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1巻
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プロローグ
俺は幸せ者だ。この世で一番の勝ち組だ。デートの最中、そんなことを考えていた。
ストレートロングの髪をなびかせ、茶色のコートを着た彼女が、俺の横で微笑んでいたからだ。彼女の笑顔を見るだけで、心が弾んだ。一週間後に控えた期末テストのことなんて頭から吹き飛ぶくらいに、可愛いと思えた。
垂れ目なところも、デートの時だけうっすらと口紅を塗ってきてくれるところも、俺がプレゼントしたマフラーを巻いてきてくれるところも、全部好きだ。
雪が降るくらい冷えた世界など、繋いだ手から感じる温もりの前では無力だ。火に薪がくべられ続けているかのように体が熱く、心臓は通常よりも速く鼓動し、俺から冷静さを失わせようとする。寒いのに、手袋をしないで手を繋いでくれる彼女が、天使のように見えた。
「どうしたの? やけに顔が紅いけど、もしかして緊張しているのかな?」
冷静でいようと努めるけれど、女性とお付き合いをした経験がない俺がかっこいいモードを継続できるはずもなく、すぐにボロが出た。そんな俺とは対照的に、彼女はいつも動じず、落ち着き払っている。年上の余裕だろうか? 一つしか歳が違わないのにどうしてこんなに違うのだろうと、不思議で仕方がなかった。
たどたどしく話す俺と、そんな俺を見て口を大きく開けて笑う彼女。笑顔と共に零れた白い息が、空気に溶けて消えていく。
「りっくんがくれたマフラーは暖かくて気持ちがいいねぇ~。これさえあればどんなに寒くても大丈夫だね」
俺と繋いでいないほうの手を首に巻かれたマフラーに添えて、愛おしそうに目を細めている。
「今日はありがとね。私の洋服選び手伝ってくれて助かったよ。それに、りっくんがあんなお洒落な喫茶店を知ってるなんて思わなくてびっくり。頑張って調べてくれたんだよね?」
そう、そうなのだ。テスト勉強よりも集中して、デートプランを練ったんだ。女の子が好きそうなものをチェックした甲斐があったというものだ。そんな俺の努力を見抜いて感謝の気持ちを示してくれる彼女なんて、最高じゃないか。ジャンプして、「やったー!」と吠えてしまいそうになるのを抑えて、鼻を人差し指で擦りながらなんでもないことのように装う。
「ふふ、そうだよね。りっくんならこれくらい朝飯前だよね。さすが私の彼氏さんだ。頼りになるなぁ……じゃあ次のデートもりっくんにお願いしちゃおうかなぁ~」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、こちらを試すように見つめてくる彼女を見て、次のデートも楽しいと思ってもらえるように頑張ろうと、決意を固める。
「あっ! でもちゃんと部活とテスト勉強を優先しないとダメだよ? 私のために頑張ってくれるのは嬉しいけど、それでほかを犠牲にしたりしたら怒るんだからね!」
人差し指を立て、母親のようなことを言う彼女に苦笑いを返す。せっかく妄想に浸っていたのに、最後の最後で現実に引き戻されてしまった。
「マフラーのお返しに、今度は私が誕生日プレゼントをあげないとね。りっくんが欲しがるものってなんだろうな~」
彼女は先程立てていた人差し指を唇へと持っていき、空を見上げながらわざとらしく悩む素振りを見せる。ちょっとあざとい気がしないでもないけれど、可愛いから気にならない。そんなポーズをされたらさらに顔が紅くなってしまう。心臓に良くない。
「ちゃんと勉強を頑張ったら、りっくんが欲しいって思ってるもの、プレゼントしてあげるね!」
俺は完全に、彼女の手の平の上で転がされているけれど、嫌な気はしない。むしろ、定期的にかっこいいところを見せないとなって思える。
「もう私の家の前まできちゃった。送ってくれてありがとう。楽しい時間はあっという間に終わっちゃうね。そうそう、なにが欲しいか考えておいてね。ちょっと早いかもしれないけど」
眉をハの字にして残念そうにしていたかと思えば、向日葵のような満面の笑みを浮かべて手を振ってくれたり、こちらをからかうような目を向けてきたりと、彼女の表情は短い間にコロコロと変わる。俺はその一瞬一瞬を逃さないように目に焼きつける。心のシャッターを切るのだ。
彼女と別れて我が家へ向かって走り出す。今日の出来事を頭の中で反芻しながら喜びに浸る。あはははと高笑いしながら走る姿は、はたから見たら完全にやばい人に映っていただろう。だけど、そんなことは関係ない。天使のような彼女と二人きりの時間を送れる自分は、神に選ばれし者なのだから。
自宅に着くと、階段を駆け上がり、自室の扉を勢いよく開ける。そして、キャンバスを覆う白い布を勢いよく引っ張った。俺は決めたんだ。このキャンバスに愛しの彼女をこれ以上ないくらい可愛らしく描くと。そして、美術部の一員として誰に見せても恥ずかしくない絵に仕上げるのだ。
――そう思っていた時期が俺にもあった。
何事にも全力で取り組めて、この世のなにもかもが輝いて見えて、なんの根拠もなく希望に満ち溢れる未来を想像できた時が、俺にもあった。
いつもと同じ場所に、いつもと同じように待ち合わせより三十分早く着いて、彼女がくるのを待っていた。あの日、太陽を遮る鈍重な雲と腕時計を交互に見つめ、何度も確認していたのを覚えている。その間隔は、待ち合わせの時間が近付くにつれて短くなった。
やがて約束の時間が過ぎても、彼女は現れなかった。携帯に電話をかけても出る様子はない。彼女の自宅に電話をかければ、彼女の母親が出て、もう家をとっくの前に出ているという言葉を聞く。嫌な予感が胸を支配する。
