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第十七章
泊
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いい気分で二人は旅を再開した。途中、会話も続く。蘊蓄を述べる方も聞く方もある意味夢中であった。満腹したラージャだけが気だるそうに黒馬の鞍上でくつろいでいる。
「やはり今の道はなかなかに急勾配ですね」
「ならこちらは無理ですよ。アズリアの街道は何エルも掘ってから、そこに何層も砂利や石を重ね、最後に平石を敷き詰めるそうですから。そこまですると雨でも何でもぬかるまないとか」
「ほう、作り方までご存知で」
「技術や工法迄は存じませんが、工事に駆り出された当時の豪族がどれだけの期間にどれだけの人手と材料を工面したかの記録は私記として読んだ事があります」
街道にはすれ違う旅行者や旅商人も移動する周辺の住民もいる。まさか妙齢の二人がこの様な話題で楽しんでいるとは夢にも思わなかっただろう。
「着きますよ」
そんな感じで日が陰る頃に前方に家々が見えてきた。今夜の宿泊予定の町ミスルトである。ここら辺はまだ国王の直轄領だ。人口は二千人程と税務官の報告書に記載されていたとナディの記憶にある。
「王都から一日ちょうどの距離ですので宿場町としても栄えています」
騎士様が言う。町並みの入り口には木の柵で門らしきものが作られており、衛兵らしき数人が出入りする人間を見張っていた。
「ここからはわたしがいいと言うまで無言でいて下さい」
そうも言われた。意味がわからないが、とりあえず従う。
そんな二人と二頭と一匹がそこを通ろうとするとその衛兵の三人ほどが前方を塞いだ。揃いの服装で手に身の丈程の棒を持っている。
「何者だ? 何処へ行く?」
乱暴に言われる。無礼なとナディはむっとしたが、こちらは鐔広の帽子と前髪で顔を隠した騎乗の一人とその馬の口取りをするもう一人は帽子の上に門のだいぶ手前で布を上げ、顔半分をさらに隠していた。その態度を見れば衛兵としては無理がないだろう。
「ブレイブの領主リィフェルトの子カーリャと申すもの。故あってこちらの貴人を北へお連れしている」
騎士様は毅然と言い返した。自分より頭一つ以上大きい兵らを見返している。牛を睨む若い狼のようだった。
「……今夜はミスルトに宿泊の予定か?」
明らかに相手は怯んだ。悪意は無かったのだろう。単に職務で誰何したと思われる。それをこの様に睨み付けられて困ったようだった。
「そのつもりだ」
そう続けて騎士様は懐から何かを出して衛兵に渡した。羊皮紙らしいそれを門番が開いて声があがる。ナディは知らなかったが、身分証だ。ある格以上の貴族が自分の領民や縁者の身元証明の為に発行するものである。絶対ではないが、発行元の信用や内容如何ではそこそこ信用があった。
「騎士……さま?」
もっとも衛兵らにはそこに記されている騎士様の身分が不審だった様で羊皮紙と本人とを忙しく見比べていた。見事な馬を二頭も連れている。だが本人は徒歩だ。貴人をお連れしていると言ってもこれは――
「如何にも。自由騎士のカーリャ・リィフェルトである」
騎士様は胸を張ると帽子を取り、顔の布も下ろした。あの麗人そのものの美貌が晒け出される。別の意味で門番らがおおと声をあげた。
「ひ、姫騎士様?」
驚いている。うんうん気持ちはわかるとナディもうなずく。この顔だしね。隠せないわよ。本人がなんと言おうとこの人では。
「え、ええ……」
衛兵は明らかに狼狽えていた。騎士と言うだけでも貴族に準ずる階級である。さらに女でそうとなれば、やんごとなき御身分の女性が理由あってなると言う希少価値だ。下手にからむと背後が怖いと考えるのが普通だった。
「これは失礼をしました」
とりあえず謝っておこうと衛兵達が頭を下げる。口調も変わった。
「ではそちらの御貴人様は?」
怖そうな外見の割りに衛兵は真面目なのだろう。動揺しながらもそれは確認してきた。
「王宮にお務めのお方だ。身元保証が必要であるのならば、王都のティンベル男爵様へ問い合わせを」
