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【ユーリス編】本編余談
13話:シーグルが産まれた日
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穏やかに時が流れていく。日に日に大きくなるマコトのお腹は、臨月を迎えてはち切れんばかりに膨らんでいる。竜人の子は人の子よりも一回り以上大きいと聞く。それが分かる膨らみだった。
その夜、身じろぐ様子に目が覚めた。マコトは体を丸くして苦しそうにしている。大きなお腹を抱えて、浅く息を吐いていた。
「マコト?」
「うっ、ちょっと待って……」
額からも汗が浮く。俺は、どうしていいか分からずにあたふたするしかない。手を握って、肩を摩ってやることしかできない。
「マコト!」
「ごめん、婆さん呼んで……」
ハッとして、俺は婆の部屋へと走った。
ドアを開け、寝ぼけている婆を脇に抱えてとりあえず走る。これで二度目、婆もされるがままになっていた。
とにかく部屋に放り込み、マコトを見た婆はホクホクと微笑み大きな腹に手を添える。そして、ふむふむと頷いている。この時マコトは平気な顔をしていて、さっきの苦しみは感じなかった。
「まだ平気な時間があるんですな?」
「はい」
「それならまだまだ。平気な間に食事でも取って下さいな」
「え……」
そんな悠長な事を婆は言うが、とてもそんな事が出来る状況に見えない。俺の方が慌ててしまうが、婆はまったく焦る様子がない。
なんだか変な感じだ。俺やマコトはこんなにも焦っているのに、時間はゆったりと流れていく。何より産婆をする婆がこれだ。顔を見合わせ、互いにおかしな顔をしてしまった。
何にしても食べられる内に食べた方がいいと言われ、俺は厨房へと向かった。食べやすい大きさのパンや果物、飲み物を用意して持っていくと、マコトはまた痛む時間なのか苦しそうにしている。
「マコト、痛むのか」
「ユーリス、いっ……」
情けない、こんな時に何もしてやれない。何か、楽な姿勢があるのだろうか。少しでも辛くなくなる方法はないものか。
「腰の辺りを摩ってやるとよいですぞ」
寝椅子でウトウトしている婆がなんとも悠長に言う。俺は持ってきた食事をサイドボードに置くと、言われたとおりに腰を摩った。
「あっ、それ気持ちいい」
痛そうにしながらもマコトは笑う。こんな事で楽になるなら、いくらだってしてやれる。俺はマコトが辛い時間はずっと、背中から腰の辺りを摩っていた。
そのうちに、常に辛そうな顔をするようになってしまった。だが、最初よりは少し余裕がある。食べ物も食べられている様子だ。
「順調ですな」
婆が腹部に触れて嬉しそうにする。どうやら出産に向かい、順調に進んでいるらしい。
「もう少しだね、ユーリス」
「あぁ、そうだな」
「男の子かな、女の子かな」
「どちらでも可愛いのには違いないさ」
「もぉ、今から親ばか?」
なんて言って、クスクス笑っている。俺もそれに笑った。背中にかかわらず、俺が触れる事でマコトは安心したような顔をする。俺ではこの痛みを肩代わりしてやれない。ならば安心させられるよう、少しでも楽になるようにするしかない。
だがそれも、日が高くなった辺りでどうにもならなくなってしまった。体を丸めて辛そうに息をするマコトは、断続的に襲ってくる痛みに呻いている。俺は腰を摩って、流れる汗を拭ってやるしかできない。
何か、無いのだろうか。何でもいいから、この痛みを少しでいい、肩代わりできないのだろうか。
「マコト、ここにいる。ここにいるから」
「うん、ユーリス。俺、頑張るから」
汗の浮いた表情で、それでもマコトは笑ってくれる。辛いのに、まだ。
