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1部 ヤギと奇跡の器
第57話 あれから
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「ノア……夕方には一度戻ってくるから……」
「アシュレイ、もういい加減、僕にも気を使ってよ! 昼間からなんでそんなにくっついてるの? ノアが困ってるでしょ?」
宮殿から帰ってきたルイスが、ダイニングで僕を抱えるアシュレイを見るなり大きな声で騒ぎ出した。僕はアシュレイにこうされる時に、どうしたらいいか分からずに困ってしまう。
「報告はちゃんとできたか?」
「うん……アシュレイの報告書だし……」
「なにを言ってるんだ。お前がちゃんとまとめただろう」
ルイスはアシュレイになにか言いたげにこちらをチラッと見るが、俯いてしまった。しばらく動かなくなったと思ったら息を吸って顔をあげた。
「でもすごいね、あの宮殿。庸人が入ったのはお前が初めてだって、衛兵の人がね、すごく嬉しそうに話してくれたんだ。弟さんが庸人なんだって!」
「そうか、庸人の希望の星だな」
アシュレイは柔らかく笑ってルイスを眺める。
アシュレイはあの日、武官に戻った。ただ、メルヒャー卿という前任者の悪行から、このまま知らない文官に任せるわけにはいかないと、後任者にルイスを推薦した。この推薦が通らなければこのままアシュレイが塔の管理を続け、推薦が通ればしばらくの間、士官と兼任で塔の引き継ぎを行うと条件をつけた。
処罰のはずが要求を突きつけるこの決断を、ルイスの兄様たちは今までのアシュレイからは考えられないと、大いにびっくりしていた。でもそれを話す兄様たちの顔はすごく誇らしげだった。
「ノア、昼食は食べたの?」
ルイスが僕の顔を覗き込み、そしてアシュレイの顔と交互に見た。
「はい……アシュレイに食べさせてもらいました……」
「また詰め込まれてない?」
あれから1週間が過ぎようとしているが、僕はご飯を食べることも、歩くことも、そして責務を果たすことも、自分では行っていない。全てアシュレイがやってくれているのだ。夜になればアシュレイは帰ってしまうが、日中はこうやってアシュレイに抱えられたまま生活していた。
こんな状況に甘んじている自分自身に少し情けなさを感じていて、ルイスの言葉に答えられなかった。
「じゃあ、これ。お友達の分」
ルイスが差し出してくれた布に包まれたパンをお礼を言いながら受け取る。
「ノアのお友達に会ったことがないな」
「アシュレイがノアにビッタリ張り付いてるからでしょ! ノアのお友達はノアにだけ会いにきてるんだから! いい加減ノアを解放してあげなよ! かわいそうに」
ルイスが言うようにあれから悪魔は顔を見せなくなってしまった。アシュレイがいるから声を掛けづらいのかもしれないと内心思っていた。
「そうか、でも引き継ぎの間だけだ、こんなに一緒にいられるのは。許してくれ」
僕を担いで立ち上がり、僕だけを椅子に下ろした。アシュレイの大きな手で僕の頭がすっぽり包まれる。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、お気をつけて」
アシュレイはチラッとルイスを見た後、僕にキスをしてくれる。なにかを言おうと両手を前で握ったルイスを押しのけてアシュレイはそのまま塔を後にした。
しばらくルイスから宮殿の話を聞いたら、僕は階上に上がった。僕は王都研究を再開して、アシュレイもそれを手伝ってくれている。アシュレイは僕に様々なことを教えてくれた。今日も午前教わったことを書き写しておきたかった。
「パンをくれ」
部屋に入るなり窓の外から声がする。
「悪魔さん……!」
僕は窓に駆け出した。
「今日はいつになく熱烈歓迎だな」
「あれから、悪魔さんに話したかったことがいっぱいあったのに、なかなか来てくれなかったので……」
僕はそっとパンを差し出した。
「お前と違って人が愛し合ってる様を覗く趣味はないんでね」
「そ……そんなことしていません……!」
