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2章:放浪の民救出作戦

5話:狼の巣

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 準備を整えて入った森の中は、思いのほか拒絶的に思えた。獣道を忠実に辿るように歩きはするが、道は倒木や雪で滑る。足を滑らせて危うくなる奴が多い中、必然的に得意な人間が先頭集団に入る。今、ランバートはファウストの隣にいる。

「平気か?」
「大丈夫ですよ」
「ならいいが。あいつら、早いな」

 先頭集団を率いるようにファウストは前を歩き、その隣にランバートはいる。だがその二歩ほど先にシウスがいる。隣にはラウルがいて、平然と森を歩いている。
 こうみると、やはり彼はこの森で育ったのだ。冬用のコートは膝下まである。厚手で、毛皮のファーがついたフードがついている。温かく、この気温ではこれを着ないと危ないだろうが同時に足捌きが微妙になってくる。それをまったく感じさせないシウスの足は、知ったように動いている。

「ファウスト、一度獣道を外れて水辺に出る」
「水辺?」

 先を歩いていたシウスが足を止め、耳に手を当てて音を拾うような仕草をする。追いついたファウストに言ったシウスは静かに頷いた。

「獣道はもう少し行った場所にある猟師小屋までじゃ。そこから先に道などない。不慣れでは森に迷い凍死してしまうじゃろうて、分かりやすい場所まで出る」
「案内任せられるか」
「構わぬ。ここから東に二キロほどで川縁に出る。さして水量のない川じゃ、多少水量が増えたとて氾濫などせぬ。その後の行軍はこの川を上流へと向かう。放浪の民はこのような浅い場所にはおらなんだ」

 それを聞き、オリヴァーとウェインが頷いて後続の部隊へと伝えていく。ランバートは辛そうな隊員の荷物を肩代わりした。最近増やした体力トレーニングのおかげで筋力が増した。そのくらい代わりに持っても平気だった。
 歩き出した仲間を励ますようにランバートは仲間達の側にいる。ハリー、コンラッド、ボリスが今回は一緒に来た。ゼロスは今回あえて同行はしなかったらしい。
 二時間はかかっただろうか。森を抜けるとその先に川のせせらぎが聞こえてきた。全員がその川に辿り着いたタイミングで、一度休憩となった。
 火はあえて起こさず、水分を取って足腰を休める。シウスはなおも耳に手を当てて、何でもない音を聞いている。

「何か、聞こえるのですか?」

 側で問えばやや寂しそうな顔をして、ゆっくりと頷いた。

「シルフィードが囁いておる。この川を登れば、人がいると」
「貴方は精霊の声を聞くのですね」

 穏やかに問えば、静かな肯定が返ってきた。

「驚かぬのか」
「エルの一族ならば何かしらの耳を持っていてもおかしくはありません。今更では?」
「なるほど、お前も度胸がある。ファウストに余計な事を吹き込んだはお前か?」
「余計な事とは思っていませんが?」

 言えば溜息が返ってくる。おもむろに地に腰を下ろしたシウスは、冷たい川に手を浸した。直ぐに指先が赤くなるような温度のはずだが、シウスの手は色を変えていなかった。

「私は特に水の精に好かれておる。ゆえに、水は私を傷つけはしない。エルは皆、加護を持って生まれる。例え大地の声を拾えずとも、その恩恵を感じられずとも、ひっそりと守られておるものよ」
「冷たくないのですね」
「あぁ、冷たくはない。私は三つの声を聞く。風の精、水の精、地の精。水の加護を受けるせいか、火の精だけは私を嫌うがな」

 ふと視線を空へと投げたシウスは、ランバートには見えない物を見ているのだろう。視線が時折流れていく。ほんの少し楽しそうだ。

「不思議じゃ。町では一切この声が聞こえなんだ。故に私は力を失ったのだと思った。実に寂しく、絆を断たれたように思っておったが、ここに戻って聞こえるようになった。皆しきりに『おかえり』と言う。過ごした時間よりも長く離れたというのに、律儀に覚えておいてくれるものぞ」
「嬉しい事ですね。迎えてくれる場所があることは」

