6 / 42
第六章
騎士様
しおりを挟む
ナディージュ・ティンベル殿?
「っ!」
ナディはもう一度飛び上がった。背後からだ。しまった。忘れていた!
「は、はいっ!」
慌てて振り向く。完全に虚を突かれた。反射的に頭を下げている。礼法のそれではなく、子供の頃に叱られた時の反応だった。
「すみませんっ! ナディです!」
さらに出てきた台詞がこれだ。動転している。ついさっきまでの決意も闘志も跡形もない。
「いや……こちらの男爵様のご令嬢のナディージュ殿とお見受けしたが」
石畳の床しか見えないナディにかけられた声は澄んだ柔らかいものだった。初めて聞く。堅苦しい言い方だが、この声音は女性?
いや、何故知らない女が今ここに? 来るのは求婚の御客人のはず。
「えっと……」
ナディは恐る恐る顔を上げた。すぐそこに人が立っている。猫に気を取られて接近に気づかなかったのだろう。革半靴とスラックスの脚から剣帯と見たことのない柄の剣?の腰回り。さらに革の上等そうな胴着から肩口のマントとマント止めのバックル。
そして
「……」
一瞬、声が出なかった。意外過ぎたからであり、驚いたからでもある。
「あ……」
辛うじて息は漏れた。きっと馬鹿のように口が開いているのだろうと頭の何処かで思う。目は目の前の人物から小揺るぎも離せないでいた。
「ナディージュ殿……ですね?」
相手は当惑している。それに気付かないくらいにナディは困惑していた。
なに? この美少女。そして誰?
その者はすらりとした身体を真っ直ぐにこちらへ向けている。淡く日焼けしたかの様な肌に、さらに黄金律で構成されたかの様な美しい容貌。中でも目は印象的過ぎてその深い黒の瞳に――『見上げた夜空の様に』と誰かが言っていた。『吸い込まれる程の闇色の』とも。今、その意味がわかる。大袈裟でも虚飾でもなかった。世の中にこんな色と深さがあろうとは。
ナディは生まれて初めて人の瞳と美貌に魅入ってしまっていたのだった。
「失礼。挨拶が遅れました」
その者はナディの呆然には気付かない様で、その場で右膝をついた。それをまだナディは見つめている。騎士が淑女にする礼法だとは思いもつかない。
「わたしはブレイブの騎士にて領主イジサ・リィフェルトの一子 カーリャ・リィフェルトと申します」
「か……?」
そこでようやくナディに意識が戻る。聞いた名だ。いや、知っている。知っているはずだ。今日、自分に結婚の申し込みに来たはずの騎士!
「カ、カーリャ様あっ!」
だが驚きは倍加していた。何? 何なの? 予想と違う。全然、違う。凶状持ちの高齢者の女たらしじゃなかったの? それがこんな、王宮でも見たことがないくらいの美少女だなんて。
「騎士様じゃないんですかっ!」
狼狽えた余りにナディは庭園中に響き渡る程の大声で叫んだ。騎士のはず。いや、貴人の護衛を司る女の『姫騎士』とかの存在は書物で読んだ事はある。
だが、何れにせよそんな希少な存在が目の前に。しかもこんなに美しい――
「……騎士ですが」
その騎士様――カーリャ・リィフェルト卿は静かに言った。口調が沈んでいる。気分の良い事ではなかったのかも知れない。
「ほ、本当に?」
念を押すナディは失礼である。まだ信じていないのだから尚更だ。
「よく間違えられますが、正真正銘の騎士です」
一言一言刻むようにゆっくりとその騎士は告げた。怒っているのかも知れない。表情は変わらない。が、決して笑ってはいない。
「で、ですが」
まだ信じられないナディは騎士を見る。端からすればじろじろと上から下まで。
「その……」
片膝をついたままの身体は大きくも逞しくもない。むしろ全般に華奢に見える。背もそれ程ではなさそうだ。いや、女にしては高いナディよりも低いのではないか。
「えっと……」
何よりも美しい顔立ち。滑らかなシミ一つない肌。女性的と中性的のはざまの美。絵画の中の天使か妖精かのようだ。
「カーリャ……」
幾つだ? わからない。大人の男性には見えない。だが騎士であるなら最も若くても二十歳前後にはいっているはず。でなくては叙任されないしきたりだ。それに声も中性っぽい。と言う事は、この外見からも、やはりうら若き姫騎士様で……
「……様ぁ」
何故、その人がわたしに求婚を?
