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20章:祝福の鐘が鳴る前に

1話:花嫁は踏み切れない(ゼロス)

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 五月も末となり、六月は目前。
 とある安息日、ゼロスは街の秘密基地にいた。そこでクラウルと穏やかな時間を過ごしていたのだ。

「そろそろ昼だが、どこかに食べに行くか?」
「あぁ、そうですね。あっ、それならウルーラ通りも見ていいですか?」
「どうした?」
「来月の頭にランバートの誕生日があるので、プレゼントの見当を付けようかと思いまして」

 彼は例に漏れず、今年も自分の誕生日を忘れている様子だ。まだ約束はしていないが、先に見ておくのはいいだろう。
 クラウルも思いだしたようで、直ぐに頷いた。

「俺も今年は、もう少し真っ当な物を考えなければな」
「ちなみに、去年は何を贈ったのですか?」
「投げナイフ」
「……」

 実用的と言えば実用的だ。実際ランバートは普段の装備として投げナイフを忍ばせている。なかなかの実力のはずだ。
 だが、だからといって誕生日に渡す物でもないだろう。

「では、今年は俺とクラウル様、二人の連名ということにしますか?」
「ん?」
「無骨な男二人でも、知恵を絞ればそれなりの物が見つかるかもしれませんよ」

 ふっと笑ったゼロスに、クラウルも穏やかに微笑んで頷き、上着を持った。

 まさに、その時だった。

 突如ドアが激しく叩かれ、二人はビクリと身を震わせる。まずあり得ない事だ。ここは一般の暗府隊員ですら知らないクラウルの隠れ家。ファウスト達団長と、ラウルくらいしか知らないはずなのだ。
 そんな家のドアを激しく叩く人物など、よほどの緊急事態でしかない。

「下がっていろ、ゼロス」

 咄嗟に部屋に隠してあるダガーを持ったクラウルが、足音もなくドアに忍び寄る。ゼロスは身構えながらも、少しだけドアへと近づいた。
 だが、そこで聞こえた声は知っている人物のものだった。

「開けてくれ、クラウル! 頼む!」
「ヴィン!!」

 声は間違いなく、ヴィンセントのものだったのだ。

 慌ててドアを開ければ、転がるようにヴィンセントが室内へと入ってくる。そして、クラウルの胸元を握って必死の形相をしている。普段涼しい顔をしている人がこれほどに焦るとなれば、とんでもない事が起こっているに違いない。
 自然と緊張したクラウルとゼロスは顔を見合わせ、とりあえずヴィンセントを部屋へと入れる。憔悴した表情に青くなった顔。手は自然と震えていた。
 こうなればカールの身に何かとんでもない事が。ゼロスはそうも思ったが、それならヴィンセントよりも前に団長の誰かが転がり込んで来るはずだ。
 尚も何かを訴えようとするヴィンセントを座らせたクラウルは、困った顔で落ち着くように言った。

「一体どうしたんだ。何があった」
「アネットが」
「アネット?」
「アネットが出ていった」
「……え?」

 クラウルは困惑した顔をし、ヴィンセントは綺麗な顔を悲愴に歪め、ゼロスは何が起こっているのかまったく分からない状態でクラウルを見るしかなかった。


 クラウルから大まかな事の経緯を聞いたゼロスは言葉がなかった。アネットが元下町の娼婦だったこと、ルシオと名乗っていた時にランバートと連絡を付ける為に彼女を利用したこと、その後ヴィンセントと改めてから謝りに行ったこと、気に入って身請けしたことなどだ。
 何がって、既にこの時には国の根幹に関わるような事にランバートが首を突っ込んでいた事に頭痛がした。多才さと機転の良さと顔の広さは恐ろしい人脈と経歴を作るものだ。

「だが、どうしてアネットは出ていったんだ。今年の新年に挨拶に行った時には、仲が良さそうだったじゃないか」
「今年の新年って、もしかして」

 クラウルが酔っ払って暴漢を撃退し、その後ゼロスにお持ち帰りされた事件だ。もしやあれの切っ掛けを作ったのは。
 クラウルを見れば思いだしたのか、やや恥ずかしそうにしながらも頷いた。

「……ヴィンセントさんに、足向けて寝られないな」

 あの事件があったからこそ今がある。誰がどこでどう関わっているか、分からないものである。

「それにしても、話を聞くと知り合って一年近く、同棲を始めて半年以上が経っているのに、何故今更出ていくなんて。貴方の正体を知らないなら納得もできますが、納得済みでしょ?」

 実に不思議に思えた。話を聞くにこれと言って喧嘩をした覚えもないのだと言う。今朝起きて、なかなか彼女が姿を見せない事に不安を覚えたヴィンセントが部屋を訪ねると、『出ていきます。今まで有り難う』という書き置きがされていたのだと言う。

