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第四章 聖女救出編

猫人族

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 国境沿いにそびえたつ山は、険しくはあるが、越えられない程ではなかった。
 ハルトは手に息を吹きかけて温めながら、滑落しないよう気を付けて歩く。当然道などはないし、登るにつれて寒さも厳しくなる。だが、隣国の村人でさえ、越えて来られるくらいのものだ。ハルトにとっては、そう大した苦労ではなかった。

(皆、怒ってるかなぁ……)

 村を抜け出す計画はあの日——蜘蛛に襲われ、モリフが消えた日には既に考えていた。
 モリフ救出のために一番の障害となるのは、やはりマリアだった。ハルトを溺愛しているマリアが、冷戦中の隣国への密入国を許すとは到底思えなかった。
 そして、提案した瞬間からマリアは警戒する。ハルトが勝手に行ってしまうことを。そうなれば、もはや詰みである。ハルトにマリアの警戒網を潜り抜ける術はない。

 だから、ハルトは一芝居打ったのである。
 意気消沈して、精神不安定なふりをしたのだ。そのおかげでマリアとルイワーツを都市ヴァルメルでの裁判に送り込むことに成功し、しかも村人たちもハルトを気遣ってそっとしておいてくれる。つまり1人にしておいてくれた。だから、ハルトはこっそりと抜け出すことができたのだ。
 ただ罪悪感に押しつぶされるのではないか、という程、ハルトは気に病んでいた。モリフを助けた後に土下座して謝るしかない。
 
(それで許してくれれば良いけども…………無理かぁ)
 

 太陽は真上に上っていた。
 時間計測の魔道具はおいて来てしまったが、時刻は昼過ぎ頃だろう、とハルトは当たりをつける。

(僕が出発したのが夜明け頃だから、早ければ今頃置き書きを見つけているころかな。マリアさんは明日までは帰ってこないから、とりあえず追いつかれることはないだろうけど、もしかしたらナナあたりが独断で追って来るかもだし、油断は禁物か)

 昼食をとることなく、ハルトは足を速める。今日中に村か都市に潜入したかった。シムルド王国での土地勘はないが、ハルトは『サーチ』による人間探知があるから、まぁなんとかなるだろう、とたかを括っていたが、今のところ探知には何も引っかからない。
 さっきまでほんの小さな種火だった焦りが、いまやごうごうと燃え盛るようにハルトの心を焦がす。

 ヤバいヤバいヤバい、とお経のように詠唱しながらそれでも歩を進めるしかハルトにできることはない。
 ハルトが胸を撫で下ろしたのはさらに1時間ほど歩いた時である。1キロ圏内ギリギリのところで人間とオークの反応を感知したのだ。

(よっしゃ! 人間! でも襲われてる?!)

 感知するや否や、ハルトは全速力で駆けた。
 もうあと100メートル程で辿り着く、というところで人間の反応が1つ消えた。死んだのだろう。オークは消えていないが消滅した人間のところに留まっているようだった。

(状況が分からん。まぁオークなら容易く仕留められるから、とりあえずそのまま突っ込もう)

 ハルトは考えるのをやめて、オークに突撃した。
 上質な衣類を纏った人間の男の腹に、顔を沈めるオークがいた。口の周りは男の血でべっとりと赤黒く染まっている。
 その周りには鎧を着た複数の男たちと、別のオークの死体が転がっていた。どうやらオーク数体との戦闘の末、最後の1体を残して全滅したようだ。今、オークに食われているのがつい先ほど反応が消えた人間とみて間違いないだろう。

(そうか、食事中だからオークも止まっていたのか)

 考えると同時にハルトは、使い慣れぬ鉄の剣を鞘から抜いた。農神剣は、村に置いてきたためだ。あれは村の発展のために絶対に必要な物だ。ハルトが勝手に持ち出して良いものではない。

 オークがハルトを捕捉した時には既に、青い魔力を纏った斬撃がオークの頸動脈を裂いていた。喉元から血を噴き出して音を立ててオークが倒れた。
 ハルトは周囲をもう一度確認する。10メートルほど離れたところに損壊した馬車が残置されていた。

(この人たちの馬車か。と、すると、やっぱり商人だろうな。服装もそれっぽいし。近くに村や都市があるということだろうか)

 少なくとも1キロ圏内に人間の反応はない。
 もう少し早ければ、とハルトが鼻の上に皺をつくった。
 可哀想だが、オークにやられた彼らを弔っている時間はハルトにはない。
 ハルトは彼らに手を合わせて、祈った。彼らの来世はもっと良い世界に転生できますように、と。

 そっと目を開けて、さて、とハルトが誰にともなく呟いた時だった。

「ぅ…………ぅう」

 小さな呻きが聞こえた。ハルトはあたりを見回す。もう一度探知を作動させるが、やはり反応はない。
 声のあった方に顔を向け、もう一度よく観察していると、転がっている死体——だと思っていた者——の1つが微かに動いた。
 ハルトは慌てて駆け寄った。戦士ではない。ただの布切れと言ってもよさそうな明らかに貧相な服装をしている。

 奴隷か、と瞬時に察した。
 彼——いや、彼女だ。彼女の頭からは見慣れない物が2つ生えていた。猫のような耳。なるほど獣人か、と腑に落ちた。人間ヒューマンでないのなら探知に引っかからないのも頷ける。

「おい、大丈夫か」

 ハルトの声に反応してか、薄く彼女は目を開いた。腹を殴られでもしたのか、痛みに耐えるように腹部に手を添えている。口元には吐血の跡があった。

ハルトが腹部を軽く手で押すと、彼女は苦しそうに呻いて目を固くつぶった。自然治癒できるレベルではないのは明らかだった。
 ハルトはカバンから天界樹の葉をひいて作った薬を取り出し、零れないように慎重に彼女の口に流し込んだ。

「飲め」と口を手で塞いで伝えると、彼女がこくり、とそれを飲み下す。
 間もなくして、彼女はおそるおそる目を開いた。
 それから腹を手で触って「え」と目を見開いた。そんなはずない、とでも言うように、彼女は勢いよく上体を起こして、激しく自らの腹を触って『激痛』を探していた。だが、どこを探してもそれはなく、やがてハルトに目を向けて「どうして」と声を漏らした。

「キミを助けたのは、僕のためだから気にしなくて良い」

 未だ状況を理解していない彼女に、ハルトはさっさと国境を離れたい一心で話を進めようとする。だが、彼女の疑問は『どうして助けたの』ではなく『どうして傷がないの』である。ハルトはそのことに気が付かない。

「あなたが……」とだけ彼女が言った。あなたが助けてくれたのね、と訊ねたかったようだったが、ハルトは自分の名前を聞かれていると、またも勘違いする。

「僕はハルト……えーっと、商人見習い? 的な」テキトーな嘘を吐き出した。密入国者だと明かすには相手のことを知らなさ過ぎる。信用するしない以前の問題だった。「キミは?」と今度はハルトが訊ねた。

「あ……あたしは…………猫人族、です」とか細い声で彼女が答えた。「それは種族名じゃん。名前は?」
 彼女は目を伏せた。「3番、と呼ばれていました」
「…………誰に?」とハルトが訊くと、彼女の目は腹を食い散らかされていた男に向いた。一瞬彼女の目が不快そうに歪み、すぐにそれをかき消すように真顔に戻った。
「あー…………あの商人、奴隷商だったの?」
「……奴隷も扱う、と言っていました。闇商人、だと、おもいます」
 なるほど、とハルトは頷いた後に「でも、キミ、奴隷になる前の名前はあるんだろ?」としつこく訊ねた。ハルトとしては、これから人里まで案内してもらう間中ずっと、「ねぇ、3番さん」と彼女を呼ぶのは避けたいところだった。

「み、ミーシャ、といいます」

 ミーシャが躊躇いがちにそう告げると、ハルトはニコッと満足そうに微笑んで、「よし、じゃあミーシャ」と早速呼びかけた。
「は、はい」
「キミは僕に助けられた。いわば命の恩人だ。そうだろ?」
「え、あ、…………はい」ミーシャの目から色が失われていく。ふるふると体が小刻みに揺れていた。
 ハルトは話を進める。「ならば、僕の頼みを聞く義務がある。うん。ある。な? あるよな?」
「…………はい」俯いてミーシャが答えた。
「よし。では、僕を村でも都市でも、何でも良いけど、人里まで案内してくれたまえ」

 ハルトがあごを持ち上げて尊大な態度でそう告げるが、ミーシャの返事は返ってこなかった。
 あれ、と思いミーシャに目をむけると、地に伏せられていたミーシャの瞳がせわしなく揺れている。必死に思考を回しているようだった。

「おーい」とハルトが再度声を掛けると、はっ、とミーシャが顔を上げた。「あの……それだけ、ですか?」
 ハルトはミーシャの質問の意図がよく分からず首を傾げる。それから「それだけだが」と答えた。
「あ、あ、あたしの体を、その……そういった用途で、使用したり、娼館に売ったり、そういったことは……」

 あーはいはい、そういうことね、とハルトが何度も頷く。その様子にミーシャがビクッとまた震えた。

「酷いことはしないよ。というか、キミもう既に奴隷紋消えてるはずだけど」

 ミーシャは弾かれたように胸元を広げてそこから自らの身体を覗き見た。奴隷の所持者が死亡した場合は、奴隷は服従の義務から解放される。副所持者を設定しておく場合もあるが、稀である。

「き、消えてます」とミーシャが言った。「だろ? でもキミは一文無しで故郷に帰る術がない。だから、僕が金を出してあげよう。代わりに案内をキミにお願いしたい。どうかな?」

 ミーシャは一瞬考えてから改めてハルトに目を向ける。人好きのする笑みを浮かべる目の前の少年に、ミーシャは困惑しながらも、頭を下げた。

「ぜひよろしくお願いします」
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