素っ気なく騎士様が言う。隠すべきは隠して、衛兵の職務に必要な事は伝えている。まだ詮索したいのなら貴族鑑でも調べてティンベル男爵家の実存を確認の上で好きにすれば良い。
「失礼ですが、今宵のお泊まりは?」
「『銀泉亭』を考えている」
「御予約は?」
「してない。友人の紹介で」
これで決まりだった。ナディはしらないが、『銀泉亭』はミスルトでは知られた宿である。値段もそこそこ高い。そこの利用なら、それも身元保証の一部にはなる。
「わかりました。ではお通りを」
「ご苦労です」
最後は双方礼をして終わった。ナディも馬上でぺこりと頭を下げる。
「上手くいきましたね!」
ある程度町中に入ってからナディは我慢していた口を開いた。ドキドキした。生で見た交渉に興奮したのだ。宮中や図書館でのおじさん達のやり取りとはまた違う。
「あの人達はまともな衛兵でしたから。おそらく町が雇っているのでしょう」
また顔を布で覆いながら騎士様が答える。どうあっても素顔を見られるのが嫌らしい。
「町が?」
「質の悪い場合ですとろくでもない有力者の私兵などが勝手に賄賂や通行税をせびる事もあります。ミスルトはまだ国王陛下の御威光がありますので」
そうなんですかとナディは口を開けて感心している。大好きな地誌等には治安の良し悪しは書かれていても、そう言う具体的な例までは載っていない。
「勝手に通行税をとるのは違法では?」
「もちろん国法で禁じられています。ですが法が行き届かない場所もありまして」
これは何となくナディにもわかった。
「陛下の直轄領はベルガエの四分の一くらいですからね」
「他の六つの侯爵領も合わせて……ええと」
「人口や徴税額では、六家の侯爵領を併せても六割程です」
さらさらと知識が出てくる。ナディとしては頭に浮かんだ知識を口にしているだけだが、言われている騎士様はもう本気で感心していた。まさに、このお嬢様の頭の中には王立図書館が丸ごと入っているのだ。
なのにご縁が無かったのは惜しかったな、とも。
「あちらです」
栄えた宿場町と言っても王都とは桁が違う。すぐにも二人はお目当ての『銀泉亭』に着いた。敷地が広い。街路からまず庭っぽいものがあり、その先に二階建ての大きな建物が見える。そこに掲げられた看板に池らしい円と木製の樽杯の絵が描かれていた。何故かその回りに箒が何本も吊るされている。
「あれはあそこでお掃除するのですか?」
「麦酒が旨いと言う自慢ですよ」
その敷地の前に立っただけで奥から三人の男が出てきた。中年一人と若者二人である。騎士様の前に立ち、恭しく礼をする。
「いらっしゃいませ。わたくしは当宿の番頭でございます。今宵のお泊まりを御希望ですか?」
番頭が代表して笑顔で言った。さっきの衛兵とはえらく違うわねとナディは首を傾げる。騎士様は相変わらず顔を隠しているのに。
「一泊。個室で」
番頭が素早く二人の身なりを見ての判断で愛想がいいだけなのだが、まだナディはそこまで気付かない。騎士様が言葉短く喋っている事も。
「畏まりました。前に当銀泉亭にお泊まりは?」
「友に聞いてきた」
「それはそれは。ご友人にも祝福を。お食事は御希望ですか?」
「部屋で」
「わかりました。料理については中で係の者が。御乗馬は預からせて頂いてもよろしいですか?」
「飼い葉と水をたっぷり頼む。あと、我らは部屋で」
騎士様はそう言いながら懐を探る。銀貨を何枚か出して番頭に渡した。
「おお、これはこれは」
「湯浴みは?」
「もちろん御用意出来ます」
「それも込みだ。不足は言え。後で払う」
「ありがとうございます。明日、お発ちですか?」
「四刻頃に」
交渉はそれで決まった。ナディは騎士様の手を借りて馬から降りる。荷物も騎士様の分と一緒に下ろされ、番頭が人を呼んで全部を担がせた。二頭の馬は馬屋に曳かれるらしい。番頭の案内でナディと騎士様は建物の中に入っていく。
ここでラージャがいつの間にか消えている事にナディは気づいていない。
「うわあ」
