大江戸美人揃

沢藤南湘

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大江戸美人揃

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一の巻 湊屋 おろく


(一)

 九代将軍、家重執政の宝暦二(一七五一)年 桜の咲く頃。
その時代に、浅草寺地内に湊屋という『ごふく茶屋』を称した水茶屋があった。
これからここでは湊屋をごふく茶屋と呼ぶことにする。
 ごふくとは、御仏供からきたもので、‘仏前に献茶して仏果を得る’という意味のようである。
ごふく茶屋には奥座敷が設けられてはいるが、私娼窟ではない。
お茶を飲ませるのを目的としていた。
この店では、熱い湯でまず桜湯、麦茶を出した。
この店におろくという年若い娘が、いつものように客にお茶を運んでいた。
「ありがとう。おろくちゃんの入れてくれるお茶は天下一品だ。」と、薬問屋の若旦那の田助が言った。
「また、若旦那、冗談がお上手ですね。」と、おろくは言いながら他の客にお茶を運んで行った。
「おろくちゃん、相変わらずきれいだね。」と、大工の留吉は言った。
そして、おろくは客にお茶を配り終えると外に出て、
「ごふくの茶、参れ、参れ。」と、浅草寺参りの人々に声をかけた。
また、おろくは一人の客を店の中に案内した。
棒振りの松太郎であった。
そして、勝手場に戻り、おとっつあんが入れた宇治の茶を客たちに運んだ。
一時が過ぎ、客たちも帰り店を閉める時間になった。
「おろく、片づけはおとっつあんとおっかさんがやるから湯屋に行っておいで。」と、母親のフミが言った。
「そうよ、早く行ってきな。」と、父親の太郎が言った。
「おとっつあん、おっかさん、お疲れ。じゃ、湯屋に行ってくるよ。」と、湯の道具を持って、弁慶縞の小袖を着流し、出て行った。



 しばらく歩いていると、後ろから、「おろくさん、湯屋へ行くのかね。」と、棒振りの松太郎。
「あら、松太郎さん。こんばんわ。」
「おらあも、湯屋へ行くんで、一緒に行こう。」
そして、二人は湯屋に入って行った。
松太郎は、烏の行水ですぐに出てきて、二階に駆け上がり、
「こんばんは。」と、挨拶をした。
隅のほうでは、薬問屋の若旦那の田助が、金物屋の平吉と酒を酌み交わしていた。
「おお、松さんこっちにきて、一局やらないか。」と、太助が手招きをした。
「はいよ、若旦那たち、今日は早いですね。」
「いや、ちょっと前に来たばかりですよ、ねえ平吉さん。」
「そうですよ、ちょっと前に来たばかり。」
「松さん、何か嬉しそうじゃないか。」と、田助。
「さっき、湯屋へ来る途中、おろくちゃんに会って、一緒にきたもんで。」と、松太郎は嬉しそうに二人に言った。
「それはうらやましい。」と、田助は松太郎を嫉妬しているように、言った。
 この田助も松太郎もおろくに一目ぼれしてしまい、毎日のようにごふく茶屋に通っていた。
そして、田助と松太郎は、酒を飲みながら将棋を指し始めた。
半時ほど経った頃、おろくは上がり場で鏡を見ながら髪を結っていた。
今日は、櫛まきに仕上げて小袖を着た。
櫛まき髪とは、櫛を逆さまにまき込んだ髪型で粋な髪型であった。
そして、出口に向かう時、そばにいた男たちだけでなく女もおろくに振り向いた。



(二)
 
 おろくは、皆に頭を下げて出て行った。
湯屋にいる人々は、うっとりしながら、「おろくちゃんは、相変わらずきれいだね。湯上りはますます色っぽくなるね。」と、言った。
また、女たちの中には、「あの髪形、しゃれているね。今度真似してみようかしら。」と、言う者もいた。
 おろくが湯屋を後にしてからしばらくすると、
「おろくちゃん」と、声がしたので振りかえると、田助が息を切らして走って来た。
「あら、若旦那。どうなされたんですか。」
「夜道は危ないから、家まで送って行きますよ。」
「今日は、松太郎さんと一緒じゃないんですか。」
「松さんは、平吉さんと未だ二階で飲んでます。」
「二人ともお酒好きなんですね。」と、おろくは、田助のほうを向いて言った。
 田助は、今年は忍が岡の花見に、是非おろくを誘って行きたいとずっと思っていたので、今夜が誘いの機会といつ言おうかと考えていた。
 おろくの家に近づいた時、田助は心臓が高鳴るのを振り切っ て、
「おろくちゃん、今度の休みに、‘忍が岡’に花見に行かない?」と、なんとかおろくに聞こえる声で言った。
「うーん、ちょっと考えさせてください。田助さんが今度お店に来た時に、返事します。」
「おろくちゃん、じゃ明日お店に行くから。」
忍が岡は、上野の別名で当時から桜の名所であった。
 


 そうしているうちに、かおろくの家に着いてしまった。
「ただいま。」
フミが出てきて、「お帰り。」といった。
「おっかさん、若旦那に送ってもらちゃった。」
「若旦那、いつも、いつもありがとうございます。」
と、フミは小さな声で言った。
 おろくの父、太郎は、おろくに変な虫がつかないか心配で、おろくが連れて来る男にはめっぽう厳しく当たることで有名であった。
ましてや、夜酒を飲んでいる太郎はなおさらなのである。
そのため、フミは、田助が来たことを太郎に知られないようにしたのであった。
 田助も、そのことは十分知っているので、小さな声で
「おやすみなさい。」と、小声で言って、二人に別れを告げ帰った。
「おーい、誰か来たのか?」と、居間から太郎が怒鳴った。
「いいえ、おろくが帰って来たんですよ。」
「おとっつあん、ただいま。」
「おー、遅かったな。」
「おとっつあんとおっかさん、湯屋へ行ってきたら。」と、おろくは言った。
「じゃ、留守番しといて。」と、太郎とフミは湯屋に行った。



  (三)

