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第三十八章
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一服してからナディはカーリャの見舞いに向かった。騎士様はあちこちの負傷から帰城後すぐに別室で治療されていたのだ。
「後でわたしも行くわ。ナディの騎士様と会うのが楽しみ」
最後までアンジェラのニヤニヤ笑いがどうにも居心地悪い。
「後はお任せ下さいませ。ナディ様」
部屋迄はノーラが案内してくれた。相変わらず先に立ち、顔を向けないで話してくる。
「アーレグレイ侯爵家は決して聖友堂騎士団と関係が良好ではございませんが、あちらの幹部に姫様とご縁があった方がおられます。そちらへ姫様がお話すれば事はすんなりまとまるでしょう」
「聖友堂騎士団に?」
ナディには意外だった。アンジェラの言動からは反感とか敵意しか感じなかったのに。
「ええ、現在のベルガエでの拠点で聖騎士長を務めておられるのが姫様の最初の婚約者です」
すごい情報だった。聖騎士と言えばそこらの修道騎士より遥かに上位であり、その長となれば立派な幹部である。
さらにアンジェラの最初の婚約者とは――
「あ、あの……」
追い出した――と言う市井の噂話が出そうになってナディは慌てて口を押さえた。醜聞かも知れないのだから。
「ちなみにそのお方は男色が止められなかったので婚約を解消したのです。姫様に非があったのではありません」
それはそうかも知れないが、それはそれで複雑な事情ねとナディは口を押さえたままで思う。ちょっと聞いてみたい。もう少し詳しく……
い、いやいや いやいやいや。
「あちらにはその借りと恩があります」
だからこの件は大丈夫と言う事なのだろう。ナディはアンジェラのお陰だと安心しようと自分に言い聞かせた。
カーリャが治療されている部屋の前まで連れていかれ、そこで中も覗かずにノーラは戻っていった。ナディはその後ろ姿に深々と一礼する。本当にお世話になりました。今もたっぷりなっています。
それから、さてと向き直り、部屋の扉をノックしようとした処で、扉が開いた。
「あ、ナディ様」
出てきたのは銀髪長身のメイド――ブリッタだった。ついさっきこのメイド姿で槍を振るって大暴れした女傑である。左目の回りの刺青は奇異だが、間近で見るとなかなかの美人だ。
「ちょうど良かったです。お話があります」
最初のお茶会では言葉少なだった彼女だったが、実際に喋ってみると微妙な訛りがある。外見もこうだから、やはり北の異国の出身なのだろうか。
「え? あの、わたしはカーリャ様に……」
「カーリャ殿は痛み止の薬草と薬酒が効いて今は眠っておられます」
そう言う事情なら仕方がない。「こちらへ」とナディは隣室に連れていかれた。
「わたしの仕事部屋です」
部屋に独特の匂いがある。幾つもの棚に整理されてぎっしり並んでいるのは薬草とか医療器具っぽい。壁にかけられている槍は先程ここの主が勇壮に振り回していたものだった。
「ブリッタさんも姫騎士なのですか?」
ナディは椅子を与えられて座り、まずそれを聞いた。騎士と言っても戦うだけではない。奉仕活動として無料の医術を施す奉仕の騎士団もある。
「いいえ。わたしは戦乙女です」
ナディの向かいの椅子に腰かけたブリッタはさらりと言った。
「戦乙女って……あの?」
これはまた珍しい。知っているナディも本物を見るのは初めてだった。
「一言でわかるとはさすがナディ様。はい、ずっと北の生まれです」
このアルトバインの北の白海の向こう岸に北方の国々がある。亜大陸とは違う多神教を信仰しており、戦乙女とはその信仰の中にある。実際の戦士階級の巫女の様な存在だ。戦士達の生死を祈る職業で、一緒に戦場に赴き共に戦いもする。
「戦乙女と認められた時の部族の長の占いで南に行くよう命じられました。それから色々ありまして、今は姫様にお仕えしております」
口調は丁寧である。戦乙女だからか、今はメイドだからかはわからないが。
「この刺青は戦乙女の修行の一つとして医術と薬術を修めた証です」