なんて強い人だ。なんて、愛情深い人だ。俺の方が手を取って、その手を握りしめてしまう。愛してると伝えるしかできない無能な夫ですまない。こんな事でしか、今の君を支えてあげられないだなんて。
「うむうむ、大分産道が開きなさったが、まだまだ狭い」
「そんなの、開くの?」
「当然ですよ。ほら、甘い飲み物なら飲めるでしょう。グッと飲みなさい」
「いや、飲みたくなくて」
「糖分が大事なんですよ、マコト様。糖分を取ると進みます」
マコトの顔が青ざめる。手に飲み物を持った婆がこんなにも憎く思えた事はない。水は飲んでも食事や果物、他の飲み物は取らなかったがそういうことだったのか。
「婆、とても辛そうなんだが」
なんだ、婆がもの凄く凶悪に見える。マコトは怯えるように俺の手を握る。俺はマコトを庇うように立ったが、それで婆をどうにかする事なんてできない。情けない事だ。
お茶の時間になって、マコトの様子は余計に辛くなってきた。握りしめる力に俺の手が軋む。こんなにも強い力があったのかと驚いてしまう。
もう、俺が強く背中を撫でてもどうにもならないのか、震えて小さくなっていく。せめてもと、何度かヒールをかけてみた。傷を癒やすものだが、僅かに痛みと疲労を取る事もできる。背中の、痛むだろう腰や背に何度かそうして緩くかけたが、あまり効果を得られていないようだった。
そのうちに、マコトは強く身を屈めていく。その直後、ベッドが沢山の水で濡れていった。
「破水しましたな。どれどれ」
「いっ! ひいぃぃぃぃ!」
もう声も抑えられないんだろう。激しい痛みに震える肩を抱きしめて、背にヒールをかけ続けている。身が縮こまるとその度に水が腹から漏れ出ているのか、濡れていく。
「まだ完全に開いておりません! これ、腹に力を入れちゃいかん!」
「無理だってぇ!」
「このまま腹の水が全部こぼれたら後々苦しむのはマコト様ですぞ! ほら、息を吐いて上手く逃がしなされ!」
「無茶言わないで!」
まだ産道が開かない。時間がかかる。そう言われ、その間に腹の水がこぼれないようにと婆は無茶な事を言っている。それが上手くできるなら苦労などない。マコトはどうしても力が入るのか、その度にジョボジョボと濡れていく。
「マコト!」
「ユ、リス……」
「すまない、俺は……俺は何も」
強い力で握りしめる手を俺も握り返す。そんな俺の顔を見てマコトは辛そうに、でも笑った。この状況で笑えるんだ。
「ユ、リス。お願い、力ちょうだい」
「力?」
「頑張れって、言って。愛してるって、言って。俺が、頑張れるように応援して」
そんな事でいいのか。俺は頷いて、そっと大きな腹に触れて撫でた。中の子と、マコトを労るように。
「マコト、平気だ。俺が側にいる」
「うん」
「産まれたら、三人で眠れる」
「そう、だね」
「たまには、二人だけで眠る夜も欲しい」
「あはは、いいね」
笑ってくれる。それに少しだけほっとする。流れる汗を拭い、手を握って、体を摩って、俺は先の話をした。子供とどうやって過ごそうか、どんな大変な事がありそうか、どこか行きたい場所はないか。
「男の子、かな」
「どちらでもいいさ。元気でいてくれればそれでいい」
「あはは、親ばか」
泣きながら、婆にはしきりに「まだ!」と叫ぶけれど、俺との会話は出来ている。今は少しでも気を紛らわせてやることしかできない。俺が腹部に触れれば、マコトは「温かい」と微笑む。
「元気だよ、きっと。だって、今も動いてる」
「あぁ、感じているよ」
触れる手に、確かに感じられている。
「おぉ、開ききりましたな。どれ、移動しますぞ」
婆がようやく産道が開いたと言って笑う。それにマコトも安堵したように、既に疲れた顔で笑った。