 数日後、おろくと田助は忍が岡にいた。
おろくは、腰折れ島田の髷(髷の真ん中の元結で締める所がくぼんでいる髪型)を結って花簪を挿し、青海波(せいかいは)模様の入った小袖に柿色の綸子(りんず:滑らかで光沢がある絹織物。)の帯を吉弥結びにしていた。
すれ違う老若男女たちは、おろくの美しさに驚き、見とれていた。
田助は、誇らしかった。
 そして、二人は寛永寺の山門、吉祥閣を通り過ぎた時、清水堂の山裾の桜と不忍池が目の前に広がった。
「桜もきれいだけど、おろくちゃんはもっと綺麗だ。」と、照れながら田助は言った。
半時ほど二人は歩いた。
「若旦那、ちょっと休みませんか。」と、おろくが疲れた顔で言った。
「疲れましたね。」と、田助も言った。
そして、二人は不忍池の畔にある水茶屋に入った。
「いらっしゃいませ。」と、その店の女は言って、おろくをまんじりともせずに見入った。
「あっ、すみません。」と言って、二人を勝手に奥座敷へ案内した。
 こんな部屋に通されたことにおろくは、驚き困った。
仕事柄、このような場所に案内される人たちは目的が別なところにあることを知っていたが、ここまで来たら、今更、女にどうのこうのとは言えない。
田助は黙っているし、おろくは、早く帰ることばかり考えていた。
案内した女は、お茶を取りに出て行った。
 それから二人は、しばらく黙って座っていた。
変な雰囲気に耐えられずに、
「このお店、きれいですね。」と、おろくは言った。
田助は胸の鼓動が高まって来た時、女がお茶を運んできて、二人の前に置いた。
 そして、「何か御用があれば、呼んでください。」と言って出て行った。



(四)

 それからも毎日、おろくは目が回るくらい忙しかったが、田助とは、時々目立たないように逢瀬を重ねた。
そして、数か月後、おろくの体調に変化が出てきた。
田助にそのことを伝えた。
「子供ができたって。」と、田助は嬉しそうに言った。
「若旦那の子供だよ。」
「早く結婚しないと。今日帰って、おとっつあんとおっかさんに言うよ。」
「私も、言う。きっと許してくれると思うよ。」

 田助は帰って、両親におろくと結婚すると話した。
「水茶屋の娘だと、絶対許さん。」と、田助の父、仁吉は言った。
 田助は、「許してくれないなら、俺は家を出る。」と、わめいた。
「ばかなことを言うな、家を出てどうするんだ。お前に何ができるんだ。」
田助の母、お吉はただ泣いているだけだった。

 一方、おろくは、母親のフミに田助の子供ができたことを伝えた。
「なんだって、おろく。冗談を言いでないよ。若旦那の子供だって。」
「おっかさん、本当なんだよ。」
「こんなこと、おとっつあんに言ったら勘当されちまうよ。相手先とは月とすっぽんなんだから。」
「おっかさん、どうしよう。」と、泣きながらおろくは言った。
「いいよ、おとっつあんにはあたしから言ってみるよ。」
 
 夜も更けて、行灯の灯も、消えそうになってきた。


 (五)

「あんた、おろくお腹に薬問屋の若旦那の子ができたんだって、どうしよう。」と、フミが言った。
「なんだって、そんなバカな。」
「本当なんですよ。」
「おっかあ、どうしたらいい。」
「あんた、おろくにはかわいそうだけど、私の実家にあづけましょうか。ほとぼりが冷めるまで。子には罪が無いからね。」
そして、おろくは、フミの祖父母オタカと治助の家のある川越に行った。。
 一方、おろくがいなくなった‘ごふく茶屋 湊屋’は日を追うごとに客が減って来た。
 田助は、あれから姿を一度も見せなくなった。
その代わり、金物屋の息子の平吉、大工の留吉そして、棒手振りの松太郎は毎日のように来て、おろくのことをフミに聞いていた。
「おろくちゃん、どこに行ったんですか。」と。
 そんなある日、留吉が店を閉めるまで茶を飲んでいた。

 フミは留吉のところに数杯めのお茶を持って行った。
「おろくちゃん元気にしていますか。一体どこに行ったんですか。」
と、フミにまた、聞いた。。
「留吉さん、おろくのこと心配してくれてありがとう。おろくは若旦那の子を孕んでしまったの。でも、太助さんとの結婚はあちらさんもこっちも大反対だったんですよ。
だから、おろくを実家に行かせたんです。」と、フミ。
「おろくちゃんかわいそう。」
「おろくちゃんのお母さん、おろくちゃんのいるところを教えてください。お願いします。」と、留吉は頭を下げた。
フミも根負けして、おろくのいる場所を教えてしまった。

 数日後、留吉は川越にいた。
やっと探したおろくのいる家の前に着いた。
おろくは、庭に出て洗濯物を干していた。
春信風島田を結い、麻の葉小紋に襷を掛けて、秋の日差しに輝いて見えた。
 しばらくして、おろくが留吉に気がついた。



(六)

「留吉さん、留吉さんじゃないの。」
「おろくちゃん、元気そうじゃないか。良かった、良かった。」
留吉は涙が出そうになった。
「おろく、どなたか見えたのか?」と、おろくの祖母のオタカが出て来ておろくに言った。
「おばあちゃん、江戸から来てくれた留吉さん。」と、嬉しそうにおろくはオタカに言った。
「おお、ごくろうさま、上がってお茶でも飲んでくれ。おろく、それは後でよいから留吉さんにお茶を入れてあげなさい。」
「はい、留吉さん、上がって待ってて。」と、おろくは走って、家の中に入って行った。
「おばあさん、この子はおろくちゃんの子供ですか?」と、留吉は、オタカが抱いている子を見て言った。
「そうだよ、かわいいだろう。」
おろくに似て、目元がすっきりして利発そうな顔をした女の子であった。
「どうぞ、遠慮せずに中に入って下さいよ。」と、オタカは留吉を家の中に案内した。
 留吉はおろくに会える日を一日千秋の思いで待っていたのだが、いざ、おろくの子を見たら心に迷いが生じたのであった。



