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9章:帰りたい場所
7話:割れた窓
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事件から一週間が経とうとしている。その間、内務で大きな動きがあった。黒幕の名が知れた事で地方での悪事もつまびらかとなったのだ。それもあり、内務はブルーノの聴取を始めている。当然店から客は消え、今では寂しいものだ。
良い事も起こっている。奴らの影に怯えて閉めていた店が再開しはじめたのだ。これには多くの貴族も喜び、安堵している。
ルカの日常も穏やかだ。あれ以来、嫌がらせは起こっていない。店は平和なものだ。いや、以前よりも賑やかになっている。ルカの側にいるレオは店のマスコットのようになり、客人達にも人気だ。お菓子を貰って喜んだり、頭を撫でられてくすぐったくしたりする光景をランバートも何度か目撃した。
一週間が経ち、ランバートはルカに呼ばれた。理由はおおかた察しが付く。レオの契約更新期間が来たので、彼の今後をどうするか。その話し合いだった。
レオは複雑な顔をしている。いや、むしろ泣きそうだ。笑顔が多く、逆に泣き顔など見せる事のない強情な彼がこんな顔をするのは珍しい。それほどここを気に入ってくれたのは嬉しい事だった。
「ランバートさん、レオくんの今後のことなんだけれどね」
ルカはどう言おうかという顔をしている。とても考えていて、辛そうだった。
「まずは、レオに今後どうしたいかを聞いてもいいですか?」
ランバートとしては花街に戻るよりも先のある道を進んでもらいたい。ルカさえ許すなら、このままここに置いてほしいとさえ思っている。
レオの事は小さな頃から知っている。強かな子で、大抵の事に動じない度胸がある。同時に、まだ守られる年齢なのに一人で生きる術を身につけた彼が不憫でならなかった。そんな思いがあるからだろう、ランバートもジンもレオには甘い。
「レオくん、君は今度どうしたいのかな?」
「どうって……」
戸惑っている。それは頷ける。レオは自身の希望など持たない。待遇や給料の交渉はしても、自由な選択肢など与えられていなかったのだ。そんな子にいきなり選択をしろと言っても、選べるか。
ランバートはレオの前に膝をついて目を見て話した。
「レオの思うとおりに言えばいいんだ。我が儘だなんて思わなくてもいい。遠慮なんてしなくていい。綺麗な答えも必要ない。甘えでもいいから、言ってみろ」
「でも」
「いいんだよ、レオくん。僕もね、レオくんの気持ちを聞きたい。レオくんがどう思っているかを聞きたいんだ。だから、素直に教えて」
二人の大人に言われ、レオはもの凄く困った泣きそうな顔で俯き、モジモジとしながら小さな声で呟いた。
「ここが、好きです」
そのとても小さな言葉に、ルカはとても嬉しそうな顔をして頷いた。
「それじゃあ、これからも僕の店で働いてくれるかな?」
「でも、いいの?」
「うん、勿論! 僕もレオくんが好きだし、助かるよ。それにね、よかったら小間使いじゃなくて弟子としてやってみない?」
「え?!」
レオのオレンジの目がまん丸になっていく。これにはランバートも驚いてルカを見た。ルカだけはずっと考えていたのか、淀みない様子で強く頷いた。
「僕も先代とは血のつながりなんてないし、技術と気持ちを継いでくれるなら何も気にしない。今は僕の爺様が元気で現役をしているから自由に出来るけど、それもずっとじゃない。いつかは爺様の跡を継がなきゃいけないから、その時にこの店をたたむのが嫌だなって思ってたんだ」
苦笑したルカはレオの肩を叩いて一つ頷く。レオはルカを見て、やはり頷いた。
「弟子として、僕の持てる技術と気持ちを伝えたい。レオくんは客商売には向いていると思うし、手先も器用で気遣いもできるから大丈夫。ゆっくり少しずつ、一緒にやっていこう?」
「俺でいいの?」
「勿論! レオくんだから、僕は弟子にしたいって思ったんだよ」
頭を撫でて「お願い」と言うルカの前で、レオは大きな目からたっぷりと涙を流した。嬉しそうに笑いながら、流れた涙は止まらずに流れ続けている。ルカが慌ててハンカチを当てるが、直ぐにぐっしょりと濡れた。
「良かったな、レオ」
「有り難うリフ!」
「うわぁ! お前、涙と鼻水ぬぐうな!」
飛び込んだレオがランバートの胸におさまり、顔をグリグリする。服の胸元が濡れるが、見ると鼻水もだ。思わず言うと確信犯のレオは笑い、その後ろでルカもくすくすと笑っている。
「そういう事なら今日はお祝い! ケーキ買ってきたんだ」
「ケーキ!」
「食べようね。ランバートさんも」
「俺も?」
「勿論だよ!」
満面の笑みを浮かべたルカの幸せそうな顔がどこかくすぐったく、嬉しそうに子供らしくはしゃぐレオの愛らしさもあってランバートの心にもほっこりと、温かな気持ちが生まれていた。
◆◇◆
その翌日、ランバートは仕事終わりに宿舎に行った。ファウストにルカとレオの事を話しておくためだった。
久しぶりにファウストやシウス達と夕食を食べ、いつもの三階テラスへ。そこで昨日の話をすると、思ったよりも嬉しそうにファウストは笑った。
「そうか、あの子がルカの弟子になったか」
「嬉しそうにしていましたよ。ルカさん、色々用意していたみたいです。寝間着に、部屋のプレートも」