 言えば驚いた顔をされ、次には照れたように頬を染めるシウスがいる。なんとも言えない、無邪気さのある笑みだ。

「森が、揺れておるよ」
「え?」
「森は決して優しくはない。弱ければエルの者も命を落とす。それを包み、地に返すまでが森の大きさじゃ。その森が、揺れておる。よくない者がこの地に留まっておる。好かぬのだろう。しきりに『逃げよ』と私に言う」

 森が案じている。そう、シウスは暗に言っている。それを信じる人はそう多くはないだろう。ランバートだって信じ切れるかと言えば微妙な所だ。目に見えないものを否定する心はないが、行動を決めるにはまだ弱い。

「逃げますか?」

 シウスはゆっくりと首を左右に振った。

「ならぬ。私は友と仲間を救う。私がここにあるは、この時のためじゃ。あの悲劇を繰り返させはせぬ。惨殺などさせぬ。誰も失いはせぬ。私は国の宰相じゃ。例えこの身に何が起こったとしても背を向けられぬ」

 鋭く、そして真っ直ぐな視線がランバートを射る。珍しい事だ、シウスは冷静な目はしてもこんな鋭い目はしない。少なくともランバートには向けなかった。

「精霊が告げるは時に深刻な事じゃ。それが私に『逃げよ』と言う。おそらく危険があるのだろう。それはよい。私もこの立場じゃ、色々と面倒事は多い」

 「だからこそラウルがいる」と、シウスは言って遠くを見る。ラウルは今、少し離れて他の隊員と話をしている。今後の行軍についてあれこれ話をしているのだろう。

「ランバート、一つ頼まれてくれるか」
「なんでしょう」
「私を守ってくれ」

 おかしな事を言う。シウスを守るのはラウルの仕事だ。勿論ランバートだってそうするが、この人からの依頼としてはあまりに不自然だ。
 それをシウスも察している。だからこそ、小さな声でランバートにだけ語りかけてくる。

「エルは同胞か、庇護を求める者の前にしか現れぬ。剣を持った人間の前には現れぬ。故に、私だけが彼らと話す事ができる。だがここに潜むテロリスト共にとって、それは見過ごせぬはず。私を疎み、殺しに向かってくるかもしれぬ」
「ラウルが守るでしょ」
「そうさ、あの子が守る。だが私はあの子が愛しい。もしもの時、私はあの子を犠牲に出来ぬ。あの子の命に比べれば己を投げる事を選ぶだろう。ランバート、私はこの交渉をどうしても成功させねばならぬ。彼らと話をせねばならぬ。その時までで良い、私を守ってくれ。ラウルを守ってくれ。あの子に何かあれば、私は生きようとも魂は死ぬ。そのような地獄、味わいとうはない」

 切実な声に嘘はない。シウスの心はそこにある。ランバートはそれを感じ、表情を曇らせた。やれなくはないだろう。そして気持ちは十分に理解できる。ランバートだって同じだ。もしもファウストに何かあれば、心が裂けるだろう。あの人が倒れたら、助けられなかった自分を呪うだろう。容易な事だ、そんな事。

「任せてよいか?」
「及ぶ限りなら」
「すまぬの」
「いいえ」

 シウスは腰を上げる。ちょうど、ラウルが走って戻ってくるところだった。


 川沿いを歩き続ける中で、先頭を歩くシウスが不意に足を止めて全員に息を潜めるように言う。ファウストの側にいたランバートも足を止め、シウスが指さす先を見た。
 鹿が一頭、水を飲んでいる。食料の持ち込みを最低限にしている中で、この獲物は有り難い。そろそろ野営の準備もしたい頃だ。

「弓を」

 言いかけたその側にオリヴァーが立ち、引き絞る弓を構えて放った。矢は真っ直ぐに鹿をめがけて飛び、逃げるよりも前につき立つ。首を貫いたその矢に、鹿はどうと倒れた。

「お見事!」
「流石オリヴァーだな」

 鋭い瞳を見せた人が、にっこりと笑みを浮かべた。
 騎士団の師団長は自身に合う武器を持つことが許される。ランバート達一般隊員は下賜された剣だが、師団長以上はより得意な物を持つ。オリヴァーは唯一、弓を持っている。しなやかであるのに強い弓は銀のフレームに装飾が施されたもので、美術品としても十分に見られる美しさがある。だが、その弓から放たれる矢は決して獲物を逃がさない。そうまで言われるのだ。

