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夜明けの車窓
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夜勤明け早退の始発電車は空気が澄んでいるのになんだか息苦しい。これから街は埃を立てて動き出し、その表情を刻々と変えるのだろう。だけど僕はたった1人誰もいないこの下りの始発電車でみんなとは違う時間軸で眠る。
環状線の電車に揺られ見慣れた夜明け前の空を眺める。春も近いというのに未だ日は昇らない。
インフラエンジニアとは名ばかりで会社の、いや、社会の雑用にしかすぎない。しかしリリースやら保守やらでこういった夜勤が慢性的にある仕事だ。上京したての頃は180度違う時間軸で生きることになるとは思いもしなかった。そしてこんなに1人が孤独とは思いもしなかった。窓から見える真っ黒な街を指でなぞるように窓を触る。そうやってなぞると景色が故郷に書き換えられる気がするのだ。完全なるホームシックだった。
電車はトンネルに入って僕から街さえ奪う。真っ黒な窓に人が映る。僕の上司の荒野さんだった。その輪郭をなぞって窓を撫でる。きっと彼は僕の好意に気がついていたのだろう。荒野さんは僕をこのチームに追いやった張本人だった。システムエンジニアとして入社した僕に見切りをつけて配置換えを行った。仕事ができないと遠回しに気を遣われることがこんなに自尊心を傷つけられるとは思わなかった。仕事が好きという気持ちも、荒野さんが好きという気持ちも一気に断ち切られたのだ。
「こんなはずじゃなかったのにな……」
トンネルを抜けた瞬間、自分がなぞっていた窓に一縷の光が差し込む。指を広げてその温度を確かめようと窓の方を向いた。
奇跡のように美しい朝焼けはこうやって毎日繰り返されるのに、僕はどうして当たり前のことも満足にできないのだろう。仕事だけでもいい、荒野さんだけでもいい。たった一つでいい。見知らぬ土地で立っていられるだけのたった一つの何かが欲しいのに。
その瞬間、その手を後ろから握られた。
「どんなはずだったの?」
腕を辿って顔を見ると、さっき窓に映っていた荒野さんだった。
「な……!」
驚きのあまり言葉が続かなかった。
「ずっと俺をなぞってたじゃない」
半分寝ていて、窓に映る荒野さんは自分の想像だとばかり思っていた。
「す……すみません……!」
「どんなはずだったの?」
荒野さんは僕を逃がさない。グングン昇る朝日が彼の輪郭を鮮明に美しく輝かせる。綺麗だった。彼が掴んだ手を解いて、顔の輪郭をなぞる。
「部署が一緒だと恋愛しづらいんだ」
そう言う彼の唇の輪郭を指でなぞる。
「傷つけたならごめん、先に言うべきだったってずっと思ってた」
「こ……荒野さん……仕事は……?」
「徹夜明け早退だよ。こうやって違う部署だと便利だろ?」
荒野さんが伏し目で俺の手を愛おしそうに撫でる。その瞼を朝日に反射した光が定期的に照らす。それが過ぎ去った時、急に彼が真剣な眼差しで僕を見た。
「勝手に決められたくないなら、そこを巣立ってこっちに来い。それまではこうやって俺の言う通りにしろ」
見たこともない視線に息を飲んでいるうちに、荒野さんの唇が近づく。あ、と声を漏らしたら開いた口に舌が滑り込んできた。車内がどんどん明るくなるのに荒野さんはキスをやめない。次の駅のアナウンスが流れた時に唇が離れた。
荒野さんが眩しそうに僕を見る。
「俺が好きか?」
喉に何かが詰まって言葉が出てこない。だから涙を堪えながら頷いた。電車が次の駅に到着し、開いたドアから朝の空気が流れ込む。それと同時に荒野さんが僕の腕を掴んで立ち上がらせた。
「じゃあ、来い」
見知らぬ駅のホームに影2つ。その影が朝の光と埃に包まれて、少しだけ動き出す予感に胸を震わせた。