「そうか」
嬉しそうな笑みはレオの事も気にしてくれていたんだと分かる。この人の愛情深さにランバートも笑みが浮かぶ。
昨夜こっそり、ルカはランバートに耳打ちした。「ランバートさんを呼んだのは、レオくんを引き留めたかったから」なんだと。
最初から引き留めたいと思っていた。けれどそれはルカの勝手で、レオは違う道を選ぶかもしれない。彼の意志を確かめてから、説得なりをしようとしていたらしい。全てが杞憂に終わったけれど。
「店も賑やかになるな」
「既にあの店の客人は皆、レオにメロメロですよ。明るくて笑顔で気遣い上手なんて、商売人には必要スキルですから」
「ルカもよくお菓子を貰うと言っていたな」
「ルカさんも愛らしい人で、人懐っこいところがありますからね」
「お菓子で溢れそうだぞ」
「本当に」
そんな事を言って笑い合う。プライベートな共通点ができたようで、どこかくすぐったい嬉しさがある。まるでこの人の家族の中に入れたような気がしたのだ。
「今度俺も様子を見に行こう」
「俺は明日、少し早い上がりなので夕刻にでも行こうと思っています」
「俺もそれに合わせようか。ケーキでも買って」
「餌付けしてませんよね?」
「さぁ、どうかな?」
悪戯っぽく片眉が上がり、口元がニヤリと笑みの形を作る。団長の顔ではなく、プライベートに近い顔。最近その違いが少し分かるようになった。それもまた、嬉しかったりする。
「さて、それでは戻ります」
「あぁ、気をつけて」
「何にですか?」
「それもそうか」
送り出すファウストに丁寧に礼をして、ランバートは西砦へと戻る。その足取りはどこか弾んでいた。
◆◇◆
翌日、まだ空は染まり始めたばかりだった。ランバートは仕事を終えてルカの店に向かっている。店内はまだ明かりがついていて、窓からルカの姿が見えた。掃除をしているようだ。
店の戸は閉まっているが、ルカはすぐにランバートに気づいて扉を開けた。店の中に招かれたランバートは掃除をしているルカを見て首を傾げた。
「レオはどうしたんですか?」
「レオくんには夕飯のお買い物に行ってもらったんだ。この時間に安くなる店が多いんだって。お店も閉めたし、お願いしちゃった」
「そうでしたか」
店のドアに鍵をかけたルカはランバートに席を勧める。掃除を手伝うつもりだったのだが、「それは僕の仕事」と押し切られてしまった。
「そういえば、ファウスト様が今日来るそうですよ」
「兄さんが? どうして?」
「レオがルカさんの弟子になったお祝いに」
「ふふっ、そういうことなら歓迎しないと」
ルカもくすぐったそうに笑った。純粋に嬉しいんだと思う。
「掃除早く終わらせて、お祝いの準備しないとね」
「俺も食事の準備手伝うよ」
「いいの?」
「勿論」
「嬉しいな。ランバートさんのご飯、とっても美味しいんだもん」
「任せてよ」
こんな感じの会話も最近では慣れた。ルカは親しい友人か、家族のようにランバートを受け入れてくれる。最初は少しくすぐったいのと、いいのだろうかという戸惑いがあった。だが今はこれが普通になってきた。
忙しく動くルカが身をかがめて集めたゴミを取り始める。その背後に、ランバートは何かを見た。それは遠く複数の影。それが何かを大きく振りかぶったように見えた。
「ルカさん!」
しゃがみ込んだルカの背をめがけ、何かが飛んでくる。それが何かを認識するよりも早く、ランバートは庇うように抱き寄せてショーウィンドーに背を向けた。
ガラスの割れる音と、左の肩甲骨の辺りに強く当たる硬いもの。額や背にも鋭い痛みが走る。それに思わず眉を寄せると、腕の中でルカが目を見張って震えていた。
「ランバートさん!」
慌てた声に伸びた手が額を押さえる。その手が染まって行くのをぼんやりと見た。目も少し痛いが、入っただろうか。ルカの顔や服にもポタポタと血が落ちていく。
「怪我ありませんか?」
「怪我をしたのはランバートさんだよ! どうして」
涙を浮かべて震える人がなんだか気の毒だった。そんなに深い傷では無いと思うが、額を切っているから出血の量は多い。見慣れないと驚くだろう。
「ただいまー。ルカさん、そこでファウスト様に会ったよ」
「ルカ、どうした?」
裏の道を通ってきたのだろうレオが、起こった事を知らないまま暢気に声をかけてくる。一緒にファウストの声も。ルカは顔を上げ、涙をたっぷりに溜めて声を張った。
「兄さん来て! ランバートさんが!」
涙に濡れて必死な声にすぐさま足音が駆けてくる。そうして顔を覗かせた人は、一瞬で表情を強ばらせた。
「ランバート!」
膝をついたランバートの直ぐ側に来て、ルカに替わって体を支えてくれる。そして、背に刺さっているガラス片を一つずつ丁寧に抜いていく。その側ではレオも青い顔をしていた。
「レオ、西砦へ走ってくれ。その後で、中央関所のウェインという隊員にも」
「分かった!」
さすがは東地区の暗黒時代を知っている。青い顔をしながらもすぐさま動ける。レオはバタバタと走り出していく。
「平気か?」
「少し切りましたが」
「かなりだ」
そう言いながらファウストはルカが持ってきたタオルを額に当てて押さえる。そして、周囲に落ちていた石を拾い上げた。
かなり大きく、人の拳ほどはある。ゴツゴツとして角があり、かなり硬いものだった。
「これが当たったのか。ルカ、氷を。あと、バスタオルを一つ」
