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1巻
1-2
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◆
「それじゃあ、母さん。いってきます」
「気を付けていってらっしゃい、翔」
眩しい陽の光が降り注ぐ朝。今日も俺は仕事へ向かう。母と共に住む、この家から。
「いってらっしゃいませ、翔様」
正確には神楽の使用人が見送るこの屋敷から、なのだが。
エントランスには、ざっと十名ほどのメイドがずらりと並び、みな同じ角度で頭を下げていた。その光景に圧倒され、薄ら笑いを浮かべることしかできなかった。
黒髪で優しい雰囲気を持つ兄の蓮と、茶髪で少々近寄りがたいオーラを放つ弟の蘭。
神楽の御曹司である彼らと法的にパートナーとなり、彼らの豪奢なお屋敷で暮らし始めて、約二週間が経った。
結婚の申し出を受け、翌日さっそく婚姻届を提出し、あっという間に引っ越しを終えた俺たちは、次期神楽家跡取りのパートナーとその母、として正式に神楽家に入った。
パートナーの存在は世間にも明かすが、名前や顔などの公表はしばらくの間控えると蓮は言っていた。なので実際のところは紙切れ一枚を提出し、同じ敷地に住まわせてもらっているだけ。淡々と手続きが進み、何の実感も湧かないまま、俺はあっさりと既婚者になっていた。
「翔様! 今日も自転車で出勤なさるおつもりですかっ?」
頭を下げるメイドたちを見て苦笑いを浮かべていると、可愛らしい少女のような外見にメイド服姿、それでいて実は成人男性で既婚者というギャップの宝庫であるハルが、頬を膨らませて詰め寄ってきた。
「ハルさん……堅苦しい態度を取る必要ないって言いましたよね? 俺はチャリ通勤が似合う普通の人間なんですよ」
「そういうわけにはいきませんよぉ! 翔様は神楽のお身内なんですから」
ハルは俺たち親子の身の回りのサポートをしてくれる。俺が神楽家へ籍を入れる前までは、双子から特別な仕事を任されていたというが、今では俺と母の専属メイド兼、神楽家のメイド長となっている。こう見えて実はやり手だ。
「俺は二人に拾ってもらっただけなんです。リムジンの送り迎えも、こんな大層なお見送りもいらないですよ」
「でも本当なら、翔様はお仕事をする必要はないのですよ? 蓮様は、翔様が望むことはなんでもしてやれとおっしゃっていますし、お金だっていくらでも……」
「良いんです、俺たちは。家賃、光熱費、食費がかからなくなっただけでも、本当に感謝してます。十分すぎますよ」
なにせ母と二人の崖っぷちの生活からなんとか抜け出せたのだから。父のテナントも、生活費が浮いたおかげで何とか維持できそうだった。
都合の良い相手としてで構わない。結婚相手として、運良く俺に白羽の矢が立ち、ありがたいと思っている。
最初こそ逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、双子のためになり、母を守ることができるのなら、正直俺のことはどうだってよかった。
それでも、二人が本当のパートナーを見つけたら、ここを出ていくことになる。用無しになったら自分の力で母を守れるよう、お金を貯めておかなければならなかった。
「でもでも、汗水垂らして週六で働くなんて……翔様だけのお身体ではないのですよ? 二人分を受け止めて愛さなければならないんですから」
「うっ……ハルさん、冗談きついです」
あの美形の双子が俺を誘うだなんて、控えめに言っても九十九パーセントないだろう。
なぜなら俺たちの結婚は、双子二人の自由な恋愛を守るための政略結婚に過ぎないのだから。
お互いにウィンウィンな関係で、そこに愛や恋などは存在しない。しかしその関係性がどうであれ、仮にも神楽の人間となった俺の付き人を担うハルは、気を配らなければいけないのかもしれない。そこは、同情する。
「ハルさんも大変ですね、俺なんかの付き人で」
「何をおっしゃるのかと思ったら。私は翔様と律子様のお役に立てて幸せですよ」
神楽家に来てから、母は本当に楽しそうに過ごしている。神楽のコネで名医に診てもらって身体の調子もすこぶる良くなった。メイドたちと一緒にお菓子づくりをしたり、広いお庭の草むしりや花植えをしたり。シアタールームで映画鑑賞会なんかもよくやるそうだ。
母は、一気に家族が増えたみたい、と毎日嬉々として教えてくれる。
「母さんのこと、いつもありがとうございます。でも、俺のことは本当に適当でいいですから。俺に割く時間があったら休憩してください」
「そうはいきませんよぉ。翔様とテーブルマナーのお稽古をして、パーティー用のお洋服のデザインも何種類か用意しないと……あ、デザイナーが来たらちゃんと試着してくださいねぇ」
「俺、社交の場に出ることないと思いますけど……」
まるで俺たちが本当に愛し合っているかのように話を進めるハルの言動の数々には、もう慣れた。これがデフォルトだ。
「って、もう行かないと」
「ちょっと翔様、お話は終わってませんよぅ」
「ごめんなさい、遅刻しそうだからまた今度」
「あっ、翔様ってばぁ」
ハルを半ば強引に振り切る。エントランスから外へ出ようとすると、自分で開ける前にメイドがさっと扉を開けた。
つい最近まではただの庶民だった。それに遠くない将来、また一般人に戻るんだ。こんな待遇を受けていいはずがない。
神楽の人間としての扱いを受けるたびに、後ろめたさが胸をちくりと刺した。
メイドたちに深々とお辞儀をして、屋敷の外へ踏み出す。しかし、行く手を阻まれてしまった。
「おはよう、翔」
目の前には、ちょうど二週間前に籍を入れたばかりの双子、蓮と蘭の姿があった。ちょっと後ろに、運転手の澪が佇んでいる。
双子ときちんと顔を合わせるのは、籍を入れた日以来だ。二人は学業や仕事を精力的にこなしているようで、こうして朝に帰ってくることもしばしば。日々すれ違いだった。