木の分厚い扉を開けた。かけられた大鈴が鳴る。その先には大きな空間が開けていた。大広間だ。長い机が幾つも並び、その回りには何十もの椅子が置かれている。その半数には客とおぼしき人間が座って飲み食い、談笑で騒いでいた。
「これが宿屋ですかあ」
思わず大きな声で突拍子もない感想を言ってしまったナディだったが、周囲の音にかき消された。賑やかである。騎士様の目が きっ! としかめられ、案内の番頭が足を止め、首だけをわずかに動かした。
「部屋は?」
「こちらです。今、案内の者を」
番頭はここで待つように言って向こうに行ってしまった。騎士様はその後ろ姿を見送る。目が何となく不快そうだ。それにナディは気もつかずに、回りを興奮して見回していた。
「カーリャ様。カーリャ様。あんなに旅人がいっぱい」
「まあ宿屋ですから」
ナディが何故喜んでのかよくわからない騎士様である。宿屋に旅人がいるのは当たり前だ。今日の道中でもたくさんすれ違ってきただろうに。
それよりもナディ殿の不用意な歓声でこちらが女の子とばれた。無駄に知らせたくはなかったのに。
「吟遊詩人とかいますかね? あと旅の傭兵とか極秘行動の警吏とか謎の賞金稼ぎとか怪しい錬金術師とか逃避行の男女とか」
……物語か舞台に出てくる宿屋とかなんかを妄想しているなと騎士様でもわかった。呆れる。ナディが相当な賢者である事は確かだが、ひょっとしてすごい世間知らずなのかも知れないと初めて気づいたようだ。
「あとあとですね。冒険に出てきた勇敢な少年とか異国の地図を隠し持っている謎の少女とか」
隠密行動中の騎士とお嬢様ならここにいますよ――と言いたいのをこらえて騎士様はナディを制する。案内の者が来たらしい。ナディより一回りは年上くらいの女が奥から出てきてこちらに一礼した。
「ご案内します」
「頼む」
その女の案内で二階への階段を上がった。ナディが珍しそうに回りを見回っている。先を行く女がちらちらとこちらを観察している事に騎士様は気付いている。
疑われているのだろう。金払いはいい上客として振る舞っているが、乗馬服姿で顔を半分以上隠したナディが女である事はおそらく声でばれている。警戒ではないから犯罪者扱いではないのだろうけれど。
「こちらです」
二階には個室の扉がずらりと並んでいた。この『銀泉亭』が中等以上な宿屋である証拠でもある。この時代、平民や宗教の巡礼などは大部屋で雑魚寝が普通で、ベッドがあればまだましなくらいだ。この建物の隣の棟はまさにそう言う造りになっていた。
「失礼する」
女に続いて騎士様が部屋に入る。結構広さはあった。窓もあって今は開けられている。さすがに硝子張りではない。燭台も何本かあったので夜間は木製の戸を締めるのだろう。騎士様はその窓から外を覗いた。すぐ外で手近に伝ってこれる様な建築物や木々のない事を確認する。
「よし」
そして指を唇にあて鋭く鳴らした。外に向けて高音が飛ぶ。ナディも案内の女もなんの意味かときょとんとしていたが、程なく窓から何かが音もたてずに飛び込んできた。悲鳴が二人分あがる。
「ら、ラージャ?」
びっくりした。あの大きめ太めの猫だ。そう言えばいつの間にか姿がみえなくなっていた。
「お、お、お客様っ」
驚いたのは案内の女もそうだった。尻餅をついている。窓からいきなり毛むくじゃらが飛び込んできて、部屋の左側の二台のベッドをくっつけた真ん中辺りに降り立ったのだから無理はない。
「あ、大丈夫です大丈夫です。噛みつきませんから」
ナディが手をわちゃわちゃして弁護する。いつの間にか飼い主みたいになっている。
「夕食と湯浴みは早めに頼む」
努めて騎士様が平然と言った。うちの猫だが何か問題でも? と言う誇示だろうか。案内の女はそれで無理矢理自分を納得させたようで、目を白黒させながらも立ち上がり、ほうほうの体で出ていってくれた。この後、この珍妙な上客を話題に、さぞ仲間内で会話が弾むのだろう。
「ラージャあぁ」
もうそちらは見もせずにナディはベッドににじり寄る。ラージャだ。もこもこのもふもふだ。道中は向こうの鞍でつんとしていて、こちらも構う余裕がなかったが――触りたい。その尻尾で遊んでみたい。
「やれやれですね」