「分かった」
よろよろと奥へと消えていくルカを見て、申し訳ない気持ちになる。今日は楽しい日になるはずだったのに、台無しにしてしまった。
だが、あのままでは怪我をしたのはルカだ。鍛えているランバートならまだしも、ルカでは大怪我になりかねない。その事態だけは回避できた。それだけでランバートは満足だった。
「立てるか?」
「えぇ、問題ありません」
ファウストの手を借りて立ち上がり、椅子に場所を移す。木の丸椅子に腰を下ろすと上の服を剥ぎ取られ、背を綺麗に洗われる。その手つきは優しくて、くすぐったくてもぞもぞとした。
「動くな」
「くすぐったいです」
「そんな事を言える状況か。数カ所深い傷があるな。少し縫うことになりそうだ。それに、石がぶつかった部分が酷い内出血をしている。痛むぞ」
「止血だけできれば」
「今日は宿舎だ。エリオットに治療してもらえ」
「お手数ですし」
「それがあいつの仕事だ。隠せば余計に怒るぞ」
それは容易に想像ができる。いつも優しく癒やしすらも感じるエリオットは、怪我人や病人に対しては容赦がない。隠そうものなら容赦なく引っ張っていき、ベッドに転がし治療する。その時の顔は医者というよりも殺人犯だ。
「兄さん、タオルと氷」
「あぁ、すまない。ランバート、少し押さえるから痛かったら言え」
バスタオルで傷を圧迫し、氷で内出血している部分を押さえる。多少痛みはあるが、それほどではない。側ではルカが未だに泣きそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、ランバートさん。僕のせいで、こんな」
「何言ってるの? ルカさんのせいじゃないでしょ? それに俺は平気だよ、これでも騎士なんだから」
顔や服が汚れたままだ。気になって拭おうとしたけれど、そもそも自分の手が汚れている。額に当てていたタオルも同じ。どうにももどかしく笑うと、余計に泣かれそうになってしまった。
「泣かないで、ルカさん。本当に、見た目ほど深くはないから」
こういう時、なんて慰めたらいいんだろう。自分の事に頓着しないから余計に言葉が出ない。ただただ安心してもらえるように笑う事しかできなくて、ランバートは歯がゆくて仕方がなかった。
◆◇◆
ウェインや他の隊員が到着したことで、場は騒然とした。夕刻を過ぎると静かなウルーラ通りには野次馬が集まっている。ルカを奥へと戻し、他の隊員に後を任せたファウストは一度馬車で宿舎へと戻った。ランバートをエリオットの所へ連れて行くためだ。
あいつは案の定、「自分で行ける」と言っていたがそうはさせなかった。石がぶつかっただろう左の肩甲骨は青紫色に変色している。刺さったガラス片は抜いたが、そこからの出血がまだ僅かある。そんな奴を一人で行かせる訳にはいかない。しかも歩けると言ったんだ、あのバカは。
ごにょごにょと言うランバートを小さな馬車に押し込んで宿舎に戻り、エリオットの所に引きずって預けるととんぼ返りでルカの家に戻った。その頃には騒ぎも大分収まってきていた。
「ファウスト様」
「ウェイン、どうだ?」
「人相書きが描けそうなほどの目撃情報は出てないけれど、十人くらいの男が走り去っていくのは見られてた。一人の特徴が、以前この店で暴れていた男と一致しました」
「そうか」
人通りが少なくなる時間を狙ってやったに違いない。この辺は夕刻には店を閉めるし、大抵は自身の店の戸締まりや清掃をしている。ルカもそうだった。
「あの、ファウスト様はどうしてこの店に?」
「弟の店だ」
「弟!」
叫びそうになる口を咄嗟に押さえたウェインは、店の奥へと視線を向ける。そして、とても小さな声で話し始めた。
「あの、とても落ち込んでいて辛そうです。他の隊員を下げるので、少し話をしてあげては」
「すまない」
「いえ」
そう言うと何でもない様子で奥へと行き、その場にいた隊員を引っ張って割れた窓の応急処置などをしてくれる。有り難いことだ。
奥へと向かうと、ルカは落ち込んで椅子に座り項垂れていた。青い瞳からは涙が溢れていて、服は汚れたままだ。側にいき、膝をついて見上げるとルカは珍しく憔悴した顔をした。
「ランバートさんの様子は?」
「うちの軍医に預けてきた。優秀な奴だよ。それに、ずっと意識もあって足取りもしっかりしていた。たいした事はない」
「良かった」
また涙がぽろぽろとこぼれる。それを手で拭い、握りしめている手を包んでやる。色が白くなるほどに強く握っている手から、少しだけ力が抜けていくようだった。
「僕、店を」
「ルカ」
背中をトントンと叩き、小さな子にするように抱き寄せる。頭を撫でて、慰めて。腕の中で気丈なこいつが泣くなんて、母が亡くなった時以来じゃないのか。
「ルカ、ランバートの気持ちをちゃんと汲んでやってくれ」
「でも!」
「あいつはここが好きで、お前が好きだ。だからこそ守ろうとしているんだ。ここを閉めてしまったら、誰よりも悲しむのはあいつだ。責任を感じるのは、あいつなんだよ」
これだけは断言できる。この店が閉まったりしたらランバートは自分の責任だと言って落ち込むに違いない。決定的な加害者がいるにもかかわらずだ。それではあんまりだ。
「ルカ、もうすぐちゃんと終わる。こんなことが長く続く事はないんだ。だから、そんな顔は今日だけにしろ。いいか?」
