約束へと続くストローク

葛城騰成

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第一章 新しい仲間とのストローク

第一話 約束

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 柊一しゅういち君が転校した。
 小学校に通う日も、休みの日も、いつも一緒に遊んでいた彼がいなくなってしまった。

「ここが宮津駅やから……」

 机の上に路線図を開く。最寄り駅に人差し指をそえて、目的地に辿り着くまで指を動かしていく。
 どれくらいそうしていただろう。東京駅と書かれた文字の上で指が止まった。

「こんなに遠いんや……柊一君のいる場所」

 自室で一人、溜息混じりに頬杖をつく。

「あーあ、なんでいなくなってしまったんやろ」

 背もたれに体重を預けながら、木目調の天井を見上げる。
 転校の理由は、柊一君のおとんの転勤が決まったからだ。
 おかんがくれるお小遣いをどれだけ貯めても東京には行けそうにない。

「早く大人になりたいな。そうすれば、東京までのお金なんてすぐに貯まるのに」

 顔を傾けて左を見ると、ウチの全身を映す姿身鏡があった。リボンの形をしたヘアゴムを右の側頭部につけて、ピンク色のキャミソールワンピースを着た自分が、やけに小さく見えた。
 ウチの金井かない家と、柊一君のたちばな家は家が隣同士だったのもあって、よく一緒に遊んだ。ウチと柊一君と、柊一君の双子の弟の柊斗しゅうと君。ウチらは活発だったから、一日中外を走り回っていた。公園に行ったり、駄菓子屋さんに行ったり、海で泳いだり。
 三人で過ごす時間はいつも楽しくて、あっという間に過ぎてしまう。こんな毎日がずっと続くと思ってた。一緒にいるのが当たり前で、家族みたいに仲が良かったから、疑問に思う機会なんてなくて。
 柊一君たちがいなくなって一週間が経った。二階にある自室の窓から、隣の家を見つめても、そこに彼らはいない。見えるのは、もの一つなくなった空っぽな部屋だけ。引っ越しの際に、ウチの心も持って行ってしまったのだろうか? 胸に穴が空いてしまったみたいな心地が、ずっと続いている。
 ウチはなんでもできる柊一君に憧れていた。勉強も運動もできる彼が眩しくて仕方がなかった。ほかの男子とは違ってキラキラと輝いて見えたんだ。
 プールの授業中、クラスの女子たちが、泳いでいる柊一君を見ながら「柊一君ってかっこいいよね」とひそひそ話をしている声を聞くと、自分のことのように嬉しくなっていた。
 気が付けば、柊一君のことを好きになっている自分がいた。彼への好意を認識する前は、こっそり目で追うことなんて簡単だったのに、いつからかできなくなってしまった。心臓の鼓動が早くなり、両頬が熱く感じるようになってしまったのだ。
 小学校での日常を思い返していると、じわりと視界が滲んだ。もう何回目の涙だろう。いい加減、柊一君が引っ越してしまったことを受け入れなくちゃいけないのに。涙を拭きながら窓越しに見上げた空は、ウチの沈んだ心とは対照的に真っ青で、太陽が煌々と輝いていた。
 いつまでも泣き虫なままじゃあかん。今までみたいに水泳を頑張れるウチに戻らんと。約束したやろ。すごい水泳の選手になって、また会おうって。両頬を音が出るくらい強く叩いて、己を鼓舞する。
 柊一君と柊斗君は、ウチより先に水泳を始めていた。京都出身の水泳選手がオリンピックで優勝したのがきっかけらしい。その選手は帰国後に、京都で凱旋パレードを行った。街中をオープンカーで移動しながら集まった大勢の観客に手を振る姿が、二人の心に火をつけたんだ。
 本気で取り組む二人に誘われて、ウチも水泳を始めた。最初は、水に顔をつけるのだけで怖かったし、おぼれそうになって泣いてしまうこともあった。ウチはダメダメで、水泳なんて向いてないんじゃないかと思った。それでも続けることができたのは、二人がいたからだ。
 柊一君の綺麗に真っ直ぐ泳ぐ姿に憧れた。不器用ながらも、柊一君と張り合おうとする柊斗君に勇気をもらった。最初は二人と一緒にいられればそれで良かったのに、気が付けば泳ぐことに夢中になっていた。
 何時間も泳いでいられる体力が欲しい。クロールだけじゃなくて、背泳ぎとか平泳ぎとかもできるようになりたい。25メートルだけじゃなくて、50メートルも泳げるようになりたい。そんな目標が自分を動かしていて、一週間に一回だけだったプールが毎日に変わった。
 バイクの音が聞こえて、意識が現実に引き戻される。視線を下に向けると、郵便配達員がポストに手紙を入れている姿が目に入り、慌てて部屋を出た。木製階段を下りて、ガラガラと音を立てながら引戸の玄関を開く。サンダルを履く時間さえ惜しかった。倒れそうになりながら、裸足のままポストへと向かう。
 封筒に書かれた『金井紗希さき様』の文字を見て裏返すと、新しい住所と共に『橘柊一』と書かれているのを確認する。