分娩室へと向かったマコトと離れた俺は、ひたすらに襲う恐怖に震えていた。婆が言うには、竜人の子としては小さいほうだが人族が産み落とすには大きい。出産に関わるスキルも持っているが、それでも初産は時間がかかるだろうと。
倒れてしまいそうなマコトの側にいられれば、その様子を見続けていられれば安心だ。だが婆は俺を側には置かなかった。側にいればそれこそ、心配で死んでしまうと言われてしまった。
そうして控え室へと向かうと、そこには両親の姿がある。毅然と立った母が、こんなにも頼もしく見える。
「母上、子を産むというのはあれほどの苦痛なのか」
あんなに苦しいなんて、知らなかったんだ。どうして俺は、それを強いてしまったんだ。人族が異種族の子を、しかも一番大きいと言われる竜人の子を宿して、いくらスキルがあるとは言え楽になど産めないと、どうして察してやれなかったんだ。
「こんなに苦しむ彼の姿を見るくらいなら、子など望むべきではなかった」
「違うわユーリス。それは違うのよ」
母は俺の体を抱きしめて言ってくれる。それは違うと、強い声で言ってくれる。
「マコトさんも望んだ事よ。産まれてくる子は、二人の子なのよ。貴方は誰よりも産まれてくる子を愛して、大事に育てなければならないわ」
「母上……」
こんな風に母に抱きしめられて、背を撫でられるのはいつぶりだ。遙かに昔、小さな子供の頃にしか記憶がない。
母も、あのように苦しんで産んでくれたのだろうか。これほどに、慈しんでくれたのだろうか。そして父も、今の俺のように不安と恐怖に震えていたのだろうか。
親の愛を忘れていた。大人になった気になって、いつしか当然のように見えなくなっていた。
「大丈夫、マコトさんは強い子よ。きっと大丈夫、婆もついているんだから」
母のその言葉に、俺は頷いて祈った。マコトは強い、俺がこれではいけない。祈る事しかできないが、信じることしか今はできないが、それでもどうかと、ただ願った。
とても長い時間に思えた。それは突然で、あまりに急で心構えができなかった。リーンが連れてきた子は、小さく愛らしい男の子だった。
「無事にお生まれになりましたよ」
ほっと微笑む彼女に駆け寄り、俺はその子を見つめ、同時にマコトの事が気になってしまった。
「マコトは!」
「大丈夫ですわ、ユーリス様。出血は多かったのですが、ご本人も元気で、意識もあります。その出血も比較的早く止まりました。婆様の治療もありますが、何よりも自己治癒のスキルのおかげですわ」
それを聞いて、俺は気が抜けた。ペタンと床に崩れ落ちた俺に父が近づいて来て力強く一度抱きしめて、次には肩を叩いていく。
不安が溶けていく。残るのは、幸福ばかりだ。
「ユーリス、ほら」
子をいち早く抱いた母が、早くこいと俺をせっつく。立ち上がって、近づいて、見つめるその子は笑いかけてくれる。愛らしく柔らかなそれは、とても繊細で優しい匂いがする。
差し出されるが、俺はどう抱いていいか分からない。何度か練習はしたが、上手く出来ているとは思えない。こんなに柔らかな小さなものを抱いた事がないんだ。
見かねた母が俺の腕を形作って、そこにそっとその子を委ねてくれる。動く事すらもできない。首が簡単に落ちてしまいそうだ。柔らかな体は、とても温かい。黒い瞳が俺を見て、嬉しそうに微笑んでいる。
ジワリとこみ上げるものが伝い落ちていく。本を読んで、マコトに触れて、守る者を得て。父になるのだと気持ちは向かっていた。だが、そこに実感が伴っていなかったのも事実だ。あまりに早すぎる誕生に、追いついて行かなかったのも事実だ。
だが今は違う。この腕に抱くあまりに軽く、あまりに重い我が子が俺に教えてくれる。俺は、この時本当に父親になった。
