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7章:ネクロフィリアの葬送
8話:ネクロフィリア
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夢なのか、現実なのか。それすらも曖昧な場所に意識が漂っている。体が動かない。息は、しているだろうか? 指の先や足の先があることは分かるが、動く気がしない。
「ほぉ、一本打った時点で意識が戻る者もそうはいないが。やはり君は凄いね、リフ」
温度を感じない、ヒヤリとした声がどこか遠くで歪んで聞こえる。視界はほぼないが、明かりは感じている。僅かに、薬品の臭いを感じる。
「痛くはないだろ? ゆっくりと、このまま眠るように全てが終わるから安心しなさい」
そう言うと、影だけのそれは側にきて何かをする。ほんの僅か、腕に感じた痛み。そして、何かが体の中に入ってくる。
寒い。体が冷たくて、温かなものを感じられない。今ある感覚が一つずつ閉じていく。視界が消えて、感覚が消えていく。意識はどこを彷徨っている?
「……」
ほんの僅か、唇が動く。会いたい人の名前ばかりが浮かんでは消える。家族ではない人。信じて欲しいと言われたのに、裏切ってしまった人。今頃、怒っているだろうか。それとも、呆れているだろうか。探してくれているだろうか。そうなら、いいな……。
「仮死を経て、ゆっくりと全てが閉じていく。だが、もう肌は死人のようだ。やはり私の毒は完璧だ」
触れているように思うが、既に感覚がない。嫌悪を感じても、どこか実感がない。うっとりと、影が動かない手の甲に口づけた。
「綺麗に防腐処理をするが、その前に一度楽しもうか。ベッドも綺麗に整えてあるんだよ? 君は使い捨てになんてしないから安心しなさい。いつまでも側に置くからね」
そんな未来は望んでいない。たとえ無残な姿でも、帰りたい場所はある。
意識が消える。夢うつつに見る黒衣の人は、いつも困ったように笑っている。伸ばされる手を取って、その隣に置いてもらえる。
あぁ、今度またお酒を飲もうと、約束したのはいつだった? その約束は、果たせたのか? 分からない。お願いだから、声が聞きたい。
消える中で、僅かに伝わった振動。それは、どこから誰が響かせたものだったのだろうか。
◆◇◆
船が終点に着いた。ファウストが錆びた鉄の扉を開けると、意外と簡単に開いた。最近でも使われていた証だ。
「ジン、お前はここにいて俺たちが戻らないようなら引き返してくれ」
「俺も行くつもりだったが」
「ダメだ、お前は一般市民だ。犯罪者でもイーノックを殺せば、俺はお前を捕らえなければならない。そんな事はしたくない」
既にこいつにも情はわいている。何より気持ちのいい奴だと思う。だからこそ、犯罪者として捕らえるなんてことはしたくない。
ジンは考えて、頷いてくれた。
教会の地下だというそこは、冷たく広い。通路は一本道だが、その両側にはいくつかの部屋がある。
「俺は部屋を確かめます。他に仲間がいたら後ろを取られますから」
「あぁ、頼む」
ウルバスが慎重に各部屋を確かめ始める。ファウストとエリオットは真っ直ぐに、突き当たりにある部屋を目指した。
木製の大きな扉にはレリーフがされている。埃が溜まり所々白くなっていたが、何度も開閉された痕跡が真新しく残っている。扉の脇に立ち、背後のエリオットにも目配せをする。頷いたエリオットを確認し、ファウストは一気に扉を引き開けた。
室内は薄暗い研究室のようだった。多くの棚に並んだ引き出しは、どこに何が入っているのか見当も付かない。ガラス製の瓶には虫や蛇が入っていて蠢いている。そしてその中央に備え付けられた作業台のようなベッドの上には、眠るようなランバートがいた。
「ランバート!」
それだけしか見えないまま、ファウストは駆け寄った。直ぐ側に立ち、体に触れる。その肌があまりに冷たくて、直ぐに手を引っ込めた。反応がない、胸の上下も分からない。肌の色は失われているように見えた。
「ファウスト!」
声が飛んで振り向くそこに、椅子を振りかぶる男の姿が見えた。ランバートに気を取られて見えていない。背後を取られた形だったが、その椅子が振り下ろされるよりも前にエリオットの剣が男の手を突き通していた。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
痛みに手を押さえる男に向き直り、腕を捻って床に引き倒す。簡単に倒れた男は暴れたが、そこに力は感じない。あまりに非力なものだった。
