
「心残りも後悔もしたくない でも簡単に言葉にできないってこともある……友だちにごめんしか言えなかったけど、反対側で羨ましいとも思ってた いつか高校生だった時を思い出したら……その時はあなたの幸せも祈ってる」
柳原は恵風に、自分の友だちのように心を渡したわけではない。
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