「早く上がりなさいや。」と、催促の声がかかったので、留吉は迷いを払しょくして床に上がって、囲炉裏に近づくと、
おろくの祖父の直助が会釈をして、
「よく、来なさったな。まあゆっくりしろや。」と、複雑な顔をして言った。
「おじゃまします。」と、留吉は言って腰を下ろした。
「わざわざ、江戸からおろくに会いに来てくれたそうだな。」
「はい、おろくちゃんが急にいなくなったもんで、心配で。」
「留吉さんとやら、今日はゆっくりしていけるのか?」と、直助は留吉の顔を覗き込むようにして言った。
「いや、はい。今日と明日は仕事が休みなもんで、今日はこの辺の旅籠に泊まって明日帰ります。」と、一瞬戸惑いながら答えた。
「そうか、それはよかった。ばあさんや、留吉さんと一杯やるから酒を頼む。」と、大きな声で直助は言った。
「留吉さんは、どんな仕事してるんじゃ?」
「しがない家職人(やじょくにん)でさ。」と、留吉は照れて言った。
 この時代は、江戸では大工のことを家職人と言ってたそうだ。
「留めさん、おろくのことどう思っているんだ。どこかの若旦那の子持ちだが。」
と、さびしそうに直助は言った。
「はい、今でも好きです。おろくちゃんはどう思っているか分かりませんが。」
と、留吉は自信なさそうに言った。
 


 しばらくして、オタカとおろくが膳を運んできた。
もう外は、陽が傾き始めてきた。
 オタカとおろくの膳も運んできて、皆、囲炉裏の周りに座った。
おろくが、直助に「おじいちゃん、今日は十五夜だよ。おばあちゃんが朝、すすきを取ってきてくれたんだ。縁側に生けたよ!」と嬉しそうに言った。
「だんごはどうした?」と、直助はオタカに聞いた。
「朝から、おろくと作りましたよ。もう供えましたから。」と、オタカ。
 この時代は十五夜の供え物は、すすきが十五本または、五本と米粉の団子か饅頭が決まりだったようだ。
「そう言えば、今日は深川の富岡八万様のお祭りだな。」と、留吉は懐かしむように言った。
「そう、深川のお祭り、賑わっているんでしょうね。」と、おろくも懐かしそうに留吉のほうを向いて言った。
食事も終わり、オタカとおろくが片づけを始めた。
 オタカが、留吉の膳を片付けるとき、
「留吉さん、今日はうちへ泊まっていきな。」と言った。
おろくも「もう遅いし、泊まってて下さい。」と。
「留めさん、好きなようにしとけ。」と、
直助は「俺はもう寝るだ、お先に。」言いながら
囲炉裏部屋を出て行った。
 オタカも片づけが終わって、「おらも、寝るでゆっくりしていって下さいよ。」
と言って、部屋を出て行った。
 おろくと留吉の二人が残った。
留吉は間が持たないかのように、袂落とし煙草入れから煙管をだし、
煙草に煙草盆の火をつけた。
おろくは、縁側に座って、月を見ていた。



いつの間にか、おろくの隣に留吉が座っていた。
「おろくちゃん、月がとっても綺麗だね。」
「留吉さん、今日はありがとう。」
しばらく、二人はそれぞれ何かを言わなければと思いながらも、ただ二人は黙って月を見続けていた。
「若旦那、どうしているかしら。」
「おろくちゃん、田助さんは先月、金物屋の平吉さんの妹と結婚したよ。」
おろくは、咽び泣きを抑えはしたが、涙は止めどもなく流れてきた。
留吉はなすすべもなく、そっと、その場所を離れた。
おろくはその後、半時ほど泣き崩れていた。

翌日、留吉は朝飯を馳走になった。
目をはらしたおろくは、こまめに留吉の膳の世話をした。
「留吉さん、汁のおかわりはいかが。」と、無理矢理、おかわりをさせた。
おろくは、これが留吉との最後の別れになるかと思うと、居てもたってもいられずになんとか、留吉の出立を延ばすよう振舞うのであった。
留吉は留吉で、おろくはまだ田助のことを思い続けているのだと思い込んでいたので、
諦めて、早く江戸に帰りたかった。
その二人の様子を見ていて、直助もオタカも痛々しく感じていた。
「留めさん、いよいよ帰るかね。」と、直助は寂しそうに言った。
「仕方がないね、留吉さんにも仕事があるんだから。」と、オタカは肩を落として、残念そうにおろくの目を見て行った。
「フミとフミの旦那に、おろくと子は元気だと伝えてくれや。頼む、留吉さん。」と、直助は元気を振り絞って言った。
「はい、承知しました。では、これで失礼しやす。」と、
直助、オタカそして、おろくに挨拶をして留吉は、江戸に向かって歩き出した。



 
 もう既に、明け五ツになっていた。

留吉が直助の家を後にして、半時ほど経ったとき、
後ろから、
「留吉さん、私も連れてって。」と、おろくが叫びながら、一文字笠に旅姿で子供をおぶって、追いかけてきた。

晴れた秋の空、鳶が三人を見守るように旋回していた。



          (完)




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章タイトル: 二の巻 笠森 お仙
-----------------------(p.14)-----------------------

    (一)

 時は明和五(一七六八)年秋、江戸の外れ谷中の笠森稲荷の水茶屋’鍵屋’に一人の武士が一休みするために入って行った。
 茶を運んできた娘に、
(なんて美しい娘なんだろう)と、武士が見とれてしまった。
この武士、太田南畝と言い、当時十九歳で幕臣として勘定役を務めていた。
 独学で和漢の故事典則を学び、江戸風俗に通じまた、狂歌にも長じていた。
 南畝は、この年になってはじめて一目ぼれをした自分に苦笑してしまった。
 茶を飲み終わって、店を出て知り合いの浮世絵師鈴木春信(四十四歳)の住んでいる神田白壁町の家に行って、水茶屋の娘の話をした。
 春信は役者の錦絵を主に描いていたが、その娘の話を聞いて興味を持ち、翌日さっそく笠森稲荷に出かけて行った。
茶屋は繁盛していた。
縁台に座ると、しばらくしてから茶を娘が運んできた。
春信は一目見て、その娘に魅かれてしまった。
「娘御、名前は?」と、春信は居てもたってもいられずに聞いた。
「お仙と、申します。」と、その娘は鈴を転がしたような声で答えた。
お仙、十八歳であった。


(二)

 お仙は色白で、うりざね顔そして、涼しげな眼をしたしなやかな体つきをしていた。
 燈籠鬢・島田髷を結って、大小あられの小紋の小袖が良く似合っていた。
 今日は、ひとまず春信は帰ることにして、茶代を払った。
春信は、家に帰ってもお仙のことが頭から離れない、なんとか絵にできないかと考えていたときに、同じ町内に住んでいる平賀源内(四十歳)が訪ねてきた。