「夕飯が一つできましたね。では、今日はこの辺で野営にしてはいかがでしょう?」
「そうさな」
「では、今仕留めた獲物を二年目が捌いてください。これも一つ勉強です。誰かやれますか?」

 オリヴァーがにっこりと微笑み先生のような顔をする。だが、手を上げる隊員はいない。誰も経験がないのだろう、強ばった顔をしている。
 ランバートはフッと息をついて手を上げる。そして直ぐに仕留めた獲物を引き寄せた。

「僕も後学の為に見てていい?」

 ハリーが側に来て手伝う。その横からコンラッドも来て、同じく頷いた。

「ランバート、一人でやれますか?」
「大丈夫だと思います」

 横に寝かした鹿の頸動脈を切り、まずは血を抜きつつ内臓を出す。皮と筋肉、内臓の間に強いナイフを入れて開いていく。大事なのは内臓を傷つけない事だ。内臓には色々な菌がいる場合が多い。そういうもので肉を汚さない為だ。

「うへぇ、グロい!」

 腹の辺りを綺麗に捌けば、綺麗な形の臓腑が見える。まだそれほど色味が失われていない、綺麗なものだ。

「ランバート、平気なの?」
「食べ物だ! 何より、同じ物がお前の腹の中にも詰まってるだろ」
「うわぁ! そういう事言うかなぁ。もう、ランバートって意外と繊細じゃない」

 そう言いながらもバッチリ見ている。コンラッドを見てみると……青い顔をしている。

「大丈夫か?」
「ダメかも」
「苦手なら下がってろよ」
「悪い」

 言いながら下がって、その先でダメになっている。その背をボリスが撫でていて、なんだか自分の神経ががさつなのかと微妙な気分になってきた。

「ここから?」
「胸骨外す」

 胸の中心にある骨と肋骨の隙間にナイフを当てると案外簡単に骨は外れる。そうして全て外して取り去れば、留めのなくなった胸は綺麗に左右に開いた。

「これ、心臓?」
「そう」
「うはぁ……グロ」

 そう言いながらもハリーはがっつり見ている。こいつは慣れればできるだろう。
 そのまま今度は骨盤の部分を開く。薄く肉を裂きつつ指で触れて骨の位置を確認して開いていく。ここの内臓を傷つけるのが一番まずい。丁寧に開き、やがて綺麗に左右に割れた。

「次は?」
「首」

 首の所も皮と内臓を剥がすように晒し、頭蓋骨に近い部分の食道を切り取る。後はナイフで筋膜と内臓を剥がすように手で握って抜き取っていく。綺麗に剥がれていくのだ、気持ちいいくらいに。ズルズルと上から引っ張り出し、最後は肛門を傷つけないように切り取る。腸は特に菌が多く、有害なものが多い。肉に移るのを避けたい。

「一度中を洗って、終わったら皮剥ぐぞ」
「分かった」

 足を持って川に移動し、丁寧に中に手を入れて洗っていく。終わると首の周りを一周切って切れ目を入れ、前足と後ろ足も切れ目をいれ、内臓だしの時の皮にも切れ目を入れて木に吊せば後はいい。首の切れ目から手をかけて下に引き下ろせば皮は剥げていく。

「おぉ! これは凄いね!」
「やるか?」
「やらない」

 この皮は後でなめせば使える。
 後は骨を外すようにして肉を部位に合わせて剥がしていけばいい。この段階になるとコンラッドも大丈夫らしく、取り分けた肉を見て「美味そう」と言ったくらいだ。

「お見事ですね、ランバート。貴方はサバイバル術においてはスキルが高いですよ」
「有り難うございます、オリヴァー様」

 脇でずっと見ていたオリヴァーが手を叩いて褒めるのを、どこか気恥ずかしく感じてしまう。周囲を見回せば少し人が減っていた。

「ファウスト様が数人を連れて森に入っていきましたよ。これだけでは食材が足りませんし」
「そうですか」

 手とナイフを綺麗に川で洗い流してお終い。最後に食材となった命に手を合わせて終わった。
 と、思ったのだが。数分して森から帰ってきたファウストが持ってきたものを見て、ランバートは頭が痛い思いがした。