―――――――――――――――――――――――――
お題:巣立ち/夜明けの空/「こんなはずじゃなかった」
環状線の電車に揺られ見慣れた夜明け前の空を眺める。春も近いというのに未だ日は昇らない。
インフラエンジニアとは名ばかりで会社の、いや、社会の雑用にしかすぎない。しかしリリースやら保守やらでこういった夜勤が慢性的にある仕事だ。上京したての頃は180度違う時間軸で生きることになるとは思いもしなかった。そしてこんなに1人が孤独とは思いもしなかった。窓から見える真っ黒な街を指でなぞるように窓を触る。そうやってなぞると景色が故郷に書き換えられる気がするのだ。完全なるホームシックだった。
電車はトンネルに入って僕から街さえ奪う。真っ黒な窓に人が映る。僕の上司の荒野さんだった。その輪郭をなぞって窓を撫でる。きっと彼は僕の好意に気がついていたのだろう。荒野さんは僕をこのチームに追いやった張本人だった。システムエンジニアとして入社した僕に見切りをつけて配置換えを行った。仕事ができないと遠回しに気を遣われることがこんなに自尊心を傷つけられるとは思わなかった。仕事が好きという気持ちも、荒野さんが好きという気持ちも一気に断ち切られたのだ。
「こんなはずじゃなかったのにな……」
トンネルを抜けた瞬間、自分がなぞっていた窓に一縷の光が差し込む。指を広げてその温度を確かめようと窓の方を向いた。
奇跡のように美しい朝焼けはこうやって毎日繰り返されるのに、僕はどうして当たり前のことも満足にできないのだろう。仕事だけでもいい、荒野さんだけでもいい。たった一つでいい。見知らぬ土地で立っていられるだけのたった一つの何かが欲しいのに。
その瞬間、その手を後ろから握られた。
「どんなはずだったの?」
腕を辿って顔を見ると、さっき窓に映っていた荒野さんだった。
「な……!」
驚きのあまり言葉が続かなかった。
「ずっと俺をなぞってたじゃない」
半分寝ていて、窓に映る荒野さんは自分の想像だとばかり思っていた。
「す……すみません……!」
「どんなはずだったの?」
荒野さんは僕を逃がさない。グングン昇る朝日が彼の輪郭を鮮明に美しく輝かせる。綺麗だった。彼が掴んだ手を解いて、顔の輪郭をなぞる。
「部署が一緒だと恋愛しづらいんだ」
そう言う彼の唇の輪郭を指でなぞる。
「傷つけたならごめん、先に言うべきだったってずっと思ってた」
「こ……荒野さん……仕事は……?」
「徹夜明け早退だよ。こうやって違う部署だと便利だろ?」
荒野さんが伏し目で俺の手を愛おしそうに撫でる。その瞼を朝日に反射した光が定期的に照らす。それが過ぎ去った時、急に彼が真剣な眼差しで僕を見た。
「勝手に決められたくないなら、そこを巣立ってこっちに来い。それまではこうやって俺の言う通りにしろ」
見たこともない視線に息を飲んでいるうちに、荒野さんの唇が近づく。あ、と声を漏らしたら開いた口に舌が滑り込んできた。車内がどんどん明るくなるのに荒野さんはキスをやめない。次の駅のアナウンスが流れた時に唇が離れた。
荒野さんが眩しそうに僕を見る。
「俺が好きか?」
喉に何かが詰まって言葉が出てこない。だから涙を堪えながら頷いた。電車が次の駅に到着し、開いたドアから朝の空気が流れ込む。それと同時に荒野さんが僕の腕を掴んで立ち上がらせた。
「じゃあ、来い」
見知らぬ駅のホームに影2つ。その影が朝の光と埃に包まれて、少しだけ動き出す予感に胸を震わせた。
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お題:巣立ち/夜明けの空/「こんなはずじゃなかった」
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