――まぁ、契約結婚の俺たちが頻繁に顔を合わす必要なんてないんだけど。
蓮は爽やかな笑顔だが、蘭は相変わらず鋭い眼光で見つめるだけ。久々の対面でわずかに緊張しつつも、挨拶を交わす。
「お、おはようございます」
「今日は、これから仕事かな?」
「はい、早番なんです」
「そっか、なら、都合がいいね」
「え?」
「今夜は俺たちも久々にオフなんだ。ようやく翔と一緒にゆっくり過ごせそうだね」
まるで今日の晴れ渡った空のように、混じり気のない笑みだった。
俺とゆっくり過ごす必要などないのでは、という感想が浮かぶ。
しかしメイドたちが見ている手前、パートナーとして自然な距離感を演出する必要があるのかもしれない。
「気をつけて行ってらっしゃい、翔」
すっ、と伸びてきた蓮の掌が優しく髪に触れた。
父が亡くなってから、誰かに頭を撫でられることなどなかった。父の大きな存在感とあたたかい掌の記憶が一瞬だけ蓮のそれと重なって、安心感とわずかな気恥ずかしさが生まれる。胸がざわつくのに、懐かしさにむせそうになる、不思議な感覚だ。
「はい、行ってきます」
少しの緊張は残るものの、笑顔で返す。
蘭とも同様に目を合わせてぎこちなく微笑みかけたが、ふい、と視線を外されてしまった。その後も、黙して語らず。双子なのに、綺麗に正反対の反応だった。
◆
「ありがとうございましたー!」
今日もたくさんの来店客で賑わう店内で、忙しなく仕事をこなしていく。
上がりの時間まで、あともう少し。いつもなら早く帰ってゆっくり休みたいと思うところだが、今日は少し違っていた。
――帰ったら、双子がいるのかぁ。
蓮は穏やかで優しい性格だ。俺にも柔らかい態度で接してくれる。彼なりに気を遣ってくれているのだろう。
だが、同じ双子でも蘭は違う。彼は俺に興味や関心がない。むしろ嫌われているのかも。
こちらは崖っぷちの生活から助けてもらった身であり、俺に配慮してほしいだなんて思ったことはない。だが、正直すれ違っていたほうが好都合だと思う。
「翔くん、翔くん」
ふいに店長から肩を叩かれ、思考の海から一気に浮上する。
「あっ、はい」
「四卓さん、呼んでるよ」
「すみませんっ、今行きます」
まだ勤務中だというのに、考え事に夢中になってしまった。
慌ててお客さんのもとへ向かった。
「島さん、お待たせしました」
「ああ、いいよ。翔くん、何だか今日元気ないね」
一人で頻繁に来店する島は、スタッフ全員の名前を把握している常連客だ。二十代後半くらいの、いわゆる好青年だ。
彼は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。俺は何事もないと訴えるように、二割増しの笑顔で返した。
「え? やだなぁ、いつも通りですよ」
「そう、ならいいんだけど。でもあんまり無理しないでね。今日はもう上がり?」
「はい。島さんに心配かけたくないし、今日はたくさん寝ようかな」
「翔くんの笑顔にいつも癒されてるからさ、何かあれば言って。力になるよ」
「えー、めっちゃ優しいじゃないですか」
「翔くんにだけだよ。じゃあ、お会計してもらおうかな」
「はいっ。いつもありがとうございます」
そんな会話を繰り広げている間にも、勤務終了の時間が迫っていた。会計のあと店先で見送りを終えると、店長に「もう上がっていいよ」と声をかけられた。
正直腰は重いが、神楽の屋敷以外に帰るところはない。それに、一緒に過ごそうという発言自体が蓮の社交辞令という可能性も捨てきれない。できればそうであってほしい。
そう願いながら、バックヤードへ向かった。
タイムカードを押し、手早く制服を脱ぎ裏口から出る。ほんのりと橙がかった明るい空の下で、愛車のロックを外した。
「翔くん」
すぐ後ろで俺を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには先ほど見送ったはずの島が立っている。なぜ、こんな狭い裏路地に。
「あれ、どうしたんですか」
「やっぱり君のこと、心配になって」
島は突如、俺の腕を掴んで引き寄せた。予想しない展開に、身体はすんなりと吸い込まれた。
「翔くん、やっぱり細いね、簡単に折れちゃいそうだよ」
彼は俺の腕をぺたぺたと触りながら、わずかに掠れた声で言う。
「島さん、こういうのは、ちょっと」
相手には多少なりともお酒が入っている。店員と客という立場ではあるが、関係は良好だ。だから、ただの悪ふざけだと判断した。
しかしそれが、間違いだった。
「俺はずっと、君に会いに来てたんだよ」
「……ひっ!」
すっ、ともう片方の腕でゆっくりと腰を撫でさする。一瞬で全身に鳥肌が立ち、同時に恐怖した。初めて感じるこの感覚が『気持ち悪い』なのだと理解する。
「翔くん、君が好きだ」
「っい、やだ、離して」
「放っておけないんだよ、俺が守ってあげるから」
乱暴に引き寄せられる。必死で抗うが、抜け出せずにさらに恐怖でこわばった。
島は良い人だった。人として好きだ。それなのに『特別な好き』でないというだけで、身体に触れられるのがこれほど耐え難いものなのか。
ふいに、パートナーは自分で決めたいと語った双子の顔が浮かぶ。
――そっか。そりゃあ嫌だよね、好きでもない相手と結婚するだなんて。
「おい」
聞き覚えがあるようで、その実あまり耳にした回数は多くない、そんな声がした。
蘭だ、と思うのと同時に、薄暗い路地裏には到底不釣り合いな彼がなぜ? という疑問が、先程までの恐怖を消し去った。
「勝手に触んな」
帽子を深く被り、薄い色合いのサングラスをかけ、Tシャツにジーパン姿というラフな格好で突然現れた蘭の表情は相変わらず無愛想で、まるで不機嫌だと顔に書いてあるみたいだった。
そのまま俺の腕を掴む島の手首を掴み返し、内側にぐるん、とひねる。人体の構造上無理な方向に曲がった肘を押さえながら、面白いくらいあっさりと島はその場に膝をついた。
――もしかして、助けに、来てくれた?