「御納得頂けましたか」
騎士はゆっくりと言った。ため息を一緒に吐いた様だった。
「わたしがカーリャ・リィフェルトです。以後お見知りおきを」
そう言ってもう一度深々と頭を下げてから騎士は立ち上がった。ほら、やっぱりわたしより背が低いとナディは心の中で呟く。
「お気になさらず。未熟な故に、外見でとやかく言われるのは慣れております」
本人が実はしっかり気にしている様に聞こえたのはナディの気のせいだろうか。
「で、貴女が御当家の御令嬢のナディージュ殿であられるか」
改めて問われた。思わず「はい」と首肯する。同時にナディは自分の顔を騎士が直視している事に気づいた。
「あ、いや、あの、これは……」
反射的に隠そうとした。無意識にも掌で覆い、前髪を引き下ろそうとする。叔母が意地になって後ろで結わえたらしく痛みが走り、それでようやく意識が戻る。
「お、お見苦しいものを……」
やはりこの痣を自分は気にしているのだと改めて、まざまざと思う。涙が出そうだ。如何に親族には愛されたとしても、他人には怖い。見られたくない。今更ながらでも醜い痣の顔だと知られたくなかった。
「……」
騎士はぽかんとしていた。両手をわたわたと動かして狼狽えているナディを黙って見ている。その表情に特に感情はなく、ただ相手が落ち着くのを待っているかの様だった。
「ですから、えと、その」
それにナディは気付かない。とにかく見られたくない。でもしっかり見られた。どうしよう。何をすれば。何と言うつもりだったっけ?
「わ、わたしは――」
いきなり背後から声をかけられなかったら、まだ落ち着いていたかも知れない。振り返って見た人物が普通か、或いは予想通りだったら、それなりの挨拶くらいは出来たかも知れない。例え真顔を正面から見据えられたとしても。
「あの……」
だが、驚愕に衝撃が加算され、さらに心身の傷を刺激されたナディは完全に動転していた。故にいきなり結論を叫んでしまったのである。
「け、結婚はしませんから!」
「っ!」
ナディはもう一度飛び上がった。背後からだ。しまった。忘れていた!
「は、はいっ!」
慌てて振り向く。完全に虚を突かれた。反射的に頭を下げている。礼法のそれではなく、子供の頃に叱られた時の反応だった。
「すみませんっ! ナディです!」
さらに出てきた台詞がこれだ。動転している。ついさっきまでの決意も闘志も跡形もない。
「いや……こちらの男爵様のご令嬢のナディージュ殿とお見受けしたが」
石畳の床しか見えないナディにかけられた声は澄んだ柔らかいものだった。初めて聞く。堅苦しい言い方だが、この声音は女性?
いや、何故知らない女が今ここに? 来るのは求婚の御客人のはず。
「えっと……」
ナディは恐る恐る顔を上げた。すぐそこに人が立っている。猫に気を取られて接近に気づかなかったのだろう。革半靴とスラックスの脚から剣帯と見たことのない柄の剣?の腰回り。さらに革の上等そうな胴着から肩口のマントとマント止めのバックル。
そして
「……」
一瞬、声が出なかった。意外過ぎたからであり、驚いたからでもある。
「あ……」
辛うじて息は漏れた。きっと馬鹿のように口が開いているのだろうと頭の何処かで思う。目は目の前の人物から小揺るぎも離せないでいた。
「ナディージュ殿……ですね?」
相手は当惑している。それに気付かないくらいにナディは困惑していた。
なに? この美少女。そして誰?
その者はすらりとした身体を真っ直ぐにこちらへ向けている。淡く日焼けしたかの様な肌に、さらに黄金律で構成されたかの様な美しい容貌。中でも目は印象的過ぎてその深い黒の瞳に――『見上げた夜空の様に』と誰かが言っていた。『吸い込まれる程の闇色の』とも。今、その意味がわかる。大袈裟でも虚飾でもなかった。世の中にこんな色と深さがあろうとは。
ナディは生まれて初めて人の瞳と美貌に魅入ってしまっていたのだった。
「失礼。挨拶が遅れました」
その者はナディの呆然には気付かない様で、その場で右膝をついた。それをまだナディは見つめている。騎士が淑女にする礼法だとは思いもつかない。
「わたしはブレイブの騎士にて領主イジサ・リィフェルトの一子 カーリャ・リィフェルトと申します」
「か……?」
そこでようやくナディに意識が戻る。聞いた名だ。いや、知っている。知っているはずだ。今日、自分に結婚の申し込みに来たはずの騎士!