俺はいてもたってもいられなくなって走り出した。街中を駆け回って、彼女を捜した。そして、見つけてしまう。打ちつける雨の中、アスファルトの上に散らばる絵の具と、大量の血を流して、うつ伏せで倒れる彼女の姿を。
六月二十六日、相場夏南が何者かに背後からナイフで刺され、命を落とした。その日は俺、春野律が十七歳を迎えた誕生日だった。
第一章 色に悩む俺たちの非日常
「天気予報のお時間です!」
高さと幅共に十五センチメートル程のラジオから、女性キャスターの明るい声が自室に響く。俺はパジャマをベッドの上に脱ぎ捨てて、ハンガーに掛けられたワイシャツを手に取る。一日中、晴れが続くという情報を仕入れつつ、ズボンを穿き、ネクタイを結ぶ。
朝食を食べ終えた後、パジャマから制服に着替えるまでの合間に、ラジオを聞くのが習慣になっていた。
勉強机の隣に置かれている鏡を見つめながら、ブレザーを着る。髪に寝癖がないか、ボタンを掛け間違えていないかなどをチェックして、一人頷く。ふと、部屋の隅に置かれたキャンバスが視界に入った。
桜吹雪の舞う公園を描いたキャンバスが、イーゼルの上に置かれている。絵の中央には、白いワンピースを着たストレートロングの女性が描かれていた。しかし、女性の顔だけが描かれていなかった。目や鼻、口など顔のパーツはなに一つなく、真っ白なまま。
不意に、全身を鮮血で染めた夏南の姿が脳裏を過る。うつ伏せで倒れる夏南を、俺が見つけた時の映像だ。雨では流すことのできない大量の血、遠くで聞こえる救急車のサイレン、泣き叫ぶ俺の声。
嫌な記憶はいつまでも頭に残り続けるのに、俺は夏南の笑った顔を思い出すことができずにいた。
「律~そろそろ時間よ~」
「わかってる。すぐ行くよ」
母親の呼び声に応えて、机の横に掛けられていた鞄を肩に掛ける。ドアノブを捻る直前、もう一度キャンバスを見つめる。
「行ってくるよ、夏南」
夏南の顔を描けなくなってしまったのは、彼女の表情を思い出せないことだけが理由じゃない。もう一つ深刻な問題を抱えていた。
「気をつけるのよ」
リビングの入り口に立っていた母親に声を掛けられ、頷く。
玄関へと進む歩を緩めることなくちらりと横目で母親を見れば、茶色のモヤを顔の周りに浮かべていた。
心視症。
そう呼ぶのが正しいのかはわからない。ただ、俺は夏南が亡くなってから、他人の表情を見ることができなくなった。正確には、他人が抱えている感情が顔の前に色となって現れるようになった。
例えば、前向きな気持ちの人には黄色のモヤが現れるし、悲しんでいる気持ちの人には青色のモヤが現れる。母親は、茶色なので落ち着いているのだろう。
俺は顔のモヤを見るだけで、色と感情の結びつきを直感で判断できるようになった。あくまでも感情の種類が色からわかるだけなので、なにに対して怒っているのか、どうして悲しんでいるのか、具体的な心境までは汲み取れない。
「行ってきます」
玄関の扉を開く。暖かい日射しに包まれた外へと一歩を踏み出す。
あと二ヶ月もすれば、夏南が亡くなってから一年が経つ。春になり、俺は高校三年生に進級した。心は過去に囚われたままなのに、将来について考えなければいけない時期がやってきてしまった。
思い出せないのは、笑顔だけじゃない。怒った顔も、困った顔も、泣いた顔も、なにもかもが俺の記憶から消えてしまった。夏南をなんとか思い出したくて、彼女と一緒に撮った写真を漁ってみても、心視症のせいで顔にモヤが掛かってしまう。
唯一、心視症に対して良かったと思えることがある。それは、夏南の表情には愛情を示すピンク色のモヤが掛かっており、俺を大切に想ってくれていたのがわかったことだ。
夏南と水族館デートをした時に買ったペンギンのキーホルダーが、鞄のファスナーにつけてある。それが揺れる様を見つめながら、学校を目指す。
キーホルダーを見つめるのは、他人の顔をあまり見ないようにするためだ。心視症を発症してから、人と面と向かって話すのが怖くなってしまった。言葉や態度ではなんでもないように振る舞っていても、内心では怒っており、顔の周りに赤いモヤを発生させているような人を何度も見てきたからだ。
言葉と感情が異なっていることは、誰にだってあることだ。しかし、この病気にかかったことでそういったケースがあまりにも多いことを知り、他者を信じることができなくなってしまった。
学校に到着した俺は、上履きに履きかえると、誰とも挨拶を交わすことなく、階段を上がっていく。
教室に着いて自分の席に座ると、鞄から取り出したイヤホンを装着し、音楽を聴いているアピールをして、誰からも話しかけられないようにする。
夏南の表情を思い出せないこと、他人を信じられなくなったこと、他者の顔の周りにモヤが現れたこと。これらはすべて俺への罰だ。最愛の人を守れなかった罰を、科せられている。
午前の授業が終わり、昼食の時間がやってきた。生徒の多くは食堂へ向かうが、俺は違う。今時珍しく屋上が開放されている学校なので、そこで昼食をとることを日課にしていた。生徒がくることは少ないので、俺にとってはありがたい場所だった。
「お、いたいた」
だが、今日はそうではなかったようだ。コンビニで買ったパンを口に運んでいると、野太い声を発する肩幅の広い男がやってきた。袖を肘の上までまくり、鍛え上げた腕を晒している。
「春とはいえ、やっぱまだ寒いな。毎日こんな所で食事してて寒くないのか?」
中学生の時からの知り合いで、同じクラスメイトの伊勢谷大地が話しかけてきた。彼は俺の親友なのもあって、心視症で顔が見えなくても問題なく会話ができる数少ない相手だ。夏南の死後、付き合いが悪くなってしまった俺に、彼は以前と変わらない態度で接してくれている。
「寒いけど、誰かと話すよりかはマシだから」