「怖い、な。こんなに柔らかくて……壊れてしまいそうなのか」
「だからこそ、守ってあげるのよ」
母に言われ、俺は頷いた。早くマコトに会いたい。早く、側に行きたい。顔を見て、そしてまずは「有り難う」と言いたい。
マコトも落ち着いたと連絡が来て、俺は母に子を預けて向かった。そして、未だ横になっているマコトを見て、こみ上げる涙を止められなかった。
元気な様子で笑っている。だがその側にあるものは、あまりに大変な惨状だった。どれほどの血を流したのか、シーツが真っ赤になっている。泣き腫らした目が赤く腫れている。声も多少枯れていて、憔悴の様子もまだ濃い。
駆け寄って、抱きしめた体は温かい。ちゃんと側にあるのだと確かめられて、俺はようやく安堵した。
「有り難う、マコト! 本当に……こんなに苦しい思いをさせてしまって」
「あぁ、うん。でも今は平気だから、心配ないよ」
背中に手を添えて俺を抱きしめるマコトの腕にいつものような力はない。それでも確かに触れるその感触を、俺は愛おしんだ。
子は、シーグルを名付けられてすくすくと育っている。産まれて一週間ほどは俺も執務を休んで三人の時間にした。それで良く分かった。子育ては大変だ。数時間ごとに乳を欲しがり、終わったかと思えばおしめを取り替えて。後はほとんどが眠っている。
「マコト、疲れないか? 俺もやるから」
乳をやることはできないが、そのほかの事は俺もできる。実際、湯浴みは俺の仕事だ。マコトよりも手の大きい俺の方が安心するのか、シーグルは気持ちよさそうにしている。時々眠ってしまうくらいだ。
「大丈夫、今もけっこうやってもらってるしさ。おむつ替えなんて、ユーリスの方が上手いんじゃないか?」
「そうか?」
マコトは起きているシーグルの指を遊んでいる。指を握るのが好きなようで、手を伸ばして来る事もある。
柔らかなラグの上、揺りかごに揺られるシーグルを間に俺とマコトは座って、互いに笑っている。そんな、ある幸せな午後が今の俺の一番の幸福な時間だ。
その夜、身じろぐ様子に目が覚めた。マコトは体を丸くして苦しそうにしている。大きなお腹を抱えて、浅く息を吐いていた。
「マコト?」
「うっ、ちょっと待って……」
額からも汗が浮く。俺は、どうしていいか分からずにあたふたするしかない。手を握って、肩を摩ってやることしかできない。
「マコト!」
「ごめん、婆さん呼んで……」
ハッとして、俺は婆の部屋へと走った。
ドアを開け、寝ぼけている婆を脇に抱えてとりあえず走る。これで二度目、婆もされるがままになっていた。
とにかく部屋に放り込み、マコトを見た婆はホクホクと微笑み大きな腹に手を添える。そして、ふむふむと頷いている。この時マコトは平気な顔をしていて、さっきの苦しみは感じなかった。
「まだ平気な時間があるんですな?」
「はい」
「それならまだまだ。平気な間に食事でも取って下さいな」
「え……」
そんな悠長な事を婆は言うが、とてもそんな事が出来る状況に見えない。俺の方が慌ててしまうが、婆はまったく焦る様子がない。
なんだか変な感じだ。俺やマコトはこんなにも焦っているのに、時間はゆったりと流れていく。何より産婆をする婆がこれだ。顔を見合わせ、互いにおかしな顔をしてしまった。
何にしても食べられる内に食べた方がいいと言われ、俺は厨房へと向かった。食べやすい大きさのパンや果物、飲み物を用意して持っていくと、マコトはまた痛む時間なのか苦しそうにしている。
「マコト、痛むのか」
「ユーリス、いっ……」
情けない、こんな時に何もしてやれない。何か、楽な姿勢があるのだろうか。少しでも辛くなくなる方法はないものか。