喉の奥が張り付いていく。触れた肌の温度を、ファウストは知っている。これほどまでに冷たくなった人間が、戻ってきた事はない。心臓が凍るように痛むのに、血はドクドクと加速する。目の前の男が憎いとか、そんな事を感じないほどに頭が働かず、急速に世界が色を失っていく。
「ファウストしっかりしなさい! ランバートはまだ生きています!」
「……え?」
情けない乾いた声で問い返す。エリオットはランバートの側に立って、脈を取って息を確かめている。
「まだ息があります。何か毒を注射されたんです。今少し、時間をください」
そう言いながら、エリオットは周囲を見回している。ファウストは男を組み敷いたまま、ただそれを見ているしかない。その下で、男は低く不快に笑った。
「もう遅い。さっき二本目を注射したばかりだ。後は徐々に息が止まり、動かなくなる。とても美しいだろ? 肌は白く、冷たく、鮮やかだ」
急速にわく怒りは憎しみでもある。公人として、こいつをここで殺す事はダメだと訴える。だが私人は、何度殺しても飽き足らないと訴えている。
だがそれは、ファウストばかりが考えている事ではないようだった。怖い顔をしたエリオットが薬品の入った注射を持ったまま近づいてきた。
目が据わっている。普段穏やかなこいつがこういう目をするときは、誰も止められない。そしてエリオットは時に、ファウストが引くほどに残酷だ。
「血清はどこです」
抑揚のない声が問いただす。既に詰問の色が濃い。イーノックは目を丸くし、次には薄ら笑った。
「さぁ、何の事か」
「蛇毒をベースに作った毒薬なら、その蛇の血清が一番効果的だ。蛇毒を使う人間が血清を用意していないなんてことはあり得ない。どこだ」
「蛇の毒だと言い切れるものじゃ」
「蛇の神経毒を弱め、徐々に効果を増幅させるように何度も薬を注射している。神経毒は呼吸器を麻痺させ、動きを奪う。お前のような非力な奴が恐れもなくランバートを拘束せずにおけるのは、既に動けないと安心しきっているからだ。違うか?」
低く静かに言い切るエリオットが、脇に立つ。そして突然と、男の太ももに注射針を突き立てた。
「何をする!」
「ランバートに注射した毒と同じものだろ? 彼の側にケースに入っておいてあった。自分が隠れるのに慌て、薬を隠すのを忘れたんだろ。違うか?」
「違う!」
「ならば、打っても平気だろ」
言うと躊躇いもなく、エリオットはイーノックの体に毒薬を注入していく。大騒ぎをして暴れようとしたが、徐々に呼吸は乱れ抑えていなくても動けなくなった。
「ランバートが耐えられた毒でも、お前ならどうだ?」
「ちが……」
「血清はどこだ」
「しら……」
言ったイーノックの目の前で、エリオットはその手に同じように注射針を突き立てた。まだ並々と入ったそれを見て、イーノックは青い顔を更に青白くして口をパクパクさせた。
「言え」
「や、やめ……」
わざと時間をかけてゆっくりと、エリオットは薬を入れていく。それをむざと見せられたイーノックは息を乱し目を白黒させながら、叫ぶように言った。
「赤に黒の縦縞模様の引き出しに入っている!!」
それを聞いたエリオットの行動は早かった。走って飛びつくように引き出しを開け、その中に入っている薬品を真新しい注射器へと移すと、まずはイーノックに打った。みるみる安堵の表情を浮かべたイーノックは、気が緩んだのかそのまま気絶していた。
「どうやら本物ですね。弱った脈も呼吸器の乱れも徐々にですが正常化し始めている。筋肉の強ばりも解けてきている」
それを冷静に確かめた後で、エリオットは真新しい注射器に同じ薬を移して丁寧にランバートへと注射した。
「戻るか?」
問いかける声が震えている。まだ、触れる肌は冷たいままだ。呼吸はまだ感じ取るには弱すぎる。目は開かない。色を取り戻しているか、この薄暗い場所では分からない。
それでも確かな目でエリオットが頷くのは、心強かった。
着ていた上着をランバートに掛けてみる。少しでも早くこの体が温かな熱を取り戻すようにと願い、してやれる事の少なさに歯がみしながら。
「ファウスト様、いいですか?」
背後でウルバスが遠慮がちな声をかける。そちらに振り向くと、顔色の悪いウルバスが立っていた。
「どうした」
「他に潜伏している者はいなかったのですが……嫌なものを見つけました」
その言葉だけで何を言わんとしているか、大体だが予想はできた。
