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第29話 不機嫌な朝
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明け方に神殿に辿り着いたが、デールに話しかける前にベッドの横で気を失ってしまった。階下から不機嫌なモリーの怒鳴り声が聞こえる。僕らしい朝だった。
デールに話しかけようとしたけど、今日は別の理由で話しかけられなかった。顔中の痛みで呻き声を出すことすらできなかったのだ。
──デールには聞こえているでしょ? 今日仕事が終わったら一緒に森に行こう。今日はちゃんと約束を守るよ。
いよいよモリーの声が大きくなってきたから僕はなるべく急いで装束を着る。袖を通す時に自分の手の大きさにびっくりした。これはもう治らないのかもしれない、とストンと気持ちが落ちる。でもこれからは痛みとも上手く付き合っていかなければならないと思うと、暗くはなるが我慢はできた。最後の難関、口布を顔に巻く。顔が腫れてしまっていたから僕は口布をいつもより上で巻いた。
ヨロヨロと階下に降りた時にはすでに黒ずくめの集団が神殿にいた。
「リディア、もう皆さんお待ちかねだよ」
さっきまでの不機嫌さからは考えられない優しい声がモリーから飛び出す。それに驚いて顔を上げた時、僕はある女性と目が合った。
「リ……」
僕の名を呼ぼうとして顔を背けた女性。それはアンネだった。僕はアンネがしがみつく大きな男性に恐る恐る視線を向ける。真っ黒なストールを頭から被っていたが、見間違えることなどない。ダグラスだ。
モリーがいつもの説明を淡々と始める横で、僕は決して目を合わせない二人を見つめるほかなかった。
アンネは目を背けたままで、ダグラスはストールを被って僕を見ようともしない。それは昨日アンネに僕の正体を聞いて、僕との関係を隠したいからなのだろうか。アンネは昨日僕の姿を見て、気がついたのだろうか。僕が好きになってもらいたいと願ったのはダグラスだと。
モリーが説明を終えて肘で小突くが、僕は呆然と眺めてしまう。考えても考えてもわからないことばかりだった。
モリーが小突く力が強くなってきたから、僕は観念して、口布を恐る恐る外す。顔が腫れていたし、なにより昨日の今日で血も拭えていなかった。二人が目を背けている間に手早く済ませようと思っていたのに、小さな悲鳴をあげたのはアンネだった。
その声を聞いたモリーは怒りだす。
「お前……こんな大切な日にそんな顔で! 遊んでばかりで、恥ずかしいと思わないのか!」
モリーが僕の頭を打った。パンッと音が響いたけど、ダグラスのストールは少し揺れただけで、アンネがその肩に必死でしがみついていた。
見られていないという安堵に目を閉じ、魔糸を口に寄せる。左手が使い物にならなかったけど、バランスを取るためそっと添えながら、魔糸を通していく。昨日殴られた時に穴も切れてしまっていたから、痛みがすごい。ブルブルと震えながらも慎重に、なんとかやり遂げた。
「ささ、皆さまお待たせいたしました。別室をご用意しておりますので……」
僕の苦心などよそに、モリーの声と、布の擦れる音がどんどんと遠のいていく。目を開ければ、僕と遺体の二人きり。体中がズキズキ痛むが、余計なことを考えてもいられなかった。彼を術部屋まで運ばなければならない。
口を縫ってしまったから声は出せない。だけど台車の持ち手を腹にかけて引く時には、魔糸が口に食い込んだ。
やっとの思いでたどり着いた時には、だいぶ体力を消耗してしまっていた。だから台車から遺体を移動させようとした時、距離を測り損ねて台車が傾き、遺体が地面に滑り落ちてしまう。
こうなってしまっては術台にのせるのは不可能に近い。指はもう動かず、片手で男性の遺体を持ち上げることなど到底できっこなかった。こんな万が一が、僕には起こり続ける。
僕は包まれた布から出てしまった遺体の顔の前にへたり込む。ふと見た老人の眉間に深く皺が寄っていたので右手で撫でた。一回、二回と撫でると違和感を覚えて、そのまま頬を撫でた時僕はビックリして仰け反り、左手で床につき悶絶する。
「ああ、リディア。久しぶりじゃの。しかしもう少し遺体は丁寧に扱った方が……ってその顔はどうしたのだ!?」
布から飛び出してきた老人の手は、僕の顔の前で右往左往する。
「おお……少し魔糸を抜く前に少しだけ触るぞ。おお、かわいそうに、誰がこんな酷いことを」