「1日1回ではないだろう。すごい魔力量だな。アシュレイは絶倫か?」
「違うんです、怪我をしていると勘違いしていて……僕に薬を塗るついでに……ついでに……その……」
「なんだ、あれから交わっていないのか。まあ、あんだけ大怪我させたら怖くてできないか。それにしてもアシュレイは度胸がないな。夜お前から誘ったらいい」
「アシュレイは、夜は帰宅してしまいます」
「ああ、そうか。じゃあ、次に来たら泊まっていって欲しいと懇願してみろ。ちょっとくらい怪我をしたってお前は自分で治癒できるだろう?」
「夜は父上の看病があるんです。そんなことお願いできません」
悪魔は僕から取り上げたパンをもしゃもしゃ食べる。そして、僕を不思議そうな顔で眺めた。
「アシュレイの父は大丈夫だと言っているだろう。まあ、そうだな。機会があればそう頼んでみるがよい。それより、浮く練習をしているのか?」
「はい、夜にこっそり練習しています」
「ヤギは勤勉だな。お前にも見えているだろうが、あの境を決して越えてはならないぞ」
悪魔は僕が前に見た、超えてはならない境のことを言っているのだろうと思った。僕は大きく頷く。僕も超えたら恐ろしいことになると思っていた。そしてなぜ悪魔はこんなことを僕に教えてくれるのだろう。そうずっと思っていた。
「悪魔さん、お名前をそろそろ教えていただけませんか?」
「名前? 長らく誰からも呼ばれていないから忘れてしまった」
「そうですか……」
誰からも呼ばれていないのであれば、なおのこと呼んであげたかったが、忘れてしまったのでは仕方がない。悪魔は僕の顔をじっと見つめたら、ゆっくり口を開いた。
「お前は優しいな。アシュレイの名を声が枯れるまで呼んでやるがよい」
悪魔が僕の頬に触れる。それで悪魔はもう行ってしまうのだと悟った。目を閉じ、悪魔の手の温度を感じたその時、不思議な感覚に陥る。
突然、深い湖に落ちたような衝撃が走り、そのまま深いところまでどんどん沈んでいく。息継ぎの心配をしていたら、悪魔が耳元で囁いた。
「大丈夫だ」
水面から顔を出すように目を見開く。そこにはいつもの風景が広がっていた。
「アシュレイ、もういい加減、僕にも気を使ってよ! 昼間からなんでそんなにくっついてるの? ノアが困ってるでしょ?」
宮殿から帰ってきたルイスが、ダイニングで僕を抱えるアシュレイを見るなり大きな声で騒ぎ出した。僕はアシュレイにこうされる時に、どうしたらいいか分からずに困ってしまう。
「報告はちゃんとできたか?」
「うん……アシュレイの報告書だし……」
「なにを言ってるんだ。お前がちゃんとまとめただろう」
ルイスはアシュレイになにか言いたげにこちらをチラッと見るが、俯いてしまった。しばらく動かなくなったと思ったら息を吸って顔をあげた。
「でもすごいね、あの宮殿。庸人が入ったのはお前が初めてだって、衛兵の人がね、すごく嬉しそうに話してくれたんだ。弟さんが庸人なんだって!」
「そうか、庸人の希望の星だな」
アシュレイは柔らかく笑ってルイスを眺める。
アシュレイはあの日、武官に戻った。ただ、メルヒャー卿という前任者の悪行から、このまま知らない文官に任せるわけにはいかないと、後任者にルイスを推薦した。この推薦が通らなければこのままアシュレイが塔の管理を続け、推薦が通ればしばらくの間、士官と兼任で塔の引き継ぎを行うと条件をつけた。
処罰のはずが要求を突きつけるこの決断を、ルイスの兄様たちは今までのアシュレイからは考えられないと、大いにびっくりしていた。でもそれを話す兄様たちの顔はすごく誇らしげだった。
「ノア、昼食は食べたの?」
ルイスが僕の顔を覗き込み、そしてアシュレイの顔と交互に見た。
「はい……アシュレイに食べさせてもらいました……」
「また詰め込まれてない?」
あれから1週間が過ぎようとしているが、僕はご飯を食べることも、歩くことも、そして責務を果たすことも、自分では行っていない。全てアシュレイがやってくれているのだ。夜になればアシュレイは帰ってしまうが、日中はこうやってアシュレイに抱えられたまま生活していた。