「帰るぞ」
蘭は踵を返し、何事もなかったかのように歩き始める。だがすぐに、背後から制止がかかった。
「待てよ! お前さっき店にいたよな、その子とどんな関係なんだ」
やられっぱなしで終わってくれず、島が声を荒らげて詰め寄る。蘭はため息をつくと、俺を隠すように一歩踏み出した。
「今回は、警告だけで済ませてやる」
「なんだと」
「あんたさ――」
蘭の言葉を待たずに、島は逆上し殴りかかろうと腕を振り上げる。蘭は臆する様子はなく、ふっ、と鼻を鳴らした。俺は無意識に蘭の腕を引き寄せた。しかし彼は根が生えたように動かない。
焦燥にかられ、危ない、と口にする。だが瞬きの後、どん、と鈍い音が路地裏に響いた。
「手ぇ出す相手、間違えたな」
飄々と言い放つ蘭には、傷一つない。よかった、怪我はしていない。では、あの音は?
「頼むから、翔だけはやめてくれないかな」
島は蓮に後ろ手にされ壁に押さえつけられていた。何が起きたのか理解できないと表情が語っている。
「もう二度と翔に近づかないでくれ。約束できないなら、少々荒っぽい手段を取ることになる」
スーツ姿でかっちり決めている普段とは違い、パーカーにスキニーパンツのラフな姿だが、仮にもパートナーの姿を見間違うことはない。地を這うような低い声で、島を脅す蓮の腕にさらに力が入るのがわかった。島が、苦痛に顔を歪めたからだ。
「蓮くん!」
汗が滲むほどぎゅっと掴んでいた蘭の腕を放し、引き寄せられるようにふらふらと進む。だがすぐさま、蘭が強引に俺の腕を引いた。
「どこへ行く気だ」
「止めないと」
「なんで」
「だって、乱暴はよくないです」
「お前、自分が乱暴されといて、よくそんなこと言えるな」
ぐうの音も出ない。それでも不安と心配が胸の中で渦を巻いて、その場から動けなくなった。そんな俺の身体を、蘭は黙って横抱きした。
「えっ、なに」
「帰るぞ」
「でも、まだ蓮くんが」
契約結婚で、身分も住む世界も違う俺には、こんなふうに世話を焼く必要なんてないのに。
それでも、蘭の体温が、人肌はこんなに温かいのだと思わせてくれて、抵抗感が薄れていく。
「蘭様」
前方から澪が音もなくやってきた。声をかけられるまでそもそも澪がいることに気づかなかった。
「この後の対応はいかがいたしましょう」
「二度とこいつに近づかないよう、説明と交渉」
「かしこまりました」
「あー……なるべく手荒い手段はなし。怪我してるようなら、治療してやれ」
蘭は歯切れ悪く付け足すと、すぐさま歩き出す。一度だけ送られた視線には、これでいいのか、という問いが込められているように思った。
普段は無機質な彼の声や表情に、俺への配慮があると気がついて、胸の内がわずかに温かくなる感覚があった。
「あ、ありがとうございます」
今はもう俺を見ていない彼の目を見て伝えるが、返事はない。足早に路地を抜けて表通りに差し掛かると、見覚えのあるリムジンが停めてあった。
蘭は開いたドアの中へ、俺を少々雑に押し込んだ。
「……わっ」
本革の座席の上に前のめりに着地したあと、ほとんど間を置かずに後ろから強く身体を抱かれた。翔、とたしかめるように名前を呼ばれると、腕や骨格だけでは判別できないが、不思議なことに声でわかってしまう。
双子でも、声にはちゃんとそれぞれの特徴があるものだなぁ、とふと思った。
「怪我はない?」
「だ、大丈夫です」
「良かった……」
耳にかかる声は、先ほどまでの怒りと牽制を含んでいない。彼は髪に指をくぐらせ、頭に頬をすり寄せてくる。
そして、ばたん、とドアが閉まる音が聞こえたのと同時に、掴まれた肩を支点にして身体を反転させられた。安堵するような表情で見つめる蓮と、その奥に足を組んで窓枠に頬杖をつく蘭がいた。
「あ、あのっ。助けてくれて、ありがとうございます」
「俺たちがそばにいて良かった。知らないところで君の身に危険が及んだらと思うと、気が気じゃないよ」
そんなおおげさな、と思った後で、二人が来てくれなかったら、と考えてしまい身体が震える。なぜ二人がここにいるのかはさておいて、吐く息が震えるくらいには怖かった。
「大丈夫、もう怖くないよ」
震える両手を、蓮が強く握る。彼が握ってくれると、不思議と落ち着いた。数回深呼吸をすると、身体をしめつける圧迫感が消えていき、ほっとしてまた息を吐く。
「ありがとうございます。でも、どうしてここに?」
「仕事の邪魔にならないように隠れてたつもりなんだけど、結局バレちゃったね、蘭」
蓮が振り返り蘭に目配せしたが、彼の視線がこちらを向くことはない。それでも蘭の顔を見るだけで、たった数秒抱かれただけの体温と鼓動が蘇る。
いやいや、何を意識しているのかと、微かにかぶりを振った。
「けっして、翔の仕事姿を覗き見しに来たわけじゃないよ。仕事の下見なんだ」
「そうなんですね。なら、偶然ですね」
「そう、偶然」
二人ともどんなにラフな服装をしていようが美青年で目を惹くことには変わりない。だが、自分の職場に二人がいるはずがないから、その存在に気がつくことはなかった。
偶然でもなんでも、二人がいてくれて良かったと口にすると、小さな舌打ちが聞こえた。舌打ちをしたのは、蘭しかいない。思わずびくんと肩を揺らす。
しかし直後聞こえた言葉に、彼の優しさが垣間見えた。
「自分に下心を持ってる人間くらい、わかれよな、お前」
「はい……ごめんなさい」
「気をつけろ、特に外では。俺たちはいつでも近くにいるわけじゃないからな」
裏を返せば、近くにいたらまた助けてくれるということだろうか。
なんともぶっきらぼうな言葉だが、俺の身を案じてくれる。都合のいい解釈かもしれないが、嬉しかった。
蘭は俺に興味などないと思っていたのだが、彼の印象が変わった。
――案外怖い人じゃないのかもしれない。
さっきだって、暴力を振るおうとする相手に臆することなく俺を救ってくれた。助けてもらったのに図々しく意見した俺の意思を汲んでくれた。
危機から脱し、苦手だった蘭の人となりに触れて、一気に緊張の糸が解けた。
「俺、二人の気持ちが、少しだけわかった気がします」
「俺たちの?」
「自分で決めた人とパートナーになりたいって気持ちが。自分が好きになった人とじゃないと、触れ合うのは辛いなって」
俺も、恋をしたことはある。お付き合いをしたこともある。一生手放したくないと願った恋だってあった。
齢十九にして生意気だとは思うが、もう遠い昔の話だ。だから、惹かれ合う心地よさも、人肌に触れる感触も、すっかり忘れていた。
最初こそ、なぜ俺なのかと悩み、与えてもらってばかりの環境に引け目を感じていた。けれども案外、二人の人生において重要な役割を担っているのかもしれないと思った。
恩人である二人の役に立てるのなら契約結婚も悪くないと、わずかに高揚した。
「だから、二人が本当に好きになった人と――」
いつか結ばれることを願っている。そして、その時が来たら、すぐに二人の前から消えるから。
そう、続けるつもりだった。
「翔」
しかし俺の言葉は、柔らかな蓮の声に遮られた。
直後、唇に、久方ぶりの熱が触れた。柔らかく、微かに伝わる拍動が心地よいのに、心臓が止まりそうな衝撃があった。
「ありがとう、嬉しいよ」
目の前で微笑む蓮の顔は、近すぎて焦点が合わない。その後ろには眉間に皺を寄せる蘭の顔が見える。唇にはたしかに感触が残っている。
「おい、蓮。話がちげーだろ」
「あーでも、これくらいならギリギリ……いや、正直最後までいかなければセーフじゃないかな」
俺たちの間には、恋愛感情は存在しないはず。唇を重ねるこの行為は、俺の知る限り心通う者同士で行うものだった。
呆れと苛立ちが交錯する複雑な表情を浮かべ、蘭は吐き捨てるようなため息をつく。
「……せめて帰ってからにしろよ」
「ごめん、最初奪っちゃって。怒った?」
「別に」
蘭は、いたって冷静だった。だからこの直後、こんな行動に出るとは想像もしなかった。
「どうせ、これからずっと俺のものだしな」
ゆっくり立ち上がった蘭は、蓮を押しやって俺の隣にすとんと腰掛ける。そしてふいに俺の首に腕を回すと、強張った俺の身体を抱き込んで、唇を食むようにキスをしてきた。
指先までぴんと固まって、抵抗することも声を出すこともしなかった。先ほどと同様の感触に、やっぱり勘違いでも夢でも気のせいでもなかったと思い知らされた頃、すっと綺麗な顔が離れていく。
「やっぱ、怒ってるじゃん」
「うるせ」
「俺の、じゃなくて俺たちの、だから」
自らの行為になんの疑問も後悔もない様子の彼らは、その後も変わらない。
一人でぐるぐると考えをめぐらせて、心臓をせわしなく弾ませている自分がおかしいのかと思った。
再びそっぽを向いてしまった蘭と、わざわざ反対隣に移動して俺の頭を撫でさする蓮。
出会って間もない契約結婚の相手……それ以上でもそれ以下でもないはずの二人から贈られた口づけは、嫌悪や苦痛といった感情が芽生える間もなく過ぎていった。
◆
『翔、よく覚えておくんだぞ……』
――ときどき、夢を見る。
『人間の価値は、お金や地位なんかじゃ決まらない』
その夢には亡き父が出てくる。俺に会いに来てくれたようで、嬉しかった。
『大きさは関係なく、自分の力で何かを成し遂げることが大事なんだ。ひたむきに努力できる翔になら、きっとできる』
幼い頃、父がくれた言葉を、頭を撫でてくれた掌の温もりを、たしかに覚えている。
だけど決まって、この先が思い出せない。
『そして――』
――あの日、父さんはなんて言ったんだっけ……
身体が柔らかい感触に包まれる中、少しずつ頭が冴えてきた。
辺りを見回すと、母と暮らしていたアパートよりも数倍広いマンションの部屋。俺はキングサイズのベッドで目を覚ました。
空調が完璧に効いているのにもかかわらず、首筋にはじとりと汗が滲んでいる。手の甲で額を拭うと、たしかにある水滴に、ここが現実だと理解した。
「やっぱ、夢じゃない、か……」
仕事を終え、双子と共にディナーをして、他愛もない話をして、それぞれの寝室へと別れた。それはいい。問題は、何事もなかったかのように、ただ時間が過ぎていったということ。
――車の中でされたのってやっぱ……キスだよな。
今でも鮮明に、唇の感触を覚えている。昨日たしかに、唇同士が触れたのだ。
偏見で申し訳ないが、社交的で柔軟な兄の蓮であれば、挨拶代わりにキスをしても違和感はないかもしれない。
でも蘭は違う。初対面から刺々しい態度を取っていた蘭が自ら唇を寄せてくるなど想定外だ。
あの後、二人があまりにも普段通りに振る舞うから、結局キスの真意を聞き出すことはできなかった。俺が深く考え過ぎているだけで、キスくらい、二人にとっては大事ではないのだろうか。
「翔様、失礼します」
数回のノックの後、寝室の扉が開いた。
「ハルさん、おはようございます」
「よかった。起きていらしたんですね。よく眠っていらっしゃいましたねぇ」
ハルはいつも通り可愛らしい声で、「遅刻しちゃいますよ」と促す。時計を見ると、いつもより起床時間が十分ほど遅い。俺は慌ててベッドから降り立った。
「あ、そうだ翔様。今日から必ずお車で送迎いたしますからね」
「えっ? でも俺は自分で……」
「おはよう、翔」
寝間着のボタンを外しながら突然の提案に意見しようとすると、ふいに名前を呼ばれた。しかしハルの声ではない。
開け放たれた寝室の入り口から自然に入室してきたのは、蓮だった。
昨日の件もあって意識してしまい、ボタンを外す手を止めてしまう。
「それじゃあ、母さん。いってきます」
「気を付けていってらっしゃい、翔」