 平賀源内、享保十三(一七二八)年、讃岐の高松藩下級武士の家に生まれた。
 若き頃より本草学を学ぶとともに、長崎でオランダの科学も学んだ。そして、今から十一年前に江戸に来たのだが、主家から暇を出され浪人の生活を送っていた。
 この時代は十代将軍徳川家治の執政の元、田沼意次が積極的な経済政策を推し進めており、江戸は文化も栄え、活気に溢れていた。
 学問では、蘭学が興り、文学方面では、川柳、狂歌、黄表紙、洒落本などの風俗や人情を書きつづった大衆小説も盛んになっていた。
 また、芸能面では歌舞伎においては二代目瀬川菊之丞が女形で人気を集めた。また、江戸浄瑠璃も流行った。
 美術の世界、特に浮世絵では、二、三色摺りによる木版画紅摺絵を何色も重ね摺る東錦絵へと飛躍した。
 この時、中核にいたのが源内で、彼の周辺には南畝や春信らの多くの文化人が集まっていた。

 春信は、「源内さん、笠森稲荷の水茶屋にお仙という娘がいるんだが、めっぽう美人で驚いたよ。」と言った。
源内は翌日、笠森稲荷に行って、お仙を見てきて、
春信の家に昼ごろ訪ねた。
「春信さん、お仙さんに一目ぼれだよ。」と嬉しそうに言った。

 しばらくすると、南畝もやって来た。
「源内さん、この間発明した‘タルモメートル(寒暖計)’売れましたか。」と、早速南畝は聞いた。
「まったく、皆信用してないのか、不思議そうに見るだけで買い手がつかないんだよ。」と、苦笑いした。
「今、源内さんと、美人の娘さんを江戸町民に売り込もうかと話をしているのだが、誰がよいかと悩んでいるんだ。今候補に挙がっているのは、浅草の茶屋蔦谷のお芳さん、浅草寺裏の楊枝売りの本柳屋仁平次の娘お藤さんそして、南畝さんが見つけてきた笠森稲荷の水茶屋鍵屋五兵衛の娘お仙さんの三人なんだが。」と、春信はいっきに話した。
 南畝は、「お仙さんは磨かずしてきれいに容をつくらずして美人です、また、お藤さんは玉のような生娘とはこの方を言うのです。」と、南畝は二人を誉めあげた。
「南畝さん、それではどちらの娘さんにするか決まりませんね。」と、源内は笑いながら南畝を見た。
 しばらくして、春信が「お藤さんは外見を飾って美しく見せているが、お仙さんは地で美しいのでお仙さんを私は描きたいのだが、どうだろうか。」と、二人に言った。
「お仙さんに決まりだ。」と、源内は言った。
「では、私はお仙さんの登場する作品を書いてみます。また、源内さんすみませんけど、去年の‘寝惚先生文集’と同様に序文を書いていただけませんか。」と、南畝は源内のほうに向かって頭を下げた。
「承知した。春信さんにお願いだが、南畝さんの作品にお仙さんの錦絵を挿絵として入れてもらえませんか。」と、今度は、源内は春信に向かって言った。
 源内は、気鋭新進作家の太田南畝の将来を期待していたので、なんとか自分も力になってやりたいと常々考えていた。
南畝は一瞬驚いたが、すぐに春信に向かってそして、源内にも頭を下げた。
 それから、十日間ぐらいの間、三人はそれぞれお仙のところに足繁く通った。




(三)

 最初に行ったのは、春信でその翌日に行った。
相変わらず鍵屋は混んでいた。
 そしてしばらくして、席が空いたので縁台に腰をかけた。
すぐに、お仙が茶を運んできた。
春信はここぞと、お仙に声をかけた。
「お仙ちゃん、私は、浮世絵師の鈴木春信という絵描です。」とそして、春信はお仙を絵に載せたいと、言ったが、
「おとっつあんと、おっかさんに相談してみます。」と、お仙は顔を赤らめ答えた。
その日は返事をもらえなかったので、春信は諦めて帰った。

 その二日後、春信は昼過ぎにお仙に会いに行ったところ、お仙は奥に春信を連れて行った。
すると、お仙の父親五兵衛が出て来て、
「春信様、お仙をよろしくお願いしますだ。」と、頭を下げて頼んだ。
 春信も「こちらこそよろしくお願いします。」と、丁重に頭を下げた。
 それから、店が混んでいるので、細かい話は翌日の朝空いている時に来るからと言って、春信は茶屋を後にした。
 そして、春信は、そのまま源内の家に行った。
源内の家には、南畝も来ていた。
 



 さっそく、二人に、お仙たち一家が、喜んで話を承知してくれたことそして、細かい話は明日する予定であることも伝えた。
「春信さん、良かったですね。これから忙しくなりますよ。私も、お仙さんに会っていろいろ話を聞いて文を書きます。」と、南畝が嬉しそうに言った。
「春信さん、最初はどのような絵の構成にしますか。」と、源内は嬉しそうに聞いた。
「今、大店のご主人から見立絵を頼まれていますので、見立絵にしたいと思うのですが、どんな見立絵がよいのか悩んでいます。」

見立絵とは、簡単に言うと、古典的な画類を当世風に描いたもので‘雅’から‘俗’への変容を表す言葉である。

春信は謡曲の内容と関わりある絵の構成について、二人に相談した。
源内が「‘蟻通(ありとおし)’でどうですか。」と言った。
「どういう謡曲なんですか。」と、南畝が聞いた。
「話はこうです。紀貫之(平安前期の歌人で、古今和歌集の撰者として有名。また、『土佐日記』の作者、)が玉津島参詣のため蟻通神社まで来ると、俄に日が暮れて大雨となり、乗馬さえ倒れてしまいます。途方に暮れていると、年老いた宮人が現われ、この処は物咎めをする蟻通明神の境内であるから、そうと知って馬を乗り入れたのであれば、命がないと言われます。貫之が名を告げると、それでは和歌を詠じて神慮を慰めなさいと言われ、そこで‘雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほしとも思ふべきかは’と詠じると、宮人は感心し自分が蟻通明神である由を告げる。・・・という謡曲です。
 和歌の徳を讃えるのを目的とした曲です。また、シテの宮人が傘と燈籠を持って現われるのも珍しいと言われています。」と、源内はいっきに説明した。