ランバートをエリオットに任せ、イーノックを縛り上げてからファウストはウルバスに続いて部屋に入った。暗く陰鬱な場所において、その部屋だけが暖かみを持っているように見える。柔らかなラグに、ランプ。整えられた室内にはベッドが置いてある。白いバラの花を散らした、整えられたベッドだ。
だがその部屋には不似合いなものも二つある。黒い棺が二つ、並んでいた。
慎重に扉を開ける。一つは空で、真新しい。だがもう一つには、見たくないものが入っていた。
「どこの誰かも分かりませんが、どうしましょう」
眠るように横たわるそれは、そういう人形のように思えた。白い肌、金の髪、唇には紅が差してある。綺麗な服を着せられたそれは、大切にされている事だけは伝わった。
「ランバートも、こうなるところだったんでしょうか」
乾いた声が言う言葉に、背が寒くなる。この真新しい棺に入る予定だったのは、ランバートだろう。そしてこのバラを散らした寝台に眠る予定だったのもまた、彼だった。
思うと恐ろしく、冷たく、声も出ない。そしてひたすらに、間に合った事に安堵した。
「ランバートは、大丈夫なんですか?」
「エリオットはそう言っていたが……」
確信がない。だからだろう、未だに全身を包む恐怖を拭い去れない。何一つ安心出来ない。不安な目を室内に向ける。するとベッドの脇に、何かがあるのに気づいた。
歩み寄ってそれを手にする。それは手のひらに収まる小さな肖像画だった。豊かな金髪を自慢するような綺麗な少年が微笑んでいる。その裏を返せばそこに、一言添えてあった。
「敬愛する兄」
あの男の原点はここなんだと分かった。近づいてきたウルバスにも、それは伝わった。
「どこか、ランバートに似ていますね」
幼い頃のランバートはこんな感じだったんじゃないか。そんな事を思わせた。だが書き添えられたその言葉の下に書いてあるものにも、ファウストは気づいていた。
享年、十七歳。
あの男は兄を追い求めたのかもしれない。求めた年齢と外見的な特徴は、これに当てはまる。ランバートを見て「理想的」だと言った言葉は、嘘ではなかったのだろう。
やがてにわかに外が騒がしくなる。上へ通じる階段を見上げると、そこから第三師団の面々が下りてくるのが見えた。
「ファウスト様、ウルバス様」
「来たか。そこの部屋に棺がある。運び出して、丁寧に葬って欲しい」
「犯人は」
「部屋に転がしてある、連行しろ」
そうして指示を出している間に、奥の部屋からエリオットが出てきた。
「どうだ?」
冷静を装っているのは自分でも感じている。その問いかけに、どれだけの勇気が必要だったか。もしも首を横に振られたら。何一つ言えないまま動けなくなりそうだ。
だが向けられたのは安堵の表情だった。
「体温が戻ってきて、呼吸もしっかりとしてきました。意識が戻るまでにはまだかかるでしょうが、とりあえずは」
「そうか」
安堵と一緒に力が抜けた。それでも崩れずに歩き出せる。奥の部屋へと入ったファウストは、そっと頬に触れた。確かに感じる温かさは、まだ少し冷たいものの血の流れを感じられた。
掛けた上着ごと抱き上げる。その背後で、エリオットが第三師団の面々に指示を出している。
「ここにある資料や毒薬は全て、丁寧に私の研究室に運んで下さい。虫や蛇は動かす前にロープで縛って蓋が開かないように気をつけて。全てが毒を持っています」
「分かりました」
そう言いながらも、いいつかった面々は途方に暮れた顔をしている。それだけここにある物の量は凄い。
「ランバートは出来るだけ早く安静に運びたいので、船をお願いしましょう」
「あぁ、そうだな。ウルバス、任せていいか」
「はい、分かりました」
すっかり落ち着いた様子のウルバスが頷いて笑う。それに笑みを返して、ファウストは丁寧にランバートを抱いて船着き場へと戻った。
待っていたジンは大いに焦った顔をしたが、説明を聞いてひとまず頷いて船を出してくれる。その間、ファウストはずっとランバートの体を抱いていた。ほんの少しでもいい、この体が温かくなるように願って。
「ほぉ、一本打った時点で意識が戻る者もそうはいないが。やはり君は凄いね、リフ」
温度を感じない、ヒヤリとした声がどこか遠くで歪んで聞こえる。視界はほぼないが、明かりは感じている。僅かに、薬品の臭いを感じる。
「痛くはないだろ? ゆっくりと、このまま眠るように全てが終わるから安心しなさい」
そう言うと、影だけのそれは側にきて何かをする。ほんの僅か、腕に感じた痛み。そして、何かが体の中に入ってくる。
寒い。体が冷たくて、温かなものを感じられない。今ある感覚が一つずつ閉じていく。視界が消えて、感覚が消えていく。意識はどこを彷徨っている?
