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8章:亡霊は夢を見る
5話:従者ランバート
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それから二日、ランバートはあえて部屋から出なかった。そして戸口にあの甘い匂いの薬を数滴垂らしておいた。あの薬はやはり、まっとうな思考を奪い服従させるためのものだったらしい。ヴィクトランの言う『躾け』というのは、これだと言われた。
その匂いを散々にさせ、ランバート自身は開け放った窓辺に姿を隠していた。さすがにあの匂いに慣れるのはまずい気がしたのだ。ハリーに聞いてもその通り。体に染みるのが速いそうで、抜けづらくなってしまうそうだ。
そうして二日後、ランバートは衣服を整えて部屋にいた。怠い表情でただ座っている。そこに、ハリーはヴィクトランともう一人の男を連れて入ってきた。
おそらく軍人、ヴィクトランに近しい者なのだろう。それに森の中で見たかもしれない。年齢は三十代後半くらいで、忠臣という感じがした。そしてまっとうだ。気怠い表情を浮かべるランバートを見て、眉根を寄せて辛そうな表情をしたのだ。
「いい具合ですね、ハインリヒ。ちゃんと命令に忠実かい?」
「嫌々だけどね。薬が抜け始めたら耐えられないようになってるから、逆らったりしないよ」
話を合わせたハリーが近づいて、ランバートの顎をくすぐる。動きに合わせて僅かに上向いたその唇に、ハリーのものが重なった。
睨み付けながらも抵抗はしない。決して本意ではないが、服従はするというポーズにヴィクトランは瞳を細めて見ていた。おそらく、現状は満足なのだろう。
「いい子で待ってた? 今日はこれからお茶会だから一緒においで」
声は出さず、ただ頷いた。最低限の意思表示だけする事に決めたのだ。
ハリーの斜め後方をついて歩き、目的の部屋が近づいてきて指示をされて、丁寧に扉を開けた。暖炉に火を入れたサロンは温かく、外の雪景色と対比するような暖色の室内は穏やかだった。
「お茶を淹れて」
「はい」
気怠く歩き、用意されていた茶器でお茶を淹れる。手慣れた作業だが、あくまで怠く見えるように。手際はいいが時間は少しかけてお茶を淹れて差し出せば、ヴィクトランがその茶をランバートへと追いやった。
「まずは君が毒味をするのですよ」
そう言われ、手に取って飲み干す。それに満足したのか、ヴィクトランは満足そうに笑った。
それからは貴族らしい時間だった。主にヴィクトランがここで過ごした時間を懐かしく語り、ハリーはそれに相づちを打っている。その様子を、時々お茶のおかわりを淹れつつランバートは聞いていた。
実に違和感のある状態だった。ランバートに見せていた憎悪が消えて、子供の様に無邪気に話すヴィクトランを見ると、テロリストとは思えないものがあった。ハリーに向けてそのような顔をするのに、ランバートが茶を差し出せばそこには炎が揺らめく。よほどの憎悪があるのだろう。
だが、今の所はだませている。語らず、静かに、でも気怠くそこにいるランバートが薬の影響でまっとうな思考が出来ないのだと疑わない様子だった。
そろそろ二時間。ランバートは辛そうに息を吐き、ハリーへと近づいた。
「あの」
小さく言えば、ハリーは面倒そうにこちらを向いて、けれど薄く笑う。彼もまた芝居が出来る相手だ。ランバートに対してはどこまでも酷薄に接してくる。
「あぁ、辛くなった?」
チラリと時計を見たハリーがやんわりと笑う。そして胸元から瓶を取り出し、それを一滴ハンカチに落としてランバートへと渡した。
「休んでおいで」
言われ、ランバートはそのハンカチを受け取ると直ぐに部屋を出た。できるだけ臭いは嗅がないようにして部屋へ戻ろうとしたランバートの肩を、誰かが掴んだ。
「待て。それを渡せ」
そう言ったのは、ヴィクトランと共に入ってきた軍人風の男だった。同情的な視線でランバートを見て、手に握られたハンカチを睨む。それを奪い取った男はそのままランバートの腕を掴むと、ズンズンと進んで行く。何事か。思ったが大人しく従った。
男が連れてきたのはランバートの部屋と同じような部屋だった。そこに入った男はハンカチを暖炉の火にくべると、かわりに水をランバートへと差し出した。