「ったく、コミュニケーションは大事だぞぉ。一人で解決できないことでも、皆でなら解決の糸口が掴めたりするもんだぜ? お、今のセリフかっこよくね?」
「そんな変なことを言うためにわざわざ屋上にきたわけじゃないでしょ? なにか用があってきたんじゃないの?」
大地は常にポジティブだ。前向きな気持ちを表す黄色いモヤが顔の周りに掛かっている。彼のように生きられたらどれだけ楽だろうかと思う。
「ああ、なんかお前に用があるっていう一年生の女子が教室にきたんだよ。それで呼びにきたの。結構可愛い子だったけど、知り合いか?」
「いやぁ……一年生と接点なんてないよ」
「とりあえず、お前を連れてくるって約束しちゃったからきてもらおうか!」
「約束しちゃったの!? また違う時間にきてもらうとかじゃあダメだったの!?」
俺は仕方なく立ち上がる。先程までパンが入っていた袋を丸めて、ポケットにしまう。まったく話したことがない相手と関わるのは、非常に億劫だ。
「なに言ってんだよ。むしろ、俺はお前に新しい春を呼ぶために手助けしてやったんだぜ? 感謝してくれよな」
「誰もそんなの望んでないんだよなぁ……」
他人の顔が見えないので、紹介してもらわないと俺に用がある子が誰なのかわからない。呼びにきたのが大地だったことに心の内で感謝をしながら、移動を開始する。とっとと済ませてしまおう。
「お前に会いたいって子はあの子だ」
俺たちの教室を視認できる距離まで近付いた時、大地が指を差して教えてくれた。彼の示す方向を見ると、ボブヘアの女子が立っていた。紺色のブレザーを着て青色のリボンを胸元につけているところまではほかの生徒と一緒だが、彼女はスカートの下に黒色のタイツを穿いていた。身長は百六十センチくらいだろうか。
「おーい。市川ちゃんだっけ? 春野を連れてきたぞ~」
「あっ! 伊勢谷先輩! ありがとうございます!」
鈴を転がすような、澄んで美しい声が俺の耳に届く。こちらを向いて頭を下げる様子から、真面目そうな印象を受けた。
「あ、あのっ! 貴方が春野律先輩ですか?」
「う、うん。そうだけど……?」
彼女は胸の前で両手を組んで、真っ直ぐな瞳で俺を見上げてきた。
長い睫毛、くりっとした瞳、饅頭みたいにふっくらとした頬。整った顔立ちで、スタイルもいい。少しだけ可愛いと思った。
「私、ずっと前から春野先輩を尊敬しているんです! 文化祭の時に、山の頂上から見える景色を描いた絵を展示していましたよね! あの絵がとっても素晴らしいと思ったんです! 初めてあの絵を見た時、涙が出るくらい感動したんです。だから、その気持ちを伝えたいなって思ってきました!」
マシンガンのように次から次へと称賛の言葉を贈る彼女に、俺はたじろいだ。自分の絵が人の心を動かせたこともそうだが、それ以上に驚いていることがあった。
「良かったじゃねぇーか、律! お前の絵、めっちゃ褒められてるじゃん!」
「あ、ああ……」
俺は自分の目がおかしくなったのかと思い、大地を見つめたが、彼の顔に黄色のモヤが掛かっている事実は変わらなかった。すぐに彼女のほうへと視線を戻す。やはり、やはりだ。
「市川さん、だっけ。き、君は、いったい……」
「あっ! 自己紹介がまだでしたね! 私、今年入学した市川麻友って言います。よろしくお願いします!!」
返事もできず、ただ彼女に見入る。心視症によって見ることができないはずの他人の顔。それなのに、市川麻友と名乗る彼女の顔だけは、はっきりと視認することができた。
絵を褒められたことなどどうでもいいと思える程に、その事実を受け止めきれない自分がいた。
どうして? どうして彼女だけ見えるんだ?
答えの出ない疑問が脳内を駆け巡る。
「春野先輩の絵はとってもすごいです。私もあんな絵が描けたらって思うんですけど、まったく絵心なくて……だから、美術部か写真部かで迷っているんです」
俺が答えられずに黙っていると、俺の戸惑いを察したのか、市川さんは頭を掻きながらごめんなさいと呟いた。
「いきなりこんな話をされても困りますよね……でも、本当にこの気持ちだけは伝えようって思っていたんです! あのっ……あのっ……また文化祭に絵を出すご予定とかはあるんですか? 春野先輩の絵が見たいです!!」
彼女は、本当に自分の『好き』を伝えようとしただけなんだろう。その気持ちを素直に受け止められたなら、どれ程良かっただろう。
「ごめん。もう絵を描くのはやめたから、今年の文化祭はなにも出す気はないんだ。美術部も辞めちゃったしね」
「えっ……」
彼女の真っ直ぐな気持ちに答えられない負い目からか、目を逸らしている自分がいた。俺だって何度も描こうとしたさ、でも描けなかった。どれだけ筆を動かそうとしても、手は震え続けていた。
夏南がこの世を去ってから、俺は俺でなくなってしまったみたいだった。好きだった絵も描けなくなり、他者と面と向かって話すこともしない。無為に日々を過ごす、生きた亡霊みたいだった。
「俺は君の期待には答えられない」
「そうですか……わかりました。急に押しかけてすみませんでした。失礼します」
頭を下げた後に、市川さんは走って行ってしまった。呆然と彼女の背中を見つめていると、大地に肩を叩かれた。
「律、気にすんなよ。お前が絵を描けなくなったことを責める奴なんていねぇよ。あと、ごめんな。俺が無理にあの子と引き合わせたりしなければ、嫌な気持ちにならずに済んだのに」
「いや、いいんだ。大地はなにも悪くない。お前のほうこそ気にすんなよ」
大地との会話を終えた俺は、教室に入って席に着く。午後の授業中、頬杖をつきながら、市川さんのことを考えていた。
血が繋がっている両親でさえ、顔の周りにモヤが掛かってしまうのに、なぜ彼女だけ見えるのだろうか、という疑問がいつまでも渦巻いていた。そこからのことはあまり記憶にないが、授業に集中していなかったせいで、先生に注意されてしまったことだけは、はっきりと覚えている。