「……」
ほんの僅か、唇が動く。会いたい人の名前ばかりが浮かんでは消える。家族ではない人。信じて欲しいと言われたのに、裏切ってしまった人。今頃、怒っているだろうか。それとも、呆れているだろうか。探してくれているだろうか。そうなら、いいな……。
「仮死を経て、ゆっくりと全てが閉じていく。だが、もう肌は死人のようだ。やはり私の毒は完璧だ」
触れているように思うが、既に感覚がない。嫌悪を感じても、どこか実感がない。うっとりと、影が動かない手の甲に口づけた。
「綺麗に防腐処理をするが、その前に一度楽しもうか。ベッドも綺麗に整えてあるんだよ? 君は使い捨てになんてしないから安心しなさい。いつまでも側に置くからね」
そんな未来は望んでいない。たとえ無残な姿でも、帰りたい場所はある。
意識が消える。夢うつつに見る黒衣の人は、いつも困ったように笑っている。伸ばされる手を取って、その隣に置いてもらえる。
あぁ、今度またお酒を飲もうと、約束したのはいつだった? その約束は、果たせたのか? 分からない。お願いだから、声が聞きたい。
消える中で、僅かに伝わった振動。それは、どこから誰が響かせたものだったのだろうか。
◆◇◆
船が終点に着いた。ファウストが錆びた鉄の扉を開けると、意外と簡単に開いた。最近でも使われていた証だ。
「ジン、お前はここにいて俺たちが戻らないようなら引き返してくれ」
「俺も行くつもりだったが」
「ダメだ、お前は一般市民だ。犯罪者でもイーノックを殺せば、俺はお前を捕らえなければならない。そんな事はしたくない」
既にこいつにも情はわいている。何より気持ちのいい奴だと思う。だからこそ、犯罪者として捕らえるなんてことはしたくない。
ジンは考えて、頷いてくれた。
教会の地下だというそこは、冷たく広い。通路は一本道だが、その両側にはいくつかの部屋がある。
「俺は部屋を確かめます。他に仲間がいたら後ろを取られますから」
「あぁ、頼む」
ウルバスが慎重に各部屋を確かめ始める。ファウストとエリオットは真っ直ぐに、突き当たりにある部屋を目指した。
木製の大きな扉にはレリーフがされている。埃が溜まり所々白くなっていたが、何度も開閉された痕跡が真新しく残っている。扉の脇に立ち、背後のエリオットにも目配せをする。頷いたエリオットを確認し、ファウストは一気に扉を引き開けた。
室内は薄暗い研究室のようだった。多くの棚に並んだ引き出しは、どこに何が入っているのか見当も付かない。ガラス製の瓶には虫や蛇が入っていて蠢いている。そしてその中央に備え付けられた作業台のようなベッドの上には、眠るようなランバートがいた。
「ランバート!」
それだけしか見えないまま、ファウストは駆け寄った。直ぐ側に立ち、体に触れる。その肌があまりに冷たくて、直ぐに手を引っ込めた。反応がない、胸の上下も分からない。肌の色は失われているように見えた。
「ファウスト!」
声が飛んで振り向くそこに、椅子を振りかぶる男の姿が見えた。ランバートに気を取られて見えていない。背後を取られた形だったが、その椅子が振り下ろされるよりも前にエリオットの剣が男の手を突き通していた。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
痛みに手を押さえる男に向き直り、腕を捻って床に引き倒す。簡単に倒れた男は暴れたが、そこに力は感じない。あまりに非力なものだった。
喉の奥が張り付いていく。触れた肌の温度を、ファウストは知っている。これほどまでに冷たくなった人間が、戻ってきた事はない。心臓が凍るように痛むのに、血はドクドクと加速する。目の前の男が憎いとか、そんな事を感じないほどに頭が働かず、急速に世界が色を失っていく。
「ファウストしっかりしなさい! ランバートはまだ生きています!」
「……え?」
情けない乾いた声で問い返す。エリオットはランバートの側に立って、脈を取って息を確かめている。