「飲め」
「……」
信用できるかは分からない。だが、まっとうそうには見えた。忠義を持って主に仕える。そういう者の目をしているのだ。
水を飲み込めば、気持ちのいいサッパリとした口当たりと鼻に僅かに抜ける爽やかな香りがある。そして、とても気持ちが良かった。
「落ち着いたか」
「……はい」
「一時的な禁断症状ならこれで紛らわせる。気付けの薬も渡してやる。あの薬には触れるな」
「どうして、そんな事を?」
水をコクコクと飲み込んだランバートは男を見た。男はあまり表情を見せないが、逆にそれが思い悩んでいるようでもあった。
「森でお前を見て、真の騎士だと思った。戦えば強いのだろうお前の今の姿は、同じ剣に生きる者として悲しいものがある」
男は言って、小さな瓶を渡してきた。爽やかで少し強い臭いに、頭の中がはっきりとしてくる感じがあった。多少当てられた臭いの影響も、これでサッパリだ。
「あの人に逆らう事じゃないのか?」
「そうだな。だが」
男は俯き、やがて息を吐き出す。重いその溜息は気の毒なくらいだった。
「昔は、あのような方ではなかったんだ」
「昔?」
「俺はあの方の父君にお仕えしていた。その頃はとても穏やかで、柔らかく笑う方だったんだ。誰を恨む事もない、綺麗な方だ」
その当時の面影は今はない。今は憎悪の炎を揺らめかせている。
男はなおも表情を沈め、俯いていた。
「ハインリヒ様の事もそうだ。無理矢理、連れてきたんだ」
「無理矢理?」
「騎士団にハインリヒ様がいる事は分かっていた。だから誰か、師団長クラスを拉致し、交換条件として引き入れるつもりだった。そうなる前に従ってくれたのは幸いだったが……間違いだった」
男はランバートの前に座った。緑色の瞳が、ジッとランバートを見ている。
「お前と親しげなのを見て、ヴィクトラン様がお前の助命を条件に来るように命じた。抵抗したそうだった」
「……」
ランバートはやはりかと思った。いや、そうでなければ命は繋がっていなかっただろうが。
「憎悪するような目だったよ」
「え?」
思わぬ言葉にランバートは顔を上げる。男は苦笑して頷いた。
「卑怯者を見る目だ。ヴィクトラン様がそれに気づいたかは分からないが、俺にはそう見えた。ハインリヒ様にとって生きる場所は既にこの地ではない。当然だ、離れたのが五歳だ。ご家族の事を覚えているかも微妙な年齢だ。あの方にとっては、俺達は仲間を傷つけた許せない卑怯者なのだろう」
男は言って、ランバートの頭に手を乗せる。そして、グリグリとなで回した。
「少し抜けた顔をしているな。ハインリヒ様も本気でお前を薬漬けにしたかった訳じゃないんだろう。あの方なりに、守りたいと思っているのかもしれない。あまり、恨まないでやってくれ」
これには反発的な顔をしてみせた。あくまで今の状況は不満なんだと表情で語る。すると男は驚いた顔をして、次に喉元で笑った。
「俺はオーギュスト・バラデュールと言う。名は?」
「ランバート」
「ランバート、ハインリヒ様を頼む。今は無理をしているとしか思えない。あの方はお前を庇おうとしているのだろう。酷い仕打ちも、今は許してやってくれ。何かあれば俺に相談してくれていい。他の話も聞こう。だがまずは、あの薬に服従しないことだ。人間のままでいたいなら苦しくても耐えろ」
そう言うと、オーギュストは時計に目をやり立ち上がる。ランバートも立ち上がり、大人しくオーギュストの後についていった。
その後は何事もなく、ランバートはハリーの部屋へと戻った。扉を閉じ、外に誰もいないことを注意深く探った後で、ハリーはいきなりランバートに頭を下げた。
「ごめん! なんか、色々と」
「なんの事だ?」
謝られる事は何一つしていない。全て打ち合わせ済みなんだ、今回の事は。ハリーはあくまでランバートを服従させた主というふうにして、酷薄に接する。ランバートは不満がありながらもそれに従い、薬による渇望や禁断症状で側にいる。あの薬が切れかかるのはだいたい二時間程度だという。そのくらいの時間を目安にハリーに声をかけ、それを理由に外に出る。外に出た時間を、ランバートは部屋に戻るふりをして周囲を探ろうと思っていた。
