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【ユーリス編】本編余談
12話:心構え
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翌朝、俺はいつもと違う気配で目が覚めた。腕の中にまだ温もりは残っているのに、様子が違う。見ればベッドに座り込んだマコトが、青い顔をして口元を押さえている。
「うっ」
「マコト?」
寝ぼけた頭でも具合が悪い事は分かった。起き上がる俺よりも前に、マコトはもう一度呻いてベッドから急いで抜け出し、そのままバスルームへと駆け込んで行く。俺は何が起こっているのか分からないまま追いかけていった。
マコトはバスルームの中で苦しそうに嘔吐していた。慌てて駆け寄りその背を摩るが、それでも苦しいのがおさまらない様子で、ひたすらに小さく呻いている。吐ききってしまったのだろうに、それでもこみ上げるものがあるのか目に涙を溜めていた。
「婆! 婆はいるか!」
ただ事じゃない。マコトの体は今身重だ、何か悪い事が起こっているのかもしれない。
ガウンを羽織らせ、俺も手早く着てそのまま駆け出す。幸い婆は直ぐ近くの部屋だ。ノックもなしに扉を開ければ婆は優雅に寛いでいる。そんな場合ではないというのに。
「どうしましたか、ユーリス様」
「いいからきてくれ!」
婆の体を脇に抱え、俺は部屋に走った。こうしている間にもマコトの具合が悪くなっていたら。思って部屋に入りバスルームへと駆け込むと、マコトは荒く息を吐きながら倒れていた。
「マコト!!」
抱き上げた体が熱い。頬も上気して、怠そうに力が入らない。未だ気持ちが悪いのか「うっ」と呻いて咳き込んで、でももう何も出ないのだろう。こみ上げる感覚だけは俺にも伝わった。
抱き上げてベッドへ。涙目のマコトを寝かせ付けて、俺は怖くてたまらなかった。こんなに苦しんで、辛そうにしている。これがもし俺の子を宿した事に起因しているなら、望まなければよかった。どうしたらいい、このままマコトの命に関わったりしたら。
俺はこの時、もしもマコトを失うか、宿った子を失うかと問われれば間違いなくマコトを生かした。申し訳無いと身を裂くような痛みは消えないが、マコトが死ねば俺は生きられない。
だが、マコトの体を診察し、子が宿っている事に歓喜した婆の次の言葉に俺もマコトもキョトンとした。
「悪阻ですな。サッパリとするレモン水をお持ちしましょう。食べられそうなものはありますかな?」
「今は……」
「果物をお持ちしましょう。後、この部屋に匂いが入らぬように結界をかけましょう」
「匂い……」
マコトは何かを思い出している。確か今朝、パンの匂いがしていた。マコトは焼きたてのパンが好きだと言ったら、屋敷のコックが嬉しそうに作っていた。もしかしたら、その匂いなのか。
「これ……どれくらい続くの?」
マコトは不安そうに聞いている。線は細いし食べる量も俺達に比べれば少ないが、人族としては立派に食べているというマコトがこうも弱るのは俺も不安だ。食べる事も、作る事も好きな子なんだ。
だがこれにも、婆は実にあっけらかんと答えてくれた。
「1日もあれば治りますよ。明日にはけろっとしておいでのはずです」
「そんなに短いの?」
いや、そんなはずは無い。竜人族の妊娠期間は平均7ヶ月。悪阻があるという者の話では平均1ヶ月程度は何かしらの症状があるという。突然の吐き気、食欲の減退、微熱、怠さ。そうしたものが長くて1ヶ月半は続くそうだ。
それが、1日で直るはずはない。
「婆、竜人の妊娠期間は7ヶ月。悪阻も1ヶ月は続くと聞くが」
「マコト様は安産スキルレベル100。しかも、付属スキルに成長促進がありますな」
「はい」
「その影響でしょうね。腹の子は見る間に育っておりますよ。昨夜お手がついたと伺いましたが、既に1ヶ月以上は育った様子です。この分なら、7日ほどでお生まれになるでしょう」
「「………は?」」
俺は言われた言葉の意味が理解できずにマジマジとマコトを見た。マコトも俺を見て、慌てた顔をしている。
7日は、流石に早すぎだ。
「嘘……でしょ?」
「おや、嘘などつきませんよ。これでも婆は国一番の医療スキルの使い手です。今まで見誤った事などありませんぞ」
