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勇は山南の意見を受け入れるということはなかった。
山南は最後の賭けに出ることにする。
切腹の対象となっている脱退を抗議の意味を込めて試みたのである。
元治二年二月二十一日、「我、いやしくも副長(総長)に従事す。その言の容れざるは土方等の奸媚による」と書気き置きを残して屯所を去った山南は、京都からわずかに三里(約十二キロ)の大津宿に宿をとり、賭けの結果が出るのを待っていた。
山南を追ってきたのは病魔に侵されている沖田ではなく、君菊であった。
「山南さん。死に急ぐなんて馬鹿のやることですよ」
「隊士ではなく君菊さんが追っ手で来るとは…近藤さんは酷い人だ」
山南は知っている。君菊が誰であろうと人を殺せる覚悟を持った人間であることを。
その人間を追っ手で寄越したということは、賭けに負けたということなのだろう。
山南は諦めたかのように静かに目を閉じた。
翌日の二十三日、屯所に帰った二人だったが、肝心の勇が山南に示唆したのは、切腹だった。
永倉新八、伊東甲子太郎が再度の脱走を勧めたが、賭けに敗れた山南はすでに覚悟を決めていた。
「本当は俺がやるべきなんですよね…すみません、君菊さん」
「いいのよ。…私は、何も感じない人間だから」
沖田の言葉に君菊は無感情の瞳で答える。
もう普段の君菊はそこにはいなかった。
家の教えで訓練された殺人が行える人格を持った女子がそこにはいた。
夕方。橙色の染まる頃。
切腹の準備が整い、介錯は山南の希望で君菊が務めることになった。
歳三が反対をしたが、それを君菊は片手で制した。
彼女の瞳を見て歳三は息が止まった。無感情の目がそこにはあったからだ。
歳三はその瞳が嫌いだった。そんな瞳をして欲しくはなかったからである。
同志と水杯を交わした山南は、「言葉をかけるまで刀を下ろさないでください」と断った上で、静かに小刀を取り上げて左下腹に突き刺し、真一文字に引き回して前方に突っ伏す。
その瞬間、君菊が持つ刀が振り下ろされた。享年三十三歳。
山南と尊王思想を共有した伊東甲子太郎は、山南の死を悼んで次の弔歌を詠んでいる。
春風に吹きさそわれて山桜 ちりてそ人に推しまるるかな
介錯を務めた君菊は、いつも通りの瞳を見せて壬生屯所を後にするための荷物整理をしていた。
歳三はそんないつも通りの君菊が心配で、部屋を訪ねた。
「君菊、入っていいか」
「いいわよ。今、散らかっているけれど」
歳三は許可を得ると遠慮なく部屋に入った。
部屋は確かにいつもより散らかっているが、歳三が想像していたよりも綺麗だった。
「どうかしたの?」
「いや、その…大丈夫かと思ってよ」
「何が大丈夫かって?」
「山南さんの介錯したじゃねぇかよ」
「それが何?」
「無理、してんじゃねぇかと思って…」
頭をかきながら言いづらそうに言葉を紡ぐ歳三。
君菊は言われている意味がわからずにいた。
別に自分は何も無理などしていない。ただ、やるべきことをやっただけだ。
歳三がなぜ自分のことを心配してくれているのか、わからなかった。
「無理なんかしていないわよ。どうしたのよ、歳三」
「俺の言ってる意味がわからねぇか。まぁ、別にいい」
そういうなり君菊の細い身体を歳三はそっと抱きしめた。
作業している手を止める君菊。
どうしてそんなにこだわっているのかわからずにいる。
「我慢なんかしなくていい。俺にも背負わせてくれ」
「……変な歳三。私は何も思っていないのに」
実際、君菊はなんとも思っていなかった。
見知っている相手でも彼女は人格が変われば、いくらでも斬り捨てることができる。
歳三だってそのことはよく知っているはずだ。
そうだというのに君菊の心の心配をする歳三。
無駄と言われれはそれまでもかもしれないが、惚れた相手が傷ついていないかを知りたいと思うことは当然のことだ。
そのことを君菊は知らなかった。
「総司にもそういえば心配されたわね。二人して何か示し合わせているの?」
「んなこと示し合わすわけねぇだろ。つーか、総司がそんなこと言ってたのか。何かされたか」
「特に何も。手を握られたくらいかしら」
「されてるじゃねーか!」
「不貞行為ではないでしょう?手を繋いだわけじゃないんだし」
「そういう話じゃなくてだな…」
こういう時、自分の想いを素直に言えればどんなに良いかと歳三は思う。
でも言うわけにはいかない。呪いの言葉を告げるつもりはない。
そのくせ許嫁というだけで立場を縛り付けている。ずるい男と言われればそれまでだ。
君菊は何の疑問も持たずにその立場を受け入れている。
もうお互いいい歳だ。結婚してない方がおかしな話なのだ。
歳三は、前から疑問に思っていることを尋ねてみることにした。
「君菊。お前、嫁になる気はないのか」
それは一番聞きたいことでもあり、また聞きたくないことでもあった。
君菊は少し驚いた顔をして歳三を見る。
尋ねられるとは思ってもいなかったようだ。それでも落ち着いて答えた。
「そうね。正直に言うとなる気はないわ。だって歳三、私を嫁にする気なんて最初からないでしょう?」
あの日の決意を目にしてから、君菊は歳三の嫁になれないことを知っていた。
そのことを歳三は知らない。だから、目を見開いて驚いている。
まるで自分の心を見透かしたかのような言葉をかけられたからだ。
「お前…」
「この時代だし、独り身も悪くないかなと思っているわ」
いつも通りの笑みで君菊はそう言った。