「ああっ……きた! 柊一君からきた!」

 ペンを使って手書きで頑張って書いてくれたのだろう。たどたどしく書かれた文字が彼らしさを感じさせる。早く中身が見たくて、その場で封筒を開いていた。
 東京は人がいっぱいいること。ダンボールがまだ家の中にたくさん積まれていること。新しい学校でやっていけるのか不安なこと。宮津市が恋しいこと。余白がないくらいびっしりと、彼の心境や状況が綴られていた。
 柊一君からの手紙を待ちわびた一週間。ただ手紙が届いただけなのに、嬉しくて再び涙が溢れてしまう。本当に困ったな。泣き虫が治りそうにないや。

「やっぱり、柊斗君は書いてくれなかったんだね……」

 手紙を何枚かめくってみたけれど、柊一君の文章しか書かれていなかった。そのことを残念に思いながら、二人がこの街にいた最後の日を思い返す。
 あの日、柊一君に告白をした。想いは届き、恋は実った。成就した喜びと驚きに包まれていると、柊一君が三人で文通をしようと提案してきた。どれだけ遠く離れていても、繋がっていられるようにと。
 彼の申し出を受けてすぐに賛成の意を示したけれど、柊斗君は文通を辞退してしまう。ウチと柊一君が結ばれた直後だったから、遠慮してしまったのかもしれない。すぐに一緒にやろうよって言えば良かったのに、言えなかった。好きな人と二人きりで手紙のやりとりができることに胸が高鳴ってしまった。
 柊斗君は親友で長い時間を共に過ごした間柄なのに、とうぶん会うことは叶わないほど、遠い場所へ行ってしまった。仲間外れみたいにしてしまったことを悔いている。一つ幸いなのは、柊斗君に水泳を続ける気持ちがあることだ。
 柊一君からの手紙に書かれている内容のほとんどは水泳のことだった。新居の近くに、一緒に通っていたスイミングスクールよりも大きな施設があるみたいで、これからはそこで二人とも練習に励むそうだ。
 今後の目標や課題まで書かれていて、彼のやる気が文章越しに伝わってくるような内容が続いていたけれど、手紙の最後には別れ際に交わした約束について書かれていた。自然と読む手に力がこもる。

『ねぇ、紗希ちゃん。いつか俺、あの金メダリストみたいなすごい選手になって、紗希ちゃんを迎えに行くよ。だから、待ってて。必ず会いに行くから!』

 柊一君の言葉を、一言一句覚えている。

『なに言ってるんや! 柊一君を迎えに行くのはウチや! 今はまだ未熟やけど、絶対に柊一君が驚くようなコーセキを手に入れて自慢しに行く!』

 それに返答した自分の言葉も。

『じゃあ、約束っていうか、勝負しようよ。どっちが先に夢を叶えるか競い合おう! それまでは手紙で励まし合うってことで』
『わかった。じゃあ、それまでは……会えないね』
『うん。だね。寂しいけど、この約束があれば、どれだけ遠く離れていようとも大丈夫な気がするんだ。だから、約束』

 そう言って、ウチらは小指と小指を絡ませて、指切りげんまんをした。

「お互い頑張ろうね、紗希ちゃんからの返事を待っています……か」

 柊一君の文を小声で口ずさむ。
 そうだ。いつまでも立ち止まってはいられない。動き出さなくちゃ。
 胸を張って誇れる自分になって、会いに行くんだ。
 もう一度、柊一君に好きって伝えるために。
 柊斗君に、ごめんねって直接謝るために。
 空っぽだった心には決意が宿った。瞳から零れていた滴はすべて拭きとった。
 澄んだ気持ちに似合うくらいの快晴が見上げた先に広がっていた。
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