従者という立場は何かと便利だった。ランバートには十分な力量があるし、密かに色んなものに触れる。今日はさすがにやらなかったが、カトラリーだってそれなりの武器になるものだ。
ハリーはとても申し訳ない顔をしている。ランバートが近づけば、更に困った顔をした。
「ハリー?」
「無理矢理キスしたりとか、嫌だろ?」
問われ、ランバートはキョトンとした顔をして、次には笑った。あまり大声で笑えないのが苦しいくらいだった。
「そんなの気にしてたのか?」
「だって、お前っ。兄上に迫られた時には泣いてたじゃないか。前は恋人いなかったから操なんて立てなかったかもしれないけど、今はやっぱ……嫌だろうなって」
ハリーは消えそうな声で言う。それに、ランバートは苦笑した。
確かにヴィクトランに無理矢理犯されそうになったとき、拒絶した。状況についていけなくて、覚悟もしていなかったからだ。だが今は違う。これは今を乗り切る為に必要な事だ。覚悟ができていれば、なんてことはないんだ。
近づいて、なおも俯いているハリーの顔を上げさせて、ランバートは軽いキスをする。触れるだけの唇に、ハリーは驚いた顔をしていた。綺麗な緑色の瞳が見開いたままだった。
「嫌じゃないって。今は平気」
「なんで?」
「なんて言うのかな……気持ちの問題。これは今を乗り切る為って思えば、やれる。気持ちに武装させる感じ? 多分今なら、ヴィクトランに無理矢理犯されたって平気だ」
「そんな事させないって!」
ハリーは目を吊り上げて言う。だが、ランバートは本当に平気だと思っている。それが必要なら構わない。大事な物をちゃんと守っているから、他は汚れたって平気だった。
「ハリー、俺は別に生娘じゃない。ファウストの所に生きて戻る、その為ならどんなポーズも取れる。体を許しても、気持ちまでは許していない。守る部分を持ち続けていれば、俺は平気だ」
「強すぎるだろ、そんなの。お前、ファウスト様の事大好きだろ。そんな無理……辛くなったりしないのか」
「辛いかもしれない。そうならない方がいい。でも、そこを拒む事で命の危機にさらされるなら譲る。ファウストは必ず手を打ってくれる。俺達を見つけ出して、逃れる切っ掛けをくれると信じている。いや、もしもその前に何かあったとしても、俺は最後まで抗う。できなくて、信じなくて、どうしてあの人の側にいられる? このくらいの事も言えないんじゃダメだろ」
それに、分かってもらえると信じている。少し荒れるかもしれないが、これを浮気とは言わない。本当は「頑張ったな」って言ってもらいたいが、そうじゃなくてもこれを切っ掛けに別れる事にはならないと信じている。
思えば急に会いたくなった。ほんの少し寂しいのかもしれない。今はそんな情けない事を言っていられないのに。
ハリーの瞳は揺れていた。ここ最近で見る事の多くなった、頼りなく揺れる瞳だった。
「強いよな、ランバートのそういう所。これだから惚れる奴がわんさかなんだ」
「え?」
「知らないの? 先輩や、同期や、後輩にランバートのファンは多いんだよ。わりと本気で狙ってた人がいるくらい。今はもう……ファウスト様には敵わないからさ、挑んで来ないけれど」
「そうなのか?」
知らなかった。あまりそういう視線を感じていなかったと思うけれど、多分気づかなかっただけなんだ。ファウストと付き合う切っ掛けを思ってランバートも自覚した。どうやら自分の事には無頓着で関心がないんだと。なんせ周囲はみんな、ファウストの気持ちを分かっていたのにランバートはまったくだったから。鈍いんだろうと思う。
「俺もさ、ランバートの事けっこうアリだったんだけど」
「え?」
「でも同じくらい、お前とファウスト様の事も見てた。だから、敵わないなって思ったんだ。この二人の間に入るなんて、野暮もいいとこでしょ。ほんと、凄く簡単に、悔しいなんて思う事も出来ないくらいあっさり諦めさせるって、ある意味凄いよ」
言いながら、ハリーは笑った。本当にさっぱりとした顔で。
「戻ろう、絶対。俺もさ、今の仲間の側にいたい。ここに居ても……兄上の側にいても居心地悪いんだ。昔はあんなに優しかった兄上が壊れていくのを見ていたくない。俺の中ではまだ、あの人は優しい兄上のままなんだ。これ以上は、見ていたくない」