「いや、流石に……」
確かに婆は黒龍の国の中で一番の医療魔法の使い手だ。今までにもあちこちでお産の手助けをしてきた熟練だ。それが間違えるはずがない。子は大切な国の宝、そう多くない出産となれば平民も貴族も王族もなく出ていって、その子を取り上げてきた人だ。そんな婆が、見誤る事はない。
いや、だが流石に早すぎる。嬉しくないなんて言わない。早く子に会える事は嬉しいが、父親になるのだという自分の気持ちがついていくのか分からない。愛しいという気持ちはあっても、その子をどうやって愛して行けばいいかが分からないんじゃ困るんだ。
マコトも俺を見つめている。不安が押し寄せる瞳を見て、俺は自分を叱責する。俺が不安に思ってどうする。産む側のマコトはもっと不安で怖いんだ。ゆっくりと準備が出来ると思っていたのに、追い込むように体が変化していく。そんな彼を支えていけなければ、俺は父親の前に夫失格だ。
匂いを遮断するとマコトの体調は落ち着いた。それでも怠そうだし、微熱はあるように思う。運ばれた果物を恐る恐る食べていたが、お腹は空いていたのだろう。次々と食べて行くのを見て、俺の方が止めに入った。また気持ち悪くなったらきっと苦しいだろうと。
ソファーにゆったりと腰を下ろし、俺はマコトの肩を抱いて寄り添う。自然、目はまだ平らな彼の下腹を見てしまう。今もどんどん、この体の中で子は育っていく。
「えっと……早いよね」
「そうだな」
「あの……さぁ。実感ないんだけど」
「まぁ、俺も薄い」
「だよね」
戸惑うマコトはやはり元気がない。どうしようか、そんな表情で頼りなくしている。
俺も戸惑ったが、冷静になれば簡単だ。育て方はまだ分からないが、確かなのは愛せる事。この身の全てで愛し、守っていけることだ。
「まぁ、でも。間違いなく、生まれてくる子は愛せる」
頭を柔らかく撫で、引き寄せてこめかみにキスをする。マコトの匂いがする。激しい欲情の匂いではなく、どこか落ち着く温かな匂いだ。
「そっか」
俺を見つめる瞳が不安から抜けて嬉しそうに笑う。俺の可愛い妻は、同時に母の顔もするようになった。
「勿論、マコトも愛している。だから辛いだろうが、心細くしないで欲しい。不安があれば言ってくれ。俺は無骨だから、察してやれない事もあると思う。君は知らない場所で、しかも初めての事で不安が多いだろう。言ってくれていい、支えるから」
「ユーリスさん」
ウルウルと黒い瞳に涙が浮くのを俺は指の腹で拭い、眦にキスをする。細い体を抱き寄せ、ほんの少しだけ力を込めた。決して、無理の無い程度に。
「ユーリスさん」
甘える様に胸に鼻先を擦り寄せるマコトを抱きしめ、少し離れてキスをする。触れるだけのそれに愛情をのせて。
「マコト、俺から一つお願いがあるんだが」
「なんですか?」
「その敬語をやめてくれ。それと、俺の事はユーリスと呼んでくれ。俺達は夫婦になるんだ、遠慮なんてしなくていい」
「あっ」
気づいたんだろう。実は俺はずっと思っていた。そういう慎ましいというか、遠慮がちな態度も嫌いではないのだが、もうその距離にはいない。もっと俺に近づいてきてほしい。何より子が生まれるんだ、不自然に思うだろう。
マコトは顔を赤くしながらも、俺の申し出に小さく頷いた。
翌日、マコトは本当に元気になった。昨日のアレは一体なんだったのかと思えるほどだった。食事も食べて……食べ過ぎな気がして俺は止めた。婆もそのように言っていた。
俺は執務があり、マコトとは離れて1日を過ごさなければいけない。騒がせた分だけきっちりと仕事をしなければ。
だがその傍らにはずっと、渡された本がある。「正しい夫の務め」という、特に妊婦を持つ夫の心得を語ったもので、婆が俺に渡してきた。実に有り難いのだが、同時に下世話でもあり恥ずかしくもあった。
中をめくって見れば様々な事が書いてある。精神的に不安定にもなるから、小さな事で不安を感じて感情が大きく流れる事。そういう感情はお腹の子供にも伝わってしまうこと。あまりにそうした緊張が長く続くと、早産の原因にもなってしまうこと。
読めば読むほどに不安が募る。そういうことなら俺は今仕事をしている場合じゃないんじゃないのか? 四六時中マコトの側にいて、彼の様子を見ていたほうがいいんじゃないのか?
