林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ゆれる秋』

8 単純な非日常

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「映画、観に行きませんか?」

 通路側に座るハルは足を引っ込める。隣に座るサキも足を引っ込めて、「すいません」と小さく会釈するよそよそしい男女二人組を奥へ行かせた。サキは、その二人が席に着くのを見届けると、今度はキョロキョロしはじめ、他の客の様子を観察する。
 隣の席はいつまでも落ち着かない。ハルが目をつむると、サキが話しかけてきた。
「わたし、人生で2回目です!」と、ピースサイン。
「初めて映画館に行ったのは、小4の時です。お母さんとお父さんと一緒に行きました」
 平然と出てくる“父”と“母”の単語に、ハルの視線はサキの顔へ移った。絆創膏の貼られた頬。初めて観た映画の思い出を話す表情は穏やかで、なんの苦も感じられない。そんなことより「あ、キャラメルポップコーンのいいにおい~」と鼻を動かし、今、この時を楽しんでいるようだった。
「買ってこようか?」
「いえ! 大丈夫です! ハルさんは、絶対食べない派ですよね?」
「遠慮するな」
「……わたし、初めてのときにポップコーン買ってもらったんですけど、大量にこぼしちゃったんです。それが今でも忘れられなくて……。それに、全部食べられる気もしないので」
 サキは眉をひそめて小さく苦笑いする。
 彼女の言う通り、映画を観るときはなにも口にしないが、一度だけホットコーヒーを買って観たことがある。上映中は映画に夢中で、買ったことすら忘れて、結局、重さの変わらない冷めきったコーヒーを持ち帰った。
 あの頃は、上映中に人が出す雑音さえも心地好く感じられた。
「今日の日を上書きできるといいな」とハルは言う。これはおそらく独り言に近い。だから、サキの耳に届く前に、周りの話し声で簡単に消された。
 ハルは腕時計を見る。
 ようやく背もたれを使ったサキは、足をふらつかせ、落ち着いたかと思ったら、またキョロキョロと周りの様子を伺う。その表情はいつまでも笑顔。ふと目が合うと、サキは照れ隠しするように言う。
「この雰囲気って、遊園地のアトラクションに乗る前と似てませんか?」
 サキは映画より映画館を楽しんでいる。その感覚は懐かしい。昔、毎日のように映画館へ通っていたことを思い出す。映画館は特別な場所。そして、映画はまた新たな別世界へと誘い、簡単に非日常を味わせてくれる。
 そして今日、十数年ぶりにプロの虚構を目にする。映画もドラマも本も、今まで故意に避けてきた。だから今日、彼女の誘いに乗らなければ、一生、もう二度と創作物と関わることはなかっただろう。
 照明が暗くなると、静かに騒がしかったサキはピシャリと姿勢を正し、まっすぐに正面を見つめた。ハルも、サキへ向けていた視線を正面へ戻す。
 大きなスクリーンに映し出される、存在しない世界のよくできた話。予告編が終わり、本編上映開始。
 晴天の下、たたずむ一人の男の子。ビルが立ち並ぶ街が映る。この物語の舞台は現代だろうか。
 ストーリーを大まかに説明すると、幼少時代、何者かに両親を殺された少年が、その犯人を見つけ出し復讐する、といったありきたりなミステリー。かと思いきや事態は一変。この主人公の少年は、実は人間と悪魔の間に産まれた子で、崩壊する人間界と悪魔界を救うという、世界の終末が描かれた壮大なファンタジーだった。
 少年の表情と似つかわしくない晴れやかな空は、空気を読んだのか、日暮れとともに雲行きが怪しくなる。
 風景が主人公の心情を表す、よくある演出が続く。
 雨に打たれる背中。
 覚悟を決めた瞳が向けられた。
 主人公の少年と目が合い、ふと思う。

 向こうの世界から見れば、こちらの世界は非日常になるのだろうか。

 このスクリーンの向こう側にいる少年にとっては、両親が殺されたことが事実で、悪魔界が存在する世界が現実。
 そんな世界からこちらを見れば、この物語はどれだけ退屈だろうか。
 こちらの現実世界で実際に暮らしていてこれほど退屈なのだから、この物語には一銭の価値もない。非常につまらない。誰が見ようと思うのか。そもそも見世物ではない。
 自分の人生の主人公は自分自身とよくいわれるが、そう感じたことはない。だが、目の前のこの少年は間違いなく主人公だ。
 自分の物語と比べれば、確実に面白い。
 ありきたりな演出も、ありきたりではない。降ってほしいときに雨は降らないし、嫌なほど晴天は続く。

 世界は主人公に味方する。
 世界が主人公を軸に回っている。
 世界に守られた主人公は死なない。

 そんな物語も終盤に差しかかる。
『君を愛してる』『私も愛してるわ』と、最期の別れを惜しむように長く抱き合う男女。
 死を目前にして愛を確かめ合うシーンは、必要不可欠なのだろうか。
 ハルは異物として耳に残った『愛してる』を、頭の中で繰り返す。
『愛してる』
 これは女の人の声。次に、男の人の声で問う。
『愛しているよ』
 どの思いでその言葉を発したのか。
 濁りのないまっすぐな言葉の裏側を探ろうと、ハルはもう一度繰り返す。

『愛している……愛してる……愛……』

 まるでアンドロイドが話す単調な電子音のように聞こえた。

 求められたことに応えるだけ。
 タイムリミットが来るまで動くだけ。
 残留物が蓄積されるばかりで、いつまでも尽き果てることはない。
 そこには愛も恋も存在せず、私利私欲のみが渦巻いている。それは楽なことだ。
 ただ最近は、どうも気が滅入る。