「ハリー」
「あの人を本当の意味で救ってあげたい。その為に力を貸して、ランバート」
瞳を揺らめかせながら、それでも奥には芯がある。揺らがない気持ちがある。それを感じ、ランバートも強く頷いた。
その匂いを散々にさせ、ランバート自身は開け放った窓辺に姿を隠していた。さすがにあの匂いに慣れるのはまずい気がしたのだ。ハリーに聞いてもその通り。体に染みるのが速いそうで、抜けづらくなってしまうそうだ。
そうして二日後、ランバートは衣服を整えて部屋にいた。怠い表情でただ座っている。そこに、ハリーはヴィクトランともう一人の男を連れて入ってきた。
おそらく軍人、ヴィクトランに近しい者なのだろう。それに森の中で見たかもしれない。年齢は三十代後半くらいで、忠臣という感じがした。そしてまっとうだ。気怠い表情を浮かべるランバートを見て、眉根を寄せて辛そうな表情をしたのだ。
「いい具合ですね、ハインリヒ。ちゃんと命令に忠実かい?」
「嫌々だけどね。薬が抜け始めたら耐えられないようになってるから、逆らったりしないよ」
話を合わせたハリーが近づいて、ランバートの顎をくすぐる。動きに合わせて僅かに上向いたその唇に、ハリーのものが重なった。
睨み付けながらも抵抗はしない。決して本意ではないが、服従はするというポーズにヴィクトランは瞳を細めて見ていた。おそらく、現状は満足なのだろう。
「いい子で待ってた? 今日はこれからお茶会だから一緒においで」
声は出さず、ただ頷いた。最低限の意思表示だけする事に決めたのだ。
ハリーの斜め後方をついて歩き、目的の部屋が近づいてきて指示をされて、丁寧に扉を開けた。暖炉に火を入れたサロンは温かく、外の雪景色と対比するような暖色の室内は穏やかだった。
「お茶を淹れて」
「はい」
気怠く歩き、用意されていた茶器でお茶を淹れる。手慣れた作業だが、あくまで怠く見えるように。手際はいいが時間は少しかけてお茶を淹れて差し出せば、ヴィクトランがその茶をランバートへと追いやった。
「まずは君が毒味をするのですよ」
そう言われ、手に取って飲み干す。それに満足したのか、ヴィクトランは満足そうに笑った。
それからは貴族らしい時間だった。主にヴィクトランがここで過ごした時間を懐かしく語り、ハリーはそれに相づちを打っている。その様子を、時々お茶のおかわりを淹れつつランバートは聞いていた。
実に違和感のある状態だった。ランバートに見せていた憎悪が消えて、子供の様に無邪気に話すヴィクトランを見ると、テロリストとは思えないものがあった。ハリーに向けてそのような顔をするのに、ランバートが茶を差し出せばそこには炎が揺らめく。よほどの憎悪があるのだろう。
だが、今の所はだませている。語らず、静かに、でも気怠くそこにいるランバートが薬の影響でまっとうな思考が出来ないのだと疑わない様子だった。
そろそろ二時間。ランバートは辛そうに息を吐き、ハリーへと近づいた。
「あの」
小さく言えば、ハリーは面倒そうにこちらを向いて、けれど薄く笑う。彼もまた芝居が出来る相手だ。ランバートに対してはどこまでも酷薄に接してくる。
「あぁ、辛くなった?」
チラリと時計を見たハリーがやんわりと笑う。そして胸元から瓶を取り出し、それを一滴ハンカチに落としてランバートへと渡した。
「休んでおいで」
言われ、ランバートはそのハンカチを受け取ると直ぐに部屋を出た。できるだけ臭いは嗅がないようにして部屋へ戻ろうとしたランバートの肩を、誰かが掴んだ。
「待て。それを渡せ」
そう言ったのは、ヴィクトランと共に入ってきた軍人風の男だった。同情的な視線でランバートを見て、手に握られたハンカチを睨む。それを奪い取った男はそのままランバートの腕を掴むと、ズンズンと進んで行く。何事か。思ったが大人しく従った。
男が連れてきたのはランバートの部屋と同じような部屋だった。そこに入った男はハンカチを暖炉の火にくべると、かわりに水をランバートへと差し出した。
「飲め」
「……」
信用できるかは分からない。だが、まっとうそうには見えた。忠義を持って主に仕える。そういう者の目をしているのだ。
水を飲み込めば、気持ちのいいサッパリとした口当たりと鼻に僅かに抜ける爽やかな香りがある。そして、とても気持ちが良かった。
