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第1章 ダイバーシティパラドックス

第1話 狂った翻訳

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この船に朝という概念はない。僕のために設えられたこの研究室兼プライベート空間は、決まった時間になると擬似的な太陽光が差し込むようになっている。ホモサピエンスは太陽なしでは生きられないが、日がな一日、日光に晒されているわけではないのだ。

部屋の片隅の音声デバイスのインジケータが、メッセージの着信を受けて鈍く点滅している。

「再生して」

<ラジャー。返信用に記録しますか?>

手をあげジェスチャーで答えるとメッセージが再生される。

「いよーう、宇宙一のクソ野郎。今日は朝から盛ってんのか? おめーのところに外来種が届いて邪魔なんだよ。複製登録するか3秒で決めろ! 後がつかえてるから俺様のラブレターを聞いたらとっとと連絡よこしやがれ! こっちはギンギンに絶好調だぜ、ヒャッハー!」

陽気に失礼極まりない物言いは、彼本来の性格によるものではない。翻訳が狂って登録されているのだ。翻訳者もきっと疲れていたに違いない。

「おはようございます、管制室室長。外来種はいつものように登録してください。バックアップ頻度もいつもと同じように3日。集荷の回線はこちらで指定しますので、くれぐれも丁重に扱っていただけますと幸いです……」

最後に結びの挨拶を言おうと思ったが、管制室室長ハビが放った最後の結び文を思い出して、余計なことを付け加えるのをやめた。僕のメッセージは一体どういうテンションで届くのだろうか。不安がよぎったが、もはや数え切れないほどやりとりしているのだ。今更どう思われようと手遅れだ。僕は片手を上げてそのまま水平にかざし、右に移動させた。送信のジェスチャーついでにカーテンを開ける。

研究対象とは別に自分の食べる分の野菜をバルコニーで栽培している。バルコニーの広さは50平米ほど。限られた宇宙船でこれだけ与えられるのは僕が生物学者で、植物を専門に扱っているから、という理由ではない。ここではストレスを感じないギリギリのパーソナルスペースを、各船員に与えられている。半分をバルコニーにしたのは僕の希望だ。

「あっ!」

思わず声をあげてトマトの苗に走り寄る。トマトは劣悪な環境には強いが、病気にはめっぽう弱い。水で濡らさないよう細心の注意を払っていたのに、茎からひしゃげてまだ小さな実がバルコニーの土に打ち付けられていた。

僕は部屋に戻り大声をあげる。

「マム、ハビ管制室室長に繋いで!」

<ラジャー。現在ハビ室長はオンラインですがリアルタイムで繋ぎますか?>

手をあげようと思った瞬間に陽気な声がこだまする。

「いよーう、宇宙一のクソ野郎! さっきのラブレターで俺のマグナムが暴発寸前だぜぇ! お前のビショ濡れの穴にぶち込みてぇくらいだ! さっきのオーダーを取り消したいなら、俺のケツの穴を舐めな!」

「室長、複製をリカバリーしてほしい。これが最後の苗なんだ。品番はTー78923311」

「おい、ビショビショじゃねーか、ちったぁ我慢しろよ。そいつはまだ生体反応があるぜ! 待てないって言われるとそれはそそるけどなぁ、我慢ができない、熱くてぶっといのがほしいって言ってみろ? ん?」

「イレギュラー申請は追って行います。レジストの参照と申請用の回線の認証をお願いします。申請承認が間に合うようであれば、今日集荷予定の外来種と一緒に送ってください」

「うーん、素直でかわいいなぁ、お前のいやらしい穴にズコズコぶっ込んでやるから楽しみに待ってな! そういや、外来種は歩いてそっち行くってよ! お前とおんなじで、ビッショビショだな!」

回線が勝手に切られて無音になる。翻訳が酷すぎて、最後の方なにを言っているのかわからなかった。

「マム……」

僕は音声デバイスに話しかけたが、ジェスチャーで取り消した。

この銀河連盟独立コロニー「バレーナ」はさまざまな銀河から知的生命体が集められた研究施設だ。人口の数だけ知的生命体の種類がいるといっても過言ではない。

たとえ今、必死で翻訳を正したところで、僕に関わる全ての言語(音を発することのない生命体もいる)が修正されるわけではない。途方もない数の翻訳を正していくなど、賽の河原で石を積むようなものだ。

「マム、別室に行く」

<ラジャー。ライフスーツを除菌します>

「バレーナ」は多様性というには厳しすぎる環境で、現に自宅以外に出るときにライフスーツを着なければ即死する。ホモサピエンスが地球の限られた環境でしか生きられないように、他星人もまた、異星の限られた環境でしか生きられないのだ。

僕の研究対象は植物だが、地球の植物に限ったことではない。他の星の研究者が囚われている環境による常識も、多星人なら多角的視点で覆せることもある。これぞ多様性の恩恵だが……。

差し出されたライフスーツに袖を通す。

「やっぱり不便だよな。マム、出るよ」

<ラジャー。クリアランスルームに入ってください>

さっきから僕の召使いのような音声入力デバイスのマムはAIだ。しかしAIは思うように進化しなかった。身体性を持ち得てもなお、この宇宙の観測者にはなり得なかったのだ。それは知的生命体の持つ知的欲求が備わらなかったから。
いいようによっては対ヒトに特化したストレージと演算止まりで、現在に至るまでAI自身に欲求を持たせるプロセスを解明できていない。

僕はクリアランスルームに入り、暇つぶしに視覚デバイスを立ち上げる。テキストメッセージがあったので見てみると、それは口頭とは比べられないほど流暢な言葉で書かれていた。

『15時に客人が訪問します。客人は2名。1名は当職員です。訪問の際、品番Tー78923311の複製リカバリーをお届けします。イレギュラー申請は11時までに行ってください。
ー管制室室長ハビ』

口語と文語でなぜ翻訳がこんなにも違うのだ! もしかしてハビは本当にあのテンションで喋っているのか!?

僕が混乱しているときにクリアランスルームの反対側が開いた。朝から不可解なことばかりだ。そう感じながら自分の部屋を出た。
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