気が付けば、あっという間に放課後になっていた。部活に所属していない俺は、授業が終わるとすぐに帰宅するのが常だ。今日は空手部に向かう大地と少し会話をした後に昇降口を出た。
「あ、春野先輩、やっときましたね!」
校門の前に立っている市川さんに出会う。昼間と同様、彼女の顔だけははっきりと捉えられた。
「や、やぁ……また会ったね。俺になにか用かな……?」
「はいっ! 先輩が描いていた風景がどこで見られるのか、どうしても知りたくて教えてもらおうと思いまして」
「俺が去年、描いた絵の?」
「はい。ここから近いんですか? 絵を見る限り、そんなに高い山ではないように見えましたけど」
どうして彼女が俺の絵にそこまで拘るのかわからない。俺以上に素晴らしい絵を描く人はいくらでもいるだろう。市川さんには疑問ばかり浮かんでくる。
こっちは君の顔が見えるだけでも手一杯なのに、これ以上悩ませないでくれ。
「あ、ああ。運動が得意なほうじゃないからね。素人の俺でも登れる山を選んだんだ」
「そうなんですね! 今度、私も登って写真を撮ってみようと思います。どこにあるんですか?」
「高校から北に進んだ所にあるよ。その山を登るだけでも疲れちゃってね、あれより高いと俺には無理そうだ」
「教えてくださりありがとうございます。それから私、お花とか植物が好きなんですけど、近くでオススメの場所を教えてもらえませんか? 案内もお願いしたいんですけど」
いきなりの申し出に困惑する。この子はぐいぐいと距離をつめてくる性格のようだ。市川さんがこちらへ一歩踏み出すたびに、俺は一歩後退する。あまりに積極的な彼女に、恐れを抱いている自分がいた。
「い、いやぁ……悪いけど、今日はこれから予定があるんだ」
家に帰って読書をするくらいしか予定がないのに、嘘をついてしまった。
「そうですよね。いきなりっていうのは難しいですよね。でも、どうしても今日連れていっていただきたいんです。どうかよろしくお願いします」
頭を下げられてしまい、言葉につまる。彼女はどういう気持ちで俺と接しているのだろうか? モヤが見えないことをもどかしいなんて思うのは初めてだ。
「そ、そんなに俺と行きたいの? 理由を聞いてもいいかな?」
「先輩の絵に感動したからっていう理由だけじゃあダメですか?」
「い、いや、俺の絵に感動してくれたのは嬉しい。でも俺と君は今日会ったばかりだし、お互いなにも知らない。それなのに、どうしてそんなに俺に拘るんだい?」
「そうですね。でも、私は春野先輩のことを少しだけ知っています」
一呼吸置いて、市川さんが続きの言葉を絞り出すように、語りはじめた。
「直接会話をしたことはありませんけど、私たちは同じ場所で同じ人の死を悲しみ、別れの言葉を口にしました」
彼女の言葉を聞き、頭の隅に追いやっていた記憶が、呼び覚まされようとしていた。喉になにかがつまって取れない時のようなもどかしい感覚に支配されながら、懸命に思考を巡らせる。
「私たちは夏南ちゃんのお葬式で、同じ時間を共にしているんです」
市川さんの言葉を聞き、当時の光景が鮮明に蘇った。参加者は全員、悲しみを表す青色のモヤを浮かべていたのにもかかわらず、一人だけモヤがない子がいた。
その子の顔が見えることを疑問に思いはしたものの、最愛の人が亡くなった事実に傷心していたのと、唐突に発症した心視症に戸惑っていて、結局話しかけることはしなかった。あの時の子が市川さんだったんだ。
「私の母と夏南ちゃんのお母さんが姉妹で、私たちはよく一緒に遊んでいたんです。夏南ちゃんに会うたびに彼氏の自慢をされていました」
「君と夏南が従姉妹……? それに夏南が俺の話を……?」
「はい。だから、私は少しだけ春野先輩のことを知っているんです。これでは、春野先輩が納得する理由にはならないでしょうか?」
「なるほどね。納得がいったよ」
「本当ですか? じゃあ……!」
「うん。帰り道の途中にいい場所があるんだ。そこでいいなら」
「構いません。ありがたいです!」
了承をしたのは、市川さんの顔だけ見える理由がわかったり、夏南の顔を思い出せたりするかもしれないと思ったからだ。目をキラキラと輝かせて、嬉しそうにする市川さんと並んで歩き出す。
「ここだよ」
家々の合間を縫うように細い道を進んでいく。やがて、道端の花壇に赤色と黄色のチューリップが見えてきた。ここは絵を描きはじめた頃によく訪れていた場所で、必死に手を動かして描いていたのを思い出す。
こんなデートスポットにもならないような場所でも、夏南は本気で喜んでくれた。俺がどんな風景を描きたいのかを知ろうとしてくれて、顎に手を当てながら「ふむふむ、りっくんはこういう地味ぃ~な場所が好きなんだね」と言うのだ。
ああ、ダメだ。過去に囚われるのは良くないと思うのに、どうしても考えてしまう自分がいる。
「わ~」という市川さんの声を聞いて我に返ると、いつの間にかスマホでチューリップを撮影していた。うるさいくらい喋っていた彼女はそこにはおらず、真剣な表情でスマホをかざしていた。
「いいですね、ここ。連れてきてくれてありがとうございます」
「近くに住んでいる人が愛を持って育てたんだろうと思うと感慨深くなるよね。そんなチューリップがここに咲いていたって事実を形にして残したくて、気が付いたら毎日足を運んで絵を描いていたんだ」
「そういう気持ちで絵を描かれているんですね!」
「うん。うまく瞬間を切り取れたらいいなって思って描くようにしているよ」
ふと空を見上げると、青色だった空が紅に染まっていた。思いの外、時間が経過していたみたいだ。
「ごめん。そろそろ帰ろうと思うんだけど、市川さんは撮影を続けるなら、これで失礼するよ」
「嫌です……」