こんな状況に甘んじている自分自身に少し情けなさを感じていて、ルイスの言葉に答えられなかった。
「じゃあ、これ。お友達の分」
ルイスが差し出してくれた布に包まれたパンをお礼を言いながら受け取る。
「ノアのお友達に会ったことがないな」
「アシュレイがノアにビッタリ張り付いてるからでしょ! ノアのお友達はノアにだけ会いにきてるんだから! いい加減ノアを解放してあげなよ! かわいそうに」
ルイスが言うようにあれから悪魔は顔を見せなくなってしまった。アシュレイがいるから声を掛けづらいのかもしれないと内心思っていた。
「そうか、でも引き継ぎの間だけだ、こんなに一緒にいられるのは。許してくれ」
僕を担いで立ち上がり、僕だけを椅子に下ろした。アシュレイの大きな手で僕の頭がすっぽり包まれる。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、お気をつけて」
アシュレイはチラッとルイスを見た後、僕にキスをしてくれる。なにかを言おうと両手を前で握ったルイスを押しのけてアシュレイはそのまま塔を後にした。
しばらくルイスから宮殿の話を聞いたら、僕は階上に上がった。僕は王都研究を再開して、アシュレイもそれを手伝ってくれている。アシュレイは僕に様々なことを教えてくれた。今日も午前教わったことを書き写しておきたかった。
「パンをくれ」
部屋に入るなり窓の外から声がする。
「悪魔さん……!」
僕は窓に駆け出した。
「今日はいつになく熱烈歓迎だな」
「あれから、悪魔さんに話したかったことがいっぱいあったのに、なかなか来てくれなかったので……」
僕はそっとパンを差し出した。
「お前と違って人が愛し合ってる様を覗く趣味はないんでね」
「そ……そんなことしていません……!」
「1日1回ではないだろう。すごい魔力量だな。アシュレイは絶倫か?」
「違うんです、怪我をしていると勘違いしていて……僕に薬を塗るついでに……ついでに……その……」
「なんだ、あれから交わっていないのか。まあ、あんだけ大怪我させたら怖くてできないか。それにしてもアシュレイは度胸がないな。夜お前から誘ったらいい」
「アシュレイは、夜は帰宅してしまいます」
「ああ、そうか。じゃあ、次に来たら泊まっていって欲しいと懇願してみろ。ちょっとくらい怪我をしたってお前は自分で治癒できるだろう?」
「夜は父上の看病があるんです。そんなことお願いできません」
悪魔は僕から取り上げたパンをもしゃもしゃ食べる。そして、僕を不思議そうな顔で眺めた。
「アシュレイの父は大丈夫だと言っているだろう。まあ、そうだな。機会があればそう頼んでみるがよい。それより、浮く練習をしているのか?」
「はい、夜にこっそり練習しています」
「ヤギは勤勉だな。お前にも見えているだろうが、あの境を決して越えてはならないぞ」
悪魔は僕が前に見た、超えてはならない境のことを言っているのだろうと思った。僕は大きく頷く。僕も超えたら恐ろしいことになると思っていた。そしてなぜ悪魔はこんなことを僕に教えてくれるのだろう。そうずっと思っていた。
「悪魔さん、お名前をそろそろ教えていただけませんか?」
「名前? 長らく誰からも呼ばれていないから忘れてしまった」
「そうですか……」
誰からも呼ばれていないのであれば、なおのこと呼んであげたかったが、忘れてしまったのでは仕方がない。悪魔は僕の顔をじっと見つめたら、ゆっくり口を開いた。
「お前は優しいな。アシュレイの名を声が枯れるまで呼んでやるがよい」
悪魔が僕の頬に触れる。それで悪魔はもう行ってしまうのだと悟った。目を閉じ、悪魔の手の温度を感じたその時、不思議な感覚に陥る。
突然、深い湖に落ちたような衝撃が走り、そのまま深いところまでどんどん沈んでいく。息継ぎの心配をしていたら、悪魔が耳元で囁いた。
「大丈夫だ」
水面から顔を出すように目を見開く。そこにはいつもの風景が広がっていた。
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