「腰の辺りを摩ってやるとよいですぞ」
寝椅子でウトウトしている婆がなんとも悠長に言う。俺は持ってきた食事をサイドボードに置くと、言われたとおりに腰を摩った。
「あっ、それ気持ちいい」
痛そうにしながらもマコトは笑う。こんな事で楽になるなら、いくらだってしてやれる。俺はマコトが辛い時間はずっと、背中から腰の辺りを摩っていた。
そのうちに、常に辛そうな顔をするようになってしまった。だが、最初よりは少し余裕がある。食べ物も食べられている様子だ。
「順調ですな」
婆が腹部に触れて嬉しそうにする。どうやら出産に向かい、順調に進んでいるらしい。
「もう少しだね、ユーリス」
「あぁ、そうだな」
「男の子かな、女の子かな」
「どちらでも可愛いのには違いないさ」
「もぉ、今から親ばか?」
なんて言って、クスクス笑っている。俺もそれに笑った。背中にかかわらず、俺が触れる事でマコトは安心したような顔をする。俺ではこの痛みを肩代わりしてやれない。ならば安心させられるよう、少しでも楽になるようにするしかない。
だがそれも、日が高くなった辺りでどうにもならなくなってしまった。体を丸めて辛そうに息をするマコトは、断続的に襲ってくる痛みに呻いている。俺は腰を摩って、流れる汗を拭ってやるしかできない。
何か、無いのだろうか。何でもいいから、この痛みを少しでいい、肩代わりできないのだろうか。
「マコト、ここにいる。ここにいるから」
「うん、ユーリス。俺、頑張るから」
汗の浮いた表情で、それでもマコトは笑ってくれる。辛いのに、まだ。
なんて強い人だ。なんて、愛情深い人だ。俺の方が手を取って、その手を握りしめてしまう。愛してると伝えるしかできない無能な夫ですまない。こんな事でしか、今の君を支えてあげられないだなんて。
「うむうむ、大分産道が開きなさったが、まだまだ狭い」
「そんなの、開くの?」
「当然ですよ。ほら、甘い飲み物なら飲めるでしょう。グッと飲みなさい」
「いや、飲みたくなくて」
「糖分が大事なんですよ、マコト様。糖分を取ると進みます」
マコトの顔が青ざめる。手に飲み物を持った婆がこんなにも憎く思えた事はない。水は飲んでも食事や果物、他の飲み物は取らなかったがそういうことだったのか。
「婆、とても辛そうなんだが」
なんだ、婆がもの凄く凶悪に見える。マコトは怯えるように俺の手を握る。俺はマコトを庇うように立ったが、それで婆をどうにかする事なんてできない。情けない事だ。
お茶の時間になって、マコトの様子は余計に辛くなってきた。握りしめる力に俺の手が軋む。こんなにも強い力があったのかと驚いてしまう。
もう、俺が強く背中を撫でてもどうにもならないのか、震えて小さくなっていく。せめてもと、何度かヒールをかけてみた。傷を癒やすものだが、僅かに痛みと疲労を取る事もできる。背中の、痛むだろう腰や背に何度かそうして緩くかけたが、あまり効果を得られていないようだった。
そのうちに、マコトは強く身を屈めていく。その直後、ベッドが沢山の水で濡れていった。
「破水しましたな。どれどれ」
「いっ! ひいぃぃぃぃ!」
もう声も抑えられないんだろう。激しい痛みに震える肩を抱きしめて、背にヒールをかけ続けている。身が縮こまるとその度に水が腹から漏れ出ているのか、濡れていく。
「まだ完全に開いておりません! これ、腹に力を入れちゃいかん!」
「無理だってぇ!」
「このまま腹の水が全部こぼれたら後々苦しむのはマコト様ですぞ! ほら、息を吐いて上手く逃がしなされ!」
「無茶言わないで!」
まだ産道が開かない。時間がかかる。そう言われ、その間に腹の水がこぼれないようにと婆は無茶な事を言っている。それが上手くできるなら苦労などない。マコトはどうしても力が入るのか、その度にジョボジョボと濡れていく。