 この中に出てくる蟻通神社は、現在大阪府泉佐野市に現存しているが、筆者は残念ながら行ったことが無い(単身赴任で大阪にいた時に行っておけばよかったと思ったが、良く考えてみるとその時はこの話を残念ながら、全く知らなかったのである。)
話を戻そう。

「源内さん、それで行きましょう。下絵を考えてみます。またできたら来ます。」と喜んで、春信は帰って行った。



(四)

 春信からお仙たちとの細かい話の内容について聞いた後に、南畝はお仙に会いに行った。
その後、南畝はひたすらお仙について書き続けていた。
 一方、源内は、ただお仙を見に行くだけだった。
この頃、源内は田沼意次に自分を売り込むのに忙しかった。

 十月の初旬、春信は源内の長屋に下書きを持って行った。
その下書きは、激しい風雨に細い体をしならせて、宮へと向かっている絵である。
鳥居を背景に、お仙が傘を掲げ、提灯を持っている。
雨の夜、宮の前を通り過ぎようとした紀貫之を呼びとめた宮人をお仙の姿に置き換えたものであった。

「春信さん、なかなか良いですね。お仙さんの目をもう少し切れ長にしたらどうでしょうか。」と、源内は指でさした。

この時代の美人のあり様は、もう少し先に出る‘都風俗化粧伝’にこのように書かれている。
(目は顔の中央にありて、顔の恰好を引き立てる第一は凛と強きがよい。然れどもあまり大き過ぎたるは見苦し。無理に細き眼にせんとて、目を狭めるのはよくない。・・・)と、現在とはちょっと違うようである。

 春信と源内がしばらく話していると、南畝がやって来た。
「南畝さん、できましたよ。」と、春信は源内の意見を取り入れた下書きを見せた。
「素晴らしいですね。春信さん、さすがです。」
この下書きを本摺りすることが決まった。

それから十日後、春信は摺りあがった錦絵を持って、源内の長屋を訪ねた。
「春信さん、美しく摺りあがりましたね。これはすごい。是非南畝さんにも見せないと。一枚いただけませんか。」
「源内さんと南畝さんの分です。」
と、源内に二枚渡した。



(五)

 春信は翌日、笠森のお仙に出来上がった錦絵を持って行った。
 今日のお仙の髪は、髱(たぼ)と鬢(びん)を大きく張り出させて、生え際や襟足が引き立ち華やいで、また、青い縦縞の小袖に赤い前だれを掛けて、なお一層体がすらりと見え魅力的であった。

 髱(たぼ)とは日本髪を結った際の後頭部の部分の髪をまた、鬢(びん)は頭髪の左右側面の部分を指す。

「わあ、すごく綺麗。春信さん、ありがとうございます。おとっつあんとおっかさんに見せてくる。」と言って、奥に入って行った。
 しばらくすると、父親の五兵衛と母親のタエが出て来て春信に何度も頭を下げて礼を言った。
 しばらく、奥で話をしていたが店のほうから客の声がしたので、春信は鍵屋を後にした。
 そして、この錦絵を頼んできた大店の主人の所にこの絵を渡しに行った。
「春信さん、これはよくできている。本当に綺麗にできている。」と、大満足であった。

 春信は早々に、大店を後にして源内の家に行った。
春信は、次に出す錦絵の下絵を源内に見せた。
「春信さん、今度は江戸の町人に売れますね。これも良いです。」と源内がほめた時に、南畝の声がして、部屋に入って来た。
「南畝さん、春信さんが挿絵を描いてくれましたよ。」と源内は嬉しそうに言って、下絵を南畝の前に置いた。
「これですか、すばらしいじゃないですか。」と南畝は驚いた。
 この絵は‘団子を持つ笠森お仙’と名付けられた。
後ろに鳥居、茶の縦縞の小袖を着たお仙が、右手に団子を持ち、体をやや左側に反らしひざ下から素足が覗いている姿が描かれていた。
「南畝さん、‘売飴土平伝’の序文を書きました。」と源内はその原稿を南畝に渡した。
この三人のなじみの版元から一ヶ月後戯作‘売飴土平伝’が売り出された。
 当初予想していたよりも、順調に売れていた。

 その後しばらくして、錦絵‘団子を持つ笠森お仙’も売り出されたが摺られていた二百枚は飛ぶように売れた。
 お仙の評判は湯屋でも広まり、男だけでなく町娘もお仙の恰好に夢中になった。
 一躍、お仙は今で言う‘江戸のファッションリーダー’にもなった。

 春信は引き続き、お仙を描きたいが良い案が浮かばないので、源内に相談を持ちかけた。
「春信さん、今歌舞伎が流行しており、また、最も人気ある役者は女形の瀬川菊之丞です。
この菊之丞をお仙さんと一緒に絵がいたらどうだろうか。人気がこれ以上出るのは間違いないと思いますよ。」と、源内は言った。
「なるほど、お仙さんと歌舞伎役者か。それは良い案です。」
 そして、数日後春信は、出来た下絵を持って源内に評価を仰いだ。
‘笠森お仙と団扇売り’という題の絵が出来上がった。
その絵の構成は、背景には赤い鳥居、お仙は当代一の人気歌舞伎役者瀬川菊之丞の定紋が描かれている団扇を手にしている。
売り物の団扇には勝川春幸や一筆斎文調の役者絵をはったものを置いた。
 また、菊之丞を団扇売りとして描いたものであった。
この錦絵も売り出したら爆発的に売れた。
 これによりお仙の人気も確固たるものとなり、お仙の絵は草双紙(挿絵がついたかな書きの読み物)、双六(すごろく)、読売(瓦版のこと)にのるだけでなく、手拭いにも染められた。
 また、森田座ではお仙の狂言を歌舞伎役者の初代中村松江が演じ大当たりした。

 


 巷では、(向う横丁のお稲荷さんへ一銭あげてざっと拝んでお仙の茶屋へ腰を掛けたら渋茶を出した。・・・)と唄われた。

 春信は礼を言いに、源内の家を訪れた。
「春信さんが描いた絵、町では大評判ですよ。良かったですね。」と源内は嬉しそうに言った。
「源内さんのおかげで、もう版元は増刷でてんてこ舞いです。これ、些少ですけれど。」といって、源内の前に金子を差し出した。
 源内は未だ浪人のため定期の収入が無く春信の好意に感謝した。