「カ、カーリャ様あっ!」
だが驚きは倍加していた。何? 何なの? 予想と違う。全然、違う。凶状持ちの高齢者の女たらしじゃなかったの? それがこんな、王宮でも見たことがないくらいの美少女だなんて。
「騎士様じゃないんですかっ!」
狼狽えた余りにナディは庭園中に響き渡る程の大声で叫んだ。騎士のはず。いや、貴人の護衛を司る女の『姫騎士』とかの存在は書物で読んだ事はある。
だが、何れにせよそんな希少な存在が目の前に。しかもこんなに美しい――
「……騎士ですが」
その騎士様――カーリャ・リィフェルト卿は静かに言った。口調が沈んでいる。気分の良い事ではなかったのかも知れない。
「ほ、本当に?」
念を押すナディは失礼である。まだ信じていないのだから尚更だ。
「よく間違えられますが、正真正銘の騎士です」
一言一言刻むようにゆっくりとその騎士は告げた。怒っているのかも知れない。表情は変わらない。が、決して笑ってはいない。
「で、ですが」
まだ信じられないナディは騎士を見る。端からすればじろじろと上から下まで。
「その……」
片膝をついたままの身体は大きくも逞しくもない。むしろ全般に華奢に見える。背もそれ程ではなさそうだ。いや、女にしては高いナディよりも低いのではないか。
「えっと……」
何よりも美しい顔立ち。滑らかなシミ一つない肌。女性的と中性的のはざまの美。絵画の中の天使か妖精かのようだ。
「カーリャ……」
幾つだ? わからない。大人の男性には見えない。だが騎士であるなら最も若くても二十歳前後にはいっているはず。でなくては叙任されないしきたりだ。それに声も中性っぽい。と言う事は、この外見からも、やはりうら若き姫騎士様で……
「……様ぁ」
何故、その人がわたしに求婚を?
「御納得頂けましたか」
騎士はゆっくりと言った。ため息を一緒に吐いた様だった。
「わたしがカーリャ・リィフェルトです。以後お見知りおきを」
そう言ってもう一度深々と頭を下げてから騎士は立ち上がった。ほら、やっぱりわたしより背が低いとナディは心の中で呟く。
「お気になさらず。未熟な故に、外見でとやかく言われるのは慣れております」
本人が実はしっかり気にしている様に聞こえたのはナディの気のせいだろうか。
「で、貴女が御当家の御令嬢のナディージュ殿であられるか」
改めて問われた。思わず「はい」と首肯する。同時にナディは自分の顔を騎士が直視している事に気づいた。
「あ、いや、あの、これは……」
反射的に隠そうとした。無意識にも掌で覆い、前髪を引き下ろそうとする。叔母が意地になって後ろで結わえたらしく痛みが走り、それでようやく意識が戻る。
「お、お見苦しいものを……」
やはりこの痣を自分は気にしているのだと改めて、まざまざと思う。涙が出そうだ。如何に親族には愛されたとしても、他人には怖い。見られたくない。今更ながらでも醜い痣の顔だと知られたくなかった。
「……」
騎士はぽかんとしていた。両手をわたわたと動かして狼狽えているナディを黙って見ている。その表情に特に感情はなく、ただ相手が落ち着くのを待っているかの様だった。
「ですから、えと、その」
それにナディは気付かない。とにかく見られたくない。でもしっかり見られた。どうしよう。何をすれば。何と言うつもりだったっけ?
「わ、わたしは――」
いきなり背後から声をかけられなかったら、まだ落ち着いていたかも知れない。振り返って見た人物が普通か、或いは予想通りだったら、それなりの挨拶くらいは出来たかも知れない。例え真顔を正面から見据えられたとしても。
「あの……」
だが、驚愕に衝撃が加算され、さらに心身の傷を刺激されたナディは完全に動転していた。故にいきなり結論を叫んでしまったのである。
「け、結婚はしませんから!」
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
この世界で唯一『スキル合成』の能力を持っていた件
なかの
ファンタジー
異世界に転生した僕。
そこで与えられたのは、この世界ただ一人だけが持つ、ユニークスキル『スキル合成 - シンセサイズ』だった。
このユニークスキルを武器にこの世界を無双していく。
【web累計100万PV突破!】
著/イラスト なかの
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!

異世界転生ファミリー
くろねこ教授
ファンタジー
辺境のとある家族。その一家には秘密があった?!
辺境の村に住む何の変哲もないマーティン一家。
アリス・マーティンは美人で料理が旨い主婦。
アーサーは元腕利きの冒険者、村の自警団のリーダー格で頼れる男。
長男のナイトはクールで賢い美少年。
ソフィアは産まれて一年の赤ん坊。
何の不思議もない家族と思われたが……
彼等には実は他人に知られる訳にはいかない秘密があったのだ。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
能力値カンストで異世界転生したので…のんびり生きちゃダメですか?
火産霊神
ファンタジー
私の異世界転生、思ってたのとちょっと違う…?
24歳OLの立花由芽は、ある日異世界転生し「ユメ」という名前の16歳の魔女として生きることに。その世界は魔王の脅威に怯え…ているわけでもなく、レベルアップは…能力値がカンストしているのでする必要もなく、能力を持て余した彼女はスローライフをおくることに。そう決めた矢先から何やらイベントが発生し…!?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。
新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる