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最終章:最強騎士に愛されて

最終話:十年後の君へ(未来へ)

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 帝国は華やかで綺麗で凄い所だとアルブレヒトは言っていた。けれどそれはルートヴィヒが思い描くものよりもずっと凄かった。
 昨日とは違い、今日はパレード用の馬車で移動している。天井部分のないオープンな馬車には三国の色の布が飾られ、花も飾り立てられている。城から慰霊祭の行われる大聖堂までは大きな石畳の道で、その沿道は多くの店がある。その店の軒にも今日の為の飾り付けがされている。
 白い綺麗な制服を着た近衛府の人達が直ぐ側に背を正して付き従うが、それとは違う黒い制服を着た騎兵府の人達が沿道を警備している。その姿もまた凜々しくて憧れるものだ。

 ほんの少し覚えている。水が迫る地下牢からダンクラートが助けてくれた。その後あれこれしてくれたのは、この黒い制服を着た帝国の騎士だった。
 実父という人はあまり印象にない。いつも苛々していて、不満そうで、なんだか可哀想だった。ルートヴィヒは毎日母や姉と一緒にいて、笑っていられれば幸せで満ち足りたから。
 だからこそ、母を失ったのは哀しかった。でも泣けなかった。実父が悪い人だというのは分かってしまったから。
 これからどうなるのだろう。不安すぎて泣けなくて、でも幼い弟達だけは助けて欲しいと言わなければ。そんな思いもあって、気持ち悪くなって苦しくて吐いてしまった。
 でもアルブレヒトはとても優しい顔で微笑んで、手を広げてくれた。あの時、大丈夫なんだという絶対的な安心感があった。そうしたら泣きたくなったんだ。温かい腕の中で沢山泣いた。
 義父アルブレヒトはあの時から変わらず、ルートヴィヒ達兄弟を大きく温かく見守ってくれている。その背を見ながら、ルートヴィヒもその期待に応えたいと思っている。

 パレードを終えて、そのまま慰霊の式典が大聖堂で行われた。教皇ランスロットが戦争で亡くなった多くの人の安らかな眠りを祈り、参列した全ての人が直立したままその言葉を聞きながら黙礼した。
 ここに参列しているのは、皆あの戦争で活躍した人達だ。帝国の団長は全員、当時の師団長も全員。特別任務を受けて動いたランバートを含む別働隊の面々に、ジェームダルのキフラス達。一般からはリッツもそこに並んでいる。
 その中に、ダークブロンドの人物が一人。目立たない場所で、誰よりも深く頭を下げている人をルートヴィヒは少しだけ覚えている。
 いつも、実父が怒鳴りつけ蹴りつけていた人。母達が話していた、実父が無理矢理手込めにした女の人のお兄さん。
 何かを言わなければいけない衝動がどこかである。実父がとんでもない事をしたのは幼くても分かった。それくらい、母達は沈痛な様子で話していた。しかも酷い怪我をさせて、そのせいで人生が狂ってしまった。穏やかな時間が過ぎて、周囲を少し気遣えるようになると余計にだった。
 アルブレヒトに相談した事があった。でも、やんわりと止められた。もう過去で、きっと今は未来に向かって進み始めているから不要なのだと。それに、父親がしたことでも幼いルートヴィヒがそれを負う必要はないのだと。

 今回、少しだけ会うのが怖かった。でも会った瞬間、義父の言った事は正しかったのだと分かった。泣いて、でも幸せそうなのがわかった。もう過去はいいんだ。謝罪をこの人は求めていないのだ。
 分かったら、少しほっとしたんだ。


 式典が終わり、アルブレヒト達はこのまま街に出るみたいだ。ルートヴィヒにはハクインとリオガンが着いてくれることになり、近衛府の人も着いてくれる事になった。
 でも、やっぱり緊張してしまっていた。急にトイレに行きたくなってしまって、他の人には先に行ってもらった。少し情けない。