その笑みを見て歳三は叶えてやれないことに胸が苦しくなった。
山南は最後の賭けに出ることにする。
切腹の対象となっている脱退を抗議の意味を込めて試みたのである。
元治二年二月二十一日、「我、いやしくも副長(総長)に従事す。その言の容れざるは土方等の奸媚による」と書気き置きを残して屯所を去った山南は、京都からわずかに三里(約十二キロ)の大津宿に宿をとり、賭けの結果が出るのを待っていた。
山南を追ってきたのは病魔に侵されている沖田ではなく、君菊であった。
「山南さん。死に急ぐなんて馬鹿のやることですよ」
「隊士ではなく君菊さんが追っ手で来るとは…近藤さんは酷い人だ」
山南は知っている。君菊が誰であろうと人を殺せる覚悟を持った人間であることを。
その人間を追っ手で寄越したということは、賭けに負けたということなのだろう。
山南は諦めたかのように静かに目を閉じた。
翌日の二十三日、屯所に帰った二人だったが、肝心の勇が山南に示唆したのは、切腹だった。
永倉新八、伊東甲子太郎が再度の脱走を勧めたが、賭けに敗れた山南はすでに覚悟を決めていた。
「本当は俺がやるべきなんですよね…すみません、君菊さん」
「いいのよ。…私は、何も感じない人間だから」
沖田の言葉に君菊は無感情の瞳で答える。
もう普段の君菊はそこにはいなかった。
家の教えで訓練された殺人が行える人格を持った女子がそこにはいた。
夕方。橙色の染まる頃。
切腹の準備が整い、介錯は山南の希望で君菊が務めることになった。
歳三が反対をしたが、それを君菊は片手で制した。
彼女の瞳を見て歳三は息が止まった。無感情の目がそこにはあったからだ。
歳三はその瞳が嫌いだった。そんな瞳をして欲しくはなかったからである。
同志と水杯を交わした山南は、「言葉をかけるまで刀を下ろさないでください」と断った上で、静かに小刀を取り上げて左下腹に突き刺し、真一文字に引き回して前方に突っ伏す。
その瞬間、君菊が持つ刀が振り下ろされた。享年三十三歳。
山南と尊王思想を共有した伊東甲子太郎は、山南の死を悼んで次の弔歌を詠んでいる。
春風に吹きさそわれて山桜 ちりてそ人に推しまるるかな
介錯を務めた君菊は、いつも通りの瞳を見せて壬生屯所を後にするための荷物整理をしていた。
歳三はそんないつも通りの君菊が心配で、部屋を訪ねた。
「君菊、入っていいか」
「いいわよ。今、散らかっているけれど」
歳三は許可を得ると遠慮なく部屋に入った。
部屋は確かにいつもより散らかっているが、歳三が想像していたよりも綺麗だった。
「どうかしたの?」
「いや、その…大丈夫かと思ってよ」
「何が大丈夫かって?」
「山南さんの介錯したじゃねぇかよ」
「それが何?」
「無理、してんじゃねぇかと思って…」
頭をかきながら言いづらそうに言葉を紡ぐ歳三。
君菊は言われている意味がわからずにいた。
別に自分は何も無理などしていない。ただ、やるべきことをやっただけだ。
歳三がなぜ自分のことを心配してくれているのか、わからなかった。
「無理なんかしていないわよ。どうしたのよ、歳三」
「俺の言ってる意味がわからねぇか。まぁ、別にいい」
そういうなり君菊の細い身体を歳三はそっと抱きしめた。
作業している手を止める君菊。
どうしてそんなにこだわっているのかわからずにいる。
「我慢なんかしなくていい。俺にも背負わせてくれ」
「……変な歳三。私は何も思っていないのに」
実際、君菊はなんとも思っていなかった。
見知っている相手でも彼女は人格が変われば、いくらでも斬り捨てることができる。
歳三だってそのことはよく知っているはずだ。
そうだというのに君菊の心の心配をする歳三。
無駄と言われれはそれまでもかもしれないが、惚れた相手が傷ついていないかを知りたいと思うことは当然のことだ。
そのことを君菊は知らなかった。
「総司にもそういえば心配されたわね。二人して何か示し合わせているの?」
「んなこと示し合わすわけねぇだろ。つーか、総司がそんなこと言ってたのか。何かされたか」
「特に何も。手を握られたくらいかしら」
「されてるじゃねーか!」
「不貞行為ではないでしょう?手を繋いだわけじゃないんだし」
「そういう話じゃなくてだな…」
こういう時、自分の想いを素直に言えればどんなに良いかと歳三は思う。
でも言うわけにはいかない。呪いの言葉を告げるつもりはない。
そのくせ許嫁というだけで立場を縛り付けている。ずるい男と言われればそれまでだ。
君菊は何の疑問も持たずにその立場を受け入れている。
もうお互いいい歳だ。結婚してない方がおかしな話なのだ。
歳三は、前から疑問に思っていることを尋ねてみることにした。
「君菊。お前、嫁になる気はないのか」
それは一番聞きたいことでもあり、また聞きたくないことでもあった。
君菊は少し驚いた顔をして歳三を見る。
尋ねられるとは思ってもいなかったようだ。それでも落ち着いて答えた。
「そうね。正直に言うとなる気はないわ。だって歳三、私を嫁にする気なんて最初からないでしょう?」
あの日の決意を目にしてから、君菊は歳三の嫁になれないことを知っていた。
そのことを歳三は知らない。だから、目を見開いて驚いている。
まるで自分の心を見透かしたかのような言葉をかけられたからだ。
「お前…」
「この時代だし、独り身も悪くないかなと思っているわ」
いつも通りの笑みで君菊はそう言った。
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