騎士様はようやく一息ついて帽子を取り、顔の布を外す。マントも脱ぎ、腰と背の剣と拳銃も剣帯ごと外した。手近にあった机に置く。ごとりと硬い音がした。帯の背中の方にももう一丁が差し込まれていた。
「こっちにおいでえ」
そんな様には気付きもせずにナディはベッドに手をつき、ラージャを招いている。猫が呼べば来てくれると思っているらしい。
「無理ですよ」
装いを脱いでシャツとズボンだけの軽装になった騎士様が微笑して言ってあげた。
「猫系の獣は人が呼んでも来ません。犬とは違って人間と同等だと信じ込んでいますから」
そう教えられてもナディは不満である。触りたいのに。遊びたいのに。
「でもさっきカーリャ様は指笛で呼びつけたじゃありませんか」
「わたしとラージャは特別です。狩りで使える様に特別に仕込んでいますから」
「そんな事が出来るのですか?」
犬ならナディも知っている。男爵家にも狩猟犬が数頭飼われている。だが猫でそれは王宮でも聞いた事はない。
「かなり昔の草原の国の王族が俊足の豹を鹿狩りに使っていたと言うのは読んだ事はありますけど」
「ほう、豹だと仕込めるのですね」
何故か騎士様の方が感心していた。いや、聞いているのはこちらですがとナディは困る。
「それよりもう大丈夫ですからおくつろぎ下さい。この後、湯浴みもありますので」
勧められてナディは外装を脱いだ。乗馬靴からも解放されてベッドにあがる。
「らあぁじゃあぁ」
それでもラージャを招こうとしている。どうしても触りたいのだ。
しつこい
ラージャはそうも言いたげに離れ、ぴょんと跳んだ。向こうの箪笥の上に音もなく乗る。椅子に座った騎士様が笑った。
「こらこら。ラージャ。ナディ殿に失礼だろう」
「そうですよ。ラージャ。大人しく触られなさい」
最初に会った時は触らせてくれたのにと、ナディはどたばたと追いかける。そんな間抜けに捕まるラージャではない。するりするりとその手をかわして逃げ回る。
やがて宿の者が二人の荷物を運び込んできた。騎士様が受け取り、室内に入れる。その間だけナディもラージャも静かにしていたが、宿の者が去るとまた追いかけっこを再開する。
ある意味楽しく遊んでいるのかも知れない一人と一匹だった。
「やはり今の道はなかなかに急勾配ですね」
「ならこちらは無理ですよ。アズリアの街道は何エルも掘ってから、そこに何層も砂利や石を重ね、最後に平石を敷き詰めるそうですから。そこまですると雨でも何でもぬかるまないとか」
「ほう、作り方までご存知で」
「技術や工法迄は存じませんが、工事に駆り出された当時の豪族がどれだけの期間にどれだけの人手と材料を工面したかの記録は私記として読んだ事があります」
街道にはすれ違う旅行者や旅商人も移動する周辺の住民もいる。まさか妙齢の二人がこの様な話題で楽しんでいるとは夢にも思わなかっただろう。
「着きますよ」
そんな感じで日が陰る頃に前方に家々が見えてきた。今夜の宿泊予定の町ミスルトである。ここら辺はまだ国王の直轄領だ。人口は二千人程と税務官の報告書に記載されていたとナディの記憶にある。
「王都から一日ちょうどの距離ですので宿場町としても栄えています」
騎士様が言う。町並みの入り口には木の柵で門らしきものが作られており、衛兵らしき数人が出入りする人間を見張っていた。
「ここからはわたしがいいと言うまで無言でいて下さい」
そうも言われた。意味がわからないが、とりあえず従う。
そんな二人と二頭と一匹がそこを通ろうとするとその衛兵の三人ほどが前方を塞いだ。揃いの服装で手に身の丈程の棒を持っている。
「何者だ? 何処へ行く?」
乱暴に言われる。無礼なとナディはむっとしたが、こちらは鐔広の帽子と前髪で顔を隠した騎乗の一人とその馬の口取りをするもう一人は帽子の上に門のだいぶ手前で布を上げ、顔半分をさらに隠していた。その態度を見れば衛兵としては無理がないだろう。
「ブレイブの領主リィフェルトの子カーリャと申すもの。故あってこちらの貴人を北へお連れしている」
騎士様は毅然と言い返した。自分より頭一つ以上大きい兵らを見返している。牛を睨む若い狼のようだった。