頬を手で包むようにして、ファウストは優しく声をかける。それに、ルカはまた涙をこぼしながら頷いた。
「今日は危険があるかもしれない。どこかに適当な宿を取ろう」
「でも」
「それなら俺が案内する」
不意にした声に目を向けると、二階から様子をうかがっていたらしいレオが力強く頷く。
「いい場所があるのか?」
「ジンの店の二階は、傭兵達の宿泊所になってる。あそこなら傭兵沢山で守り硬いし、ジンもいる。今日は俺がルカさんの側にずっといる。変な奴がきたら俺、ファウスト様に知らせるから」
「レオくん……」
ルカの目に新たな涙が浮かび、席を立ってひしと抱きしめる。その腕の中で、レオは勇敢な男の目をしてルカの背中を抱きしめた。
「大丈夫だよ、ルカさん。大丈夫」
「うん、そうだね。大丈夫だね」
この様子を見ると、レオがルカの側にいてくれる事は有り難かった。ルカはまだ幼いレオを守ろうとして立つ事ができるし、レオはルカを支えようとしてくれる。二人でちゃんと立っていてくれるのは安心できる。
「ファウスト様、よろしいですか?」
声がかかり振り返ると、ウェインが遠慮するように見ている。頷くとオズオズと近づいてきて、ルカにも視線を向けた。
「明日もう一度、改めてお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「分かりました。どこへ向かえば?」
「この店で、状況を再現しながら行いたいのです。辛い事とは思いますが、ご協力お願いします」
必要な事だし、より正確に物事を把握するための事だが少し酷だ。思いはしたが、ルカは意外としっかり頷いている。それに、ウェインは安堵したようだった。
「流石にここで一晩を過ごすのは危険です。適当な場所がないようでしたら、用意いたしますが」
「あぁ、それはいい。俺が明日迎えに行って、中央関所に送り届ける」
「そんな! 兄さんの手まで患わせるなんて」
「心配しながら一日過ごすよりも集中できる。たいした手間じゃない」
クシャリと黒い髪を撫でて笑ったファウストに、ルカは申し訳なさそうに、でも安堵したように笑った。
ルカ達を無事にジンの店に送り届け、ファウストは宿舎へと戻ってきた。
事情を簡単に話すと、傭兵ギルドにいた者達は憤りを露わにして温かくルカとレオを迎えてくれた。なんとも温かい奴らだ。
不思議と安心して任せる事ができる。ジンに翌朝迎えに来ることを告げて戻ってくると、真っ直ぐに医務室へと行く。部屋からはまだ明かりが漏れていた。
「エリオット、いるか?」
扉を叩いて声をかけると、直ぐに内側から開いた。そして、穏やかな笑みを見せるエリオットが顔を出して招いてくれた。
「ランバートの傷はどうだ?」
勧められるソファーに腰を下ろすと、温かなお茶が出てくる。それを一口飲むと、急に喉の渇きを感じた。ついでに空腹も。思えば食べてくるつもりだったのだ。
「ガラスの刺さった傷はたいした事ありません。数カ所縫った所もありますが、ほんの数針です。それよりも内出血ですね。骨などに影響はありませんが、切り傷の上から薬を塗るのは流石に。痛みに飛び上がりますから」
苦笑して僅かに首を倒す仕草のエリオットに、ファウストも苦笑する。そして、安堵した。少なくとも自分の見立て以上に酷いものではなかったようだ。
「腕も上がりますし、肩も回ります。数日痛むでしょうが、自然治癒を待つしかありませんね。額の傷は縫うほどではなく、薬を塗って終わりです。痕も残りませんよ」
「そうか。明日は休ませた方がいいか?」
「激しい任務は控えるのが無難ですが、通常任務は問題ありません。それに、本人は明日も仕事に出る気満々でしたよ」
それを聞くと無理矢理休ませるのも考えてしまう。ファウストとしては休ませたいのだが、本人が頑として休まないと言われるとどうも。あいつは全てにおいて「大事にしたくない」という意識があるから余計に困る。
「デスクワークだな」
「そうしてあげてください」
溜息一つで妥協する。それに、エリオットが楽しそうに笑った。
「それで、弟さんの方は大丈夫なのですか? 時間が許すなら、今夜は側にいてあげては?」
気遣わしい目でそう言われる。以前ならきっとそうしただろう。だが、ルカとレオを見て身を引いた。自分が側にいるよりもレオが側にいるほうが精神的に落ち着いてくれる。自分が側にいるのではルカは気にしてしまうだろう。
少し寂しい気持ちはある。ルカを助けて支えるのは兄としての自分の役目だとファウストはずっと思っていた。だが、違うのだと見せつけられる。本当に密に関わっていく子ができてルカ自身も足元を固めようとしている。それを感じたならば自分は少し手を離し、一歩下がって見守るほうがいい。そう思えてしまった。
「ルカは大丈夫だ。安全が確保出来る場所に弟子と一緒に預けてきた。俺が側にいるよりも年下の弟子が側にいるほうがあいつは気を張るだろう。今はその方がいい」
「そうですか」
微笑ましい顔をしたエリオットがふわりと笑う。
「明日は早めに仕事を切り上げて、ランバートを連れて会いにいくさ。元気そうなランバートを見ればあいつも安心するだろう」
「えぇ、是非そうしてあげてください」
明後日は安息日、少しゆっくりと話す事もできる。今日からウェインは西砦に移り、第二師団も容疑者を追っている。ある意味これはいい機会だ。器物破損、傷害の容疑を奴らにかけられる。騎士団も当然のように拘束し、取り調べる口実ができた。