「……イノシシ」

 かなりの肉が取れる。この人数でも食べられる。でも、またこれを捌くのかと思うとドッと疲れる思いがして、ランバートは肩を落とした。

 夜、皆は五~十人程度のグループになって鍋を囲んでいた。持ち込んだ根菜と、捌いた肉を使ってスパイシーな鍋をコンラッド達が作ってくれた。

「ほぉ、コンラッドと言ったか。あやつは良く分かっておる」

 夜となり、更に冷え込みが増す中で体の中から温かくなる。臭い消しと味付けに使われる香辛料が体を中から温めていく。

「本当に合格点ですね。汁物は食材が少なくても腹が膨れますし、温かいと中から温まります。香辛料が更に体温を上げてくれますから」
「ちょっと辛いけれどね」

 なんて、鍋を食べながらウェインは言う。温かな物を食べて落ち着いたようだ。さっきまでランバートとファウストが一緒にイノシシを解体しているのを見て、「残酷だぁ」と青い顔をしていたのに。

「交代で火の番を置く。一時間交代だ」

 五人一組で使うテントを設置し終えたファウストがそう言ってランバートの隣に座る。そして、ジロリとランバートを睨んだ。

「どうして俺と一緒のテントじゃなく、コンラッド達のテントにする」
「仕事中ですよ」
「寝る時間まで仕事ではない」
「火の番と警護があります。それに、常に周囲の異変に気を尖らせなければならない状態で就業もなにもありませんから」

 こう言われるとファウストも何も言えないらしい。眉間にもの凄く皺が寄っている。不満だと明らかな様子に、シウスやオリヴァーが笑って見ていた。

「良いではありませんか、ランバート。後で少しだけ、ご一緒してあげてくださいな」
「ですが」
「気が立っておるよ、その男。少しは一緒にいてやらねば後で痛い目をみるぞ」

 そう言われてチラリと隣を見れば、確かにギラギラとした目をしている。いつぞやの温泉の夜を思いだし、思わずブルッと背が震えた。

「ランバート、まったく休まる時間がないわけじゃないんだから、付き合ってあげなよ」

 ウェインにまで言われてしまい、ランバートも大人しく頷くしかなかった。
 食事を終え、ランバートは人の輪から外れた。その後をファウストもついてくる。他の隊員には気づかれないように出てきたし、知っている人達は何も言わずに送り出してくれた。
 明かりが僅かに見える程度の場所にきたランバートを、ファウストが後ろから抱きとめてやや乱暴にキスをする。余裕のないその様子は危機感があるが、同時に胸の辺りが熱くなっていく。

「んぅ」

 正面に向き直り、なおも絡めるようなキスに腰の辺りが疼いてくる。いつもと少し違う状況に妙な興奮があるのは認める。だが、それを指摘するようにファウストの膝がゴリッと前を押し潰すように触れたのには息が上がった。

「あっ」
「まったく、頃が夏ならこのまま抱いたんだが」

 冗談のような事を言われたが、冗談ではなさそうだ。切なく鋭い視線が濡れて見つめている。「欲しい」と如実に示す視線に、ランバートは申し訳無く、それでも身を預ける事ができない。

「困った顔をするな。困らせている自覚はあるんだぞ」
「あるんだ」
「勿論だ。心配するな、ここで肌を晒すような事はしない。凍傷にでもなっては大変だし、そうじゃなくても風邪を引かれたら困る」

 「だからキスだけだ」と付け加えた人が、名残惜しそうにもう一度触れるようなキスをした。

「平気そうだな、ランバート」
「サバイバルのこと?」
「あぁ、逞しいものだ。それも習ったのか?」
「物心ついたときから剣を教わっている師が、色々と。夏合宿と冬合宿は死ぬかと思ったよ」

 七歳を超えて毎年行われた合宿は、それは酷かった。食事は自分で獲らなければならなかったし、安全な場所の確保も自分。怪我の応急処置、毒のある生物への対応も学んだ。死ぬ気でやれと言われ、本当に死にかけた事が何度かあったくらいだ。

「スパルタだな」
「まぁ、いい経験だったかな。だから俺は大丈夫。それよりも、シウス様がきになる」

 寂しく、どこか切迫した様子で頼み事をしたシウスを思いだして、ランバートは気になってしまう。「ラウルと自分を守ってくれ」なんて、普段なら言わないだろう。

「何かあったか?」
「交渉が終わるまで守ってもらいたい。ラウルの事も守ってもらいたい。そう言われた」
「そうか」
「ファウスト、俺はそっちにつきたい。シウス様が気になるし、ラウルも気になる」