「……今夜はミスルトに宿泊の予定か?」
明らかに相手は怯んだ。悪意は無かったのだろう。単に職務で誰何したと思われる。それをこの様に睨み付けられて困ったようだった。
「そのつもりだ」
そう続けて騎士様は懐から何かを出して衛兵に渡した。羊皮紙らしいそれを門番が開いて声があがる。ナディは知らなかったが、身分証だ。ある格以上の貴族が自分の領民や縁者の身元証明の為に発行するものである。絶対ではないが、発行元の信用や内容如何ではそこそこ信用があった。
「騎士……さま?」
もっとも衛兵らにはそこに記されている騎士様の身分が不審だった様で羊皮紙と本人とを忙しく見比べていた。見事な馬を二頭も連れている。だが本人は徒歩だ。貴人をお連れしていると言ってもこれは――
「如何にも。自由騎士のカーリャ・リィフェルトである」
騎士様は胸を張ると帽子を取り、顔の布も下ろした。あの麗人そのものの美貌が晒け出される。別の意味で門番らがおおと声をあげた。
「ひ、姫騎士様?」
驚いている。うんうん気持ちはわかるとナディもうなずく。この顔だしね。隠せないわよ。本人がなんと言おうとこの人では。
「え、ええ……」
衛兵は明らかに狼狽えていた。騎士と言うだけでも貴族に準ずる階級である。さらに女でそうとなれば、やんごとなき御身分の女性が理由あってなると言う希少価値だ。下手にからむと背後が怖いと考えるのが普通だった。
「これは失礼をしました」
とりあえず謝っておこうと衛兵達が頭を下げる。口調も変わった。
「ではそちらの御貴人様は?」
怖そうな外見の割りに衛兵は真面目なのだろう。動揺しながらもそれは確認してきた。
「王宮にお務めのお方だ。身元保証が必要であるのならば、王都のティンベル男爵様へ問い合わせを」
素っ気なく騎士様が言う。隠すべきは隠して、衛兵の職務に必要な事は伝えている。まだ詮索したいのなら貴族鑑でも調べてティンベル男爵家の実存を確認の上で好きにすれば良い。
「失礼ですが、今宵のお泊まりは?」
「『銀泉亭』を考えている」
「御予約は?」
「してない。友人の紹介で」
これで決まりだった。ナディはしらないが、『銀泉亭』はミスルトでは知られた宿である。値段もそこそこ高い。そこの利用なら、それも身元保証の一部にはなる。
「わかりました。ではお通りを」
「ご苦労です」
最後は双方礼をして終わった。ナディも馬上でぺこりと頭を下げる。
「上手くいきましたね!」
ある程度町中に入ってからナディは我慢していた口を開いた。ドキドキした。生で見た交渉に興奮したのだ。宮中や図書館でのおじさん達のやり取りとはまた違う。
「あの人達はまともな衛兵でしたから。おそらく町が雇っているのでしょう」
また顔を布で覆いながら騎士様が答える。どうあっても素顔を見られるのが嫌らしい。
「町が?」
「質の悪い場合ですとろくでもない有力者の私兵などが勝手に賄賂や通行税をせびる事もあります。ミスルトはまだ国王陛下の御威光がありますので」
そうなんですかとナディは口を開けて感心している。大好きな地誌等には治安の良し悪しは書かれていても、そう言う具体的な例までは載っていない。
「勝手に通行税をとるのは違法では?」
「もちろん国法で禁じられています。ですが法が行き届かない場所もありまして」
これは何となくナディにもわかった。
「陛下の直轄領はベルガエの四分の一くらいですからね」
「他の六つの侯爵領も合わせて……ええと」
「人口や徴税額では、六家の侯爵領を併せても六割程です」
さらさらと知識が出てくる。ナディとしては頭に浮かんだ知識を口にしているだけだが、言われている騎士様はもう本気で感心していた。まさに、このお嬢様の頭の中には王立図書館が丸ごと入っているのだ。
なのにご縁が無かったのは惜しかったな、とも。
「あちらです」
栄えた宿場町と言っても王都とは桁が違う。すぐにも二人はお目当ての『銀泉亭』に着いた。敷地が広い。街路からまず庭っぽいものがあり、その先に二階建ての大きな建物が見える。そこに掲げられた看板に池らしい円と木製の樽杯の絵が描かれていた。何故かその回りに箒が何本も吊るされている。