「え?」
「私の家の前まで一緒に帰ってもらえませんか?」
俺は幸せ者だ。この世で一番の勝ち組だ。デートの最中、そんなことを考えていた。
ストレートロングの髪をなびかせ、茶色のコートを着た彼女が、俺の横で微笑んでいたからだ。彼女の笑顔を見るだけで、心が弾んだ。一週間後に控えた期末テストのことなんて頭から吹き飛ぶくらいに、可愛いと思えた。
垂れ目なところも、デートの時だけうっすらと口紅を塗ってきてくれるところも、俺がプレゼントしたマフラーを巻いてきてくれるところも、全部好きだ。
雪が降るくらい冷えた世界など、繋いだ手から感じる温もりの前では無力だ。火に薪がくべられ続けているかのように体が熱く、心臓は通常よりも速く鼓動し、俺から冷静さを失わせようとする。寒いのに、手袋をしないで手を繋いでくれる彼女が、天使のように見えた。
「どうしたの? やけに顔が紅いけど、もしかして緊張しているのかな?」
冷静でいようと努めるけれど、女性とお付き合いをした経験がない俺がかっこいいモードを継続できるはずもなく、すぐにボロが出た。そんな俺とは対照的に、彼女はいつも動じず、落ち着き払っている。年上の余裕だろうか? 一つしか歳が違わないのにどうしてこんなに違うのだろうと、不思議で仕方がなかった。
たどたどしく話す俺と、そんな俺を見て口を大きく開けて笑う彼女。笑顔と共に零れた白い息が、空気に溶けて消えていく。
「りっくんがくれたマフラーは暖かくて気持ちがいいねぇ~。これさえあればどんなに寒くても大丈夫だね」
俺と繋いでいないほうの手を首に巻かれたマフラーに添えて、愛おしそうに目を細めている。
「今日はありがとね。私の洋服選び手伝ってくれて助かったよ。それに、りっくんがあんなお洒落な喫茶店を知ってるなんて思わなくてびっくり。頑張って調べてくれたんだよね?」
そう、そうなのだ。テスト勉強よりも集中して、デートプランを練ったんだ。女の子が好きそうなものをチェックした甲斐があったというものだ。そんな俺の努力を見抜いて感謝の気持ちを示してくれる彼女なんて、最高じゃないか。ジャンプして、「やったー!」と吠えてしまいそうになるのを抑えて、鼻を人差し指で擦りながらなんでもないことのように装う。
「ふふ、そうだよね。りっくんならこれくらい朝飯前だよね。さすが私の彼氏さんだ。頼りになるなぁ……じゃあ次のデートもりっくんにお願いしちゃおうかなぁ~」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、こちらを試すように見つめてくる彼女を見て、次のデートも楽しいと思ってもらえるように頑張ろうと、決意を固める。
「あっ! でもちゃんと部活とテスト勉強を優先しないとダメだよ? 私のために頑張ってくれるのは嬉しいけど、それでほかを犠牲にしたりしたら怒るんだからね!」
人差し指を立て、母親のようなことを言う彼女に苦笑いを返す。せっかく妄想に浸っていたのに、最後の最後で現実に引き戻されてしまった。
「マフラーのお返しに、今度は私が誕生日プレゼントをあげないとね。りっくんが欲しがるものってなんだろうな~」
彼女は先程立てていた人差し指を唇へと持っていき、空を見上げながらわざとらしく悩む素振りを見せる。ちょっとあざとい気がしないでもないけれど、可愛いから気にならない。そんなポーズをされたらさらに顔が紅くなってしまう。心臓に良くない。
「ちゃんと勉強を頑張ったら、りっくんが欲しいって思ってるもの、プレゼントしてあげるね!」
俺は完全に、彼女の手の平の上で転がされているけれど、嫌な気はしない。むしろ、定期的にかっこいいところを見せないとなって思える。
「もう私の家の前まできちゃった。送ってくれてありがとう。楽しい時間はあっという間に終わっちゃうね。そうそう、なにが欲しいか考えておいてね。ちょっと早いかもしれないけど」
眉をハの字にして残念そうにしていたかと思えば、向日葵のような満面の笑みを浮かべて手を振ってくれたり、こちらをからかうような目を向けてきたりと、彼女の表情は短い間にコロコロと変わる。俺はその一瞬一瞬を逃さないように目に焼きつける。心のシャッターを切るのだ。
彼女と別れて我が家へ向かって走り出す。今日の出来事を頭の中で反芻しながら喜びに浸る。あはははと高笑いしながら走る姿は、はたから見たら完全にやばい人に映っていただろう。だけど、そんなことは関係ない。天使のような彼女と二人きりの時間を送れる自分は、神に選ばれし者なのだから。
自宅に着くと、階段を駆け上がり、自室の扉を勢いよく開ける。そして、キャンバスを覆う白い布を勢いよく引っ張った。俺は決めたんだ。このキャンバスに愛しの彼女をこれ以上ないくらい可愛らしく描くと。そして、美術部の一員として誰に見せても恥ずかしくない絵に仕上げるのだ。
――そう思っていた時期が俺にもあった。
何事にも全力で取り組めて、この世のなにもかもが輝いて見えて、なんの根拠もなく希望に満ち溢れる未来を想像できた時が、俺にもあった。
いつもと同じ場所に、いつもと同じように待ち合わせより三十分早く着いて、彼女がくるのを待っていた。あの日、太陽を遮る鈍重な雲と腕時計を交互に見つめ、何度も確認していたのを覚えている。その間隔は、待ち合わせの時間が近付くにつれて短くなった。
やがて約束の時間が過ぎても、彼女は現れなかった。携帯に電話をかけても出る様子はない。彼女の自宅に電話をかければ、彼女の母親が出て、もう家をとっくの前に出ているという言葉を聞く。嫌な予感が胸を支配する。
俺はいてもたってもいられなくなって走り出した。街中を駆け回って、彼女を捜した。そして、見つけてしまう。打ちつける雨の中、アスファルトの上に散らばる絵の具と、大量の血を流して、うつ伏せで倒れる彼女の姿を。