『私も愛しているわ』

 今こうして、人が作り出した完璧な虚構に見入る、彼女の隣にいることも……。

「悪い。少し外へ出る……」
 サキに一声かけたハルは席を立ち、急ぎ足でトイレの個室へ入り、カギを閉めた。
 ため息をつく。
 日に日に強まる不快感に、たえられなくなっていく。今まではうまく受け流せていたのに、最近は受け止めてしまうことが多くなった。
 胸が圧迫される。
 できれば吐きたくないと、便器の前で葛藤する。そしていつも通り負けた。
 体の防御反応に任せて、本音まで吐き出せればどれだけ楽だろうか。どれが本当の気持ちで、それに伴って作られた言葉なのかもわからないというのに。
 吐くこともできない思いが積み重なっていく。
 首を絞めているのは自分の手で、喉に詰まる異物の正体は自身が招いた罪の塊。それは吐いても吐いても一生取れることはないだろう。
 息苦しさに呼吸が乱れるハルは、よろよろと立ち上がりドアにもたれかかった。
 さっきの映画の何気ないワンシーンがふと頭をよぎる。
 虚ろな瞳に、モノクロに近い薄い色の映像が流れた。画に合わせて効果的に繰り出される大きな音と、振動で揺れる体。
 個室に射し込む天井の人工的な光さえもうるさく、わずらわしい。
 ハルはその場にしゃがみ、全ての情報を遮断するようにうつむいて、目を閉じ、耳をふさいだ。

 トイレを出るとサキがそばで待っていた。気づいたサキが駆け足で近寄る。
「待たせて悪かった」
「大丈夫ですか?」
「ああ。もう、終わったのか?」
「……はい! すみません、ハルさんには退屈でしたよね……」
 戻ってこないハルが気がかりで、映画の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
 サキがスクリーンを出たあと、彼らは一体どんなラストを迎えたのか。終演を見届けた人々が、立ち止まるふたりの横を通り過ぎていく。
「そんなことはない」
 不安そうな顔を浮かべるサキが被っているキャップのツバを掴み、視界をふさぐように下へ傾けた。
「わっ!」
 見たくなかった。
 不安な顔も悲しい顔も、泣いた顔も怒った顔も、一番苦手な笑顔も……。それでも、
「笑っていてほしい」
 ハルの呟きは、中身のない表面上だけの感想を言い合うカップルの声にかき消された。
 見上げようとするサキを制するように、キャップの天ボタンを軽く押した。
「イッ……もう! それやめてください。地味に痛いんですから」
 サキはハルの脇腹を軽くパンチしてやり返す。なんてじゃれ合っている間に人の波が穏やかになり、ふたりは出口に向かって歩き出した。
「映画はどうだった?」
「……実は最後まで観てなくて……」
「俺のせいか」
「あっ、でも、面白かったですよ!」
「それなら尚更観たかっただろう」
「いえ、ハルさんの方が心配だったので……」
「今日はすまなかった。よければまた観に来よう。俺に付き合ってほしい。今度は最後まで」
「はい!」
 この場で物語の結末を知らないのは、小指を絡めるふたりだけ。
 だったら、それを想像するのもいい。
 そして話し合おう。
 お互いがなにを感じて、なにを思ったのか。
 自由に描いたラストを、自由に語り合おう。
 架空の世界の終焉をこの目で見届けるまで、彼らのありきたりな物語は終わらないのだから。

 ──グルルルル──

 空気も読まず拍子抜けする音が鳴った。
「あんたはいつも腹を空かせているな」
「すみません……」
「……もし、あの映画のように、明日世界が終わるなら、今、なにが食べたい?」
「んー、やっぱりアップルパイかな。あとはシチューとかハンバーグとか、オムライスとか。グラタンもいいなぁ」
「そんなに食べられないだろう?」
「えー? だって、一個だけって言ってないじゃないですか。ハルさんが作ってくれたナポリタンもまた食べたいし……うーん、一つに絞るのは難しいですよー……」
「欲張りさん」
「えっ。……あっ、わかった! 好きな人と一緒に食べられるなら、どんなものでもいいです!」
 屈託のない笑顔を向けるサキに聞き返す。
「好きな人?」
「はい! 好きなひと……と……ハ、ハルさんは?」
「俺は……そうだな。あんたと同じかもしれない」
「……好きな人?」
 ハルは一呼吸置いて答える。
「美味しいと思えるものならなんでもいい。とりあえず今は水が飲みたい。もし明日世界が終わるとしても、今は水を選ぶ」
「じゃあ、わたしはオレンジジュースで!」
 少年が暮らしているスクリーンの反対側の世界は、どうやら水分補給が足りていないようで、喉が渇いたから館内の売店で飲み物を購入する、という、つまらないストーリーを作り出した。
 おそらく、向こう側の住人は今、スクリーンにポップコーンを投げつけているところだろう。
 綺麗で完璧な非日常的日常のストーリーを作れるものは一握りだけである。
 たとえ、自分がこの世界の主人公であっても、誰に見せるでもない、一銭の価値もない、単純な日々の話を作り続けることだけで精一杯だ。


 その日の夜、ふたりは別々の場所で流れ星を見た。それはとても大きな光で、散り散りになりながら落ちていった。

 もし、今日で地球が終わるなら、なにを思うだろう。なにを思い浮かべるだろう。どんな行動を起こすだろう。最後の最後まで願ってばかりだろうか。
 もし、今日で地球が終わるなら……。

『もっとたくさんの星が見てみたい』

 携帯電話を片手に、ふたりは夜空を見上げながら、明日よりずっと先の約束を、眠るまで話し続けた。
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