「あれはあそこでお掃除するのですか?」
「麦酒が旨いと言う自慢ですよ」
その敷地の前に立っただけで奥から三人の男が出てきた。中年一人と若者二人である。騎士様の前に立ち、恭しく礼をする。
「いらっしゃいませ。わたくしは当宿の番頭でございます。今宵のお泊まりを御希望ですか?」
番頭が代表して笑顔で言った。さっきの衛兵とはえらく違うわねとナディは首を傾げる。騎士様は相変わらず顔を隠しているのに。
「一泊。個室で」
番頭が素早く二人の身なりを見ての判断で愛想がいいだけなのだが、まだナディはそこまで気付かない。騎士様が言葉短く喋っている事も。
「畏まりました。前に当銀泉亭にお泊まりは?」
「友に聞いてきた」
「それはそれは。ご友人にも祝福を。お食事は御希望ですか?」
「部屋で」
「わかりました。料理については中で係の者が。御乗馬は預からせて頂いてもよろしいですか?」
「飼い葉と水をたっぷり頼む。あと、我らは部屋で」
騎士様はそう言いながら懐を探る。銀貨を何枚か出して番頭に渡した。
「おお、これはこれは」
「湯浴みは?」
「もちろん御用意出来ます」
「それも込みだ。不足は言え。後で払う」
「ありがとうございます。明日、お発ちですか?」
「四刻頃に」
交渉はそれで決まった。ナディは騎士様の手を借りて馬から降りる。荷物も騎士様の分と一緒に下ろされ、番頭が人を呼んで全部を担がせた。二頭の馬は馬屋に曳かれるらしい。番頭の案内でナディと騎士様は建物の中に入っていく。
ここでラージャがいつの間にか消えている事にナディは気づいていない。
「うわあ」
木の分厚い扉を開けた。かけられた大鈴が鳴る。その先には大きな空間が開けていた。大広間だ。長い机が幾つも並び、その回りには何十もの椅子が置かれている。その半数には客とおぼしき人間が座って飲み食い、談笑で騒いでいた。
「これが宿屋ですかあ」
思わず大きな声で突拍子もない感想を言ってしまったナディだったが、周囲の音にかき消された。賑やかである。騎士様の目が きっ! としかめられ、案内の番頭が足を止め、首だけをわずかに動かした。
「部屋は?」
「こちらです。今、案内の者を」
番頭はここで待つように言って向こうに行ってしまった。騎士様はその後ろ姿を見送る。目が何となく不快そうだ。それにナディは気もつかずに、回りを興奮して見回していた。
「カーリャ様。カーリャ様。あんなに旅人がいっぱい」
「まあ宿屋ですから」
ナディが何故喜んでのかよくわからない騎士様である。宿屋に旅人がいるのは当たり前だ。今日の道中でもたくさんすれ違ってきただろうに。
それよりもナディ殿の不用意な歓声でこちらが女の子とばれた。無駄に知らせたくはなかったのに。
「吟遊詩人とかいますかね? あと旅の傭兵とか極秘行動の警吏とか謎の賞金稼ぎとか怪しい錬金術師とか逃避行の男女とか」
……物語か舞台に出てくる宿屋とかなんかを妄想しているなと騎士様でもわかった。呆れる。ナディが相当な賢者である事は確かだが、ひょっとしてすごい世間知らずなのかも知れないと初めて気づいたようだ。
「あとあとですね。冒険に出てきた勇敢な少年とか異国の地図を隠し持っている謎の少女とか」
隠密行動中の騎士とお嬢様ならここにいますよ――と言いたいのをこらえて騎士様はナディを制する。案内の者が来たらしい。ナディより一回りは年上くらいの女が奥から出てきてこちらに一礼した。
「ご案内します」
「頼む」
その女の案内で二階への階段を上がった。ナディが珍しそうに回りを見回っている。先を行く女がちらちらとこちらを観察している事に騎士様は気付いている。
疑われているのだろう。金払いはいい上客として振る舞っているが、乗馬服姿で顔を半分以上隠したナディが女である事はおそらく声でばれている。警戒ではないから犯罪者扱いではないのだろうけれど。
「こちらです」
二階には個室の扉がずらりと並んでいた。この『銀泉亭』が中等以上な宿屋である証拠でもある。この時代、平民や宗教の巡礼などは大部屋で雑魚寝が普通で、ベッドがあればまだましなくらいだ。この建物の隣の棟はまさにそう言う造りになっていた。