「ごめんなさい、遅れてしまって」
「ルートヴィヒ様が謝る事じゃないよ。他国だし、周りは大人ばかりだしさ。緊張くらいするって」

 大聖堂の中、着替えを終えて出てくるとハクインもリオガンも近衛府の方も笑って迎えてくれた。でも少しだけ悔しいのだ。
 クシュナートの王太子リシャールはもっと落ち着いている。堂々としている。なのにとても優しい人だ。近い憧れがある。
 でも、あんな風にはいかない。手が届きそうで全然届かない。二つしか年齢は離れていないはずなのに。

 少し項垂れそうになるけれど、前を向きなさいと言われている。胸は張れないけれどちゃんと歩いている。その目の端に、一人の少女が映ってルートヴィヒは足を止めた。

 緩く波を打つ金色の髪に、整った綺麗な横顔。はっきりと大きな緑い目をした少女は大聖堂の中庭で花を一輪摘んでいた。
 とても綺麗だ。とても可憐だ。そう思ったら引きつけられるように近づいていて、直ぐ近くに立っていた。
 少女が気づいて振り向く。正面から見ると更に綺麗な女の子だった。年齢的に少し下なのかもしれない。色白で、目が大きくて睫毛が長い。鼻筋も通っているし、ふっくらと柔らかな唇が愛らしく見える。

 彼女はサッと背後のハクインやリオガン達にも目を向け、手に手折った花を持ったまま濃いブルーのドレスを丁寧に摘まみ上げて礼をした。

「お目汚し、失礼いたしました王子様」
「え? あの、そんな。顔を上げてください」
「ですが、私は一介の貴族の娘。とても貴方のような高貴な方のお顔を直接見られる立場にございませんわ」
「そんな! あの、私が見たいので顔を上げてくださいというのは……ダメでしょうか?」

 おずおずと問いかけると、彼女が少し驚いたように目線を上げる。綺麗な緑眼が此方を見て、困ったように微笑んだ。

「貴方様が見たいと仰るのでしたら、上げないほうが失礼になりますわね」

 すっと背を正した少女を正面にして、ルートヴィヒはドキリとした。
 今も美少女だが、きっと大人になったらもっと綺麗になる。それが容易に分かる目鼻立ち。それに、凜とした佇まいと愛らしいのにしっかりとした声音と言葉。こんな綺麗な子、初めてだった。

「初めまして、王子様。私は帝国政務長官ヴィンセント・オールコックの娘で、アシュリーと申します」
「あっ、ジェームダル王国のルートヴィヒと申します」
「まぁ、ジェームダルの王太子殿下でしたか!」

 緑色の目を丸くしたアシュリーがもう一度頭を下げる。それにルートヴィヒもつられて頭を下げた。

「あの、アシュリーさんは何をなさっているのですか?」
「アシュリーと呼び捨てて下さいませ。父と共に式典に参加いたしまして、教皇様のお言葉を聞いて花を手向けたく思い、神官様にお願いをしてお花を分けてもらいました。これから大聖堂へと手向ける予定です」

 自分よりも多分年は下だ。なのにとてもしっかりしている。

 もう少し、話をしてみたい。彼女と話しているとずっとドキドキする。緊張するのに、嫌じゃない。それが不思議だった。

「殿下はこれから街の散策ですか?」
「え? あっ、はい」
「楽しんで下さいませ。西のラセーニョ通りには、美味しいスイーツのお店も多いのですよ。お土産物も売っております。おすすめですわ」

 そう言って一礼して立ち去ってしまいそうなアシュリーを繋ぎ止めたい。思い、ルートヴィヒは咄嗟に手を伸ばして彼女の手を緩く掴んでいた。

「あっ」
「え?」

 驚いた彼女が振り返り、恥ずかしくなってルートヴィヒは手を離す。顔がとても熱い。でも、この大胆な行為を悔いてはいない。

「あの! 良ければ、その……街を案内していただけませんか!」

 全身から勇気を集めてきた。そうして出た声に驚いたのはアシュリーばかりではない。ルートヴィヒもまた驚いていた。

「あの……もう少し、お話がしたいと思って、ですね」
「……光栄です、殿下」

 ふわりと、彼女が笑う。花の蕾がほんの僅か綻ぶように優しく愛らしく。
 人生で初めての感情だったけれど、分かった。これが一目惚れなんだと。

「しばしお待ちください、大聖堂で父が待っております。許しを得てきますので」
「あの、それなら一緒に! 無理を言ったのは私の方なので、ご挨拶を」
「まぁ、ご親切に有り難うございます。では、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

