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第1章 ダイバーシティパラドックス

第8話 知らない衝動

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研究室に入るなり、先に入っていたルルーが話しかけてきた。

「ソラ、昨日代理で受領してもらった外来種なんだけど、結局受領自体が間違ってて、今日届くみたい。その時にハビの口語訳が酷いって話をしておいたよ」

「ああ、連絡自体間違ってたのかぁ。お役に立てなくてごめんね。ハビの口語訳で昨日僕も酷い目に遭ったよ」

「はは、当面の間はテキストでやりとりすることにするそうだよ。今日少し元気がないのはハビのせいかい?」

ルルーは僕の声色を窺いながら、少しだけ踏み込んでくれるようになった。ルルーには嫌味を感じず、ファリドには少しの敵意を向けてしまうのは、きっと同族の中で彼の優位性を感じるからだ。

それの証拠にルルーは僕とは似ても似つかない容姿をしている。ライフスーツをお互い脱ぐことがないから詳細はわからないが、そもそも腕の数が違う。メットから見える顔は地球でいう昆虫に近い印象だ。

「ハビのメチャクチャな翻訳のせいで少し誤解を生んでしまって……そういえばルルーはバレーナの文化に慣れないと言っていたけど、故郷に帰りたいと思ったことはある?」

「ソラは故郷に帰りたいほど落ち込んでしまったのかい? 故郷に帰られたら私がとても寂しくなるよ。せっかくこうやって心安らぐ会話ができるようになったと思ったのに……」

ルルーはそう言いながら、自分の端末を操作し始めた。僕はそれは誤解だと思いながらも、ファリドの話をどこまで外部に漏らしても大丈夫なのか考えあぐねる。こんなことならアカウント申請なんかしてないで、機密保持の契約書を確認すべきだった。

「シアターホールの予約が重複して取れてしまったんだ。ソラに予約枠をひとつあげるから、それでソラの寂しさを紛らわして」

「え……そんな、これって半年先まで予約が埋まっているんだよね?」

シアターホール、それは船員のホームシックを癒すために作られた、一大アトラクションだった。複製技術で故郷の環境そのものを再現するなんとも贅沢な娯楽。僕のバルコニーも日光以外はそうした技術で製作されているが、これが毎日入れ替わるのだ。予約が取れないのも納得である。

「ソラ、1週間後の方の予約だよ。明日の予約は私が行く。だから気にしないで。でもパーソナルスペース以外でライフスーツを脱ぐのが久しぶりすぎて……なんだか少し恥ずかしいよ」

ルルーが恥ずかしがっている間に僕の端末に予約の権利が届いた。

「ルルー、本当にありがとう……」

僕は予約人数を2名に増やし、ファリドの名前を入力する。もし彼に権利がなければ管制室からすぐにアラートがあがるだろう。

「ルルーの故郷で気に入っている場所はどこなの?」

ちょうど外線の端末を持っていたから、ルルーの故郷を調べようとした。大まかな銀河は知っていたが、ルルーの言語でなければ検索ができない。だから音声入力をオンにして待っているのにルルーは黙ったままだった。

「ルルー……ご、ごめんなさい。僕は今自分の好奇心でルルーの踏み込まれたくないことを聞いてしまった」

「違うよ、ソラ。私はバレーナに来てから一度もそんな質問をされたことがなかった。それは私が劣等感を抱いていたからだ。聞いてくれてすごく嬉しい……」

ルルーは自身の腕をぎゅっと体に引っ込め震えていた。それが彼の嬉しいという表現なのだろうか。それが理解できないことに深い悲しみを覚えた。

「私の星は完全二層からなる歪な星で、上層の知的生命体は3度滅びているんだ。私たちの種族は光の届かず、上層の種族が生きられない環境だから生命体としての歴史は長い。でもこうやって自我を持ち、生存本能以外の目的でコミュニティを築くまでに、このバレーナのどの種族よりも長い時間が必要だったんだ」

ルルーの震えは止まらない。僕は恐る恐る彼に近づいて、おっかなびっくり腕を伸ばす。そっと上腕に手を添えると、ルルーは必死で僕の手を握った。

「他の星の生物が宇宙へ向かう時、私たち祖先はまだ知性を持ち合わせていなかった。たった何百年かなんだ。こうやって自分を自分と認識するようになったのは。それが私は怖くて仕方がなかった」

「ルルー……」

「このバレーナは社会性というものを必要としない。でも私のようなものこそそれが必要だったのだ。故郷の同族は結束が固く、私がバレーナ入船が決まった時、国中が祝福してくれた……だから……私は……私は……」

文明が何千、何万年も遅れているということは、これだけ広い宇宙ではあり得ない話ではない。宇宙の歴史からすれば少し前まで、全ての観測者が、宇宙を観測しているのは自分たちだけではないのかと思っていたのだ。

六百年前、2つの知的生命体が出会った瞬間から一気に宇宙が狭くなった。ルルーの星でもそういったシンギュラリティがあったから、たった何百年かでバレーナ船員を排出するまでに急成長したのだろう。しかしその環境の変化に、生命体の心身がついていけないのだ。何万年も自我を持たずに同族で群れて生きてきた生命体が、唐突に知性を得る時、環境適応にどれほどの心労があったか想像に堪えない。

「ルルー、僕の星での親愛を示す行動をやってみてもいい?」

ルルーはまた複数の腕を腹にキュッと畳んでしまった。僕はその畳んで細くなってしまった体を包むように抱きしめた。

「あ……あ……これは、私はこのままでいいですか?」

「腕をこう、足っていうのかな……? あ、そうそう!」

ルルーはおずおずと4本の手を僕の背中に回し、僕が引き寄せると、彼も力を入れた。

「ああ、ルルーは手が多いから、すっぽり包まれて、とても安心する」

「安心……私も……安心する……心が安らぐ……」

「社会性という意味では僕はあまりいい見本じゃないかもしれないけど……ルルーこうやって少しずつ安心できる場所を増やしていこう?」

ルルーは僕の顔を見ずにまだ震えていた。

「ルルーの星で親愛を示す行動とか、なにかあるかな?」

「さっき、さっき、ソラにしてしまったよ」

「え?」

ルルーはおずおずと4本の手を伸ばした。僕の手を握ったルルーは少し恥ずかしそうに言う。

「本当はグランマにもこんなこと、恥ずかしくてできないんだけどね……」

「僕も故郷では恥ずかしくてさっきの行動はできないよ!」

2人顔を合わせたら肩を揺らした。

この研究室はライフスーツを脱げば即死する。だから今まで面倒だとは思いながらも、それ以外の感慨を抱いたことはなかった。

でも今日、ルルーの震えて畳まれた腕を見た時に、ライフスーツを脱ぎ去って、彼を抱きしめてあげたいと思ったのだ。その衝動の名を僕は知らなかった。
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