六月二十六日、相場夏南が何者かに背後からナイフで刺され、命を落とした。その日は俺、春野律が十七歳を迎えた誕生日だった。
第一章 色に悩む俺たちの非日常
「天気予報のお時間です!」
高さと幅共に十五センチメートル程のラジオから、女性キャスターの明るい声が自室に響く。俺はパジャマをベッドの上に脱ぎ捨てて、ハンガーに掛けられたワイシャツを手に取る。一日中、晴れが続くという情報を仕入れつつ、ズボンを穿き、ネクタイを結ぶ。
朝食を食べ終えた後、パジャマから制服に着替えるまでの合間に、ラジオを聞くのが習慣になっていた。
勉強机の隣に置かれている鏡を見つめながら、ブレザーを着る。髪に寝癖がないか、ボタンを掛け間違えていないかなどをチェックして、一人頷く。ふと、部屋の隅に置かれたキャンバスが視界に入った。
桜吹雪の舞う公園を描いたキャンバスが、イーゼルの上に置かれている。絵の中央には、白いワンピースを着たストレートロングの女性が描かれていた。しかし、女性の顔だけが描かれていなかった。目や鼻、口など顔のパーツはなに一つなく、真っ白なまま。
不意に、全身を鮮血で染めた夏南の姿が脳裏を過る。うつ伏せで倒れる夏南を、俺が見つけた時の映像だ。雨では流すことのできない大量の血、遠くで聞こえる救急車のサイレン、泣き叫ぶ俺の声。
嫌な記憶はいつまでも頭に残り続けるのに、俺は夏南の笑った顔を思い出すことができずにいた。
「律~そろそろ時間よ~」
「わかってる。すぐ行くよ」
母親の呼び声に応えて、机の横に掛けられていた鞄を肩に掛ける。ドアノブを捻る直前、もう一度キャンバスを見つめる。
「行ってくるよ、夏南」
夏南の顔を描けなくなってしまったのは、彼女の表情を思い出せないことだけが理由じゃない。もう一つ深刻な問題を抱えていた。
「気をつけるのよ」
リビングの入り口に立っていた母親に声を掛けられ、頷く。
玄関へと進む歩を緩めることなくちらりと横目で母親を見れば、茶色のモヤを顔の周りに浮かべていた。
心視症。
そう呼ぶのが正しいのかはわからない。ただ、俺は夏南が亡くなってから、他人の表情を見ることができなくなった。正確には、他人が抱えている感情が顔の前に色となって現れるようになった。
例えば、前向きな気持ちの人には黄色のモヤが現れるし、悲しんでいる気持ちの人には青色のモヤが現れる。母親は、茶色なので落ち着いているのだろう。
俺は顔のモヤを見るだけで、色と感情の結びつきを直感で判断できるようになった。あくまでも感情の種類が色からわかるだけなので、なにに対して怒っているのか、どうして悲しんでいるのか、具体的な心境までは汲み取れない。
「行ってきます」
玄関の扉を開く。暖かい日射しに包まれた外へと一歩を踏み出す。
あと二ヶ月もすれば、夏南が亡くなってから一年が経つ。春になり、俺は高校三年生に進級した。心は過去に囚われたままなのに、将来について考えなければいけない時期がやってきてしまった。
思い出せないのは、笑顔だけじゃない。怒った顔も、困った顔も、泣いた顔も、なにもかもが俺の記憶から消えてしまった。夏南をなんとか思い出したくて、彼女と一緒に撮った写真を漁ってみても、心視症のせいで顔にモヤが掛かってしまう。
唯一、心視症に対して良かったと思えることがある。それは、夏南の表情には愛情を示すピンク色のモヤが掛かっており、俺を大切に想ってくれていたのがわかったことだ。
夏南と水族館デートをした時に買ったペンギンのキーホルダーが、鞄のファスナーにつけてある。それが揺れる様を見つめながら、学校を目指す。
キーホルダーを見つめるのは、他人の顔をあまり見ないようにするためだ。心視症を発症してから、人と面と向かって話すのが怖くなってしまった。言葉や態度ではなんでもないように振る舞っていても、内心では怒っており、顔の周りに赤いモヤを発生させているような人を何度も見てきたからだ。
言葉と感情が異なっていることは、誰にだってあることだ。しかし、この病気にかかったことでそういったケースがあまりにも多いことを知り、他者を信じることができなくなってしまった。
学校に到着した俺は、上履きに履きかえると、誰とも挨拶を交わすことなく、階段を上がっていく。
教室に着いて自分の席に座ると、鞄から取り出したイヤホンを装着し、音楽を聴いているアピールをして、誰からも話しかけられないようにする。
夏南の表情を思い出せないこと、他人を信じられなくなったこと、他者の顔の周りにモヤが現れたこと。これらはすべて俺への罰だ。最愛の人を守れなかった罰を、科せられている。
午前の授業が終わり、昼食の時間がやってきた。生徒の多くは食堂へ向かうが、俺は違う。今時珍しく屋上が開放されている学校なので、そこで昼食をとることを日課にしていた。生徒がくることは少ないので、俺にとってはありがたい場所だった。
「お、いたいた」
だが、今日はそうではなかったようだ。コンビニで買ったパンを口に運んでいると、野太い声を発する肩幅の広い男がやってきた。袖を肘の上までまくり、鍛え上げた腕を晒している。
「春とはいえ、やっぱまだ寒いな。毎日こんな所で食事してて寒くないのか?」
中学生の時からの知り合いで、同じクラスメイトの伊勢谷大地が話しかけてきた。彼は俺の親友なのもあって、心視症で顔が見えなくても問題なく会話ができる数少ない相手だ。夏南の死後、付き合いが悪くなってしまった俺に、彼は以前と変わらない態度で接してくれている。
「寒いけど、誰かと話すよりかはマシだから」
「ったく、コミュニケーションは大事だぞぉ。一人で解決できないことでも、皆でなら解決の糸口が掴めたりするもんだぜ? お、今のセリフかっこよくね?」
「そんな変なことを言うためにわざわざ屋上にきたわけじゃないでしょ? なにか用があってきたんじゃないの?」