「マコト!」
「ユ、リス……」
「すまない、俺は……俺は何も」
強い力で握りしめる手を俺も握り返す。そんな俺の顔を見てマコトは辛そうに、でも笑った。この状況で笑えるんだ。
「ユ、リス。お願い、力ちょうだい」
「力?」
「頑張れって、言って。愛してるって、言って。俺が、頑張れるように応援して」
そんな事でいいのか。俺は頷いて、そっと大きな腹に触れて撫でた。中の子と、マコトを労るように。
「マコト、平気だ。俺が側にいる」
「うん」
「産まれたら、三人で眠れる」
「そう、だね」
「たまには、二人だけで眠る夜も欲しい」
「あはは、いいね」
笑ってくれる。それに少しだけほっとする。流れる汗を拭い、手を握って、体を摩って、俺は先の話をした。子供とどうやって過ごそうか、どんな大変な事がありそうか、どこか行きたい場所はないか。
「男の子、かな」
「どちらでもいいさ。元気でいてくれればそれでいい」
「あはは、親ばか」
泣きながら、婆にはしきりに「まだ!」と叫ぶけれど、俺との会話は出来ている。今は少しでも気を紛らわせてやることしかできない。俺が腹部に触れれば、マコトは「温かい」と微笑む。
「元気だよ、きっと。だって、今も動いてる」
「あぁ、感じているよ」
触れる手に、確かに感じられている。
「おぉ、開ききりましたな。どれ、移動しますぞ」
婆がようやく産道が開いたと言って笑う。それにマコトも安堵したように、既に疲れた顔で笑った。
分娩室へと向かったマコトと離れた俺は、ひたすらに襲う恐怖に震えていた。婆が言うには、竜人の子としては小さいほうだが人族が産み落とすには大きい。出産に関わるスキルも持っているが、それでも初産は時間がかかるだろうと。
倒れてしまいそうなマコトの側にいられれば、その様子を見続けていられれば安心だ。だが婆は俺を側には置かなかった。側にいればそれこそ、心配で死んでしまうと言われてしまった。
そうして控え室へと向かうと、そこには両親の姿がある。毅然と立った母が、こんなにも頼もしく見える。
「母上、子を産むというのはあれほどの苦痛なのか」
あんなに苦しいなんて、知らなかったんだ。どうして俺は、それを強いてしまったんだ。人族が異種族の子を、しかも一番大きいと言われる竜人の子を宿して、いくらスキルがあるとは言え楽になど産めないと、どうして察してやれなかったんだ。
「こんなに苦しむ彼の姿を見るくらいなら、子など望むべきではなかった」
「違うわユーリス。それは違うのよ」
母は俺の体を抱きしめて言ってくれる。それは違うと、強い声で言ってくれる。
「マコトさんも望んだ事よ。産まれてくる子は、二人の子なのよ。貴方は誰よりも産まれてくる子を愛して、大事に育てなければならないわ」
「母上……」
こんな風に母に抱きしめられて、背を撫でられるのはいつぶりだ。遙かに昔、小さな子供の頃にしか記憶がない。
母も、あのように苦しんで産んでくれたのだろうか。これほどに、慈しんでくれたのだろうか。そして父も、今の俺のように不安と恐怖に震えていたのだろうか。
親の愛を忘れていた。大人になった気になって、いつしか当然のように見えなくなっていた。
「大丈夫、マコトさんは強い子よ。きっと大丈夫、婆もついているんだから」
母のその言葉に、俺は頷いて祈った。マコトは強い、俺がこれではいけない。祈る事しかできないが、信じることしか今はできないが、それでもどうかと、ただ願った。
とても長い時間に思えた。それは突然で、あまりに急で心構えができなかった。リーンが連れてきた子は、小さく愛らしい男の子だった。
「無事にお生まれになりましたよ」
