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3部 王のピアノと風見鶏
第56話 エマの両親
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「お母さん!お母さぁん!」
開いた扉から悲痛な声をあげてエマが走ってくる。ジルの横を走り抜けていくエマの顔が、マリーにそっくりだった。風見鶏に叫んでいたあのマリーの顔に。
夫人にピタッと張り付いたエマは、ブルブル震えた後、意を決したかのようにジルに言い放つ。
「お母さんを、お母さんをいじめないで! お母さんをいじめないでぇ!」
自分に向けられるはずのその敵意をジルが浴びていることに耐えかね、俺は立ち上がった。椅子と床の無機質なその物音に、エマの顔が恐怖でひきつる。胸が痛くてその瞳を直視できなかった。
エマの風見鶏の向く先は、俺ではなかった。
俺を見るエマの瞳がどんどんと潤んでいく。それが耐えられなくて顔を背けた先に、ピアノがあった。俺は無言でそこへ歩き出す。ジルも、夫婦も、そしてエマも。誰も俺のことなど見ていないのだろう。だから俺は、なんの躊躇いもなく、ピアノを弾くことができた。
マリーがよく弾いていた曲を奏でる。明るく美しい曲。背中から、エマが喜ぶ気配がした。最後のフレーズを駆け上がる時にはその息遣いまで感じるほどだった。最後の音を置いた時、エマの歓喜の声が響き渡る。
「お姉ちゃんの弾いてた曲だ!」
その言葉に驚き、振り返ってしまう。そこにはエマの喜ぶ顔と、戸惑う夫婦の顔があった。そこで俺は、いいようのない悲しみに落ちた。
マリーは領主にこどもの親権で誘拐を強要されていたと聞く。マリー自身、自分の命運がどこかで尽きてしまうことをわかっていたのかもしれない。それに領主がエマを奪いに来た時の策を講じていたのかもしれない。我が子を案じ、いつか自分の命が尽きた時も悲しませないよう、自分が姉だと偽っていたのだろう。
マリーが俺を盾に、バーンスタイン卿と対峙した時。彼女の手が震えていたことを思い出す。いいようのない悲しみが胸を抉る。
俺はもう一度ピアノに向き合う。もう一曲、マリーとエマに演奏してあげられるのならば。
その曲は決まっていた。俺が解釈に苦しみ、思う通りに弾かなかったあの曲。ラルフ=ハーマンの「望郷」を弾きはじめた。
ジルの足音は独特で、俺の後ろで静かに立ち上がったのがわかった。そして、なぜその曲を弾くのか、という疑問を彼が抱いているのもわかった。なぜ自分の曲を弾かないのか、と。
しかし自分の望郷をエマに聴かせる必要などなかった。エマにずっと幸福でいてもらいたい、そのマリーの願いに報いるには、この曲以外思い至らなかった。
俺やマリーの苦しく、焼き切れるほどの羨望など、エマが知る必要などないのだ。これから先もずっと、永遠に。
ラルフの「望郷」は狂おしいほどのリフレインで、余韻を残して終わる。ラルフとリナが窓辺で会話していたあの風景のように、これから幸福はずっと続いていくのだ。
「お兄ちゃん、ピアノお上手!」
エマは小さな手で辿々しく拍手を贈ってくれた。コンクールで得た拍手よりも、ずっと胸に響くものがあった。
俺は鍵盤の蓋を閉めてそこに取り出した紙を置く。そして書き記した。
マリーの願いを叶えてくれてありがとう。エマに幸多からんことを。
立ち上がり、夫婦に渡す。そして立っていたジルの手を引き、部屋を後にした。
ジルは俺を止めなかった。だからこのままはやく小隊に合流しようと家を出た矢先、夫人が俺たちを呼び止めた。
「リアム様! リアム様! マリーにも会ってやってください!」
開いた扉から悲痛な声をあげてエマが走ってくる。ジルの横を走り抜けていくエマの顔が、マリーにそっくりだった。風見鶏に叫んでいたあのマリーの顔に。
夫人にピタッと張り付いたエマは、ブルブル震えた後、意を決したかのようにジルに言い放つ。
「お母さんを、お母さんをいじめないで! お母さんをいじめないでぇ!」
自分に向けられるはずのその敵意をジルが浴びていることに耐えかね、俺は立ち上がった。椅子と床の無機質なその物音に、エマの顔が恐怖でひきつる。胸が痛くてその瞳を直視できなかった。
エマの風見鶏の向く先は、俺ではなかった。
俺を見るエマの瞳がどんどんと潤んでいく。それが耐えられなくて顔を背けた先に、ピアノがあった。俺は無言でそこへ歩き出す。ジルも、夫婦も、そしてエマも。誰も俺のことなど見ていないのだろう。だから俺は、なんの躊躇いもなく、ピアノを弾くことができた。
マリーがよく弾いていた曲を奏でる。明るく美しい曲。背中から、エマが喜ぶ気配がした。最後のフレーズを駆け上がる時にはその息遣いまで感じるほどだった。最後の音を置いた時、エマの歓喜の声が響き渡る。
「お姉ちゃんの弾いてた曲だ!」
その言葉に驚き、振り返ってしまう。そこにはエマの喜ぶ顔と、戸惑う夫婦の顔があった。そこで俺は、いいようのない悲しみに落ちた。
マリーは領主にこどもの親権で誘拐を強要されていたと聞く。マリー自身、自分の命運がどこかで尽きてしまうことをわかっていたのかもしれない。それに領主がエマを奪いに来た時の策を講じていたのかもしれない。我が子を案じ、いつか自分の命が尽きた時も悲しませないよう、自分が姉だと偽っていたのだろう。
マリーが俺を盾に、バーンスタイン卿と対峙した時。彼女の手が震えていたことを思い出す。いいようのない悲しみが胸を抉る。
俺はもう一度ピアノに向き合う。もう一曲、マリーとエマに演奏してあげられるのならば。
その曲は決まっていた。俺が解釈に苦しみ、思う通りに弾かなかったあの曲。ラルフ=ハーマンの「望郷」を弾きはじめた。
ジルの足音は独特で、俺の後ろで静かに立ち上がったのがわかった。そして、なぜその曲を弾くのか、という疑問を彼が抱いているのもわかった。なぜ自分の曲を弾かないのか、と。
しかし自分の望郷をエマに聴かせる必要などなかった。エマにずっと幸福でいてもらいたい、そのマリーの願いに報いるには、この曲以外思い至らなかった。
俺やマリーの苦しく、焼き切れるほどの羨望など、エマが知る必要などないのだ。これから先もずっと、永遠に。
ラルフの「望郷」は狂おしいほどのリフレインで、余韻を残して終わる。ラルフとリナが窓辺で会話していたあの風景のように、これから幸福はずっと続いていくのだ。
「お兄ちゃん、ピアノお上手!」
エマは小さな手で辿々しく拍手を贈ってくれた。コンクールで得た拍手よりも、ずっと胸に響くものがあった。
俺は鍵盤の蓋を閉めてそこに取り出した紙を置く。そして書き記した。
マリーの願いを叶えてくれてありがとう。エマに幸多からんことを。
立ち上がり、夫婦に渡す。そして立っていたジルの手を引き、部屋を後にした。
ジルは俺を止めなかった。だからこのままはやく小隊に合流しようと家を出た矢先、夫人が俺たちを呼び止めた。
「リアム様! リアム様! マリーにも会ってやってください!」
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