大地は常にポジティブだ。前向きな気持ちを表す黄色いモヤが顔の周りに掛かっている。彼のように生きられたらどれだけ楽だろうかと思う。
「ああ、なんかお前に用があるっていう一年生の女子が教室にきたんだよ。それで呼びにきたの。結構可愛い子だったけど、知り合いか?」
「いやぁ……一年生と接点なんてないよ」
「とりあえず、お前を連れてくるって約束しちゃったからきてもらおうか!」
「約束しちゃったの!? また違う時間にきてもらうとかじゃあダメだったの!?」
俺は仕方なく立ち上がる。先程までパンが入っていた袋を丸めて、ポケットにしまう。まったく話したことがない相手と関わるのは、非常に億劫だ。
「なに言ってんだよ。むしろ、俺はお前に新しい春を呼ぶために手助けしてやったんだぜ? 感謝してくれよな」
「誰もそんなの望んでないんだよなぁ……」
他人の顔が見えないので、紹介してもらわないと俺に用がある子が誰なのかわからない。呼びにきたのが大地だったことに心の内で感謝をしながら、移動を開始する。とっとと済ませてしまおう。
「お前に会いたいって子はあの子だ」
俺たちの教室を視認できる距離まで近付いた時、大地が指を差して教えてくれた。彼の示す方向を見ると、ボブヘアの女子が立っていた。紺色のブレザーを着て青色のリボンを胸元につけているところまではほかの生徒と一緒だが、彼女はスカートの下に黒色のタイツを穿いていた。身長は百六十センチくらいだろうか。
「おーい。市川ちゃんだっけ? 春野を連れてきたぞ~」
「あっ! 伊勢谷先輩! ありがとうございます!」
鈴を転がすような、澄んで美しい声が俺の耳に届く。こちらを向いて頭を下げる様子から、真面目そうな印象を受けた。
「あ、あのっ! 貴方が春野律先輩ですか?」
「う、うん。そうだけど……?」
彼女は胸の前で両手を組んで、真っ直ぐな瞳で俺を見上げてきた。
長い睫毛、くりっとした瞳、饅頭みたいにふっくらとした頬。整った顔立ちで、スタイルもいい。少しだけ可愛いと思った。
「私、ずっと前から春野先輩を尊敬しているんです! 文化祭の時に、山の頂上から見える景色を描いた絵を展示していましたよね! あの絵がとっても素晴らしいと思ったんです! 初めてあの絵を見た時、涙が出るくらい感動したんです。だから、その気持ちを伝えたいなって思ってきました!」
マシンガンのように次から次へと称賛の言葉を贈る彼女に、俺はたじろいだ。自分の絵が人の心を動かせたこともそうだが、それ以上に驚いていることがあった。
「良かったじゃねぇーか、律! お前の絵、めっちゃ褒められてるじゃん!」
「あ、ああ……」
俺は自分の目がおかしくなったのかと思い、大地を見つめたが、彼の顔に黄色のモヤが掛かっている事実は変わらなかった。すぐに彼女のほうへと視線を戻す。やはり、やはりだ。
「市川さん、だっけ。き、君は、いったい……」
「あっ! 自己紹介がまだでしたね! 私、今年入学した市川麻友って言います。よろしくお願いします!!」
返事もできず、ただ彼女に見入る。心視症によって見ることができないはずの他人の顔。それなのに、市川麻友と名乗る彼女の顔だけは、はっきりと視認することができた。
絵を褒められたことなどどうでもいいと思える程に、その事実を受け止めきれない自分がいた。
どうして? どうして彼女だけ見えるんだ?
答えの出ない疑問が脳内を駆け巡る。
「春野先輩の絵はとってもすごいです。私もあんな絵が描けたらって思うんですけど、まったく絵心なくて……だから、美術部か写真部かで迷っているんです」
俺が答えられずに黙っていると、俺の戸惑いを察したのか、市川さんは頭を掻きながらごめんなさいと呟いた。
「いきなりこんな話をされても困りますよね……でも、本当にこの気持ちだけは伝えようって思っていたんです! あのっ……あのっ……また文化祭に絵を出すご予定とかはあるんですか? 春野先輩の絵が見たいです!!」
彼女は、本当に自分の『好き』を伝えようとしただけなんだろう。その気持ちを素直に受け止められたなら、どれ程良かっただろう。
「ごめん。もう絵を描くのはやめたから、今年の文化祭はなにも出す気はないんだ。美術部も辞めちゃったしね」
「えっ……」
彼女の真っ直ぐな気持ちに答えられない負い目からか、目を逸らしている自分がいた。俺だって何度も描こうとしたさ、でも描けなかった。どれだけ筆を動かそうとしても、手は震え続けていた。
夏南がこの世を去ってから、俺は俺でなくなってしまったみたいだった。好きだった絵も描けなくなり、他者と面と向かって話すこともしない。無為に日々を過ごす、生きた亡霊みたいだった。
「俺は君の期待には答えられない」
「そうですか……わかりました。急に押しかけてすみませんでした。失礼します」
頭を下げた後に、市川さんは走って行ってしまった。呆然と彼女の背中を見つめていると、大地に肩を叩かれた。
「律、気にすんなよ。お前が絵を描けなくなったことを責める奴なんていねぇよ。あと、ごめんな。俺が無理にあの子と引き合わせたりしなければ、嫌な気持ちにならずに済んだのに」
「いや、いいんだ。大地はなにも悪くない。お前のほうこそ気にすんなよ」
大地との会話を終えた俺は、教室に入って席に着く。午後の授業中、頬杖をつきながら、市川さんのことを考えていた。
血が繋がっている両親でさえ、顔の周りにモヤが掛かってしまうのに、なぜ彼女だけ見えるのだろうか、という疑問がいつまでも渦巻いていた。そこからのことはあまり記憶にないが、授業に集中していなかったせいで、先生に注意されてしまったことだけは、はっきりと覚えている。
気が付けば、あっという間に放課後になっていた。部活に所属していない俺は、授業が終わるとすぐに帰宅するのが常だ。今日は空手部に向かう大地と少し会話をした後に昇降口を出た。