「落ち着いたか」
「……はい」
「一時的な禁断症状ならこれで紛らわせる。気付けの薬も渡してやる。あの薬には触れるな」
「どうして、そんな事を?」
水をコクコクと飲み込んだランバートは男を見た。男はあまり表情を見せないが、逆にそれが思い悩んでいるようでもあった。
「森でお前を見て、真の騎士だと思った。戦えば強いのだろうお前の今の姿は、同じ剣に生きる者として悲しいものがある」
男は言って、小さな瓶を渡してきた。爽やかで少し強い臭いに、頭の中がはっきりとしてくる感じがあった。多少当てられた臭いの影響も、これでサッパリだ。
「あの人に逆らう事じゃないのか?」
「そうだな。だが」
男は俯き、やがて息を吐き出す。重いその溜息は気の毒なくらいだった。
「昔は、あのような方ではなかったんだ」
「昔?」
「俺はあの方の父君にお仕えしていた。その頃はとても穏やかで、柔らかく笑う方だったんだ。誰を恨む事もない、綺麗な方だ」
その当時の面影は今はない。今は憎悪の炎を揺らめかせている。
男はなおも表情を沈め、俯いていた。
「ハインリヒ様の事もそうだ。無理矢理、連れてきたんだ」
「無理矢理?」
「騎士団にハインリヒ様がいる事は分かっていた。だから誰か、師団長クラスを拉致し、交換条件として引き入れるつもりだった。そうなる前に従ってくれたのは幸いだったが……間違いだった」
男はランバートの前に座った。緑色の瞳が、ジッとランバートを見ている。
「お前と親しげなのを見て、ヴィクトラン様がお前の助命を条件に来るように命じた。抵抗したそうだった」
「……」
ランバートはやはりかと思った。いや、そうでなければ命は繋がっていなかっただろうが。
「憎悪するような目だったよ」
「え?」
思わぬ言葉にランバートは顔を上げる。男は苦笑して頷いた。
「卑怯者を見る目だ。ヴィクトラン様がそれに気づいたかは分からないが、俺にはそう見えた。ハインリヒ様にとって生きる場所は既にこの地ではない。当然だ、離れたのが五歳だ。ご家族の事を覚えているかも微妙な年齢だ。あの方にとっては、俺達は仲間を傷つけた許せない卑怯者なのだろう」
男は言って、ランバートの頭に手を乗せる。そして、グリグリとなで回した。
「少し抜けた顔をしているな。ハインリヒ様も本気でお前を薬漬けにしたかった訳じゃないんだろう。あの方なりに、守りたいと思っているのかもしれない。あまり、恨まないでやってくれ」
これには反発的な顔をしてみせた。あくまで今の状況は不満なんだと表情で語る。すると男は驚いた顔をして、次に喉元で笑った。
「俺はオーギュスト・バラデュールと言う。名は?」
「ランバート」
「ランバート、ハインリヒ様を頼む。今は無理をしているとしか思えない。あの方はお前を庇おうとしているのだろう。酷い仕打ちも、今は許してやってくれ。何かあれば俺に相談してくれていい。他の話も聞こう。だがまずは、あの薬に服従しないことだ。人間のままでいたいなら苦しくても耐えろ」
そう言うと、オーギュストは時計に目をやり立ち上がる。ランバートも立ち上がり、大人しくオーギュストの後についていった。
その後は何事もなく、ランバートはハリーの部屋へと戻った。扉を閉じ、外に誰もいないことを注意深く探った後で、ハリーはいきなりランバートに頭を下げた。
「ごめん! なんか、色々と」
「なんの事だ?」
謝られる事は何一つしていない。全て打ち合わせ済みなんだ、今回の事は。ハリーはあくまでランバートを服従させた主というふうにして、酷薄に接する。ランバートは不満がありながらもそれに従い、薬による渇望や禁断症状で側にいる。あの薬が切れかかるのはだいたい二時間程度だという。そのくらいの時間を目安にハリーに声をかけ、それを理由に外に出る。外に出た時間を、ランバートは部屋に戻るふりをして周囲を探ろうと思っていた。
従者という立場は何かと便利だった。ランバートには十分な力量があるし、密かに色んなものに触れる。今日はさすがにやらなかったが、カトラリーだってそれなりの武器になるものだ。
ハリーはとても申し訳ない顔をしている。ランバートが近づけば、更に困った顔をした。
「ハリー?」
「無理矢理キスしたりとか、嫌だろ?」
