ベルガエ物語 いじけて結婚を拒んだ女司書は優しい騎士に護られ小粋な猫に連れられて美味しい旅をする。

滴酒巧

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第三章

叔母の不安

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 その日の夜。

「大丈夫だろうか。ナディは」
 ティンベル男爵家の当主ジェルマはワインが半分残っているグラスを前に薄暗い表情で呟いた。
「大丈夫ですよ。ナディですから」
 そう言って妻のエロイーズが身体を寄せる。手には同じくワインのグラス。場所は昼間に長女と姪とおやつを食べた部屋。つまりこの夫婦の寝室である。
「そうは言ってもなあ。エロイーズ」
 ジェルマは困った声で言う。
「昼に告げた時にはすぐにも目付きが変わったんだぞ。まるで寝起きの猫みたいに」
 ああ、そうでしょうねえとエロイーズは納得する。あの一見地味そうだが、意思は強い姪なら、そうなりそうだ。
 さらに、この人の良い、その分、正直な夫に『そんな姪を上手く丸め込む』なんて芸当は出来ないだろうし。
「それは乙女ですからね。『婚姻』ともなれば目の色も変わるでしょう」
「そうなんだよ。別に早すぎるとかじゃあないんだし」
 ジェルマは愚痴る。妻のエロイーズには甘えられているみたいで可愛く思える。最近は少し体型が油断しているけど。この件が上手くいったら、ご褒美に郊外に円遊にでも連れていってもらおう。
 この夫を猟犬くらいにきっちり走らせてあげるのだ。
「まだナディは十七ですからね」
 そう返すエロイーズも長女のアレクサンドラを十八歳で産んでいる。この時代の亜大陸においては、あの姪も結婚は真面目に考えなければならない年齢ではあるのだ。
「しかもお相手はちゃんとした立派な次期領主様だぞ」
 ‘領主’に拘るのはティンベル男爵家には代々領地がなく、『王立図書館長』の手当てだけが収入と言う、この時代には珍しい一門の故でもあるのだろう。
 つまり技能で王国に仕えているのだ。爵位は与えられていても、宮廷では些か軽んじられている所以でもある。
「しかも高名なアルフェンス卿の元で修行した騎士様でもある。これほどの良縁滅多にないぞ」
 ただし爵位はない。エロイーズには姪が色々と僻んでいるのではないかと夫が心配している俗っぽい理由もわかっている。
「一つお聞きしたいのですが」
 エロイーズは瓶をとり、ジェルマのグラスにワインを注ぎながら言った。
「明日、正式に我が家へナディに求婚に参られる方は、リンツ卿の御仲介なんですよね?」
「うむ。リンツ卿の騎士時代の戦友がアルフェンス卿でな。そちらからだ」
 最愛の妻の酌に些か機嫌を直してジェルマは一口ワインを飲む。
「どういう事情で向こう様はナディの事を知ったのでしょう?」
 可愛い姪ではあるが巷間に噂される美人と言う訳ではないし、逆に変人奇人としても東の田舎のブレイブまで聞こえるとも思えない。
「……まあ、リンツ卿がその古い戦友に教えたのかなあ」
 曖昧な言い方はジェルマがその点を確認してない証である。やれやれとエロイーズはため息をつきたくなった。確認すべき事でしょうが。まずそこは。
 これだからこの人はわたしがついていないと。
「ティンベル男爵家と深い縁を紡ぎたいとかではないのですね?」
「そこまでは聞いてないが……ほら、うちは図書館だけの家柄だし」
 ジェルマの言う様にティンベルは野心家の食欲を刺激する存在では確かにない。エロイーズは一先ずは、ほっとする。貴族の勢力争いのなんちゃらではないらしい。これで最悪でも、ただの縁談ですむ。
 もし、これが政略を含めた話なら個人的好き嫌いで断る訳にはいかず、最悪、姪の代わりに他の娘を差し出せと言う事態になる可能性もある。そうとなったらこの夫も姪も無理を我慢しての大騒ぎになるだろう。
「親友の噂からの嫁探しですか」
「そうなんだよ。いい話だろう。浪漫満ち溢れる。なあ」
 まあ、この夫ならねえとエロイーズは思う。これでも偉い学者とされているのに、図書館の古典の恋愛ものが大好きだもの。年甲斐が無いとも、自分の地位を考えろととも思うが。
 ……だからこそ初恋の乙女が政略結婚させられても諦めず、ついにはその女性が離婚するまで独り身で待っていたと言う、優しいお人なのではあるのだけれども――と、エロイーズはちょっと自分の口元が緩むのを感じた。
「どうした? エロイーズ。顔が赤いぞ」
「……このワインは美味しいですね」
 そう誤魔化すとそうかそうかとジェルマが瓶をとって注いでくれる。いくら貴族の端くれとは言え、就寝前に夫婦でこっそり酒盛りなど、お堅い教会が知ればしかめっ面で説教されるだろうが、この夫婦だけの楽しみは止められない。
「悪い人ではないのでしょうけれども」
 リンツ卿の名にかけてもとエロイーズも思うのだけれども。
「他に何か御相手についてご存じの事は?」
「さあ? ナディに知っている事は全部伝えた通りで」
 さすが愛する我が夫。こう言うのはやっぱり当てにならない。
「なんだ。エロイーズ。心配なのか」
「まあ、それなりにですねえ」
 夫に注いでもらったワインをこくりと一口飲んでからエロイーズは曖昧に微笑んでみせた。