「あ、春野先輩、やっときましたね!」
校門の前に立っている市川さんに出会う。昼間と同様、彼女の顔だけははっきりと捉えられた。
「や、やぁ……また会ったね。俺になにか用かな……?」
「はいっ! 先輩が描いていた風景がどこで見られるのか、どうしても知りたくて教えてもらおうと思いまして」
「俺が去年、描いた絵の?」
「はい。ここから近いんですか? 絵を見る限り、そんなに高い山ではないように見えましたけど」
どうして彼女が俺の絵にそこまで拘るのかわからない。俺以上に素晴らしい絵を描く人はいくらでもいるだろう。市川さんには疑問ばかり浮かんでくる。
こっちは君の顔が見えるだけでも手一杯なのに、これ以上悩ませないでくれ。
「あ、ああ。運動が得意なほうじゃないからね。素人の俺でも登れる山を選んだんだ」
「そうなんですね! 今度、私も登って写真を撮ってみようと思います。どこにあるんですか?」
「高校から北に進んだ所にあるよ。その山を登るだけでも疲れちゃってね、あれより高いと俺には無理そうだ」
「教えてくださりありがとうございます。それから私、お花とか植物が好きなんですけど、近くでオススメの場所を教えてもらえませんか? 案内もお願いしたいんですけど」
いきなりの申し出に困惑する。この子はぐいぐいと距離をつめてくる性格のようだ。市川さんがこちらへ一歩踏み出すたびに、俺は一歩後退する。あまりに積極的な彼女に、恐れを抱いている自分がいた。
「い、いやぁ……悪いけど、今日はこれから予定があるんだ」
家に帰って読書をするくらいしか予定がないのに、嘘をついてしまった。
「そうですよね。いきなりっていうのは難しいですよね。でも、どうしても今日連れていっていただきたいんです。どうかよろしくお願いします」
頭を下げられてしまい、言葉につまる。彼女はどういう気持ちで俺と接しているのだろうか? モヤが見えないことをもどかしいなんて思うのは初めてだ。
「そ、そんなに俺と行きたいの? 理由を聞いてもいいかな?」
「先輩の絵に感動したからっていう理由だけじゃあダメですか?」
「い、いや、俺の絵に感動してくれたのは嬉しい。でも俺と君は今日会ったばかりだし、お互いなにも知らない。それなのに、どうしてそんなに俺に拘るんだい?」
「そうですね。でも、私は春野先輩のことを少しだけ知っています」
一呼吸置いて、市川さんが続きの言葉を絞り出すように、語りはじめた。
「直接会話をしたことはありませんけど、私たちは同じ場所で同じ人の死を悲しみ、別れの言葉を口にしました」
彼女の言葉を聞き、頭の隅に追いやっていた記憶が、呼び覚まされようとしていた。喉になにかがつまって取れない時のようなもどかしい感覚に支配されながら、懸命に思考を巡らせる。
「私たちは夏南ちゃんのお葬式で、同じ時間を共にしているんです」
市川さんの言葉を聞き、当時の光景が鮮明に蘇った。参加者は全員、悲しみを表す青色のモヤを浮かべていたのにもかかわらず、一人だけモヤがない子がいた。
その子の顔が見えることを疑問に思いはしたものの、最愛の人が亡くなった事実に傷心していたのと、唐突に発症した心視症に戸惑っていて、結局話しかけることはしなかった。あの時の子が市川さんだったんだ。
「私の母と夏南ちゃんのお母さんが姉妹で、私たちはよく一緒に遊んでいたんです。夏南ちゃんに会うたびに彼氏の自慢をされていました」
「君と夏南が従姉妹……? それに夏南が俺の話を……?」
「はい。だから、私は少しだけ春野先輩のことを知っているんです。これでは、春野先輩が納得する理由にはならないでしょうか?」
「なるほどね。納得がいったよ」
「本当ですか? じゃあ……!」
「うん。帰り道の途中にいい場所があるんだ。そこでいいなら」
「構いません。ありがたいです!」
了承をしたのは、市川さんの顔だけ見える理由がわかったり、夏南の顔を思い出せたりするかもしれないと思ったからだ。目をキラキラと輝かせて、嬉しそうにする市川さんと並んで歩き出す。
「ここだよ」
家々の合間を縫うように細い道を進んでいく。やがて、道端の花壇に赤色と黄色のチューリップが見えてきた。ここは絵を描きはじめた頃によく訪れていた場所で、必死に手を動かして描いていたのを思い出す。
こんなデートスポットにもならないような場所でも、夏南は本気で喜んでくれた。俺がどんな風景を描きたいのかを知ろうとしてくれて、顎に手を当てながら「ふむふむ、りっくんはこういう地味ぃ~な場所が好きなんだね」と言うのだ。
ああ、ダメだ。過去に囚われるのは良くないと思うのに、どうしても考えてしまう自分がいる。
「わ~」という市川さんの声を聞いて我に返ると、いつの間にかスマホでチューリップを撮影していた。うるさいくらい喋っていた彼女はそこにはおらず、真剣な表情でスマホをかざしていた。
「いいですね、ここ。連れてきてくれてありがとうございます」
「近くに住んでいる人が愛を持って育てたんだろうと思うと感慨深くなるよね。そんなチューリップがここに咲いていたって事実を形にして残したくて、気が付いたら毎日足を運んで絵を描いていたんだ」
「そういう気持ちで絵を描かれているんですね!」
「うん。うまく瞬間を切り取れたらいいなって思って描くようにしているよ」
ふと空を見上げると、青色だった空が紅に染まっていた。思いの外、時間が経過していたみたいだ。
「ごめん。そろそろ帰ろうと思うんだけど、市川さんは撮影を続けるなら、これで失礼するよ」
「嫌です……」
「え?」
「私の家の前まで一緒に帰ってもらえませんか?」
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