そう言う風習なのだろう。例えば戦場の混乱時でも医師が誰かすぐわからせる意味があるとかかも知れない。ここではその能力を活かして医師も務めているとの事だった。
「ナディ様に一つ質問があります。ですからまずはわたしへの質問をなされて下さい」
ナディでも初めて聞く言い回しだった。北方のものか、戦乙女のものか。いや、それよりもナディにはこの医師に、まずは何よりも聞きたい事があるのだ。
「か、カーリャ様のご容態は如何なのでしょうか?」
帰還の間、アンティオに騎乗していたが、顔色が青ざめているのは見えた。そのせいだろうか。声もかけてもらっていない。ノーラがかばう様について離れなかったし。
「斬られた傷はありません」
そのカーリャを治療したブリッタはゆっくり確認するように説明してくれた。
「ただ攻撃を避ける為に槍の柄などを何度か身体で受けており、打撲が幾つか。幸い骨折はなかったようです」
「そ、そうですか」
良かった。ナディは心の底からほっとした。
「そして過度の緊張によるものでしょう。かなり疲れています。打撲は包帯で縛り上げて処置しており、三日もすれば腫れも痛みも治まるでしょうが、心身の休養はさらに必要かと」
アンジェラに頼んでその間ここに置いてもらおうとナディは考える。
「ただ、ご本人は三日もすれば故郷に帰らねばならないと申されておりまして」
「え? なぜ?」
「そろそろ秋なので領主として領地の収穫がらみの仕事があるとか」
言われて、『あ、ああ』とナディは漏らした。そうだ。あの方は領主の跡取りなのだ。そう言う責務もあるのだろう。
そしてナディはこのアルトバインへの旅の後の事をカーリャからは何も聞いていない事にも気づく。三日間もあったのに。あんなに語り合ったのに。
……なぜ?
「ではわたしからの質問よろしいでしょうか」
ブリッタが続けた。ナディが急に表情が暗くなった事には気づいているだろうに、それへは触れない。
「ナディ様のその左の肌は刺青ですか?」
ナディは少し驚いた。こう言う質問は初めてだったからだ。
「これ……ですか?」
おずおずと下ろした左の前髪を指差す。ついさっきはこれを武器として使った。今でも信じられない。誰にも見られたくない、触れられたくはずだったのに。
「一応、あの……生まれつきの痣です」
だが相手は命の恩人でカーリャの医師だ。先にこちらの質問に答えてもらった以上、無視もしにくい。
「素晴らしい」
なのに予想もしなかった感想が返ってきた。
「もう一度、その前髪を上げて見せていただけないでしょうか」
「え? あの、どう言う……」
戸惑うナディ。嘲りでそう要求された事はある。だが『素晴らしい』と言われては初めてだった。
「ナディ様は博識とお伺いしておりますが、北の神々の中でも知識を司る神の神話はご存じでしょうか」
ブリッタが問う。ナディはうなずく。その神話は知っていた。
「その知識神は世界の秘密を全て知る為に、原始の巨人に左目を捧げたとされています」
ブリッタの目はきらきらと輝いていた。言葉も少し早くなっている。
「その神話を受け、わたしの生まれた部族では『大賢者』と認められた者には、その左目の上から下へ定められた刺青を行います」
ナディでもそう言う習慣は初めて聞いた。だが医術を修めたブリッタが現に左目回りに刺青を入れている。嘘ではないだろう。
「そうなんですか」
「さすがのナディ様もご存知ないのですか?」
戦乙女はころころと笑った。意外な程にあどけなく見えた。
「でしょう。その時代に一人しか許されぬ名誉ですから。ナディ様がわたしの国に行かれれば大騒ぎでしょう」
「え? 怒られるんですか?」
絶対に行きたくないと思う。
「いいえ。刺青ではなく、生来のものとなれば格が違います。国中を上げて捕まえてでも『大賢者』に祭り上げられるでしょう」
ブリッタはもう一度痣を見せてくれとお願いしてきた。ナディも断れない。渋々だが見せる。
「まさに本物……線ではなく色合いで描かれていて。ああ、これが生まれつきだなんて。ナディ様は本当に知識神の申し子ですわ」
惚れ惚れとされてしまった。むず痒い。だが痣を誉められたのは初めてだ。国や文化が違うだけでこんなになるのか。
「姫様が王都の評判で『図書館半個分の知識』とおっしゃられていましたが、それこそ神の御力の印なのでしょう」