「過干渉になるのも厳禁。気にしすぎて気が休まらず、逆に苛立たせてしまいます」という一文を読んで、俺はガックリと肩を落とした。
「不安そうにする合図を見落とさず、そういう時は寄り添って抱きしめて、そっと何があったのかを聞いてみましょう」とある。なるほど、これはできるだろう。
そんな事を思っていると、側近のジェノワが手紙を持って俺の所にきた。それは、俺の両親からだった。
『婆から、お前に子が出来たと聞いた。何でも、とても素直ないい子だと聞く。是非会いたいのだが、明日しか都合を付けられない。可能だろうか』
実に簡潔な、父らしい文面に俺は笑う。久しぶりだ、父から仕事以外の手紙を貰うのは。
俺は直ぐに返事を送った。父の文面から、両親ともにマコトを受け入れているのだと分かったから安心した。元々、穏やかで温かな両親だから。
だが、直ぐに俺は軽率だったと思い知った。両親が会いに来ることを告げたマコトの顔は見る間に蒼白となり、立ち上がって震え始めた。
「マコト!」
今にも倒れてしまいそうな体を抱きしめ、背を撫でる。マコトはその中でずっと震えている。
不安。そうだ、マコトは俺の両親を知らない。
「何があっても守る。それに、俺の父と母はきっとマコトを気に入ってくれる」
「でも、俺何にも持ってない」
その言葉が、俺には刺さる。そんな事を気にしていたのか。何も持っていない? こんなにも沢山の幸せと喜びを俺にくれるのに、君はまだ自分が何も持たないと思っているのか?
分かっている、マコトは俺の立場を思ってくれる。王子なんて肩書きを気にしている。
もしかして、だからなのか? 身分の違いや、種族の違いを思って苦しくなっているのか? 拒絶されると思っているのか?
「いいんだ。俺が選んだんだ。それにもし反対するなら、俺はこの国を出るから」
「え?」
「俺はA級の冒険者だ。マコトと子供くらい、十分に養っていける」
「でも」
「いいんだ。だから、安心していい。俺が離れる事はないと誓う」
これが俺の答えだ。王子なんてもの、捨てたっていい。それを気にして子を求めたのに、今の俺にはそんなものはどうでもいいんだ。責務だって放り投げていい。マコトが安らかであるなら、それが一番だ。
それにもし、両親がマコトを拒絶したらその時には間違いなくそうするつもりだ。今はマコトを受け入れなくても、二人には俺しか子はいない。いずれ溜飲を下げざるを得ないのは両親のほうだ。
俺を見つめるマコトは、確かに俺の腕の中にいる。だがその瞳の奥はもっと深くて、彼が何を思っているのか掴めなくて、俺の中の不安は消えていかなかった。
翌日、マコトの腹部はふっくらとしていた。それに驚いたのか、起き抜けに可愛い声で叫んだのを聞いて俺も驚いた。だが、僅かに感じるその膨らみに触れるだけで俺の中には温かな優しさが満ちていった。
この状態でズボンなどは履かせられない。マコトは拒んだが、ワンピース型の下着の上にローブを着て貰う事にした。数時間単位で腹の膨らみがはっきりとしてくるのでは仕方がない。
その状態で両親に会う事を、マコトは申し訳なく思っているのだろう。どこか落ち込んでいる。不安がお腹の子にも影響をする。本で読んだ事が心配になり、マコトに極度の緊張を与えてしまう事を恐れた俺は万が一の場合を考えて婆にもついていてもらった。
俺の両親を前にして、マコトは緊張に震えていた。だが俺には、両親が微笑んでいるのが分かった。最初から拒む気なんてない、そんな様子だ。
それはマコトも感じたのだろう。母が手を取り言葉をかけて、安堵した様子だった。母も実に嬉しそうだ。というよりも、既に俺よりも溺愛しそうな勢いだ。おそらく系統が似ている。母もおっとりと柔らかな空気があるのに、芯が強くて少し頑固で、有無を言わせぬ人だ。
父と目が合って、お互いに苦笑をする。これは早々に愛娘のように溺愛するんだろう。それが分かっての苦笑に思えた。
マコトと母の微笑ましい姿を見て安堵した俺は、この先に憂いなど感じる事はなかった。
「うっ」
