林檎の蕾

八木反芻

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に『落下少女が夢に見たのは宙(そら)に浮かぶ月』

9 夢見る少女をさらう夜

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 ──ギギギリ──

 サイドブレーキを引き、

 ──ガコガコン──

 ギアをニュートラルへ。
 到着したのに「降りろ」とは言わない。
 無言の時間が数秒続いて「これを返すのが目的だった」と、グローブボックスから折り畳み傘を取り出した。
「えっ……ここにあったんですか?」
「ああ」
「……忘れてたとか、ですか?」
「いいや。わかっていた」
 ハルはサキが頬に当てているタオルに手を伸ばし、刺激がないよう優しく外した。そして「早く帰りなさい」と、差し出す傘をサキは受け取ろうとして、思いとどまり手を引っ込めた。
「まだお金が……!」
「金はいらない。俺があんたに傘を返して終わりだ」
(おわり……)
 その言葉が無性に響いて、サキは物悲しさを感じたが、なぜそう感じたのかわからなかった。
「もう、会えないんですか?」
「会う必要がない」
 サキはどうにかして繋ぎ止めるための口実をと、弱い頭をフル回転させる。
「……傘はいりません! わたしがあげたんです。わたしに傘を返したかったらお金を受け取ってからにしてください!」
 突然の気迫にハルが呆気に取られているうちに、急いで車を降りようとサキはドアノブを引っ張った。
「あれ?」
 開かない。
「あれっ? えっ!?」
 傘を返される前に離れたかったのにドアが開かない!
 予定外の展開に慌てるサキを見て、ハルは彼女が座るシートに手をつき覆い被さるように前屈みに立った。
 いきなり目の前に迫るハルに驚いて退くサキ。もっと離れたいのに背もたれが邪魔をする。
 ハルがドアノブに手をやると硬直する手に当たり、その手を握った。
 見つめられ、何をされるのか……、戸惑うサキは息を凝らして我慢する。
「あっ、あの……?」

 ──ガチッ──

「鍵、ここだから」と、ハルはドアのロックを外し、

 ──ガチッガチッ──

 かけて、教えるようにまた外してみせた。
「はえっ……」
 勘違いしたサキはあまりの恥ずかしさにいたたまれず、その勢いでハルを押し退かし車から飛び出した。
「待て」
 ドアを開けて呼ぶハルに向かって、なぜか喧嘩腰でサキは振り返る。
「なんですか!?」
 ハルは車を降りて、またも睨みつけるように見てくる威勢の良いサキに近づいた。
「電話貸せ」
「……は……?」
「携帯電話」
 思いがけない要求に、ポカンと見つめたままのサキ。
「連絡先がわからないと、これ、返せないだろ」と、持ってきた傘を見せる。
「……えっ、返さないんですか?」
「なにを言ってる?」
「だって、傘、返すって……」
「俺があんたの金を受け取るまで返すなと、あんたが言ったんだろ?」
「そうですけど……。でも、ハルさん、無理矢理返してきそうだったから……」
「だから逃げたのか」
「それは……はい……」
「俺はあんたみたいに強引に押し付けたりしない」
「わたし?」
「必要なかったのにこの傘を俺に押し付けただろ」
「え。あ、だってあの日は! ……晴れてたけど、帰りは雨で、ハルさん傘差してなかったし、持ってないんじゃないかなって……え? 持ってたんですか?」
 ハルは目をそらし数秒考える素振りをみせるとすぐに視線を戻して「いいや」と一言答えた。
 するとサキは得意気に「やっぱり必要あったじゃないですか」と笑顔をみせた。

 置きっぱなしの携帯電話を取りに、ハルは車へ戻る。
 窓に映る丸い光に、ふと空を見上げた。
 見慣れたはずの月が、今日に限って眩しく、やけに目につくのはきっと……、
「あ。」
 あどけなく指を差す彼女が、夜を切り開くその光を見つけたせいだ。
 ハルは月に見惚れるサキの横顔を見つめ、また空を見上げた。
 月明かりに照らされた二人は、言葉を交わすこともなく、しばらくはそのまま、並んで月を眺めた。
 少女が伸ばした手は影となり、影は二人を繋いだ。


 ・・・


 そのあと二人は携帯電話の番号を交換した。
 登録名はハンドルネームのまま。交換しているとき、サキはハルの本名を知ることができるのではないかと無駄な期待をしていた。まあ結局は聞き出せるわけもなく、そのまま二人は別れた。
 おとなしく家に帰ったサキは「おかえり」と頭を撫でられ、小さく「ただいま」と答えた。
 自室へ直行すると、ベッドの上で携帯電話を開き画面を見つめてはニヤニヤと、抱いた枕を顔にあて漏れる声を押さえた。
「ハセ、さん……」
 電話帳画面に映る番号を覚える勢いで何度も何度も頭の中で繰り返す。
「にひひ」
 自分でもなぜこんなにも心が弾んで夢見心地になるのかわからない。とにかく嬉しくてたまらなかった。
 ゴロゴロと左に右に揺れては足をバタつかせたりと、ベッドの上で忙しなく動き回るサキは、時おり長いため息をつく。
「また会えるかな……」
 いつもと違う制服のにおいに包まれながら、騒がしい少女は静かな夜の時にゆっくり、ゆっくりさらわれていくのだった。



『落下少女が夢に見たのは宙(そら)に浮かぶ月』おわり。
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