ほっと微笑む彼女に駆け寄り、俺はその子を見つめ、同時にマコトの事が気になってしまった。
「マコトは!」
「大丈夫ですわ、ユーリス様。出血は多かったのですが、ご本人も元気で、意識もあります。その出血も比較的早く止まりました。婆様の治療もありますが、何よりも自己治癒のスキルのおかげですわ」
それを聞いて、俺は気が抜けた。ペタンと床に崩れ落ちた俺に父が近づいて来て力強く一度抱きしめて、次には肩を叩いていく。
不安が溶けていく。残るのは、幸福ばかりだ。
「ユーリス、ほら」
子をいち早く抱いた母が、早くこいと俺をせっつく。立ち上がって、近づいて、見つめるその子は笑いかけてくれる。愛らしく柔らかなそれは、とても繊細で優しい匂いがする。
差し出されるが、俺はどう抱いていいか分からない。何度か練習はしたが、上手く出来ているとは思えない。こんなに柔らかな小さなものを抱いた事がないんだ。
見かねた母が俺の腕を形作って、そこにそっとその子を委ねてくれる。動く事すらもできない。首が簡単に落ちてしまいそうだ。柔らかな体は、とても温かい。黒い瞳が俺を見て、嬉しそうに微笑んでいる。
ジワリとこみ上げるものが伝い落ちていく。本を読んで、マコトに触れて、守る者を得て。父になるのだと気持ちは向かっていた。だが、そこに実感が伴っていなかったのも事実だ。あまりに早すぎる誕生に、追いついて行かなかったのも事実だ。
だが今は違う。この腕に抱くあまりに軽く、あまりに重い我が子が俺に教えてくれる。俺は、この時本当に父親になった。
「怖い、な。こんなに柔らかくて……壊れてしまいそうなのか」
「だからこそ、守ってあげるのよ」
母に言われ、俺は頷いた。早くマコトに会いたい。早く、側に行きたい。顔を見て、そしてまずは「有り難う」と言いたい。
マコトも落ち着いたと連絡が来て、俺は母に子を預けて向かった。そして、未だ横になっているマコトを見て、こみ上げる涙を止められなかった。
元気な様子で笑っている。だがその側にあるものは、あまりに大変な惨状だった。どれほどの血を流したのか、シーツが真っ赤になっている。泣き腫らした目が赤く腫れている。声も多少枯れていて、憔悴の様子もまだ濃い。
駆け寄って、抱きしめた体は温かい。ちゃんと側にあるのだと確かめられて、俺はようやく安堵した。
「有り難う、マコト! 本当に……こんなに苦しい思いをさせてしまって」
「あぁ、うん。でも今は平気だから、心配ないよ」
背中に手を添えて俺を抱きしめるマコトの腕にいつものような力はない。それでも確かに触れるその感触を、俺は愛おしんだ。
子は、シーグルを名付けられてすくすくと育っている。産まれて一週間ほどは俺も執務を休んで三人の時間にした。それで良く分かった。子育ては大変だ。数時間ごとに乳を欲しがり、終わったかと思えばおしめを取り替えて。後はほとんどが眠っている。
「マコト、疲れないか? 俺もやるから」
乳をやることはできないが、そのほかの事は俺もできる。実際、湯浴みは俺の仕事だ。マコトよりも手の大きい俺の方が安心するのか、シーグルは気持ちよさそうにしている。時々眠ってしまうくらいだ。
「大丈夫、今もけっこうやってもらってるしさ。おむつ替えなんて、ユーリスの方が上手いんじゃないか?」
「そうか?」
マコトは起きているシーグルの指を遊んでいる。指を握るのが好きなようで、手を伸ばして来る事もある。
柔らかなラグの上、揺りかごに揺られるシーグルを間に俺とマコトは座って、互いに笑っている。そんな、ある幸せな午後が今の俺の一番の幸福な時間だ。
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