老人はおっかなびっくり僕の顎の方に触れて、そして目を閉じた。僕はといえば、さっきビックリした拍子に心臓が飛び出してしまい、なんで老人が当たり前のように動いているのか理解できなかった。
老人の手がじんわり暖かくなる。そしてその手が優しく魔糸を解きはじめた。
「お……お……あ……」
魔糸から解放されたら老人に聞きたいことがあるのに、気持ちだけが前に出てうまく喋れない。
「おお、口の中もすごいことになっているな。ちょっと待つんだ」
老人はまた僕の頬を包んでみるみる痛みを取り除いていく。
「治療している間に言っておくが、ワシはちゃんと生きてるし、このことはもう少しだけ黙っててくれ」
「もう……少し……?」
「そうだぞ。ワシがいいと言うまで黙っててくれ。おお、手もすごいことになっているな。ほれ出してみぃ」
老人は僕の疑問を曖昧に答えて、熱心に手を握る。もう少しという曖昧なことでは、僕は失敗してしまうのではないのか。そう困っていたら、老人はニッコリと笑った。
「ほれ、まだちょっと痛むだろうからあまり動かすでないぞ。他のところは後でちゃんと治してやるから。とにかくだ、封印したというテイでこのまま外にでるんだ」
老人はそう言いながら自ら布をぐるぐる巻いて、台車に乗り込む。布の端を踏んでよろけた老人に走り寄って肩を抱く。手の痛みは嘘みたいになくなっていて、老人をなんなく支えることができた。
「いつもああやって、遺体の顔を整えてやるのか? リディアはとても、いい封印師だな」
僕は初めての褒め言葉に体がカッと熱くなる。死体は喋らないから、僕にこんなことを言ってくれない。まさかこんな言葉をもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。
「おじいさん、さっきまで痛くて痛くてつらかったのに……治してくれて、あ、ありがとう」
「ほっほ、まだ礼を言うにははやいぞ。さっき言ったことを覚えとるかえ?」
「はい! おじいさんを封印したテイで外に出る!」
「よろしい。リディアも魔糸で縫ってあるていで、お喋りは禁物だ」
「はい! おじいさんがいいと言うまで喋らない!」
「ほっほ、いい子だ。ほら、口布もちゃんとして」
老人は言いながら完全に布に包まった。僕は口布をして、老人の乗る台車を引く。まだ腹や胸が痛むけど、手が使えればどうということはない。僕は約束を胸に、口をキッと結んで部屋を出た。
デールに話しかけようとしたけど、今日は別の理由で話しかけられなかった。顔中の痛みで呻き声を出すことすらできなかったのだ。
──デールには聞こえているでしょ? 今日仕事が終わったら一緒に森に行こう。今日はちゃんと約束を守るよ。
いよいよモリーの声が大きくなってきたから僕はなるべく急いで装束を着る。袖を通す時に自分の手の大きさにびっくりした。これはもう治らないのかもしれない、とストンと気持ちが落ちる。でもこれからは痛みとも上手く付き合っていかなければならないと思うと、暗くはなるが我慢はできた。最後の難関、口布を顔に巻く。顔が腫れてしまっていたから僕は口布をいつもより上で巻いた。
ヨロヨロと階下に降りた時にはすでに黒ずくめの集団が神殿にいた。
「リディア、もう皆さんお待ちかねだよ」
さっきまでの不機嫌さからは考えられない優しい声がモリーから飛び出す。それに驚いて顔を上げた時、僕はある女性と目が合った。
「リ……」
僕の名を呼ぼうとして顔を背けた女性。それはアンネだった。僕はアンネがしがみつく大きな男性に恐る恐る視線を向ける。真っ黒なストールを頭から被っていたが、見間違えることなどない。ダグラスだ。
モリーがいつもの説明を淡々と始める横で、僕は決して目を合わせない二人を見つめるほかなかった。
アンネは目を背けたままで、ダグラスはストールを被って僕を見ようともしない。それは昨日アンネに僕の正体を聞いて、僕との関係を隠したいからなのだろうか。アンネは昨日僕の姿を見て、気がついたのだろうか。僕が好きになってもらいたいと願ったのはダグラスだと。
モリーが説明を終えて肘で小突くが、僕は呆然と眺めてしまう。考えても考えてもわからないことばかりだった。
モリーが小突く力が強くなってきたから、僕は観念して、口布を恐る恐る外す。顔が腫れていたし、なにより昨日の今日で血も拭えていなかった。二人が目を背けている間に手早く済ませようと思っていたのに、小さな悲鳴をあげたのはアンネだった。
その声を聞いたモリーは怒りだす。