 実は彼女は彼女なりに行動していた。
 おやつの時間に姪の不満足を察してすぐにこっそりと執事のモルガンに命じて、リンツ卿の御屋敷へ届け物をさせている。富商の実家から定期的にぶんどって、しっかり家に貯めている秘蔵のワインを二本持たせて。もちろん寄贈先はリンツ卿と今日はそちらに宿泊しているはずのお客人だ。一応、礼儀の内の行為である。
 わざわざ初老の執事のモルガンに頼んでその使者に立てたのは、この時代において一般に執事は使用人の頭と言う以上に権威があり、家の中の事柄であれば立派に主人の代理となり得るからである。
 そう言う資格の者が直々に届け物に来訪したのならば、受け取る方としても会わない訳にはいくまい。礼儀に拘る騎士様で、当家に縁談の申し込みに来ると言うのなら尚更である。
 その際にモルガンに人となりを見てもらおう。色々と人生経験の豊富な彼の人物眼は十分に信頼できる。
 が、その有能な執事はとぼとぼとワインを一本持って戻ってきたのだった。
「会ってくれなかったの?」
「リンツ様の御宅にはお泊まりではありませんでした」
 モルガンの報告にエロイーズは驚いた。普通、田舎から王都へ上ってきた地方の郷紳らは自家の別宅でも持っていない限りは親類縁者の元へ宿を借りるのが普通なのだ。かの者はリンツ卿の御仲介であったので当然そちらにお世話になっていると思っていたのだが。
「リンツ様にお伺いしましたら、今朝一番に挨拶には来たものの、『思う処がある』とかで外の宿屋へ行かれたそうです」
 有能なモルガンはその宿泊先を聞き取ってそちらへも訪問したと言う。『梟の森亭』だそうだ。王都にある宿屋の中の格で言えば上の下くらいか。エロイーズが一瞬思い当たった様な'浮かれ女’の常駐している、いわゆるいかがわしい宿ではない。
「で、そこにもいなかったと」
「はい。奥様の仰られる通りに」
 それくらいはモルガンがワインを持ち帰った事で推測できる。使用人としては一番に信頼しているくらいにしっかりした男なのだから。
「やはり一度は立ちよったそうです。予約は無かったそうですが。ただし一人部屋を所望され、通された部屋を一瞥しただけで退去なされたとか。『迷惑料だ』と銀貨を置いていったので、宿の主人は恐縮しておりましたが」
 やはり女の店に――にしては不自然な経緯である。エロイーズにはさっぱりわからない。警戒しているのか。男爵家を? 何故?
「ですが、奥様」
 有能なモルガンはそれでも主人が知りたい情報は集めてくれてきた。ある程度ではあったが、リンツ卿から聞き取ってくれたのである。
 そしてそれを聞いてエロイーズは、わああと声をあげたのだった。


「明日を楽しみにしましょう」
「大丈夫かね。ナディは」 
「大丈夫ですよ。ナディならば」
 あの子にはきっと神の御加護がありますわともエロイーズは付け加える。それで何となく納得しそうなジェルマにさらにワインを勧めながらも、妻は夫の見えない方向でにやりと笑った。

 ええ、本当にお楽しみ。素敵なお話になりそうよ。



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