そうかと本気にした訳ではない。だがこの痣は今日は役に立ったから、これくらい誉められてもいいわねとナディも思い直したのだった。
「後でわたしも行くわ。ナディの騎士様と会うのが楽しみ」
最後までアンジェラのニヤニヤ笑いがどうにも居心地悪い。
「後はお任せ下さいませ。ナディ様」
部屋迄はノーラが案内してくれた。相変わらず先に立ち、顔を向けないで話してくる。
「アーレグレイ侯爵家は決して聖友堂騎士団と関係が良好ではございませんが、あちらの幹部に姫様とご縁があった方がおられます。そちらへ姫様がお話すれば事はすんなりまとまるでしょう」
「聖友堂騎士団に?」
ナディには意外だった。アンジェラの言動からは反感とか敵意しか感じなかったのに。
「ええ、現在のベルガエでの拠点で聖騎士長を務めておられるのが姫様の最初の婚約者です」
すごい情報だった。聖騎士と言えばそこらの修道騎士より遥かに上位であり、その長となれば立派な幹部である。
さらにアンジェラの最初の婚約者とは――
「あ、あの……」
追い出した――と言う市井の噂話が出そうになってナディは慌てて口を押さえた。醜聞かも知れないのだから。
「ちなみにそのお方は男色が止められなかったので婚約を解消したのです。姫様に非があったのではありません」
それはそうかも知れないが、それはそれで複雑な事情ねとナディは口を押さえたままで思う。ちょっと聞いてみたい。もう少し詳しく……
い、いやいや いやいやいや。
「あちらにはその借りと恩があります」
だからこの件は大丈夫と言う事なのだろう。ナディはアンジェラのお陰だと安心しようと自分に言い聞かせた。
カーリャが治療されている部屋の前まで連れていかれ、そこで中も覗かずにノーラは戻っていった。ナディはその後ろ姿に深々と一礼する。本当にお世話になりました。今もたっぷりなっています。
それから、さてと向き直り、部屋の扉をノックしようとした処で、扉が開いた。
「あ、ナディ様」
出てきたのは銀髪長身のメイド――ブリッタだった。ついさっきこのメイド姿で槍を振るって大暴れした女傑である。左目の回りの刺青は奇異だが、間近で見るとなかなかの美人だ。
「ちょうど良かったです。お話があります」
最初のお茶会では言葉少なだった彼女だったが、実際に喋ってみると微妙な訛りがある。外見もこうだから、やはり北の異国の出身なのだろうか。
「え? あの、わたしはカーリャ様に……」
「カーリャ殿は痛み止の薬草と薬酒が効いて今は眠っておられます」
そう言う事情なら仕方がない。「こちらへ」とナディは隣室に連れていかれた。
「わたしの仕事部屋です」
部屋に独特の匂いがある。幾つもの棚に整理されてぎっしり並んでいるのは薬草とか医療器具っぽい。壁にかけられている槍は先程ここの主が勇壮に振り回していたものだった。
「ブリッタさんも姫騎士なのですか?」
ナディは椅子を与えられて座り、まずそれを聞いた。騎士と言っても戦うだけではない。奉仕活動として無料の医術を施す奉仕の騎士団もある。
「いいえ。わたしは戦乙女です」
ナディの向かいの椅子に腰かけたブリッタはさらりと言った。
「戦乙女って……あの?」
これはまた珍しい。知っているナディも本物を見るのは初めてだった。
「一言でわかるとはさすがナディ様。はい、ずっと北の生まれです」
このアルトバインの北の白海の向こう岸に北方の国々がある。亜大陸とは違う多神教を信仰しており、戦乙女とはその信仰の中にある。実際の戦士階級の巫女の様な存在だ。戦士達の生死を祈る職業で、一緒に戦場に赴き共に戦いもする。
「戦乙女と認められた時の部族の長の占いで南に行くよう命じられました。それから色々ありまして、今は姫様にお仕えしております」
口調は丁寧である。戦乙女だからか、今はメイドだからかはわからないが。
「この刺青は戦乙女の修行の一つとして医術と薬術を修めた証です」
そう言う風習なのだろう。例えば戦場の混乱時でも医師が誰かすぐわからせる意味があるとかかも知れない。ここではその能力を活かして医師も務めているとの事だった。
「ナディ様に一つ質問があります。ですからまずはわたしへの質問をなされて下さい」
ナディでも初めて聞く言い回しだった。北方のものか、戦乙女のものか。いや、それよりもナディにはこの医師に、まずは何よりも聞きたい事があるのだ。
「か、カーリャ様のご容態は如何なのでしょうか?」
帰還の間、アンティオに騎乗していたが、顔色が青ざめているのは見えた。そのせいだろうか。声もかけてもらっていない。ノーラがかばう様について離れなかったし。
「斬られた傷はありません」
そのカーリャを治療したブリッタはゆっくり確認するように説明してくれた。
「ただ攻撃を避ける為に槍の柄などを何度か身体で受けており、打撲が幾つか。幸い骨折はなかったようです」
「そ、そうですか」
良かった。ナディは心の底からほっとした。
「そして過度の緊張によるものでしょう。かなり疲れています。打撲は包帯で縛り上げて処置しており、三日もすれば腫れも痛みも治まるでしょうが、心身の休養はさらに必要かと」
アンジェラに頼んでその間ここに置いてもらおうとナディは考える。
「ただ、ご本人は三日もすれば故郷に帰らねばならないと申されておりまして」
「え? なぜ?」
「そろそろ秋なので領主として領地の収穫がらみの仕事があるとか」
言われて、『あ、ああ』とナディは漏らした。そうだ。あの方は領主の跡取りなのだ。そう言う責務もあるのだろう。
そしてナディはこのアルトバインへの旅の後の事をカーリャからは何も聞いていない事にも気づく。三日間もあったのに。あんなに語り合ったのに。
……なぜ?
「ではわたしからの質問よろしいでしょうか」
ブリッタが続けた。ナディが急に表情が暗くなった事には気づいているだろうに、それへは触れない。
「ナディ様のその左の肌は刺青ですか?」
ナディは少し驚いた。こう言う質問は初めてだったからだ。
「これ……ですか?」
おずおずと下ろした左の前髪を指差す。ついさっきはこれを武器として使った。今でも信じられない。誰にも見られたくない、触れられたくはずだったのに。
「一応、あの……生まれつきの痣です」
だが相手は命の恩人でカーリャの医師だ。先にこちらの質問に答えてもらった以上、無視もしにくい。
「素晴らしい」
なのに予想もしなかった感想が返ってきた。
「もう一度、その前髪を上げて見せていただけないでしょうか」
「え? あの、どう言う……」
戸惑うナディ。嘲りでそう要求された事はある。だが『素晴らしい』と言われては初めてだった。
「ナディ様は博識とお伺いしておりますが、北の神々の中でも知識を司る神の神話はご存じでしょうか」
ブリッタが問う。ナディはうなずく。その神話は知っていた。
「その知識神は世界の秘密を全て知る為に、原始の巨人に左目を捧げたとされています」
ブリッタの目はきらきらと輝いていた。言葉も少し早くなっている。
「その神話を受け、わたしの生まれた部族では『大賢者』と認められた者には、その左目の上から下へ定められた刺青を行います」
ナディでもそう言う習慣は初めて聞いた。だが医術を修めたブリッタが現に左目回りに刺青を入れている。嘘ではないだろう。
「そうなんですか」
「さすがのナディ様もご存知ないのですか?」
戦乙女はころころと笑った。意外な程にあどけなく見えた。
「でしょう。その時代に一人しか許されぬ名誉ですから。ナディ様がわたしの国に行かれれば大騒ぎでしょう」
「え? 怒られるんですか?」
絶対に行きたくないと思う。
「いいえ。刺青ではなく、生来のものとなれば格が違います。国中を上げて捕まえてでも『大賢者』に祭り上げられるでしょう」
ブリッタはもう一度痣を見せてくれとお願いしてきた。ナディも断れない。渋々だが見せる。
「まさに本物……線ではなく色合いで描かれていて。ああ、これが生まれつきだなんて。ナディ様は本当に知識神の申し子ですわ」
惚れ惚れとされてしまった。むず痒い。だが痣を誉められたのは初めてだ。国や文化が違うだけでこんなになるのか。
「姫様が王都の評判で『図書館半個分の知識』とおっしゃられていましたが、それこそ神の御力の印なのでしょう」
そうかと本気にした訳ではない。だがこの痣は今日は役に立ったから、これくらい誉められてもいいわねとナディも思い直したのだった。
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