「お前……こんな大切な日にそんな顔で! 遊んでばかりで、恥ずかしいと思わないのか!」
モリーが僕の頭を打った。パンッと音が響いたけど、ダグラスのストールは少し揺れただけで、アンネがその肩に必死でしがみついていた。
見られていないという安堵に目を閉じ、魔糸を口に寄せる。左手が使い物にならなかったけど、バランスを取るためそっと添えながら、魔糸を通していく。昨日殴られた時に穴も切れてしまっていたから、痛みがすごい。ブルブルと震えながらも慎重に、なんとかやり遂げた。
「ささ、皆さまお待たせいたしました。別室をご用意しておりますので……」
僕の苦心などよそに、モリーの声と、布の擦れる音がどんどんと遠のいていく。目を開ければ、僕と遺体の二人きり。体中がズキズキ痛むが、余計なことを考えてもいられなかった。彼を術部屋まで運ばなければならない。
口を縫ってしまったから声は出せない。だけど台車の持ち手を腹にかけて引く時には、魔糸が口に食い込んだ。
やっとの思いでたどり着いた時には、だいぶ体力を消耗してしまっていた。だから台車から遺体を移動させようとした時、距離を測り損ねて台車が傾き、遺体が地面に滑り落ちてしまう。
こうなってしまっては術台にのせるのは不可能に近い。指はもう動かず、片手で男性の遺体を持ち上げることなど到底できっこなかった。こんな万が一が、僕には起こり続ける。
僕は包まれた布から出てしまった遺体の顔の前にへたり込む。ふと見た老人の眉間に深く皺が寄っていたので右手で撫でた。一回、二回と撫でると違和感を覚えて、そのまま頬を撫でた時僕はビックリして仰け反り、左手で床につき悶絶する。
「ああ、リディア。久しぶりじゃの。しかしもう少し遺体は丁寧に扱った方が……ってその顔はどうしたのだ!?」
布から飛び出してきた老人の手は、僕の顔の前で右往左往する。
「おお……少し魔糸を抜く前に少しだけ触るぞ。おお、かわいそうに、誰がこんな酷いことを」
老人はおっかなびっくり僕の顎の方に触れて、そして目を閉じた。僕はといえば、さっきビックリした拍子に心臓が飛び出してしまい、なんで老人が当たり前のように動いているのか理解できなかった。
老人の手がじんわり暖かくなる。そしてその手が優しく魔糸を解きはじめた。
「お……お……あ……」
魔糸から解放されたら老人に聞きたいことがあるのに、気持ちだけが前に出てうまく喋れない。
「おお、口の中もすごいことになっているな。ちょっと待つんだ」
老人はまた僕の頬を包んでみるみる痛みを取り除いていく。
「治療している間に言っておくが、ワシはちゃんと生きてるし、このことはもう少しだけ黙っててくれ」
「もう……少し……?」
「そうだぞ。ワシがいいと言うまで黙っててくれ。おお、手もすごいことになっているな。ほれ出してみぃ」
老人は僕の疑問を曖昧に答えて、熱心に手を握る。もう少しという曖昧なことでは、僕は失敗してしまうのではないのか。そう困っていたら、老人はニッコリと笑った。
「ほれ、まだちょっと痛むだろうからあまり動かすでないぞ。他のところは後でちゃんと治してやるから。とにかくだ、封印したというテイでこのまま外にでるんだ」
老人はそう言いながら自ら布をぐるぐる巻いて、台車に乗り込む。布の端を踏んでよろけた老人に走り寄って肩を抱く。手の痛みは嘘みたいになくなっていて、老人をなんなく支えることができた。
「いつもああやって、遺体の顔を整えてやるのか? リディアはとても、いい封印師だな」
僕は初めての褒め言葉に体がカッと熱くなる。死体は喋らないから、僕にこんなことを言ってくれない。まさかこんな言葉をもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。
「おじいさん、さっきまで痛くて痛くてつらかったのに……治してくれて、あ、ありがとう」
「ほっほ、まだ礼を言うにははやいぞ。さっき言ったことを覚えとるかえ?」
「はい! おじいさんを封印したテイで外に出る!」
「よろしい。リディアも魔糸で縫ってあるていで、お喋りは禁物だ」
「はい! おじいさんがいいと言うまで喋らない!」
「ほっほ、いい子だ。ほら、口布もちゃんとして」
老人は言いながら完全に布に包まった。僕は口布をして、老人の乗る台車を引く。まだ腹や胸が痛むけど、手が使えればどうということはない。僕は約束を胸に、口をキッと結んで部屋を出た。
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