席を立ち、エリオットに礼を言って自室に戻る。そうするとドッと疲れがきて、後はゆるゆると眠りについた。
良い事も起こっている。奴らの影に怯えて閉めていた店が再開しはじめたのだ。これには多くの貴族も喜び、安堵している。
ルカの日常も穏やかだ。あれ以来、嫌がらせは起こっていない。店は平和なものだ。いや、以前よりも賑やかになっている。ルカの側にいるレオは店のマスコットのようになり、客人達にも人気だ。お菓子を貰って喜んだり、頭を撫でられてくすぐったくしたりする光景をランバートも何度か目撃した。
一週間が経ち、ランバートはルカに呼ばれた。理由はおおかた察しが付く。レオの契約更新期間が来たので、彼の今後をどうするか。その話し合いだった。
レオは複雑な顔をしている。いや、むしろ泣きそうだ。笑顔が多く、逆に泣き顔など見せる事のない強情な彼がこんな顔をするのは珍しい。それほどここを気に入ってくれたのは嬉しい事だった。
「ランバートさん、レオくんの今後のことなんだけれどね」
ルカはどう言おうかという顔をしている。とても考えていて、辛そうだった。
「まずは、レオに今後どうしたいかを聞いてもいいですか?」
ランバートとしては花街に戻るよりも先のある道を進んでもらいたい。ルカさえ許すなら、このままここに置いてほしいとさえ思っている。
レオの事は小さな頃から知っている。強かな子で、大抵の事に動じない度胸がある。同時に、まだ守られる年齢なのに一人で生きる術を身につけた彼が不憫でならなかった。そんな思いがあるからだろう、ランバートもジンもレオには甘い。
「レオくん、君は今度どうしたいのかな?」
「どうって……」
戸惑っている。それは頷ける。レオは自身の希望など持たない。待遇や給料の交渉はしても、自由な選択肢など与えられていなかったのだ。そんな子にいきなり選択をしろと言っても、選べるか。
ランバートはレオの前に膝をついて目を見て話した。
「レオの思うとおりに言えばいいんだ。我が儘だなんて思わなくてもいい。遠慮なんてしなくていい。綺麗な答えも必要ない。甘えでもいいから、言ってみろ」
「でも」
「いいんだよ、レオくん。僕もね、レオくんの気持ちを聞きたい。レオくんがどう思っているかを聞きたいんだ。だから、素直に教えて」
二人の大人に言われ、レオはもの凄く困った泣きそうな顔で俯き、モジモジとしながら小さな声で呟いた。
「ここが、好きです」
そのとても小さな言葉に、ルカはとても嬉しそうな顔をして頷いた。
「それじゃあ、これからも僕の店で働いてくれるかな?」
「でも、いいの?」
「うん、勿論! 僕もレオくんが好きだし、助かるよ。それにね、よかったら小間使いじゃなくて弟子としてやってみない?」
「え?!」
レオのオレンジの目がまん丸になっていく。これにはランバートも驚いてルカを見た。ルカだけはずっと考えていたのか、淀みない様子で強く頷いた。
「僕も先代とは血のつながりなんてないし、技術と気持ちを継いでくれるなら何も気にしない。今は僕の爺様が元気で現役をしているから自由に出来るけど、それもずっとじゃない。いつかは爺様の跡を継がなきゃいけないから、その時にこの店をたたむのが嫌だなって思ってたんだ」
苦笑したルカはレオの肩を叩いて一つ頷く。レオはルカを見て、やはり頷いた。
「弟子として、僕の持てる技術と気持ちを伝えたい。レオくんは客商売には向いていると思うし、手先も器用で気遣いもできるから大丈夫。ゆっくり少しずつ、一緒にやっていこう?」
「俺でいいの?」
「勿論! レオくんだから、僕は弟子にしたいって思ったんだよ」
頭を撫でて「お願い」と言うルカの前で、レオは大きな目からたっぷりと涙を流した。嬉しそうに笑いながら、流れた涙は止まらずに流れ続けている。ルカが慌ててハンカチを当てるが、直ぐにぐっしょりと濡れた。
「良かったな、レオ」
「有り難うリフ!」
「うわぁ! お前、涙と鼻水ぬぐうな!」
飛び込んだレオがランバートの胸におさまり、顔をグリグリする。服の胸元が濡れるが、見ると鼻水もだ。思わず言うと確信犯のレオは笑い、その後ろでルカもくすくすと笑っている。
「そういう事なら今日はお祝い! ケーキ買ってきたんだ」
「ケーキ!」
「食べようね。ランバートさんも」
「俺も?」
「勿論だよ!」
満面の笑みを浮かべたルカの幸せそうな顔がどこかくすぐったく、嬉しそうに子供らしくはしゃぐレオの愛らしさもあってランバートの心にもほっこりと、温かな気持ちが生まれていた。
◆◇◆
その翌日、ランバートは仕事終わりに宿舎に行った。ファウストにルカとレオの事を話しておくためだった。
久しぶりにファウストやシウス達と夕食を食べ、いつもの三階テラスへ。そこで昨日の話をすると、思ったよりも嬉しそうにファウストは笑った。
「そうか、あの子がルカの弟子になったか」
「嬉しそうにしていましたよ。ルカさん、色々用意していたみたいです。寝間着に、部屋のプレートも」
「そうか」
嬉しそうな笑みはレオの事も気にしてくれていたんだと分かる。この人の愛情深さにランバートも笑みが浮かぶ。
昨夜こっそり、ルカはランバートに耳打ちした。「ランバートさんを呼んだのは、レオくんを引き留めたかったから」なんだと。
