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第17話 黒い影
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「ジンバルも喉が渇いたかな。ここは森も美しい。少し歩いて沢の方に行ってみないか?」
しばらくするとダグラスがポツリと言った。だから僕は行ってみたいと答えた。どちらともなく昼食の片付けをして、ジンバルと共に山を歩き始める。
「ダグラス……あの……」
立ち上がった時から、小便をしたいと思っていたが、女性はこういう時になんと言えばいいのかわからなかった。僕が俯いていると、ダグラスは顔を覗き込み、そして慌てた。
「あ、その、すまない、あまり遠くに行かないでくれ。声が届くところで、その、あっちを向いてるから」
「は、はい」
僕は返事もそこそこに、ダグラスの向いている方とは逆の森に走る。振り返って彼を確認したら、言った通りに向こうを向いていた。僕はスカートをたくしあげて、そのまま立小便をする。開放感と少々の震えが収まったら、スカートが全て降りているか確認した。
その時、視界の端に黒いモヤのようなものが見える。
「え?」
神殿の北にある森に行くことがあるが、こんな黒いものを見たことがない。好奇心から近づいて行くと、それは恐怖を覚えるほどの速さで向こうの木の裏に隠れた。
「ひゃっ!」
「リリィ、どうした? 振り向くぞ」
離れたところからダグラスの声がする。でも僕はその黒い物体から目が離せなかった。なぜならばその黒いモヤの集合体が、震えていたからだ。
「リリィ! 離れろ!」
駆け寄る音が響き、僕は慌てて叫ぶ。
「ダグラス! 来ないで!」
「リリィ、そいつは魔物だ!」
「ダグラス! お願いっ!」
僕の叫び声で足音が止まった。
封印師を生業にしている手前、人生で魔物というものにお目にかかったことがない。だからだろう、自分の仕事が一体どういうものなのかという実感もなかった。
魔物に対峙してみて思うことがある。魔物は今怯えている。そして僕にはそれがわかるのだ。
「あの、僕は封印師なんです。あっちの人には内緒にしてください」
ダグラスには聞こえないように小声で語りかける。すると魔物と呼ばれる黒いモヤの奥から、ふたつの赤い目が覗いた。ゆっくりと、黒いモヤはちぎれるように僕に近づいてくる。
そして細くなったモヤがゆっくりと僕の手に触れた。その辿々しい動きを見て認めたくない思いもあったが、魔物は僕に似ていると思ったのだ。この魔物は多分、元は人間だ。
「貴方は封印してもらわなかったの? もし死体がそばにあったら、僕が封印してあげる」
ザワザワと黒いモヤが大きくなったり小さくなったりして、必死でなにかを訴えている。そして、ダグラスがそれを見ていつ飛び込もうか迷っている気配も感じた。
「死体はもう無いかな? 一人で寂しかったね。でももう大丈夫だよ。枯れた木を一緒に探そう。なるべく大きな枯れ木がいい」
魔物は大きくなったり小さくなったりしながら移動しはじめる。この森に長く居るのだろうか。先の大戦は八十五年前。最悪の場合、八十五年この森を彷徨っていた可能性がある。
「封印したらね、十五年後にみんなのところに行けるからね。あと少しの辛抱だよ」
一定の距離をあけてダグラスが後ろからついてきている気配を感じていたから、僕は小声で魔物に語りかける。
魔物は嬉しいのか時々大きくなり、その度にダグラスの息遣いが変わるのを感じる。だから僕は緊張していた。
そして魔物がどこへ向かうのかもわからず歩き続けた先に、開けた丘に辿り着いた。横を見ると、さっき僕とダグラスが昼食を広げていた場所が見える。
そして眼下にはあの村があった。僕たちの昼食も見ていたのだろうか。そして──。
「ずっとここから村を見ていたんだね」
自分の吐き出した言葉で、心の蓋がガタガタ音を立てはじめる。きっと彼はあの村の住人で、山仕事かなにかで行方不明になってしまったのだろう。やっと帰ってこれたのにもかかわらず、彼はずっとここを彷徨い続けている。
もしかしたら、一度村に帰って石を投げられたのかもしれない。
もしかしたら、兵士に追いかけられ、這々の体で逃げてきたのかもしれない。
もしかしたら、自分の姿に絶望して村に帰れなかったのかもしれない。
でも彼は村が恋しくて、ここを離れられなかった。
「生きている木はダメだよ。村がよく見えて大きな枯れ木じゃなきゃ」
僕は余計なことを振り払い、声を絞り出す。
僕が義父に引き取られた頃、一度だけ会った初老の男性に僕は2つのことを教わった。ひとつはありがとうの魔法。もうひとつは死者が魔物になってしまった時の対処法。その幸運を今噛み締める。義父に質問してもきっと答えられなかっただろう。