「マコト?」
寝ぼけた頭でも具合が悪い事は分かった。起き上がる俺よりも前に、マコトはもう一度呻いてベッドから急いで抜け出し、そのままバスルームへと駆け込んで行く。俺は何が起こっているのか分からないまま追いかけていった。
マコトはバスルームの中で苦しそうに嘔吐していた。慌てて駆け寄りその背を摩るが、それでも苦しいのがおさまらない様子で、ひたすらに小さく呻いている。吐ききってしまったのだろうに、それでもこみ上げるものがあるのか目に涙を溜めていた。
「婆! 婆はいるか!」
ただ事じゃない。マコトの体は今身重だ、何か悪い事が起こっているのかもしれない。
ガウンを羽織らせ、俺も手早く着てそのまま駆け出す。幸い婆は直ぐ近くの部屋だ。ノックもなしに扉を開ければ婆は優雅に寛いでいる。そんな場合ではないというのに。
「どうしましたか、ユーリス様」
「いいからきてくれ!」
婆の体を脇に抱え、俺は部屋に走った。こうしている間にもマコトの具合が悪くなっていたら。思って部屋に入りバスルームへと駆け込むと、マコトは荒く息を吐きながら倒れていた。
「マコト!!」
抱き上げた体が熱い。頬も上気して、怠そうに力が入らない。未だ気持ちが悪いのか「うっ」と呻いて咳き込んで、でももう何も出ないのだろう。こみ上げる感覚だけは俺にも伝わった。
抱き上げてベッドへ。涙目のマコトを寝かせ付けて、俺は怖くてたまらなかった。こんなに苦しんで、辛そうにしている。これがもし俺の子を宿した事に起因しているなら、望まなければよかった。どうしたらいい、このままマコトの命に関わったりしたら。
俺はこの時、もしもマコトを失うか、宿った子を失うかと問われれば間違いなくマコトを生かした。申し訳無いと身を裂くような痛みは消えないが、マコトが死ねば俺は生きられない。
だが、マコトの体を診察し、子が宿っている事に歓喜した婆の次の言葉に俺もマコトもキョトンとした。
「悪阻ですな。サッパリとするレモン水をお持ちしましょう。食べられそうなものはありますかな?」
「今は……」
「果物をお持ちしましょう。後、この部屋に匂いが入らぬように結界をかけましょう」
「匂い……」
マコトは何かを思い出している。確か今朝、パンの匂いがしていた。マコトは焼きたてのパンが好きだと言ったら、屋敷のコックが嬉しそうに作っていた。もしかしたら、その匂いなのか。
「これ……どれくらい続くの?」
マコトは不安そうに聞いている。線は細いし食べる量も俺達に比べれば少ないが、人族としては立派に食べているというマコトがこうも弱るのは俺も不安だ。食べる事も、作る事も好きな子なんだ。
だがこれにも、婆は実にあっけらかんと答えてくれた。
「1日もあれば治りますよ。明日にはけろっとしておいでのはずです」
「そんなに短いの?」
いや、そんなはずは無い。竜人族の妊娠期間は平均7ヶ月。悪阻があるという者の話では平均1ヶ月程度は何かしらの症状があるという。突然の吐き気、食欲の減退、微熱、怠さ。そうしたものが長くて1ヶ月半は続くそうだ。
それが、1日で直るはずはない。
「婆、竜人の妊娠期間は7ヶ月。悪阻も1ヶ月は続くと聞くが」
「マコト様は安産スキルレベル100。しかも、付属スキルに成長促進がありますな」
「はい」
「その影響でしょうね。腹の子は見る間に育っておりますよ。昨夜お手がついたと伺いましたが、既に1ヶ月以上は育った様子です。この分なら、7日ほどでお生まれになるでしょう」
「「………は?」」
俺は言われた言葉の意味が理解できずにマジマジとマコトを見た。マコトも俺を見て、慌てた顔をしている。
7日は、流石に早すぎだ。
「嘘……でしょ?」
「おや、嘘などつきませんよ。これでも婆は国一番の医療スキルの使い手です。今まで見誤った事などありませんぞ」
「いや、流石に……」
確かに婆は黒龍の国の中で一番の医療魔法の使い手だ。今までにもあちこちでお産の手助けをしてきた熟練だ。それが間違えるはずがない。子は大切な国の宝、そう多くない出産となれば平民も貴族も王族もなく出ていって、その子を取り上げてきた人だ。そんな婆が、見誤る事はない。