 ほんのりと頬を染めたアシュリーに手を差し伸べ、ルートヴィヒも自然と笑う。そうして連れだって、大聖堂へと向かっていくのだった。

◆◇◆

 帝国は相変わらず賑やかで活気がある。同盟締結十周年でお祭り状態というのもあるが、それにしても人が多く感じる。ジェームダルも平和になり活気が増したが、帝国の比ではないだろう。
 現在、キフラスは街に出たアルブレヒトの護衛についている。自分よりも強いだろう人の護衛につく意味を問いたいが、形というものもある。アルブレヒトの隣にはレーティスもいて、買い物を共に楽しんでいる様子だ。

「今日はこれからベリアンスの旦那と会う約束ですから、お祝いにワインでも買いましょうか」
「いいですね! それにしてもベリアンス様の伴侶というのはどのような方なのか。少し緊張いたします」
「大丈夫ですよ、レーティス。アレをあんなに可愛らしくする人です。とても大人ですよ」

 ……仲のいい友人同士の買い物に付き合わされる近所の兄か何かか?
 思わずそう思ってしまうキフラスだった。

 それにしても、未だに多少引っかかりがある。ベリアンスが戻らないということにだ。
 あの方の幸せを願っているのは変わらない。あの方が決めた事なのだから、従う意志もある。だが、キフラスの本音を言えば戻ってきてほしかった。
 別に仕事をお願いしたいというわけではない。ただ……そう、幼き頃の賑わいを取り戻したかったのだろう。あの人は賑やかとは違うが、必ずいてくれた。
 何より、何かをしたかったのだ。あの人はあの戦争で全てを失った。唯一の肉親だった妹のセシリアを酷い陵辱の後に失い、騎士としての剣も一時的に握れなくなり、騎士であった父のようになりたいという誇りや憧れまで踏みにじられてしまった。
 最後まで屈辱と慟哭に身を焼かれながらも戦った人。そんな人を置いて帝国騎士団の寛大さに縋って救われてしまったことを、キフラスはずっと申し訳なく思っていた。

 兄のダンクラートに言わせると「んなもん、お前の責任じゃねぇよ」ということだ。そうなのかもしれない。だが……償いをしたいのかもしれない。

「キフラス?」
「!」

 思慮に沈んでいた思考を引き戻す声に驚き、目の前を見る。不思議そうな顔をするレーティスが直ぐ目の前にいた。

「どうしたんですか?」
「あぁ、いや」
「?」

 分からないという顔。それを見ると少し安心する。
 レーティスも酷い傷を心に負った。元々争いの嫌いな奴を戦争なんてものに巻き込み、心は荒れ、傷つき、セシリアを失った時にはもう戻らないだろうと思ってしまった。
 それが今、こんなにも穏やかで表情が多い。全てはオーギュストのお陰だ。彼が側で献身的に、そして愛情こめて居てくれた。
 年に数回会うが、その度に安心した。守ってやれなかった人の幸せそうな笑顔を見ると、自分も少し許せたのだ。

「キフラス」

 呼ばれて目を向けると、穏やかに微笑むアルブレヒトがいる。全てを見透かす薄い紫色の瞳が困った笑みを浮かべているように思う。

 人生の恩人。そんな人を五年もの間、暗い地下に置いてしまった。探していたけれど見つけられなかった。その間に起こった事を、この人は今も話さない。ただ時々少し困った、影のある顔をする。そういう時、必ず中庭の墓碑へと赴いている。
 宰相ナルサッハ。その人が善良であった頃をキフラス達は知らない。知っているのはいつも皮肉っぽく、冷たく笑う顔半分。そのくせ憎しみに焼かれたような目をする。
 でもアルブレヒトの中では違うのだ。とても優しく、切なく、痛々しくも愛おしそうな顔で墓碑の隣に座り、何かを話している。そうすることで自らの痛みも癒やしているように。