最初から引き留めたいと思っていた。けれどそれはルカの勝手で、レオは違う道を選ぶかもしれない。彼の意志を確かめてから、説得なりをしようとしていたらしい。全てが杞憂に終わったけれど。
「店も賑やかになるな」
「既にあの店の客人は皆、レオにメロメロですよ。明るくて笑顔で気遣い上手なんて、商売人には必要スキルですから」
「ルカもよくお菓子を貰うと言っていたな」
「ルカさんも愛らしい人で、人懐っこいところがありますからね」
「お菓子で溢れそうだぞ」
「本当に」
そんな事を言って笑い合う。プライベートな共通点ができたようで、どこかくすぐったい嬉しさがある。まるでこの人の家族の中に入れたような気がしたのだ。
「今度俺も様子を見に行こう」
「俺は明日、少し早い上がりなので夕刻にでも行こうと思っています」
「俺もそれに合わせようか。ケーキでも買って」
「餌付けしてませんよね?」
「さぁ、どうかな?」
悪戯っぽく片眉が上がり、口元がニヤリと笑みの形を作る。団長の顔ではなく、プライベートに近い顔。最近その違いが少し分かるようになった。それもまた、嬉しかったりする。
「さて、それでは戻ります」
「あぁ、気をつけて」
「何にですか?」
「それもそうか」
送り出すファウストに丁寧に礼をして、ランバートは西砦へと戻る。その足取りはどこか弾んでいた。
◆◇◆
翌日、まだ空は染まり始めたばかりだった。ランバートは仕事を終えてルカの店に向かっている。店内はまだ明かりがついていて、窓からルカの姿が見えた。掃除をしているようだ。
店の戸は閉まっているが、ルカはすぐにランバートに気づいて扉を開けた。店の中に招かれたランバートは掃除をしているルカを見て首を傾げた。
「レオはどうしたんですか?」
「レオくんには夕飯のお買い物に行ってもらったんだ。この時間に安くなる店が多いんだって。お店も閉めたし、お願いしちゃった」
「そうでしたか」
店のドアに鍵をかけたルカはランバートに席を勧める。掃除を手伝うつもりだったのだが、「それは僕の仕事」と押し切られてしまった。
「そういえば、ファウスト様が今日来るそうですよ」
「兄さんが? どうして?」
「レオがルカさんの弟子になったお祝いに」
「ふふっ、そういうことなら歓迎しないと」
ルカもくすぐったそうに笑った。純粋に嬉しいんだと思う。
「掃除早く終わらせて、お祝いの準備しないとね」
「俺も食事の準備手伝うよ」
「いいの?」
「勿論」
「嬉しいな。ランバートさんのご飯、とっても美味しいんだもん」
「任せてよ」
こんな感じの会話も最近では慣れた。ルカは親しい友人か、家族のようにランバートを受け入れてくれる。最初は少しくすぐったいのと、いいのだろうかという戸惑いがあった。だが今はこれが普通になってきた。
忙しく動くルカが身をかがめて集めたゴミを取り始める。その背後に、ランバートは何かを見た。それは遠く複数の影。それが何かを大きく振りかぶったように見えた。
「ルカさん!」
しゃがみ込んだルカの背をめがけ、何かが飛んでくる。それが何かを認識するよりも早く、ランバートは庇うように抱き寄せてショーウィンドーに背を向けた。
ガラスの割れる音と、左の肩甲骨の辺りに強く当たる硬いもの。額や背にも鋭い痛みが走る。それに思わず眉を寄せると、腕の中でルカが目を見張って震えていた。
「ランバートさん!」
慌てた声に伸びた手が額を押さえる。その手が染まって行くのをぼんやりと見た。目も少し痛いが、入っただろうか。ルカの顔や服にもポタポタと血が落ちていく。
「怪我ありませんか?」
「怪我をしたのはランバートさんだよ! どうして」
涙を浮かべて震える人がなんだか気の毒だった。そんなに深い傷では無いと思うが、額を切っているから出血の量は多い。見慣れないと驚くだろう。
「ただいまー。ルカさん、そこでファウスト様に会ったよ」
「ルカ、どうした?」
裏の道を通ってきたのだろうレオが、起こった事を知らないまま暢気に声をかけてくる。一緒にファウストの声も。ルカは顔を上げ、涙をたっぷりに溜めて声を張った。
「兄さん来て! ランバートさんが!」
涙に濡れて必死な声にすぐさま足音が駆けてくる。そうして顔を覗かせた人は、一瞬で表情を強ばらせた。
「ランバート!」
膝をついたランバートの直ぐ側に来て、ルカに替わって体を支えてくれる。そして、背に刺さっているガラス片を一つずつ丁寧に抜いていく。その側ではレオも青い顔をしていた。
「レオ、西砦へ走ってくれ。その後で、中央関所のウェインという隊員にも」
「分かった!」
さすがは東地区の暗黒時代を知っている。青い顔をしながらもすぐさま動ける。レオはバタバタと走り出していく。
「平気か?」
「少し切りましたが」
「かなりだ」
そう言いながらファウストはルカが持ってきたタオルを額に当てて押さえる。そして、周囲に落ちていた石を拾い上げた。
かなり大きく、人の拳ほどはある。ゴツゴツとして角があり、かなり硬いものだった。
「これが当たったのか。ルカ、氷を。あと、バスタオルを一つ」
「分かった」
よろよろと奥へと消えていくルカを見て、申し訳ない気持ちになる。今日は楽しい日になるはずだったのに、台無しにしてしまった。
だが、あのままでは怪我をしたのはルカだ。鍛えているランバートならまだしも、ルカでは大怪我になりかねない。その事態だけは回避できた。それだけでランバートは満足だった。
