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第1章 ダイバーシティパラドックス

第14話 言動コマンド予約

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ルルーは強制送還にはならなかった。しかし衰弱していたことから、入院を余儀なくされた。面会謝絶ということはつまり独房のようなものなのだが、専門外の僕が抗議したところでなんの解決にもならないことから、黙ってそれを受け入れた。

そしてファリドは来週、用意されるというパーソナルスペースに移住するという。だから、ルルーに譲ってもらったシアターホールの予約日に、ファリドはパーソナルスペースの視察の予定を入れてしまっていた。僕がゴネたら午後からだったら合流できるとのことだったので、当日はシアターホール前で待ち合わせることになった。

ファリドの回帰欲求を満たすために譲ってもらったのに、自分自身がこんな気持ちで当日を迎えるとは思ってもみなかった。来週からまた2週間前と同じになるだけなのに、僕は大きな課題を投げ出しているような気分だった。

「マム、櫛と、鏡を」

<ラジャー>

マムが出した櫛で髪の毛を丁寧に梳かす。今日は朝に洗髪をして乾かしたから、変な癖はついていなかった。しかしシアターホールに行くまでに僕はまた変な髪型になってしまうのだろうか。

「マム、メットを被っても髪の毛のスタイリングが崩れない方法ってある?」

<検索結果は5万件です。信頼度順にソートしますか>

「いや、いいよ。マムが適当に選んで」

<ラジャー。ランダムに選んだ結果を発表します。内燃機関の二輪車に乗る際に被るヘルメットでスタイリングが崩れない方法です>

「内燃機関の二輪車!? 化石燃料時代のアーカイブなんて、マムのチョイスは流石だね!」

<特殊な形状のシリコンパットをヘルメット内に装着するだけで、髪型が崩れないアイテムがあります>

「へぇ! 化石燃料時代からずっとこの悩みがあったんだね。それプリント生成できる?」

<ラジャー。30分後に完了します。ファリドのよく検索していた画像から、本日最適な服をチョイスしています>

唐突に自我を持ち始めたマムにびっくりする。

<ファリドによる言動コマンド予約です>

「え、え? 僕の言動のなにがトリガーになったの?」

<ソラが能動的に櫛で髪を整えたら、服を提案するように予約されています>

袖机のインジケータが光る。それを開けてみると、そこにはとてもラフなシャツと、パンツが出てきた。ご丁寧に下着までセットで。

服に袖を通す時、最近必要以上に話しかけなくなった彼の冷たい視線を思い出す。でも肌触りのいい素材に包まれると、彼もまた僕と同じように言いたいことを我慢していたのだろうか、などと甘い考えが体中を支配する。

彼が歩み寄る気があるのであれば、この数日僕は手から汗を流し続けなかったであろう。僕はファリドにもう一度キスをしてもらいたいと願い続けながらも、彼を恐れていた。

ルルーに比べたら、触ることは容易なのに、最終的に彼の欲求を満たせないという自分の不能さや、彼の空気がそれを許さなかった。コミュニケーションにおいて、どんな親しき仲でも認識相違がある一定を超えると、関係修復が難しいと聞く。

もう関係修復ができないのであれば、僕は最後にお願いしたいことがあった。



約束の時間より1時間早いのに、ファリドはシアターホールの部屋の前で待っていた。僕は慌てて駆け寄り、シアターホールの扉を操作する。

「ご、ごめん。待ちくたびれて、しまいましたか?」

「さっき着いたんだ。気にしないで。なんだか……デートみたいだね」

「デ、で……」

僕がまごまごしているうちに、ファリドはシアターホールに入った。この船はどの部屋にもクリランスルームが備え付けられている。狭い室内で2人閉じ込められると、僕の家に初めて来てくれた時のことを思い出す。

さっきから僕の胸はギュッと縮まったままだし、手は汗でびっしょりだった。クリアランスルームを抜けたところに簡素な脱衣所が用意されている。僕は恐る恐るライフスーツを脱いだ。

ファリドがなにか話しかけようとして振り返ったまま、動かなくなった。今望まれている言葉はわからなかったから、彼がチョイスしてくれた服を握りしめて、当たり障りのないことを言う。

「こ、これ、ありがとぉ……」

ファリドは僕から視線を外して俯いた。そして彼はライフスーツを乱暴に脱ぎ始める。また失敗してしまった。手の汗が止まらなくて、服を握った手を離せなかった。多分このまま離したら服に汗のシミができてしまう。

「んっ、ん、ふあっ、ファリド」

もはや名前を呼ぶことすらままならなくなってきた。予約は2名だったが、彼1人の方が気兼ねなく楽しめるのではないだろうか。

そんな苦悩と格闘していたら、彼は突然僕の手を握った。汗でぐっしょりの手を握られた混乱で、そのまま振り回してしまう。だけど決して彼は僕の手を離さなかった。

「緊張してくれてるの?」

緊張をしてくれている。緊張とは他者への礼節になるのか。その意味もわからないし、恥ずかしさから目頭がぐんと熱くなる。彼はもう片方の手で僕の髪を撫でた。

「俺のために櫛を使ってくれたんだ。服もとても似合っている。俺も、少し緊張してるよ、ソラ」

彼は僕の汗ごと手を握りながら、脱衣所の外に向かう。この扉を開ければいいのかと振り返ったから、僕は大きく頷いた。

扉は開けると同時に消失する。だから僕とファリドは地球の大自然に放り出された。

「ホロでしか……見たことがない……す、すごい。地球はこんな匂いがするのか?」

「こ、この甘い匂いは、ジェフリーマツの匂いかも、し、しれません」

「ここは? 地球のどの辺なんだ?」

「北アメリカ大陸の、ヨセミテ公園、です。アメリカにはグランドキャニオンやイエローストーンなど様々な自然保護区があるのですが……」

「なんでソラはここを選んだの?」

「僕、僕はファリドと違って、出不精の面倒くさがり屋だから、地球にいる時にはどこにでも行けたけど、ホロを見て旅行した気になっていました。でも……」

「でも?」

「ここは僕が唯一行ったことのある公園で、ファリドと同じように、匂いや、風の肌触りや、温度に、すごく感動して……ファリドに、あの……」

「見せてあげたいって、ソラはそう思ったの?」

僕の言葉を先回りして言ったファリドは柔らかく笑う。僕は頭が千切れるほど頷く。ファリドは再び辺りを見渡す。シアターホールは高さがあるのだが広いわけではない。だから向こうの方に見えている花崗岩の一枚岩は多分ホロだ。この施設は利用者の半径何百メートルかを移動速度に合わせて適宜再構築している。

「ファ、ファリド、滝をみ、見てみませんか?」

「ああ、ソラが感動したところを全部教えてくれ! きっと俺はその時のソラと全く一緒だ!」

僕は料理と食器を褒められた時みたいに、胸が爆発しそうになる。僕はファリドの手を引いて滝に向かった。
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