「キフラスは、どのワインがいいと思いますか?」
「え?」
「ベリアンスのお祝いに。好き嫌いはないらしいのですが」
「私は若いワインがいいと思います。食事を選びませんし」
「私は少し熟成された年代物もいいように思うのですよ。ここは良いワインも揃っておりますし」

 なるほど、意見が割れたわけか。
 あの人は食べる物や酒に拘りを持つ人ではなかった。どちらかと言えばその場の雰囲気を楽しむ人だった。賑やかにしているのが好きで、ハクインやリオガン、チェルルやダンクラートが酔って笑ったり、歌ったりしているのを静かに見ている人だった。

「おそらく、拘りはないだろうと思います。あの方は酒に拘りのない方ですから」
「ですよね。でもそうなると」
「……帝国では祝いの時に、紅白を揃えて贈るそうです。どちらもめでたい祝いの色なのだそうです」

 以前ランバートがそんな事を言っていた。結婚の時は祝われる側は無垢の証明である白。出席の者は白を着てはいけない。葬儀の時は白と黒。賑やかな色は失礼にあたる。帝国というのは文化的にも成熟しているからか、祝い事と色というのがリンクしている。
 ジェームダルはあまりその辺を考えていない。色に拘れるほど物を持っていないとも言えるが。

 伝えると、二人は顔を見合わせて直ぐに選び直した。赤はアルブレヒトが推した美味しいと言われる年の物を。レーティスが選んだのはスッキリとした飲み口の白ワインだ。

「……結局二つ買われるのでしたら、赤二本でもよかったのでは?」
「「あ……」」

 二人が同時に呟くのを聞いて、キフラスは妙に平和になったのだと感じて笑った。

 お茶の時間、三人が向かったのはラセーニョ通りにある一つのカフェだった。ちなみに近衛府の護衛は不要と断った。アルブレヒトを始め、全員が帯剣することを条件とした。騎士団上層はそれこそ全員がキフラス達の実力を知っている。街も熟知している。そういうことで夕刻には帰るからとお願いをした。

 そうして向かったカフェは老舗のようで重厚な感じがする。年月を思わせる壁や床の木材、紅茶の香り。カウンターでアルブレヒトが名を告げると、ボーイが直ぐに二階へと通してくれた。
 二階は個室になっていて、希望すれば執事がついて給仕をしてくれる。だがここにはそんな者はない。窓際の席で機嫌よさげに黒い髪を揺らしたチェルルとその飼い主が待っていた。

「あっ! アルブレヒト様! レーティス! キフラス!」
「チェルル!」

 前よりもずっと表情を明るくしたチェルルがレーティスめがけて飛び込むように駆けてくる。レーティスもそれを受け止め、とても嬉しそうに笑った。

「元気そうですね」
「レーティスも元気そうで良かった。旦那は元気?」
「旦那だなんて。でも、元気ですよ」

 この二人は案外よくじゃれる。人懐っこいチェルルは大らかなレーティスを好んだ。彼もまた猫のように、騒がしい人間よりは心地よく寄り添う相手がいいらしい。
 それにしては選んだ飼い主を疑うが。

 だが、楽しげなチェルルを穏やかに見ているハムレットを見ると少し思う。この人も変わったのだろうと。

「ハムレットさん、お久しぶりです。少し変わられましたね」
「嫌な所を見抜く辺りは相変わらずか。お久しぶりです、アルブレヒト陛下。見ての通り、チェルルは元気で健康的ですよ」
「おや、その点を疑った事はありませんよ。幸せそうで嬉しい限りです」

 ……たまに思うのだがアルブレヒトとハムレットは相性が悪いのだろうか?

 いや、ハムレットはなんとなく分かる。少しの間お世話になっていたからだが、自分の所有物に固執するタイプらしい。地下にあるという研究室には結局入った事がない。チェルルは間違いなくそこにカテゴライズされている。
 だが、アルブレヒトはそんな事はないはずだ。少なくともチェルルを自分のものだとか、部下だとかは今は思っていない。にもかかわらずこれなのだ。
 チラリと見ると、アルブレヒトはとても楽しそうだ。そう、楽しそうなのだ。