 一方、お仙は相も変わらず鍵屋はお仙見たさで毎日、客が詰め掛けていたため、その応対に忙しかった。
 お仙はあちらこちらから声をかけられるものの、身持ちがよく浮いた話は一つもなかった。
春信は仕事が一段落したところで、お仙の顔を見に笠森に行った。
「お仙さんの人気、すごいですね。よかったですね。」と、お仙に言ったところ、
「春信さん、人気が出たのは嬉しいですけれど、町に出ると皆がじろじろ見たり、声をかけたりで落ち着いて買い物も出来なくなってしまいました。」

春信は困った。



 評判になってしまったら、役者と同じに見られるのはいたしかたないと春信は思うのだが、まだ若いお仙にとっては、いたたまれないことかもしれない。
 春信は時間が経てば、評判になる前の生活に戻るようになると話をして、鍵屋を後にした。
 
 それから、春信はずうっとお仙の言った言葉を忘れることができなかった。
(俺がお仙ちゃんに迷惑をかけたんだ。もしかして、取り返しがつかなくなったらどうしよう。)
そして、翌年の明和六(一七六九)年夏から仕事と精神的な疲れから寝込んでしまった。

 その頃、源内は風来山人の作家名で‘放屁論’という評論を書き終わったころであった。
放屁論の原文の出だしはこうだ。
【人参呑で縊る癡漢あれば。河豚汁喰ふて長寿する男もあり。一度で父なし子孕む下女あれば。毎晩夜鷹買ふて鼻の無事なる奴あり。大そふなれど嗚呼天歟命歟。又。物の流行と不流行も時の仕合不仕合歟。・・・・・(訳)にんじんを飲んで養生しながら、首をくくると言った馬鹿者もあれば、ふぐを食って長生きをする男もいる。たった一度のことで父なし子をはらむ下女がいるかと思えば、毎晩・・・・・】

 九月になって、源内は春信を見舞った。
「春信さん、御加減はいかがですか。仕事が忙しかったから疲れが出たんでしょう。この薬草を煎じて飲んで下さい、きっと元気になりますよ。」
「源内さん、ありがとう。」
「実は幕府から依頼されて、来月からオランダ語の翻訳をしに、長崎に行くことになりました。当分会えなくなります。」
「それは良かった。で、どのくらい行かれるのですか。」
「一年半ぐらいかと思います。」
源内の長崎行きは、田沼意次の世話で決まったようであったが、源内はやっと幕府に食い込めてうれしくてしょうがなかった。



 そして、翌月源内は長崎に旅立って行った。
一方、源内の友人の杉田玄白に診てもらっているが、
春信の容態はいっこうに良くならずに明和七年になった。
 二月になったある日、南畝が見舞いに来て、
「笠森稲荷の鍵屋のお仙が見えなくなったそうですよ。読売では、【とんだ茶釜(お仙のこと)が薬かん(禿げた父親)に化けた。】と書かれていました。」と寂しそうに言った。
「南畝さん、私悪いことをお仙さんにしてしまったんです。悩んでいたんでしょうね。」
「いや、そんなことはないと思います。」
春信のやつれた姿が痛々しかった。

 数日後、南畝は鍵屋をのぞいた。
客はわずかだった。
床几に座って、茶を持ってきたお仙の父親に聞いたがただ笑っているばかりであった。

 そして、三か月後、南畝や玄白たちの介護もむなしく、明和七年六月十五日春信は鬼籍に入った。

 その直後、南畝は春信を偲んで、『東錦絵を詠ず』という狂詩で【忽ち東錦絵と移ってより、一枚の紅摺枯れざる時、鳥居は何ぞ敢て春信にはかなわん。男女写しなす当世の姿】と詠った。



 お仙がなぜいなくなったか、いろいろうわさで江戸は騒がしかった。
 ある者は、静かな所へ失踪したんだとか、ある者は横恋慕にあって、殺されたとか、
また、無理心中の噂も出ていた。
 歴史は幕府旗本お庭番倉地政之助へ仮親の馬場善五兵衛の家から嫁いだことを伝えている。




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章タイトル: 三の巻 高島屋 お久
-----------------------(p.27)-----------------------

(一)

 今から二百十数年前、寛政五(一七九四)年、浮世絵師として身を立ててから早十九年、喜多川歌麿、版元の蔦屋重三郎のところに身を寄せ、洒落本と黄表紙の挿絵を描き続けていた。
花魁、役者絵をいろいろ描いているのだが、何か物足りなかった。
 ある日、重三郎が鈴木春信の描いた美人画を歌麿に見せて、「歌麿さん、春信のような素人娘を描いてみたいと思いませんか」と、執拗に言って来た。
「今時、どこに美人娘がいますか。いたら、是非描きたいですね。」
そのような話も毎日歌麿は同じような仕事に忙殺され、忘れ去っていた。



 両国薬研堀米沢町二丁目、公儀御用の巻煎餅を商う大店高島屋。
高島屋は両国橋付近の興行場の多くを持つ大資産家でもある。
店の中は、煎餅の匂いが漂う中を使用人たちは忙しく働きまわっていた。
店の奥では、高島屋の主、高島長兵衛の長女お久が、出かけるためにびわ茶の三筋の小紋を身に着けているところであった。
「お久、お師匠さんの言うことよく聞くんだよ。」とお久の母、富が心配そうに言った。
「おっかさん、もう少しであたし、師範になれるのよ。心配しないで」
 お久は、三味線を習いに出かけるところであった。



 この時代の町人の女性に一番人気があった職業は江戸城大奥、大名や旗本などの武家に奉公することだった。
奉公は、奥女中の身の回りや雑用だったがその経験があれば、良い縁談に恵まれた。
 そのために芸事ができたほうが有利だったので、親は娘が幼い時から習い事をさせた。
その一方、三味線、琴、踊り、茶そして花などの習い事が盛んになると女性の師匠が多く現れ芸事で身を立てようとする女性もいた。
お久の師匠お安もその一人であった。

「お師匠さん、お願いします」

「お久さん、今日はまず三味線の歴史から教えますよ。
三味線音楽興隆の祖と言われているのは石村検校という人です。
最も古い楽曲としては、数十年前、江戸の初めのころに完成されたと考えられる‘
三味線組歌‘があります。
また、この時代では長歌が誕生しています。
これらは小歌曲をいくつか連ねた形式だが、やがて飽きられ、元禄の頃には一貫した内容を持つ‘長歌’が作曲されるようになります。
これは検校たちによって始められたらしく、作曲家として浅利検校、佐山検校などが有名ですね」とお安は一息ついた。