「立てるか?」
「えぇ、問題ありません」
ファウストの手を借りて立ち上がり、椅子に場所を移す。木の丸椅子に腰を下ろすと上の服を剥ぎ取られ、背を綺麗に洗われる。その手つきは優しくて、くすぐったくてもぞもぞとした。
「動くな」
「くすぐったいです」
「そんな事を言える状況か。数カ所深い傷があるな。少し縫うことになりそうだ。それに、石がぶつかった部分が酷い内出血をしている。痛むぞ」
「止血だけできれば」
「今日は宿舎だ。エリオットに治療してもらえ」
「お手数ですし」
「それがあいつの仕事だ。隠せば余計に怒るぞ」
それは容易に想像ができる。いつも優しく癒やしすらも感じるエリオットは、怪我人や病人に対しては容赦がない。隠そうものなら容赦なく引っ張っていき、ベッドに転がし治療する。その時の顔は医者というよりも殺人犯だ。
「兄さん、タオルと氷」
「あぁ、すまない。ランバート、少し押さえるから痛かったら言え」
バスタオルで傷を圧迫し、氷で内出血している部分を押さえる。多少痛みはあるが、それほどではない。側ではルカが未だに泣きそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、ランバートさん。僕のせいで、こんな」
「何言ってるの? ルカさんのせいじゃないでしょ? それに俺は平気だよ、これでも騎士なんだから」
顔や服が汚れたままだ。気になって拭おうとしたけれど、そもそも自分の手が汚れている。額に当てていたタオルも同じ。どうにももどかしく笑うと、余計に泣かれそうになってしまった。
「泣かないで、ルカさん。本当に、見た目ほど深くはないから」
こういう時、なんて慰めたらいいんだろう。自分の事に頓着しないから余計に言葉が出ない。ただただ安心してもらえるように笑う事しかできなくて、ランバートは歯がゆくて仕方がなかった。
◆◇◆
ウェインや他の隊員が到着したことで、場は騒然とした。夕刻を過ぎると静かなウルーラ通りには野次馬が集まっている。ルカを奥へと戻し、他の隊員に後を任せたファウストは一度馬車で宿舎へと戻った。ランバートをエリオットの所へ連れて行くためだ。
あいつは案の定、「自分で行ける」と言っていたがそうはさせなかった。石がぶつかっただろう左の肩甲骨は青紫色に変色している。刺さったガラス片は抜いたが、そこからの出血がまだ僅かある。そんな奴を一人で行かせる訳にはいかない。しかも歩けると言ったんだ、あのバカは。
ごにょごにょと言うランバートを小さな馬車に押し込んで宿舎に戻り、エリオットの所に引きずって預けるととんぼ返りでルカの家に戻った。その頃には騒ぎも大分収まってきていた。
「ファウスト様」
「ウェイン、どうだ?」
「人相書きが描けそうなほどの目撃情報は出てないけれど、十人くらいの男が走り去っていくのは見られてた。一人の特徴が、以前この店で暴れていた男と一致しました」
「そうか」
人通りが少なくなる時間を狙ってやったに違いない。この辺は夕刻には店を閉めるし、大抵は自身の店の戸締まりや清掃をしている。ルカもそうだった。
「あの、ファウスト様はどうしてこの店に?」
「弟の店だ」
「弟!」
叫びそうになる口を咄嗟に押さえたウェインは、店の奥へと視線を向ける。そして、とても小さな声で話し始めた。
「あの、とても落ち込んでいて辛そうです。他の隊員を下げるので、少し話をしてあげては」
「すまない」
「いえ」
そう言うと何でもない様子で奥へと行き、その場にいた隊員を引っ張って割れた窓の応急処置などをしてくれる。有り難いことだ。
奥へと向かうと、ルカは落ち込んで椅子に座り項垂れていた。青い瞳からは涙が溢れていて、服は汚れたままだ。側にいき、膝をついて見上げるとルカは珍しく憔悴した顔をした。
「ランバートさんの様子は?」
「うちの軍医に預けてきた。優秀な奴だよ。それに、ずっと意識もあって足取りもしっかりしていた。たいした事はない」
「良かった」
また涙がぽろぽろとこぼれる。それを手で拭い、握りしめている手を包んでやる。色が白くなるほどに強く握っている手から、少しだけ力が抜けていくようだった。
「僕、店を」
「ルカ」
背中をトントンと叩き、小さな子にするように抱き寄せる。頭を撫でて、慰めて。腕の中で気丈なこいつが泣くなんて、母が亡くなった時以来じゃないのか。
「ルカ、ランバートの気持ちをちゃんと汲んでやってくれ」
「でも!」
「あいつはここが好きで、お前が好きだ。だからこそ守ろうとしているんだ。ここを閉めてしまったら、誰よりも悲しむのはあいつだ。責任を感じるのは、あいつなんだよ」
これだけは断言できる。この店が閉まったりしたらランバートは自分の責任だと言って落ち込むに違いない。決定的な加害者がいるにもかかわらずだ。それではあんまりだ。
「ルカ、もうすぐちゃんと終わる。こんなことが長く続く事はないんだ。だから、そんな顔は今日だけにしろ。いいか?」
頬を手で包むようにして、ファウストは優しく声をかける。それに、ルカはまた涙をこぼしながら頷いた。
「今日は危険があるかもしれない。どこかに適当な宿を取ろう」
「でも」
「それなら俺が案内する」
不意にした声に目を向けると、二階から様子をうかがっていたらしいレオが力強く頷く。
「いい場所があるのか?」