「失礼する」
女に続いて騎士様が部屋に入る。結構広さはあった。窓もあって今は開けられている。さすがに硝子張りではない。燭台も何本かあったので夜間は木製の戸を締めるのだろう。騎士様はその窓から外を覗いた。すぐ外で手近に伝ってこれる様な建築物や木々のない事を確認する。
「よし」
そして指を唇にあて鋭く鳴らした。外に向けて高音が飛ぶ。ナディも案内の女もなんの意味かときょとんとしていたが、程なく窓から何かが音もたてずに飛び込んできた。悲鳴が二人分あがる。
「ら、ラージャ?」
びっくりした。あの大きめ太めの猫だ。そう言えばいつの間にか姿がみえなくなっていた。
「お、お、お客様っ」
驚いたのは案内の女もそうだった。尻餅をついている。窓からいきなり毛むくじゃらが飛び込んできて、部屋の左側の二台のベッドをくっつけた真ん中辺りに降り立ったのだから無理はない。
「あ、大丈夫です大丈夫です。噛みつきませんから」
ナディが手をわちゃわちゃして弁護する。いつの間にか飼い主みたいになっている。
「夕食と湯浴みは早めに頼む」
努めて騎士様が平然と言った。うちの猫だが何か問題でも? と言う誇示だろうか。案内の女はそれで無理矢理自分を納得させたようで、目を白黒させながらも立ち上がり、ほうほうの体で出ていってくれた。この後、この珍妙な上客を話題に、さぞ仲間内で会話が弾むのだろう。
「ラージャあぁ」
もうそちらは見もせずにナディはベッドににじり寄る。ラージャだ。もこもこのもふもふだ。道中は向こうの鞍でつんとしていて、こちらも構う余裕がなかったが――触りたい。その尻尾で遊んでみたい。
「やれやれですね」
騎士様はようやく一息ついて帽子を取り、顔の布を外す。マントも脱ぎ、腰と背の剣と拳銃も剣帯ごと外した。手近にあった机に置く。ごとりと硬い音がした。帯の背中の方にももう一丁が差し込まれていた。
「こっちにおいでえ」
そんな様には気付きもせずにナディはベッドに手をつき、ラージャを招いている。猫が呼べば来てくれると思っているらしい。
「無理ですよ」
装いを脱いでシャツとズボンだけの軽装になった騎士様が微笑して言ってあげた。
「猫系の獣は人が呼んでも来ません。犬とは違って人間と同等だと信じ込んでいますから」
そう教えられてもナディは不満である。触りたいのに。遊びたいのに。
「でもさっきカーリャ様は指笛で呼びつけたじゃありませんか」
「わたしとラージャは特別です。狩りで使える様に特別に仕込んでいますから」
「そんな事が出来るのですか?」
犬ならナディも知っている。男爵家にも狩猟犬が数頭飼われている。だが猫でそれは王宮でも聞いた事はない。
「かなり昔の草原の国の王族が俊足の豹を鹿狩りに使っていたと言うのは読んだ事はありますけど」
「ほう、豹だと仕込めるのですね」
何故か騎士様の方が感心していた。いや、聞いているのはこちらですがとナディは困る。
「それよりもう大丈夫ですからおくつろぎ下さい。この後、湯浴みもありますので」
勧められてナディは外装を脱いだ。乗馬靴からも解放されてベッドにあがる。
「らあぁじゃあぁ」
それでもラージャを招こうとしている。どうしても触りたいのだ。
しつこい
ラージャはそうも言いたげに離れ、ぴょんと跳んだ。向こうの箪笥の上に音もなく乗る。椅子に座った騎士様が笑った。
「こらこら。ラージャ。ナディ殿に失礼だろう」
「そうですよ。ラージャ。大人しく触られなさい」
最初に会った時は触らせてくれたのにと、ナディはどたばたと追いかける。そんな間抜けに捕まるラージャではない。するりするりとその手をかわして逃げ回る。
やがて宿の者が二人の荷物を運び込んできた。騎士様が受け取り、室内に入れる。その間だけナディもラージャも静かにしていたが、宿の者が去るとまた追いかけっこを再開する。
ある意味楽しく遊んでいるのかも知れない一人と一匹だった。
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