しばらくするとダグラスがポツリと言った。だから僕は行ってみたいと答えた。どちらともなく昼食の片付けをして、ジンバルと共に山を歩き始める。
「ダグラス……あの……」
立ち上がった時から、小便をしたいと思っていたが、女性はこういう時になんと言えばいいのかわからなかった。僕が俯いていると、ダグラスは顔を覗き込み、そして慌てた。
「あ、その、すまない、あまり遠くに行かないでくれ。声が届くところで、その、あっちを向いてるから」
「は、はい」
僕は返事もそこそこに、ダグラスの向いている方とは逆の森に走る。振り返って彼を確認したら、言った通りに向こうを向いていた。僕はスカートをたくしあげて、そのまま立小便をする。開放感と少々の震えが収まったら、スカートが全て降りているか確認した。
その時、視界の端に黒いモヤのようなものが見える。
「え?」
神殿の北にある森に行くことがあるが、こんな黒いものを見たことがない。好奇心から近づいて行くと、それは恐怖を覚えるほどの速さで向こうの木の裏に隠れた。
「ひゃっ!」
「リリィ、どうした? 振り向くぞ」
離れたところからダグラスの声がする。でも僕はその黒い物体から目が離せなかった。なぜならばその黒いモヤの集合体が、震えていたからだ。
「リリィ! 離れろ!」
駆け寄る音が響き、僕は慌てて叫ぶ。
「ダグラス! 来ないで!」
「リリィ、そいつは魔物だ!」
「ダグラス! お願いっ!」
僕の叫び声で足音が止まった。
封印師を生業にしている手前、人生で魔物というものにお目にかかったことがない。だからだろう、自分の仕事が一体どういうものなのかという実感もなかった。
魔物に対峙してみて思うことがある。魔物は今怯えている。そして僕にはそれがわかるのだ。
「あの、僕は封印師なんです。あっちの人には内緒にしてください」
ダグラスには聞こえないように小声で語りかける。すると魔物と呼ばれる黒いモヤの奥から、ふたつの赤い目が覗いた。ゆっくりと、黒いモヤはちぎれるように僕に近づいてくる。
そして細くなったモヤがゆっくりと僕の手に触れた。その辿々しい動きを見て認めたくない思いもあったが、魔物は僕に似ていると思ったのだ。この魔物は多分、元は人間だ。
「貴方は封印してもらわなかったの? もし死体がそばにあったら、僕が封印してあげる」
ザワザワと黒いモヤが大きくなったり小さくなったりして、必死でなにかを訴えている。そして、ダグラスがそれを見ていつ飛び込もうか迷っている気配も感じた。
「死体はもう無いかな? 一人で寂しかったね。でももう大丈夫だよ。枯れた木を一緒に探そう。なるべく大きな枯れ木がいい」
魔物は大きくなったり小さくなったりしながら移動しはじめる。この森に長く居るのだろうか。先の大戦は八十五年前。最悪の場合、八十五年この森を彷徨っていた可能性がある。
「封印したらね、十五年後にみんなのところに行けるからね。あと少しの辛抱だよ」
一定の距離をあけてダグラスが後ろからついてきている気配を感じていたから、僕は小声で魔物に語りかける。
魔物は嬉しいのか時々大きくなり、その度にダグラスの息遣いが変わるのを感じる。だから僕は緊張していた。
そして魔物がどこへ向かうのかもわからず歩き続けた先に、開けた丘に辿り着いた。横を見ると、さっき僕とダグラスが昼食を広げていた場所が見える。
そして眼下にはあの村があった。僕たちの昼食も見ていたのだろうか。そして──。
「ずっとここから村を見ていたんだね」
自分の吐き出した言葉で、心の蓋がガタガタ音を立てはじめる。きっと彼はあの村の住人で、山仕事かなにかで行方不明になってしまったのだろう。やっと帰ってこれたのにもかかわらず、彼はずっとここを彷徨い続けている。
もしかしたら、一度村に帰って石を投げられたのかもしれない。
もしかしたら、兵士に追いかけられ、這々の体で逃げてきたのかもしれない。
もしかしたら、自分の姿に絶望して村に帰れなかったのかもしれない。
でも彼は村が恋しくて、ここを離れられなかった。
「生きている木はダメだよ。村がよく見えて大きな枯れ木じゃなきゃ」
僕は余計なことを振り払い、声を絞り出す。
僕が義父に引き取られた頃、一度だけ会った初老の男性に僕は2つのことを教わった。ひとつはありがとうの魔法。もうひとつは死者が魔物になってしまった時の対処法。その幸運を今噛み締める。義父に質問してもきっと答えられなかっただろう。
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