眩しい陽の光が降り注ぐ朝。今日も俺は仕事へ向かう。母と共に住む、この家から。
「いってらっしゃいませ、翔様」
正確には神楽の使用人が見送るこの屋敷から、なのだが。
エントランスには、ざっと十名ほどのメイドがずらりと並び、みな同じ角度で頭を下げていた。その光景に圧倒され、薄ら笑いを浮かべることしかできなかった。
黒髪で優しい雰囲気を持つ兄の蓮と、茶髪で少々近寄りがたいオーラを放つ弟の蘭。
神楽の御曹司である彼らと法的にパートナーとなり、彼らの豪奢なお屋敷で暮らし始めて、約二週間が経った。
結婚の申し出を受け、翌日さっそく婚姻届を提出し、あっという間に引っ越しを終えた俺たちは、次期神楽家跡取りのパートナーとその母、として正式に神楽家に入った。
パートナーの存在は世間にも明かすが、名前や顔などの公表はしばらくの間控えると蓮は言っていた。なので実際のところは紙切れ一枚を提出し、同じ敷地に住まわせてもらっているだけ。淡々と手続きが進み、何の実感も湧かないまま、俺はあっさりと既婚者になっていた。
「翔様! 今日も自転車で出勤なさるおつもりですかっ?」
頭を下げるメイドたちを見て苦笑いを浮かべていると、可愛らしい少女のような外見にメイド服姿、それでいて実は成人男性で既婚者というギャップの宝庫であるハルが、頬を膨らませて詰め寄ってきた。
「ハルさん……堅苦しい態度を取る必要ないって言いましたよね? 俺はチャリ通勤が似合う普通の人間なんですよ」
「そういうわけにはいきませんよぉ! 翔様は神楽のお身内なんですから」
ハルは俺たち親子の身の回りのサポートをしてくれる。俺が神楽家へ籍を入れる前までは、双子から特別な仕事を任されていたというが、今では俺と母の専属メイド兼、神楽家のメイド長となっている。こう見えて実はやり手だ。
「俺は二人に拾ってもらっただけなんです。リムジンの送り迎えも、こんな大層なお見送りもいらないですよ」
「でも本当なら、翔様はお仕事をする必要はないのですよ? 蓮様は、翔様が望むことはなんでもしてやれとおっしゃっていますし、お金だっていくらでも……」
「良いんです、俺たちは。家賃、光熱費、食費がかからなくなっただけでも、本当に感謝してます。十分すぎますよ」
なにせ母と二人の崖っぷちの生活からなんとか抜け出せたのだから。父のテナントも、生活費が浮いたおかげで何とか維持できそうだった。
都合の良い相手としてで構わない。結婚相手として、運良く俺に白羽の矢が立ち、ありがたいと思っている。
最初こそ逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、双子のためになり、母を守ることができるのなら、正直俺のことはどうだってよかった。
それでも、二人が本当のパートナーを見つけたら、ここを出ていくことになる。用無しになったら自分の力で母を守れるよう、お金を貯めておかなければならなかった。
「でもでも、汗水垂らして週六で働くなんて……翔様だけのお身体ではないのですよ? 二人分を受け止めて愛さなければならないんですから」
「うっ……ハルさん、冗談きついです」
あの美形の双子が俺を誘うだなんて、控えめに言っても九十九パーセントないだろう。
なぜなら俺たちの結婚は、双子二人の自由な恋愛を守るための政略結婚に過ぎないのだから。
お互いにウィンウィンな関係で、そこに愛や恋などは存在しない。しかしその関係性がどうであれ、仮にも神楽の人間となった俺の付き人を担うハルは、気を配らなければいけないのかもしれない。そこは、同情する。
「ハルさんも大変ですね、俺なんかの付き人で」
「何をおっしゃるのかと思ったら。私は翔様と律子様のお役に立てて幸せですよ」
神楽家に来てから、母は本当に楽しそうに過ごしている。神楽のコネで名医に診てもらって身体の調子もすこぶる良くなった。メイドたちと一緒にお菓子づくりをしたり、広いお庭の草むしりや花植えをしたり。シアタールームで映画鑑賞会なんかもよくやるそうだ。
母は、一気に家族が増えたみたい、と毎日嬉々として教えてくれる。
「母さんのこと、いつもありがとうございます。でも、俺のことは本当に適当でいいですから。俺に割く時間があったら休憩してください」
「そうはいきませんよぉ。翔様とテーブルマナーのお稽古をして、パーティー用のお洋服のデザインも何種類か用意しないと……あ、デザイナーが来たらちゃんと試着してくださいねぇ」
「俺、社交の場に出ることないと思いますけど……」
まるで俺たちが本当に愛し合っているかのように話を進めるハルの言動の数々には、もう慣れた。これがデフォルトだ。
「って、もう行かないと」
「ちょっと翔様、お話は終わってませんよぅ」
「ごめんなさい、遅刻しそうだからまた今度」
「あっ、翔様ってばぁ」
ハルを半ば強引に振り切る。エントランスから外へ出ようとすると、自分で開ける前にメイドがさっと扉を開けた。
つい最近まではただの庶民だった。それに遠くない将来、また一般人に戻るんだ。こんな待遇を受けていいはずがない。
神楽の人間としての扱いを受けるたびに、後ろめたさが胸をちくりと刺した。
メイドたちに深々とお辞儀をして、屋敷の外へ踏み出す。しかし、行く手を阻まれてしまった。
「おはよう、翔」
目の前には、ちょうど二週間前に籍を入れたばかりの双子、蓮と蘭の姿があった。ちょっと後ろに、運転手の澪が佇んでいる。
双子ときちんと顔を合わせるのは、籍を入れた日以来だ。二人は学業や仕事を精力的にこなしているようで、こうして朝に帰ってくることもしばしば。日々すれ違いだった。
――まぁ、契約結婚の俺たちが頻繁に顔を合わす必要なんてないんだけど。
蓮は爽やかな笑顔だが、蘭は相変わらず鋭い眼光で見つめるだけ。久々の対面でわずかに緊張しつつも、挨拶を交わす。