「まだ息があります。何か毒を注射されたんです。今少し、時間をください」
そう言いながら、エリオットは周囲を見回している。ファウストは男を組み敷いたまま、ただそれを見ているしかない。その下で、男は低く不快に笑った。
「もう遅い。さっき二本目を注射したばかりだ。後は徐々に息が止まり、動かなくなる。とても美しいだろ? 肌は白く、冷たく、鮮やかだ」
急速にわく怒りは憎しみでもある。公人として、こいつをここで殺す事はダメだと訴える。だが私人は、何度殺しても飽き足らないと訴えている。
だがそれは、ファウストばかりが考えている事ではないようだった。怖い顔をしたエリオットが薬品の入った注射を持ったまま近づいてきた。
目が据わっている。普段穏やかなこいつがこういう目をするときは、誰も止められない。そしてエリオットは時に、ファウストが引くほどに残酷だ。
「血清はどこです」
抑揚のない声が問いただす。既に詰問の色が濃い。イーノックは目を丸くし、次には薄ら笑った。
「さぁ、何の事か」
「蛇毒をベースに作った毒薬なら、その蛇の血清が一番効果的だ。蛇毒を使う人間が血清を用意していないなんてことはあり得ない。どこだ」
「蛇の毒だと言い切れるものじゃ」
「蛇の神経毒を弱め、徐々に効果を増幅させるように何度も薬を注射している。神経毒は呼吸器を麻痺させ、動きを奪う。お前のような非力な奴が恐れもなくランバートを拘束せずにおけるのは、既に動けないと安心しきっているからだ。違うか?」
低く静かに言い切るエリオットが、脇に立つ。そして突然と、男の太ももに注射針を突き立てた。
「何をする!」
「ランバートに注射した毒と同じものだろ? 彼の側にケースに入っておいてあった。自分が隠れるのに慌て、薬を隠すのを忘れたんだろ。違うか?」
「違う!」
「ならば、打っても平気だろ」
言うと躊躇いもなく、エリオットはイーノックの体に毒薬を注入していく。大騒ぎをして暴れようとしたが、徐々に呼吸は乱れ抑えていなくても動けなくなった。
「ランバートが耐えられた毒でも、お前ならどうだ?」
「ちが……」
「血清はどこだ」
「しら……」
言ったイーノックの目の前で、エリオットはその手に同じように注射針を突き立てた。まだ並々と入ったそれを見て、イーノックは青い顔を更に青白くして口をパクパクさせた。
「言え」
「や、やめ……」
わざと時間をかけてゆっくりと、エリオットは薬を入れていく。それをむざと見せられたイーノックは息を乱し目を白黒させながら、叫ぶように言った。
「赤に黒の縦縞模様の引き出しに入っている!!」
それを聞いたエリオットの行動は早かった。走って飛びつくように引き出しを開け、その中に入っている薬品を真新しい注射器へと移すと、まずはイーノックに打った。みるみる安堵の表情を浮かべたイーノックは、気が緩んだのかそのまま気絶していた。
「どうやら本物ですね。弱った脈も呼吸器の乱れも徐々にですが正常化し始めている。筋肉の強ばりも解けてきている」
それを冷静に確かめた後で、エリオットは真新しい注射器に同じ薬を移して丁寧にランバートへと注射した。
「戻るか?」
問いかける声が震えている。まだ、触れる肌は冷たいままだ。呼吸はまだ感じ取るには弱すぎる。目は開かない。色を取り戻しているか、この薄暗い場所では分からない。
それでも確かな目でエリオットが頷くのは、心強かった。
着ていた上着をランバートに掛けてみる。少しでも早くこの体が温かな熱を取り戻すようにと願い、してやれる事の少なさに歯がみしながら。
「ファウスト様、いいですか?」
背後でウルバスが遠慮がちな声をかける。そちらに振り向くと、顔色の悪いウルバスが立っていた。
「どうした」
「他に潜伏している者はいなかったのですが……嫌なものを見つけました」
その言葉だけで何を言わんとしているか、大体だが予想はできた。
ランバートをエリオットに任せ、イーノックを縛り上げてからファウストはウルバスに続いて部屋に入った。暗く陰鬱な場所において、その部屋だけが暖かみを持っているように見える。柔らかなラグに、ランプ。整えられた室内にはベッドが置いてある。白いバラの花を散らした、整えられたベッドだ。