 ファウストはだいぶ迷うような感じではあった。だがやがて大きく息を吐き出すと、真っ直ぐにランバートを見つめて頷いた。大好きな団長の目に、甘く胸が痺れる。凜々しく信頼出来る姿に、改めてこの人に憧れを感じる。

「では、そろそろ戻るか。空気が冷たくなってきたしな」

 そう言ってファウストが来た道を戻ろうとするのを、ランバートは止めた。そして、赤くなりながらも小さく伝えた。

「この遠征が成功して、無事に帰ったら直ぐ先は年末だろ? どこか、その……行くか?」

 思ってはいても声に出なかった事だ。それに、先の事なんて予定が立たない。ただ年末くらいはと思ってしまう。去年はこの人に迷惑を掛けてしまったし、今は立ち位置が違う。全く違う年末の過ごし方をしたいと、少しだけ思っていた。
 黒い瞳が僅かに見開かれ、白い肌が見る間に上気したように思う。寒さに赤くなったのではない赤みが差して、途端に団長から恋人の顔になるファウストを見ると、ランバートにも笑みが浮かんだ。

「決まり、かな?」
「楽しみにしておく」

 鋭さではない柔らかな笑みに頷いて、ランバートも改めて気合いが入る。先の約束をしておくのはいいかもしれない。危険であったり、不安であっても先の事を思って頑張れる。柔らかな笑みを浮かべたランバートも、今は恋人の顔をしていたのだと思う。

◆◇◆

 その夜、深夜に近い時間になって突如空気が揺れた。割と近い場所で、遠吠えが聞こえたのだ。野犬ではないその声に、ランバートは飛び起きて剣を握りテントから出る。すると既に数人が同じように身構えていた。

「騒ぐでない。皆、下がれ」

 シウスがゆっくりと前に出る。その半歩後ろにラウルがいる。ファウストも剣に手をかけたまま見届けている。その隣に、ランバートはついた。
 森の闇の中を音もなく近づいてくる気配。それはぐるりと囲うように数を増やしている。やがて月明かりの前に大きく逞しいグレーの狼と、それを伴う二人の青年が姿を現した。

 シウスとよく似ていた。一人はシウスと同じく長い白髪を背の中程まで伸ばしている。だが、見える体つきは似ていない。逞しく鍛えられた体はシウスよりも一回り大きく見える。瞳は混じりけのない薄い黄色をしていて、まるで獣のようだ。
 もう一人は幾分穏やかに見える。肩に掛かる白髪を木の蔦を輪に編んだもので止めている。混じりけのない薄い黄緑色の瞳が、よりこの青年の雰囲気を穏やかなものに見せているのだろう。

 二人は一定の距離を保ったまま、シウスと向き合った。

「セヴェルス」

 前に出た長髪の青年がシウスを見つめてそう問いかける。耳慣れない言葉が名を示している事は知っている。エルの一族の名は帝国のものと僅かに違う。おそらくこれが、シウスのエル族としての名なのだろう。

「フェレス、リスクス。生きていてくれたのじゃな」
「当たり前だ。お前こそ、生きていてくれたんだな」

 長髪の青年は僅かに頬を赤らめている。肌が白いから、そうした僅かな感情が色となって分かるのだろう。喜んでいる、そう見えた。

「セヴェルス、森に帰ってきてくれたんだろ? 狼たちが教えてくれたんだ、ここにいるって」

 期待を込めたその言葉に、シウスは表情を硬くしたようだった。だからだろう、後ろで成り行きを見守っていた穏やかそうな青年が悲しげな顔をしたのは。
…………私は行かぬ」
「え?」

 僅かに顔を俯け、絞り出すような声で伝えたシウスの言葉を、長髪の青年は受け止められなかったようだ。薄い黄色の瞳が、見開いたまま固まった。

「私は行かぬ。私は、主らと話をするためにここに参った。フェレス、私の話を聞け」
「……そいつらが、お前を縛っているのか?」

 睨めつけるような表情に、獣を思わせる白い歯がギリリと噛みしめられる。悔しいのだとはっきり分かる表情は、憎悪すらも見えていた。
 途端、いきり立つように狼たちがうなり声を上げる。フェレスの感情に同調するようなその様子に、一気に緊張感が増した。