「お、おはようございます」
「今日は、これから仕事かな?」
「はい、早番なんです」
「そっか、なら、都合がいいね」
「え?」
「今夜は俺たちも久々にオフなんだ。ようやく翔と一緒にゆっくり過ごせそうだね」
まるで今日の晴れ渡った空のように、混じり気のない笑みだった。
俺とゆっくり過ごす必要などないのでは、という感想が浮かぶ。
しかしメイドたちが見ている手前、パートナーとして自然な距離感を演出する必要があるのかもしれない。
「気をつけて行ってらっしゃい、翔」
すっ、と伸びてきた蓮の掌が優しく髪に触れた。
父が亡くなってから、誰かに頭を撫でられることなどなかった。父の大きな存在感とあたたかい掌の記憶が一瞬だけ蓮のそれと重なって、安心感とわずかな気恥ずかしさが生まれる。胸がざわつくのに、懐かしさにむせそうになる、不思議な感覚だ。
「はい、行ってきます」
少しの緊張は残るものの、笑顔で返す。
蘭とも同様に目を合わせてぎこちなく微笑みかけたが、ふい、と視線を外されてしまった。その後も、黙して語らず。双子なのに、綺麗に正反対の反応だった。
◆
「ありがとうございましたー!」
今日もたくさんの来店客で賑わう店内で、忙しなく仕事をこなしていく。
上がりの時間まで、あともう少し。いつもなら早く帰ってゆっくり休みたいと思うところだが、今日は少し違っていた。
――帰ったら、双子がいるのかぁ。
蓮は穏やかで優しい性格だ。俺にも柔らかい態度で接してくれる。彼なりに気を遣ってくれているのだろう。
だが、同じ双子でも蘭は違う。彼は俺に興味や関心がない。むしろ嫌われているのかも。
こちらは崖っぷちの生活から助けてもらった身であり、俺に配慮してほしいだなんて思ったことはない。だが、正直すれ違っていたほうが好都合だと思う。
「翔くん、翔くん」
ふいに店長から肩を叩かれ、思考の海から一気に浮上する。
「あっ、はい」
「四卓さん、呼んでるよ」
「すみませんっ、今行きます」
まだ勤務中だというのに、考え事に夢中になってしまった。
慌ててお客さんのもとへ向かった。
「島さん、お待たせしました」
「ああ、いいよ。翔くん、何だか今日元気ないね」
一人で頻繁に来店する島は、スタッフ全員の名前を把握している常連客だ。二十代後半くらいの、いわゆる好青年だ。
彼は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。俺は何事もないと訴えるように、二割増しの笑顔で返した。
「え? やだなぁ、いつも通りですよ」
「そう、ならいいんだけど。でもあんまり無理しないでね。今日はもう上がり?」
「はい。島さんに心配かけたくないし、今日はたくさん寝ようかな」
「翔くんの笑顔にいつも癒されてるからさ、何かあれば言って。力になるよ」
「えー、めっちゃ優しいじゃないですか」
「翔くんにだけだよ。じゃあ、お会計してもらおうかな」
「はいっ。いつもありがとうございます」
そんな会話を繰り広げている間にも、勤務終了の時間が迫っていた。会計のあと店先で見送りを終えると、店長に「もう上がっていいよ」と声をかけられた。
正直腰は重いが、神楽の屋敷以外に帰るところはない。それに、一緒に過ごそうという発言自体が蓮の社交辞令という可能性も捨てきれない。できればそうであってほしい。
そう願いながら、バックヤードへ向かった。
タイムカードを押し、手早く制服を脱ぎ裏口から出る。ほんのりと橙がかった明るい空の下で、愛車のロックを外した。
「翔くん」
すぐ後ろで俺を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには先ほど見送ったはずの島が立っている。なぜ、こんな狭い裏路地に。
「あれ、どうしたんですか」
「やっぱり君のこと、心配になって」
島は突如、俺の腕を掴んで引き寄せた。予想しない展開に、身体はすんなりと吸い込まれた。
「翔くん、やっぱり細いね、簡単に折れちゃいそうだよ」
彼は俺の腕をぺたぺたと触りながら、わずかに掠れた声で言う。
「島さん、こういうのは、ちょっと」
相手には多少なりともお酒が入っている。店員と客という立場ではあるが、関係は良好だ。だから、ただの悪ふざけだと判断した。
しかしそれが、間違いだった。
「俺はずっと、君に会いに来てたんだよ」
「……ひっ!」
すっ、ともう片方の腕でゆっくりと腰を撫でさする。一瞬で全身に鳥肌が立ち、同時に恐怖した。初めて感じるこの感覚が『気持ち悪い』なのだと理解する。
「翔くん、君が好きだ」
「っい、やだ、離して」
「放っておけないんだよ、俺が守ってあげるから」
乱暴に引き寄せられる。必死で抗うが、抜け出せずにさらに恐怖でこわばった。
島は良い人だった。人として好きだ。それなのに『特別な好き』でないというだけで、身体に触れられるのがこれほど耐え難いものなのか。
ふいに、パートナーは自分で決めたいと語った双子の顔が浮かぶ。
――そっか。そりゃあ嫌だよね、好きでもない相手と結婚するだなんて。
「おい」
聞き覚えがあるようで、その実あまり耳にした回数は多くない、そんな声がした。
蘭だ、と思うのと同時に、薄暗い路地裏には到底不釣り合いな彼がなぜ? という疑問が、先程までの恐怖を消し去った。
「勝手に触んな」
帽子を深く被り、薄い色合いのサングラスをかけ、Tシャツにジーパン姿というラフな格好で突然現れた蘭の表情は相変わらず無愛想で、まるで不機嫌だと顔に書いてあるみたいだった。
そのまま俺の腕を掴む島の手首を掴み返し、内側にぐるん、とひねる。人体の構造上無理な方向に曲がった肘を押さえながら、面白いくらいあっさりと島はその場に膝をついた。
――もしかして、助けに、来てくれた?