 検校とは、盲官の最高位の名称で、室町時代に検校明石覚一が『平家物語』をまとめ、また、足利氏の一門であったために室町幕府から庇護を受け、当道座を開き、検校は当道座のトップを務めた。
 江戸幕府は盲人が当道座に属することを奨励し、当道組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。
 検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。
 当道座に入座して検校に至るまでには七十三の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。
当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという伝説がある。
 また、世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで七十三段に及ぶ盲官位が順次与えられた。
 しかし、そのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。
検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、この頃になると、当道座の表芸たる平曲は下火になり、 代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。
最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて七百十九両が必要であったといわれていた。
 江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。
 この時代は地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲のプロフェッショナルとして、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。





 お安はお茶を一口飲み続けた。
「磐城平藩の八橋検校さん、尾張藩の吉沢検校さんのように、お抱えの音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいました。
 一方、長歌は江戸で歌舞伎舞踊の伴奏としても使われるようになり、長唄へと発展して行くのです。今までお久さんに教えた‘桜尽し’‘こんかい’‘古道成寺’‘花の宴’などです。まずおさらいで、‘桜尽し’お久さん弾いて下さい。どうぞ。」

♪~飽(あ)かでのみ 花に心を尽くす身の 思ひあまりに手を折りて 数ふる花の品々に わきて楊貴妃(ようきひ)、伊勢(いせ) 小町(こまち)、誰(た)が小桜(こざくら)や児桜(ちごさくら) 桃の媚びある姥桜(うばざくら) われや恋(こ)ふらし面影の 花の姿をさきだてて 幾重分けこしみ吉野の・・・・・・・・・・♪ 
♪雲井に咲ける山桜 ・・・・・・・・・・・・・・・ 見初めし色の初桜(はつざくら) 絶えぬながめは九重の 都帰りの花はあれども 馴れし東(あづま)・・・・・・・・・♪

「はい、良くできました。次は、今日の練習曲です。歌の間にまとまった器楽部分を持つ曲‘さらし’を練習しましょう」
「はい、お師匠さん。お願いします。」とお久は嬉しそうに言った。

♪はい
チャチャン、チャチャチャ チャンチャッチャ トントンチャチャン チャンチャカチャン チャ・・・・・・・トントント・・・♪

「では、お久さん。やってみてくださいな。」

「はい。」

♪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♪

「よくできましたね。では今日はこれまで。おうちでよく練習してきて下さい」

「お師匠様、ありがとうございました」



(二)

 一方、ある日、歌麿は蔦屋から菱川師宣、鈴木春信そして勝川春章の絵を見せてもらい、いろいろ考えさせられた。
師宣の野暮ったい泥くささ、春信の一つあか抜けないぎこちなさを何とか打破するようなものができないかと。
「歌麿さん、師宣さんや春信さんの悪い所を、改善したら如何でしょうか。」
 歌麿は、蔦屋の言ったことに納得して、いろいろ試作を繰り返した。
 まずは、美人画で全体の姿を描く場合だが、顔はうりざね顔、首は細く、体は華奢で細身の九頭身、手は小さくすることにした。
 構図を大体決めたので、若い美人の娘を探しに毎日、町に出て行った。

 ある日、偶然にもお久の三味線の稽古帰りに出会った。
小袖は、青茶の地に小桜の小紋、燈籠鬢の潰し島田の髪にビラビラ簪(何本かの鎖や小短冊を垂らしたもので、歩くたびに揺れる姿が若い女性にこの頃好まれていた簪である)すべてが似合っていた。
 歌麿が気のついた時には、両国の高島屋まで来てしまっていた。
(巻煎餅で有名な大店の娘さんか)とつぶやき、隣の煙管屋に入って煙草を買いながら
高島屋の娘のことについて、いろいろ聞き、高島屋の一人娘お久であることを知った。

 歌麿は、銭を払って高島屋に入った。
店の者に、浮世絵師の喜多川歌麿と名乗って、お久に会わせてもらうよう伝えたところ、
 しばらくしてから、主人の長兵衛が奥から出てきて、何かうちの娘に用かと歌麿に不審そうに尋ねた。



歌麿は、長兵衛にお久の美しさを浮世絵の題材にしたいと懇願した。
長兵衛は、困った顔をして、お久に聞いてみるのでここで座って待っているように言って、
奥へ行った。
しばらくして、長兵衛が、富とお久を連れて戻って来た。
「歌麿さん、お久が喜んで受けると言いましたよ。」と長兵衛が苦笑いして言った。
お久は乗り気な顔をして、「歌麿先生、どうぞ、よろしくお願いします」と行った。
それから、毎日のように歌麿は、高島屋に出向いてお久を描き続けた。
そんなある日、いつものように歌麿がお久を描いていた時、
お久が急に歌麿に生い立ちを聞いてきた。
「私は、宝暦三(一七五三)年生まれで、本当の名は北川勇記といいます。また、狂歌名は筆綾丸です。絵の世界に入るため、狩野派の島山石燕先生に師事したのですが、狩野派の様式を逸脱した絵を描き続けたら破門されましてね。
それからというもの、ずうっと干されましたよ。
そして、三十歳ぐらいでしたか、今お世話になっている蔦屋さんに偶然お会いしまして、
最初に黄表紙に‘身なり大通神略縁起’の挿絵を描きました。
あ、お久さん、ちょっと横を向いてくれませんか」
「先生は結婚しているのですか。」
「はい、結婚したのですが三年前に私を残して、あの世に行ってしまいました。」
歌麿の愛妻であった‘おりょ’は、歌麿がある築地の旗本の家で見染めてそれから大恋愛をしたのであった。



「お久さんにはいい人いるんですか」
「いませんよ、先生。」
「お久さん、出来ました。どうですか」と歌麿はお久に下絵を見せた。
「綺麗、これに色が入ったら、素晴らしいでしょう。」その下絵は上半身を大きく描く大首絵と言われるものだ。

 不必要なものを一切省略して、描きたい顔だけを主に構成した構図で左手が首襟に添えられているのが、何とも艶かしいお久であった。

 数日後、「高名美人六歌撰高島お久」という題名で版元の蔦屋から売り出されたが、一日で売り切れた。
あまりにも売れるので、蔦屋は、二版そして、三版と増刷した。
歌麿もこんなに売れるとは思いもよらなかった。