「フェレス、ダメだよ」
「煩いリスクス! セヴェルス、お前はここに戻ってきたんだろ! 俺達と!」
「私は帝国騎士団宰相府団長、シウス・イーヴィルズアイぞ!」

 叫ぶようなシウスの声は、自らの立場と生きる場所を明確に宣言するようだった。その気迫に、フェレスはたじろいだようだった。

「帝国の宰相として、お前と話しに来た。お前達の窮状を知った。フェレス、話し合いじゃ。宰相である私と、一族を率いるお前と」
「セヴェルス!」
「いつまでも子供のようには振る舞えぬ。感情で物事を語るでない。お前は一族を率いる立場にあるのだぞ。お前の判断がそのまま一族の判断ぞ。自覚せよ」

 厳しいその言葉はまさに騎士団の宰相だ。だが同時に、この人らしくない。この人は交渉のプロだ。感情的にはならず、譲りもしないが妥協点も見つける。更には人の心に入り込む事で相手に譲歩だってさせる。
 今だって、交渉の席に着きたいならこんな上から諭す方法などとらないはずだ。相手に寄り添うような語らいと、昔の懐かしい思いでを利用して警戒を解き、まずは話をしようと持ちかけただろう。
 それをさせなかったのは、感情が前に出たから。自分はここで生きるのだと、誰よりも踏ん張って意識をしたいとこの人が望んだからだ。

「……もう、いい」

 拳を握ったフェレスが、泣きそうな顔で睨み付ける。そして、パッと手を上げた。

「団長!」

 狼が輪を縮めるように前に出てくる。剣を構えながら、皆は焦った顔をした。数にして二十ほどの狼の群れは不自然に多い。そして明らかにフェレスが指示を出している。これといった言葉を発するわけでもなく、まるで意志が同じであるようだ。

「傷つけてはならぬ」
「そんな事を言っている場合か!」

 ファウストすらも既に戦う事を決めている様子だ。当然だろう、やらなければ食われるのだから。

「フェレス、お前の子飼いを引っ込めよ」
「払う事など出来ないんだろ、セヴェルス。森を捨てたお前に協力する奴なんて」
「バカにするな!」

 指を輪にし、シウスはそれを夜闇に鳴らした。澄んだ音は森の中に浸透するように響き渡っていく。その直後だ、風が唸るような音がしたのは。

「! 下がれ!」

 危機を感じたファウストが叫び、全員が今の立ち位置よりも一歩後ろに飛び退いた。その瞬間だった。唸るような突風が形を不自然に変えて狼たちと騎士団の間に吹き荒れた。そのあまりの強さに狼たちは怯み、尻尾を巻いて森へと引き返してしまう。残ったのはフェレス達二人と、彼の側にいた一番大きなグレーの狼だけだった。

「……変わらないのに、どうしてだ?」

 より泣きそうな顔をしたフェレスが、頼りない子供のような表情をシウスに向ける。悠然とそれを見たシウスは、逆に仮面でも貼り付けた様に動かなかった。

「精霊の王がその力を失わずにいるのに、どうして森に帰ってこないんだ。俺達を捨てるのか」
「捨てぬ。お前達を捨てるつもりならばこのような遠征はせなんだ。危険を冒して森になど、雪の季節に入らぬ。捨てられぬから迎えにきたのだ。話をしにきたのだ」

 静かな声だ。だが、相手を打ちのめすのには十分だっただろう。手を握り、踵を返したフェレスが狼を伴って森へと消えていく。その様子を、困った顔でリスクスが見ていた。

「セヴェルス」
「リスクス、私は」
「いいんだよ、決めたことなら。セヴェルスは昔から賢い、真っ直ぐな子だったから。そんな君が決めた事なら」

 穏やかに微笑んだ人は、一度ファウスト達を見回して、丁寧に頭を下げた。

「明日、改めて私が伺います。話をさせて貰いたい。どうか、受けてもらいたいのです」
「狼は連れてこないでくれ」

 ファウストが言えば、リスクスは目を丸くして、次には可笑しそうに笑った。

「私は獣の王ではありません。獣の声は私には聞こえないので、狼は連れてきませんよ」

 そう言った人は先に消えたフェレスを追って、森の中へと消えていった。
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