 ヴィンセントは酷く落ち込んだ様子で項垂れたまま、ぽつりぽつりと思い当たる事を口にし始めた。

「昨夜、プロポーズしたんだ」
「え?」

 クラウルも驚いた様子で目を見張り、ゼロスと顔を見合わせる。
 事の経緯を聞くに、そう不自然な事もない。交際期間が同棲期間であり、それだけ共に生活していて嫌な相手ならとっくの昔に別れている。そうなっていないのなら、そろそろという事でもおかしくはないだろう。
 アネットは何故、いなくなってしまったのか。

 だがその前に、ゼロスには腑に落ちない事があった。

「答えづらい事かもしれませんが、同棲して半年以上ですよね? もっと前にプロポーズなどはなさらなかったのですか? そもそも、娼館からの身請けの時点である意味結婚の申し込みの様な物だと俺は思うのですが」
「私もそのつもりでいた。だが、彼女が拒むうちはいいだろうと思っていたんだ」
「彼女の方から拒む理由が?」

 普通はない。皇帝の側近であり、これから地位など上がり放題。生活も安定しているし、ヴィンセント自身とても綺麗な顔立ちをしている。性格がと言われればなんとも言えないが、優秀であり女性に対して乱暴な行いをするようには思えない。
 何よりヴィンセントの愛情は本物に思える。そんな相手を拒む理由は、なんなのだろうか。

「貴族の妻などやれる器じゃない。彼女はいつもそう言っていた」
「身分違いを気にしているのか?」
「おそらく、そうだろうと思う。だが俺は既に両親もなく、名すらも捨てた者だ。彼女をとやかく言う面倒な親族がいるわけでもない。それは彼女も分かっているはずなんだ」

 まくし立てるように早口に話すのは、不安の表れなのだろうか。狼狽が見えるヴィンセントが、ふと自嘲気味に笑った。

「愛人や、遊び女ならいつでも。子が欲しいと言うなら、産んでもいい。でも、正妻なんて場所には立てない。彼女はいつもそう言って、私の誘いを断り続けた。だが私は、彼女に堂々隣りに立ってもらいたい。何に恥じる事もなく、真っ直ぐに。私は彼女であるならば、それでいいんだ。身分も、産まれも問うたりはしないのに」

 ガックリと肩を落とす姿はあまりに哀れでなんて声をかけていいか分からない。思わずクラウルと顔を見合わせ困ってしまう。
 ただ、このままにしておけない感じはした。彼女が何を思っているのかは分からないが、ヴィンセントを気にしているようにも思う。そうでなければ、言えないだろう。「子供は産んでもいい」なんて。気持ちがないわけじゃ無いんだ。

「私の事も、家の事も、家の者とも馴染んだと思ったんだ。元々頭が良く、さっぱりとした性格の女性だ、半年も家の取り仕切りをしていれば仕事も分かってくる。家の者も、彼女のさっぱりとして気持ちのいい気性を気に入っていた。だから、もう大丈夫だと思ったんだ」
「どこに行ったのか、心当たりはないのか?」
「既に、全部回った。元々いた娼館や、ジンの酒場も。両方姿を現していたが、留まってはいなかった。お気に入りの公園や、店も回ってみたがどこも駄目だった。今、どこにいるのか分からない」

 ヴィンセントが懐から取り出したのは、便箋に書き残された置き手紙と小さな指輪のケース。中には綺麗なガーネットの指輪が収められていた。
 手紙には本当に一言。『出ていきます。今まで有り難う』としかない。

「……私の過去が、やはり嫌になったのかもしれないな」
「ヴィン、そんな」
「知っている事と、受け入れる事とは違ったのかもしれない。私の素性がもしもカールの政敵にでも知れれば、私ばかりか皆に迷惑を掛ける。彼女は重罪人の妻だ。それを思えば、簡単な事ではなかったんだろう。最悪、共に死んでくれと」
「止めろヴィン! そんな事にはならない。例えお前の事が誰かに知られたとしても、それが表に出る事はない。俺が全力で阻止する。カールもお前を守る。ジョシュア様も後ろにつくと言ってくれただろ。案ずる事は」
「それでも彼女にとっては大きな事だったんだろう。もう、そうとしか」

 弱り切ったヴィンセントが、今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。それを、クラウルが必死に宥め慰めている。
 ゼロスは立ち上がり、玄関を目指した。

「ゼロス?」
「ランバートに連絡を取ります。まずは彼女を探してみない事には何も真実は分かりません」
「探すって」
「ランバートなら、彼女の事をもっと知っているかもしれないし視野が広い。それに、アネットという女性はあいつにとっても友人の一人です。事を知れば心配するでしょう」

 このままにしていい話ではない。ヴィンセントは己のこれまでを悔い始め、アネットは真実を語らないままだ。
 それに、思うのだ。気持ちのない関係をこんなに長く続けて行く事など出来ない。今まで支え続け、今更離れるのはきっと気遣ってだ。もしくは、彼女の中でも不安があるのだろう。
 とにかくこのままではいられない。ゼロスは秘密基地を出て、一路騎士団宿舎へと向かうのだった。
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