だがその部屋には不似合いなものも二つある。黒い棺が二つ、並んでいた。
慎重に扉を開ける。一つは空で、真新しい。だがもう一つには、見たくないものが入っていた。
「どこの誰かも分かりませんが、どうしましょう」
眠るように横たわるそれは、そういう人形のように思えた。白い肌、金の髪、唇には紅が差してある。綺麗な服を着せられたそれは、大切にされている事だけは伝わった。
「ランバートも、こうなるところだったんでしょうか」
乾いた声が言う言葉に、背が寒くなる。この真新しい棺に入る予定だったのは、ランバートだろう。そしてこのバラを散らした寝台に眠る予定だったのもまた、彼だった。
思うと恐ろしく、冷たく、声も出ない。そしてひたすらに、間に合った事に安堵した。
「ランバートは、大丈夫なんですか?」
「エリオットはそう言っていたが……」
確信がない。だからだろう、未だに全身を包む恐怖を拭い去れない。何一つ安心出来ない。不安な目を室内に向ける。するとベッドの脇に、何かがあるのに気づいた。
歩み寄ってそれを手にする。それは手のひらに収まる小さな肖像画だった。豊かな金髪を自慢するような綺麗な少年が微笑んでいる。その裏を返せばそこに、一言添えてあった。
「敬愛する兄」
あの男の原点はここなんだと分かった。近づいてきたウルバスにも、それは伝わった。
「どこか、ランバートに似ていますね」
幼い頃のランバートはこんな感じだったんじゃないか。そんな事を思わせた。だが書き添えられたその言葉の下に書いてあるものにも、ファウストは気づいていた。
享年、十七歳。
あの男は兄を追い求めたのかもしれない。求めた年齢と外見的な特徴は、これに当てはまる。ランバートを見て「理想的」だと言った言葉は、嘘ではなかったのだろう。
やがてにわかに外が騒がしくなる。上へ通じる階段を見上げると、そこから第三師団の面々が下りてくるのが見えた。
「ファウスト様、ウルバス様」
「来たか。そこの部屋に棺がある。運び出して、丁寧に葬って欲しい」
「犯人は」
「部屋に転がしてある、連行しろ」
そうして指示を出している間に、奥の部屋からエリオットが出てきた。
「どうだ?」
冷静を装っているのは自分でも感じている。その問いかけに、どれだけの勇気が必要だったか。もしも首を横に振られたら。何一つ言えないまま動けなくなりそうだ。
だが向けられたのは安堵の表情だった。
「体温が戻ってきて、呼吸もしっかりとしてきました。意識が戻るまでにはまだかかるでしょうが、とりあえずは」
「そうか」
安堵と一緒に力が抜けた。それでも崩れずに歩き出せる。奥の部屋へと入ったファウストは、そっと頬に触れた。確かに感じる温かさは、まだ少し冷たいものの血の流れを感じられた。
掛けた上着ごと抱き上げる。その背後で、エリオットが第三師団の面々に指示を出している。
「ここにある資料や毒薬は全て、丁寧に私の研究室に運んで下さい。虫や蛇は動かす前にロープで縛って蓋が開かないように気をつけて。全てが毒を持っています」
「分かりました」
そう言いながらも、いいつかった面々は途方に暮れた顔をしている。それだけここにある物の量は凄い。
「ランバートは出来るだけ早く安静に運びたいので、船をお願いしましょう」
「あぁ、そうだな。ウルバス、任せていいか」
「はい、分かりました」
すっかり落ち着いた様子のウルバスが頷いて笑う。それに笑みを返して、ファウストは丁寧にランバートを抱いて船着き場へと戻った。
待っていたジンは大いに焦った顔をしたが、説明を聞いてひとまず頷いて船を出してくれる。その間、ファウストはずっとランバートの体を抱いていた。ほんの少しでもいい、この体が温かくなるように願って。
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