 当のお久は、ちょうどその頃、高島屋の出した茶店を手伝い始めたので、
大変な人気を博した。
連日、客足が絶えなく男たちが茶を飲みに来た。
 また、本店の巻煎餅も飛ぶように売れた。

 長兵衛と富もてんてこ舞いの毎日だった。
「歌麿さんのおかげでこんなに繁盛するとは、ありがたや、ありがたや」と長兵衛は富に言った。
 お久に言いよる男も数多くなってきたので、富も心配になって来た。

 そんなある日、お久に浅草虎屋から結婚の話が舞い込んできた。
 虎屋は、次男信吉を高島屋に婿に出しても良いというのだった。
長兵衛も富も、たいそう乗り気になった。
 長兵衛はお久にそのことを夕飯の時に話した。


「信吉さんは、なかなか頭もよくやさしい男との噂だが一度会ってみないか」と長兵衛は言った。
 虎屋は和菓子を扱っている老舗であった。
「信吉さんに一度会ったことがあるけど、いい人そうよ。」と富も言った。
「おとっつあん、おっかさん。明日でも虎屋さんをそっとのぞいてみますわ」
と、お久は嬉しそうに言った。

 翌日、お久はお高祖頭巾をかぶって、乳母の勝と浅草の虎屋に向かった。
浅草は両国とは異なり、お久を見て振り向く人もほとんどいなかった。
 虎屋に着いて、菓子を買うふりをして店の中に勝と入った。
店の中は、ごった返していた。
 長兵衛に聞いてきた信吉の特徴を思い浮かべて、店内を見回したが信吉らしき若い男は見当たらなかった。

「お勝、店にはいないようね。かえりましょうか」とお久は肩を落として虎屋を出た時、
体のごつい男にお久がぶつかった。
「おい、娘、てめえどこを見て歩いているんだ」と酒をぷんぷん臭わせて怒鳴って来た。
「すみません。」と言って、お久とお勝は頭を下げた。
「土下座して謝れ」と男は後に引かない。
いつの間にか、お久達の周りに、人垣ができていた。
男がやくざ風なので、物見の人たちはただ見ているだけであった。
 お久は、おろおろして体に震えが来た。
「てめ、なんとか言え」と更に声大きくしてお久に言った。




「ちょっと、お兄さん。お店の前で、娘さんをいじめるなんぞやめて下さい。」と若い男がお久の前に割って入って来た。
「おい、若いの。この小娘が俺にぶつかってきて、謝らないんだぞ。この娘が悪いんだ」
「いや、さっきこの娘さんとお供の方は謝ったじゃないか」
「こんな痛い目にあって、土下座してもらわなきゃ許さねえ」
「困った兄さんだね。お金がほしいのかい。」
「なに、俺を見損なうんじゃねぞ。俺を誰だと思っているんだ。浅草の鉄だ」
「申し訳ありません、鉄さんですか、存じていません」
「おまえは誰だ、一体どこの馬の骨だ」
「私は虎屋の者で、名は信吉です。」
「うっ、小娘。今日はこの信吉とやらに免じて、許してやらあ」と捨て台詞をはいて背を向けて去って行った。
「どうもありがとうございました」とお久は頭を下げ、自分の名を伝えようか伝えまいかと悩んだ。
 そんなこと、お構いなしに、
「いやいや、あいつは酒を飲むと人間が変わって、すぐ頭に血が上る輩なんですよ。地は決して悪い人間ではないらしいのですが。
まあ、どちらにしても、何もなくてよかった。
 気をつけて、お帰り下さい。では失礼」と、信吉は虎屋の中に入って行った。




 お久は帰って、因縁をつけられ信吉に助けられたことを長兵衛と富に話した。
お久は嬉しそうであった。
「それは良かったね。じゃあ、虎屋さんのご主人に、信吉さんをうちの婿さんにとお願いしていいんだね、お久」と富は嬉しそうに言った。
「もちろんですよ。おっかさん」
「よかった。これでうちも安泰だ、本当に良かった」と長兵衛は繰り返し言った。

 その翌日、歌麿がお久を描きに来た時、
お久は「先生、わたし祝言あげますのよ」と嬉しそうに言った。
「それはおめでとうございます。虎屋の信吉さんですか。それはお似合いだ」
と何かちょっとさびしそうに言ったのにお久は気がつかなかった。

 そして、一か月後、二人は盛大な祝言をあげた。
二人はお似合いの夫婦と、祝言に来た人々たち皆が言い、羨ましがった。
長兵衛も富もそして、虎屋の親たちも祝言に来た人たちに何回も廻って、酌をした。

 祝言も終わって、信吉は高島家に入って来た一日目に、
長兵衛は信吉を奉公人に引き合わせた。
番頭の弥平と六人の奉公人に向かって、信吉は「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
お久も一緒に頭を下げたので、皆驚いた。
お久と信吉は毎日、仲睦まじく過ごした。

 


 そんなある日、お久のところに、久しぶりに歌麿が絵を持ってきた。
「お久さん、どうですか」と歌麿は風呂敷から絵を出した。
「先生、すごく綺麗ですね」とお久は吃驚した。
「ちょっと、信吉さん、呼んでくるから待ってて下さい。」とお久は走って、部屋を出て行った。
「これは見事だ、歌麿さん」と信吉も驚いた。
「これはわたしですね、この二人はどなたですか」とお久が聞いた。
「はい、真ん中の方は富本の豊ひなさん、浄瑠璃富本節の名取で吉原の芸妓さんです。
そして右の方は難波屋のお北さんです、ちょっと大柄で愛きょうのある人です。この絵を“寛政の三美人“と名付けました。明日売り出されます」と歌麿は嬉しそうに言った。

 そして、翌日売り出され、あっという間に完売、それからというものの蔦屋は二版、三版と増刷に多忙しであった。

 信吉と祝言をあげた一年後、お久は長次郎をそして、三年後、直吉を産んだ。

 お久は信吉と二人のこと幸せに過ごしたが、長次郎十歳の文化二(一八〇六)年、お久は帰らぬ人となった。
お久、三十歳、美人薄命であった。

 奇しくも、歌麿も数か月後、五十四歳で没した。

それから二百年後の今も、寛政美人として、歌麿の書いた浮世絵の中で、お久は生き続けているのであった。

                        (完)
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