いや、だが流石に早すぎる。嬉しくないなんて言わない。早く子に会える事は嬉しいが、父親になるのだという自分の気持ちがついていくのか分からない。愛しいという気持ちはあっても、その子をどうやって愛して行けばいいかが分からないんじゃ困るんだ。
マコトも俺を見つめている。不安が押し寄せる瞳を見て、俺は自分を叱責する。俺が不安に思ってどうする。産む側のマコトはもっと不安で怖いんだ。ゆっくりと準備が出来ると思っていたのに、追い込むように体が変化していく。そんな彼を支えていけなければ、俺は父親の前に夫失格だ。
匂いを遮断するとマコトの体調は落ち着いた。それでも怠そうだし、微熱はあるように思う。運ばれた果物を恐る恐る食べていたが、お腹は空いていたのだろう。次々と食べて行くのを見て、俺の方が止めに入った。また気持ち悪くなったらきっと苦しいだろうと。
ソファーにゆったりと腰を下ろし、俺はマコトの肩を抱いて寄り添う。自然、目はまだ平らな彼の下腹を見てしまう。今もどんどん、この体の中で子は育っていく。
「えっと……早いよね」
「そうだな」
「あの……さぁ。実感ないんだけど」
「まぁ、俺も薄い」
「だよね」
戸惑うマコトはやはり元気がない。どうしようか、そんな表情で頼りなくしている。
俺も戸惑ったが、冷静になれば簡単だ。育て方はまだ分からないが、確かなのは愛せる事。この身の全てで愛し、守っていけることだ。
「まぁ、でも。間違いなく、生まれてくる子は愛せる」
頭を柔らかく撫で、引き寄せてこめかみにキスをする。マコトの匂いがする。激しい欲情の匂いではなく、どこか落ち着く温かな匂いだ。
「そっか」
俺を見つめる瞳が不安から抜けて嬉しそうに笑う。俺の可愛い妻は、同時に母の顔もするようになった。
「勿論、マコトも愛している。だから辛いだろうが、心細くしないで欲しい。不安があれば言ってくれ。俺は無骨だから、察してやれない事もあると思う。君は知らない場所で、しかも初めての事で不安が多いだろう。言ってくれていい、支えるから」
「ユーリスさん」
ウルウルと黒い瞳に涙が浮くのを俺は指の腹で拭い、眦にキスをする。細い体を抱き寄せ、ほんの少しだけ力を込めた。決して、無理の無い程度に。
「ユーリスさん」
甘える様に胸に鼻先を擦り寄せるマコトを抱きしめ、少し離れてキスをする。触れるだけのそれに愛情をのせて。
「マコト、俺から一つお願いがあるんだが」
「なんですか?」
「その敬語をやめてくれ。それと、俺の事はユーリスと呼んでくれ。俺達は夫婦になるんだ、遠慮なんてしなくていい」
「あっ」
気づいたんだろう。実は俺はずっと思っていた。そういう慎ましいというか、遠慮がちな態度も嫌いではないのだが、もうその距離にはいない。もっと俺に近づいてきてほしい。何より子が生まれるんだ、不自然に思うだろう。
マコトは顔を赤くしながらも、俺の申し出に小さく頷いた。
翌日、マコトは本当に元気になった。昨日のアレは一体なんだったのかと思えるほどだった。食事も食べて……食べ過ぎな気がして俺は止めた。婆もそのように言っていた。
俺は執務があり、マコトとは離れて1日を過ごさなければいけない。騒がせた分だけきっちりと仕事をしなければ。
だがその傍らにはずっと、渡された本がある。「正しい夫の務め」という、特に妊婦を持つ夫の心得を語ったもので、婆が俺に渡してきた。実に有り難いのだが、同時に下世話でもあり恥ずかしくもあった。
中をめくって見れば様々な事が書いてある。精神的に不安定にもなるから、小さな事で不安を感じて感情が大きく流れる事。そういう感情はお腹の子供にも伝わってしまうこと。あまりにそうした緊張が長く続くと、早産の原因にもなってしまうこと。
読めば読むほどに不安が募る。そういうことなら俺は今仕事をしている場合じゃないんじゃないのか? 四六時中マコトの側にいて、彼の様子を見ていたほうがいいんじゃないのか?