問われ、ランバートはキョトンとした顔をして、次には笑った。あまり大声で笑えないのが苦しいくらいだった。
「そんなの気にしてたのか?」
「だって、お前っ。兄上に迫られた時には泣いてたじゃないか。前は恋人いなかったから操なんて立てなかったかもしれないけど、今はやっぱ……嫌だろうなって」
ハリーは消えそうな声で言う。それに、ランバートは苦笑した。
確かにヴィクトランに無理矢理犯されそうになったとき、拒絶した。状況についていけなくて、覚悟もしていなかったからだ。だが今は違う。これは今を乗り切る為に必要な事だ。覚悟ができていれば、なんてことはないんだ。
近づいて、なおも俯いているハリーの顔を上げさせて、ランバートは軽いキスをする。触れるだけの唇に、ハリーは驚いた顔をしていた。綺麗な緑色の瞳が見開いたままだった。
「嫌じゃないって。今は平気」
「なんで?」
「なんて言うのかな……気持ちの問題。これは今を乗り切る為って思えば、やれる。気持ちに武装させる感じ? 多分今なら、ヴィクトランに無理矢理犯されたって平気だ」
「そんな事させないって!」
ハリーは目を吊り上げて言う。だが、ランバートは本当に平気だと思っている。それが必要なら構わない。大事な物をちゃんと守っているから、他は汚れたって平気だった。
「ハリー、俺は別に生娘じゃない。ファウストの所に生きて戻る、その為ならどんなポーズも取れる。体を許しても、気持ちまでは許していない。守る部分を持ち続けていれば、俺は平気だ」
「強すぎるだろ、そんなの。お前、ファウスト様の事大好きだろ。そんな無理……辛くなったりしないのか」
「辛いかもしれない。そうならない方がいい。でも、そこを拒む事で命の危機にさらされるなら譲る。ファウストは必ず手を打ってくれる。俺達を見つけ出して、逃れる切っ掛けをくれると信じている。いや、もしもその前に何かあったとしても、俺は最後まで抗う。できなくて、信じなくて、どうしてあの人の側にいられる? このくらいの事も言えないんじゃダメだろ」
それに、分かってもらえると信じている。少し荒れるかもしれないが、これを浮気とは言わない。本当は「頑張ったな」って言ってもらいたいが、そうじゃなくてもこれを切っ掛けに別れる事にはならないと信じている。
思えば急に会いたくなった。ほんの少し寂しいのかもしれない。今はそんな情けない事を言っていられないのに。
ハリーの瞳は揺れていた。ここ最近で見る事の多くなった、頼りなく揺れる瞳だった。
「強いよな、ランバートのそういう所。これだから惚れる奴がわんさかなんだ」
「え?」
「知らないの? 先輩や、同期や、後輩にランバートのファンは多いんだよ。わりと本気で狙ってた人がいるくらい。今はもう……ファウスト様には敵わないからさ、挑んで来ないけれど」
「そうなのか?」
知らなかった。あまりそういう視線を感じていなかったと思うけれど、多分気づかなかっただけなんだ。ファウストと付き合う切っ掛けを思ってランバートも自覚した。どうやら自分の事には無頓着で関心がないんだと。なんせ周囲はみんな、ファウストの気持ちを分かっていたのにランバートはまったくだったから。鈍いんだろうと思う。
「俺もさ、ランバートの事けっこうアリだったんだけど」
「え?」
「でも同じくらい、お前とファウスト様の事も見てた。だから、敵わないなって思ったんだ。この二人の間に入るなんて、野暮もいいとこでしょ。ほんと、凄く簡単に、悔しいなんて思う事も出来ないくらいあっさり諦めさせるって、ある意味凄いよ」
言いながら、ハリーは笑った。本当にさっぱりとした顔で。
「戻ろう、絶対。俺もさ、今の仲間の側にいたい。ここに居ても……兄上の側にいても居心地悪いんだ。昔はあんなに優しかった兄上が壊れていくのを見ていたくない。俺の中ではまだ、あの人は優しい兄上のままなんだ。これ以上は、見ていたくない」
「ハリー」
「あの人を本当の意味で救ってあげたい。その為に力を貸して、ランバート」
瞳を揺らめかせながら、それでも奥には芯がある。揺らがない気持ちがある。それを感じ、ランバートも強く頷いた。
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