「帰るぞ」
蘭は踵を返し、何事もなかったかのように歩き始める。だがすぐに、背後から制止がかかった。
「待てよ! お前さっき店にいたよな、その子とどんな関係なんだ」
やられっぱなしで終わってくれず、島が声を荒らげて詰め寄る。蘭はため息をつくと、俺を隠すように一歩踏み出した。
「今回は、警告だけで済ませてやる」
「なんだと」
「あんたさ――」
蘭の言葉を待たずに、島は逆上し殴りかかろうと腕を振り上げる。蘭は臆する様子はなく、ふっ、と鼻を鳴らした。俺は無意識に蘭の腕を引き寄せた。しかし彼は根が生えたように動かない。
焦燥にかられ、危ない、と口にする。だが瞬きの後、どん、と鈍い音が路地裏に響いた。
「手ぇ出す相手、間違えたな」
飄々と言い放つ蘭には、傷一つない。よかった、怪我はしていない。では、あの音は?
「頼むから、翔だけはやめてくれないかな」
島は蓮に後ろ手にされ壁に押さえつけられていた。何が起きたのか理解できないと表情が語っている。
「もう二度と翔に近づかないでくれ。約束できないなら、少々荒っぽい手段を取ることになる」
スーツ姿でかっちり決めている普段とは違い、パーカーにスキニーパンツのラフな姿だが、仮にもパートナーの姿を見間違うことはない。地を這うような低い声で、島を脅す蓮の腕にさらに力が入るのがわかった。島が、苦痛に顔を歪めたからだ。
「蓮くん!」
汗が滲むほどぎゅっと掴んでいた蘭の腕を放し、引き寄せられるようにふらふらと進む。だがすぐさま、蘭が強引に俺の腕を引いた。
「どこへ行く気だ」
「止めないと」
「なんで」
「だって、乱暴はよくないです」
「お前、自分が乱暴されといて、よくそんなこと言えるな」
ぐうの音も出ない。それでも不安と心配が胸の中で渦を巻いて、その場から動けなくなった。そんな俺の身体を、蘭は黙って横抱きした。
「えっ、なに」
「帰るぞ」
「でも、まだ蓮くんが」
契約結婚で、身分も住む世界も違う俺には、こんなふうに世話を焼く必要なんてないのに。
それでも、蘭の体温が、人肌はこんなに温かいのだと思わせてくれて、抵抗感が薄れていく。
「蘭様」
前方から澪が音もなくやってきた。声をかけられるまでそもそも澪がいることに気づかなかった。
「この後の対応はいかがいたしましょう」
「二度とこいつに近づかないよう、説明と交渉」
「かしこまりました」
「あー……なるべく手荒い手段はなし。怪我してるようなら、治療してやれ」
蘭は歯切れ悪く付け足すと、すぐさま歩き出す。一度だけ送られた視線には、これでいいのか、という問いが込められているように思った。
普段は無機質な彼の声や表情に、俺への配慮があると気がついて、胸の内がわずかに温かくなる感覚があった。
「あ、ありがとうございます」
今はもう俺を見ていない彼の目を見て伝えるが、返事はない。足早に路地を抜けて表通りに差し掛かると、見覚えのあるリムジンが停めてあった。
蘭は開いたドアの中へ、俺を少々雑に押し込んだ。
「……わっ」
本革の座席の上に前のめりに着地したあと、ほとんど間を置かずに後ろから強く身体を抱かれた。翔、とたしかめるように名前を呼ばれると、腕や骨格だけでは判別できないが、不思議なことに声でわかってしまう。
双子でも、声にはちゃんとそれぞれの特徴があるものだなぁ、とふと思った。
「怪我はない?」
「だ、大丈夫です」
「良かった……」
耳にかかる声は、先ほどまでの怒りと牽制を含んでいない。彼は髪に指をくぐらせ、頭に頬をすり寄せてくる。
そして、ばたん、とドアが閉まる音が聞こえたのと同時に、掴まれた肩を支点にして身体を反転させられた。安堵するような表情で見つめる蓮と、その奥に足を組んで窓枠に頬杖をつく蘭がいた。
「あ、あのっ。助けてくれて、ありがとうございます」
「俺たちがそばにいて良かった。知らないところで君の身に危険が及んだらと思うと、気が気じゃないよ」
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「大丈夫、もう怖くないよ」
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「ありがとうございます。でも、どうしてここに?」
「仕事の邪魔にならないように隠れてたつもりなんだけど、結局バレちゃったね、蘭」
蓮が振り返り蘭に目配せしたが、彼の視線がこちらを向くことはない。それでも蘭の顔を見るだけで、たった数秒抱かれただけの体温と鼓動が蘇る。
いやいや、何を意識しているのかと、微かにかぶりを振った。
「けっして、翔の仕事姿を覗き見しに来たわけじゃないよ。仕事の下見なんだ」
「そうなんですね。なら、偶然ですね」
「そう、偶然」
二人ともどんなにラフな服装をしていようが美青年で目を惹くことには変わりない。だが、自分の職場に二人がいるはずがないから、その存在に気がつくことはなかった。
偶然でもなんでも、二人がいてくれて良かったと口にすると、小さな舌打ちが聞こえた。舌打ちをしたのは、蘭しかいない。思わずびくんと肩を揺らす。
しかし直後聞こえた言葉に、彼の優しさが垣間見えた。
「自分に下心を持ってる人間くらい、わかれよな、お前」
「はい……ごめんなさい」
「気をつけろ、特に外では。俺たちはいつでも近くにいるわけじゃないからな」
裏を返せば、近くにいたらまた助けてくれるということだろうか。
なんともぶっきらぼうな言葉だが、俺の身を案じてくれる。都合のいい解釈かもしれないが、嬉しかった。
蘭は俺に興味などないと思っていたのだが、彼の印象が変わった。
――案外怖い人じゃないのかもしれない。
さっきだって、暴力を振るおうとする相手に臆することなく俺を救ってくれた。助けてもらったのに図々しく意見した俺の意思を汲んでくれた。