「過干渉になるのも厳禁。気にしすぎて気が休まらず、逆に苛立たせてしまいます」という一文を読んで、俺はガックリと肩を落とした。
「不安そうにする合図を見落とさず、そういう時は寄り添って抱きしめて、そっと何があったのかを聞いてみましょう」とある。なるほど、これはできるだろう。
そんな事を思っていると、側近のジェノワが手紙を持って俺の所にきた。それは、俺の両親からだった。
『婆から、お前に子が出来たと聞いた。何でも、とても素直ないい子だと聞く。是非会いたいのだが、明日しか都合を付けられない。可能だろうか』
実に簡潔な、父らしい文面に俺は笑う。久しぶりだ、父から仕事以外の手紙を貰うのは。
俺は直ぐに返事を送った。父の文面から、両親ともにマコトを受け入れているのだと分かったから安心した。元々、穏やかで温かな両親だから。
だが、直ぐに俺は軽率だったと思い知った。両親が会いに来ることを告げたマコトの顔は見る間に蒼白となり、立ち上がって震え始めた。
「マコト!」
今にも倒れてしまいそうな体を抱きしめ、背を撫でる。マコトはその中でずっと震えている。
不安。そうだ、マコトは俺の両親を知らない。
「何があっても守る。それに、俺の父と母はきっとマコトを気に入ってくれる」
「でも、俺何にも持ってない」
その言葉が、俺には刺さる。そんな事を気にしていたのか。何も持っていない? こんなにも沢山の幸せと喜びを俺にくれるのに、君はまだ自分が何も持たないと思っているのか?
分かっている、マコトは俺の立場を思ってくれる。王子なんて肩書きを気にしている。
もしかして、だからなのか? 身分の違いや、種族の違いを思って苦しくなっているのか? 拒絶されると思っているのか?
「いいんだ。俺が選んだんだ。それにもし反対するなら、俺はこの国を出るから」
「え?」
「俺はA級の冒険者だ。マコトと子供くらい、十分に養っていける」
「でも」
「いいんだ。だから、安心していい。俺が離れる事はないと誓う」
これが俺の答えだ。王子なんてもの、捨てたっていい。それを気にして子を求めたのに、今の俺にはそんなものはどうでもいいんだ。責務だって放り投げていい。マコトが安らかであるなら、それが一番だ。
それにもし、両親がマコトを拒絶したらその時には間違いなくそうするつもりだ。今はマコトを受け入れなくても、二人には俺しか子はいない。いずれ溜飲を下げざるを得ないのは両親のほうだ。
俺を見つめるマコトは、確かに俺の腕の中にいる。だがその瞳の奥はもっと深くて、彼が何を思っているのか掴めなくて、俺の中の不安は消えていかなかった。
翌日、マコトの腹部はふっくらとしていた。それに驚いたのか、起き抜けに可愛い声で叫んだのを聞いて俺も驚いた。だが、僅かに感じるその膨らみに触れるだけで俺の中には温かな優しさが満ちていった。
この状態でズボンなどは履かせられない。マコトは拒んだが、ワンピース型の下着の上にローブを着て貰う事にした。数時間単位で腹の膨らみがはっきりとしてくるのでは仕方がない。
その状態で両親に会う事を、マコトは申し訳なく思っているのだろう。どこか落ち込んでいる。不安がお腹の子にも影響をする。本で読んだ事が心配になり、マコトに極度の緊張を与えてしまう事を恐れた俺は万が一の場合を考えて婆にもついていてもらった。
俺の両親を前にして、マコトは緊張に震えていた。だが俺には、両親が微笑んでいるのが分かった。最初から拒む気なんてない、そんな様子だ。
それはマコトも感じたのだろう。母が手を取り言葉をかけて、安堵した様子だった。母も実に嬉しそうだ。というよりも、既に俺よりも溺愛しそうな勢いだ。おそらく系統が似ている。母もおっとりと柔らかな空気があるのに、芯が強くて少し頑固で、有無を言わせぬ人だ。
父と目が合って、お互いに苦笑をする。これは早々に愛娘のように溺愛するんだろう。それが分かっての苦笑に思えた。
マコトと母の微笑ましい姿を見て安堵した俺は、この先に憂いなど感じる事はなかった。
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