「ジンの店の二階は、傭兵達の宿泊所になってる。あそこなら傭兵沢山で守り硬いし、ジンもいる。今日は俺がルカさんの側にずっといる。変な奴がきたら俺、ファウスト様に知らせるから」
「レオくん……」
ルカの目に新たな涙が浮かび、席を立ってひしと抱きしめる。その腕の中で、レオは勇敢な男の目をしてルカの背中を抱きしめた。
「大丈夫だよ、ルカさん。大丈夫」
「うん、そうだね。大丈夫だね」
この様子を見ると、レオがルカの側にいてくれる事は有り難かった。ルカはまだ幼いレオを守ろうとして立つ事ができるし、レオはルカを支えようとしてくれる。二人でちゃんと立っていてくれるのは安心できる。
「ファウスト様、よろしいですか?」
声がかかり振り返ると、ウェインが遠慮するように見ている。頷くとオズオズと近づいてきて、ルカにも視線を向けた。
「明日もう一度、改めてお話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
「分かりました。どこへ向かえば?」
「この店で、状況を再現しながら行いたいのです。辛い事とは思いますが、ご協力お願いします」
必要な事だし、より正確に物事を把握するための事だが少し酷だ。思いはしたが、ルカは意外としっかり頷いている。それに、ウェインは安堵したようだった。
「流石にここで一晩を過ごすのは危険です。適当な場所がないようでしたら、用意いたしますが」
「あぁ、それはいい。俺が明日迎えに行って、中央関所に送り届ける」
「そんな! 兄さんの手まで患わせるなんて」
「心配しながら一日過ごすよりも集中できる。たいした手間じゃない」
クシャリと黒い髪を撫でて笑ったファウストに、ルカは申し訳なさそうに、でも安堵したように笑った。
ルカ達を無事にジンの店に送り届け、ファウストは宿舎へと戻ってきた。
事情を簡単に話すと、傭兵ギルドにいた者達は憤りを露わにして温かくルカとレオを迎えてくれた。なんとも温かい奴らだ。
不思議と安心して任せる事ができる。ジンに翌朝迎えに来ることを告げて戻ってくると、真っ直ぐに医務室へと行く。部屋からはまだ明かりが漏れていた。
「エリオット、いるか?」
扉を叩いて声をかけると、直ぐに内側から開いた。そして、穏やかな笑みを見せるエリオットが顔を出して招いてくれた。
「ランバートの傷はどうだ?」
勧められるソファーに腰を下ろすと、温かなお茶が出てくる。それを一口飲むと、急に喉の渇きを感じた。ついでに空腹も。思えば食べてくるつもりだったのだ。
「ガラスの刺さった傷はたいした事ありません。数カ所縫った所もありますが、ほんの数針です。それよりも内出血ですね。骨などに影響はありませんが、切り傷の上から薬を塗るのは流石に。痛みに飛び上がりますから」
苦笑して僅かに首を倒す仕草のエリオットに、ファウストも苦笑する。そして、安堵した。少なくとも自分の見立て以上に酷いものではなかったようだ。
「腕も上がりますし、肩も回ります。数日痛むでしょうが、自然治癒を待つしかありませんね。額の傷は縫うほどではなく、薬を塗って終わりです。痕も残りませんよ」
「そうか。明日は休ませた方がいいか?」
「激しい任務は控えるのが無難ですが、通常任務は問題ありません。それに、本人は明日も仕事に出る気満々でしたよ」
それを聞くと無理矢理休ませるのも考えてしまう。ファウストとしては休ませたいのだが、本人が頑として休まないと言われるとどうも。あいつは全てにおいて「大事にしたくない」という意識があるから余計に困る。
「デスクワークだな」
「そうしてあげてください」
溜息一つで妥協する。それに、エリオットが楽しそうに笑った。
「それで、弟さんの方は大丈夫なのですか? 時間が許すなら、今夜は側にいてあげては?」
気遣わしい目でそう言われる。以前ならきっとそうしただろう。だが、ルカとレオを見て身を引いた。自分が側にいるよりもレオが側にいるほうが精神的に落ち着いてくれる。自分が側にいるのではルカは気にしてしまうだろう。
少し寂しい気持ちはある。ルカを助けて支えるのは兄としての自分の役目だとファウストはずっと思っていた。だが、違うのだと見せつけられる。本当に密に関わっていく子ができてルカ自身も足元を固めようとしている。それを感じたならば自分は少し手を離し、一歩下がって見守るほうがいい。そう思えてしまった。
「ルカは大丈夫だ。安全が確保出来る場所に弟子と一緒に預けてきた。俺が側にいるよりも年下の弟子が側にいるほうがあいつは気を張るだろう。今はその方がいい」
「そうですか」
微笑ましい顔をしたエリオットがふわりと笑う。
「明日は早めに仕事を切り上げて、ランバートを連れて会いにいくさ。元気そうなランバートを見ればあいつも安心するだろう」
「えぇ、是非そうしてあげてください」
明後日は安息日、少しゆっくりと話す事もできる。今日からウェインは西砦に移り、第二師団も容疑者を追っている。ある意味これはいい機会だ。器物破損、傷害の容疑を奴らにかけられる。騎士団も当然のように拘束し、取り調べる口実ができた。
席を立ち、エリオットに礼を言って自室に戻る。そうするとドッと疲れがきて、後はゆるゆると眠りについた。
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