危機から脱し、苦手だった蘭の人となりに触れて、一気に緊張の糸が解けた。
「俺、二人の気持ちが、少しだけわかった気がします」
「俺たちの?」
「自分で決めた人とパートナーになりたいって気持ちが。自分が好きになった人とじゃないと、触れ合うのは辛いなって」
俺も、恋をしたことはある。お付き合いをしたこともある。一生手放したくないと願った恋だってあった。
齢十九にして生意気だとは思うが、もう遠い昔の話だ。だから、惹かれ合う心地よさも、人肌に触れる感触も、すっかり忘れていた。
最初こそ、なぜ俺なのかと悩み、与えてもらってばかりの環境に引け目を感じていた。けれども案外、二人の人生において重要な役割を担っているのかもしれないと思った。
恩人である二人の役に立てるのなら契約結婚も悪くないと、わずかに高揚した。
「だから、二人が本当に好きになった人と――」
いつか結ばれることを願っている。そして、その時が来たら、すぐに二人の前から消えるから。
そう、続けるつもりだった。
「翔」
しかし俺の言葉は、柔らかな蓮の声に遮られた。
直後、唇に、久方ぶりの熱が触れた。柔らかく、微かに伝わる拍動が心地よいのに、心臓が止まりそうな衝撃があった。
「ありがとう、嬉しいよ」
目の前で微笑む蓮の顔は、近すぎて焦点が合わない。その後ろには眉間に皺を寄せる蘭の顔が見える。唇にはたしかに感触が残っている。
「おい、蓮。話がちげーだろ」
「あーでも、これくらいならギリギリ……いや、正直最後までいかなければセーフじゃないかな」
俺たちの間には、恋愛感情は存在しないはず。唇を重ねるこの行為は、俺の知る限り心通う者同士で行うものだった。
呆れと苛立ちが交錯する複雑な表情を浮かべ、蘭は吐き捨てるようなため息をつく。
「……せめて帰ってからにしろよ」
「ごめん、最初奪っちゃって。怒った?」
「別に」
蘭は、いたって冷静だった。だからこの直後、こんな行動に出るとは想像もしなかった。
「どうせ、これからずっと俺のものだしな」
ゆっくり立ち上がった蘭は、蓮を押しやって俺の隣にすとんと腰掛ける。そしてふいに俺の首に腕を回すと、強張った俺の身体を抱き込んで、唇を食むようにキスをしてきた。
指先までぴんと固まって、抵抗することも声を出すこともしなかった。先ほどと同様の感触に、やっぱり勘違いでも夢でも気のせいでもなかったと思い知らされた頃、すっと綺麗な顔が離れていく。
「やっぱ、怒ってるじゃん」
「うるせ」
「俺の、じゃなくて俺たちの、だから」
自らの行為になんの疑問も後悔もない様子の彼らは、その後も変わらない。
一人でぐるぐると考えをめぐらせて、心臓をせわしなく弾ませている自分がおかしいのかと思った。
再びそっぽを向いてしまった蘭と、わざわざ反対隣に移動して俺の頭を撫でさする蓮。
出会って間もない契約結婚の相手……それ以上でもそれ以下でもないはずの二人から贈られた口づけは、嫌悪や苦痛といった感情が芽生える間もなく過ぎていった。
◆
『翔、よく覚えておくんだぞ……』
――ときどき、夢を見る。
『人間の価値は、お金や地位なんかじゃ決まらない』
その夢には亡き父が出てくる。俺に会いに来てくれたようで、嬉しかった。
『大きさは関係なく、自分の力で何かを成し遂げることが大事なんだ。ひたむきに努力できる翔になら、きっとできる』
幼い頃、父がくれた言葉を、頭を撫でてくれた掌の温もりを、たしかに覚えている。
だけど決まって、この先が思い出せない。
『そして――』
――あの日、父さんはなんて言ったんだっけ……
身体が柔らかい感触に包まれる中、少しずつ頭が冴えてきた。
辺りを見回すと、母と暮らしていたアパートよりも数倍広いマンションの部屋。俺はキングサイズのベッドで目を覚ました。
空調が完璧に効いているのにもかかわらず、首筋にはじとりと汗が滲んでいる。手の甲で額を拭うと、たしかにある水滴に、ここが現実だと理解した。
「やっぱ、夢じゃない、か……」
仕事を終え、双子と共にディナーをして、他愛もない話をして、それぞれの寝室へと別れた。それはいい。問題は、何事もなかったかのように、ただ時間が過ぎていったということ。
――車の中でされたのってやっぱ……キスだよな。
今でも鮮明に、唇の感触を覚えている。昨日たしかに、唇同士が触れたのだ。
偏見で申し訳ないが、社交的で柔軟な兄の蓮であれば、挨拶代わりにキスをしても違和感はないかもしれない。
でも蘭は違う。初対面から刺々しい態度を取っていた蘭が自ら唇を寄せてくるなど想定外だ。
あの後、二人があまりにも普段通りに振る舞うから、結局キスの真意を聞き出すことはできなかった。俺が深く考え過ぎているだけで、キスくらい、二人にとっては大事ではないのだろうか。
「翔様、失礼します」
数回のノックの後、寝室の扉が開いた。
「ハルさん、おはようございます」
「よかった。起きていらしたんですね。よく眠っていらっしゃいましたねぇ」
ハルはいつも通り可愛らしい声で、「遅刻しちゃいますよ」と促す。時計を見ると、いつもより起床時間が十分ほど遅い。俺は慌ててベッドから降り立った。
「あ、そうだ翔様。今日から必ずお車で送迎いたしますからね」
「えっ? でも俺は自分で……」
「おはよう、翔」
寝間着のボタンを外しながら突然の提案に意見しようとすると、ふいに名前を呼ばれた。しかしハルの声ではない。
開け放たれた寝室の入り口から自然に入室してきたのは、蓮だった。
昨日の件もあって意識してしまい、ボタンを外す手を止めてしまう。
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