 ……単に、ハムレットを弄って楽しんでいる。悪い癖だ。

「まぁ、それはもういいのですよ。色々とあったと聞きました。お体の方は?」
「流石にもう何でもないよ。気をつけてはいるけれどね。傷を負うとやっぱり完全に元通りとはいかない。少しでも長くチェルルと居るためなら、僕は何だってするよ」
「良い心がけですね。大丈夫、ハムレットさんはきっと長生きなさいますよ」
「そうかな? 小さな頃に散々死に損なってるんだけど」
「死神も諦めたのでしょうね。もうしばらく顔も見たくないのでは?」
「そうであると助かるや」

 不穏なのか、通常通りなのか。何にしても招かれて、ボーイが呼ばれてオーダーを適当にする。チェルルが紅茶を入れてくれて、ハムレットの隣に座った。

「それにしても久しぶりだよね。でも、想像してたよりも皆老けてなくてびっくりなんだけど」
「特にアルブレヒトさん、変わらなすぎてちょっと引くんだけど。神の子って年取らないの?」
「まさか。私もこれで四〇を過ぎていますから、少しばかり老後が心配ですよ。下の子などまだ十歳少々ですから気を引き締めなければ。せめて孫の一人も見たいではありませんか」
「四〇!! うわ、化物……」

 ハムレットが本気でドン引きしている。だがその気持ちは分かる気がする。こうしてほぼ毎日顔を合わせるキフラスですら、この人の実年齢を忘れている事があるのだ。

「十年以上が経過しているのです。色々と変わっていて当然でしょ?」
「……だね」

 ハムレットもそれには納得できるのか、頷いた。

「変化と言えばチェルル」
「ん?」
「これを期にたまに遊びにきませんか? 街も復興して、安全になりました。それに教会を建て直したんです。そこに神父様の名前をつけました。貴方に一度、見てもらいたいのです」

 遠慮がちにレーティスが言う。これはチェルルへというよりは、ハムレットへの考慮だ。
 確かに街は復興した。教会も綺麗になったし、親父の店も綺麗になって今は懇意にしていた奴が引き継いでいる。
 だがもう、あそこに親父はいない。神父も、レーティスの親父さんもいない。小さな子が安心して外を駆け回れるくらい安全な街を作ろうという皆の思いは、レーティスが成し遂げてくれた。もう、手を離れた。

 チェルルは少し困った顔でハムレットを見ている。見てみたいような、そうではないような。そんなチェルルを見たハムレットの決断は、意外なくらい早かった。

「いいんじゃない、一度行こうか」
「え? 行こうかって……先生も一緒にってこと?」
「他にある? それとも不満? 気になるんでしょ? それなら一度ちゃんとしておいたほうがいいよ。何より僕も、君の言う神父様に挨拶済んでないしね」
「! うん、行きたい!」

 黒い大きな目がパッと明るさを取り戻して輝き、嬉しそうにしている。その頭を優しい笑みでワシワシと撫でるハムレットも、知らない顔をしている。
 十年。自分にも沢山の変化が起こったが、それは皆同じなのだ。遠く離れた人達の間にもまた。

「随分と優しい顔をなさいますね、ハムレットさん」
「ダメ? 誤魔化して目隠ししていい問題ならそうするよ。僕も猫くんを手元に置いておきたいし、里心なんてつかれたら嫌だから。でもさ、僕は猫くんの自由な心も好きなの。僕のエゴでダメだなんて言ったら、そっちが萎んでいくでしょ」
「寛大な執着ですね。でも、貴方らしい。好きだからこそ相手を思いやれる優しさを身につけたというわけですか」
「そんな大層な事まではまだ出来て無い。僕はどうしたって神のようにはなれないよ。手放しで行っておいで、信じてるなんて言えないんだから」
「それでも随分と大らかになりましたよ」

 キフラスもそう思う。大切なものには手を触れさせない、踏み込ませない。そういう気性の強かったハムレットを思い出すと、今は随分と寛大になった。

「今年の夏辺り、どうでしょうか? 温かい方が道行きも穏やかでしょうし」
「水門を通ると楽なんだっけ。水辺なら涼しいしいいかもね」
「先生と一緒にジェームダル観光なんて、夢みたいだよ」
「そういえば、長期旅行なんて行ったことがなかったしね。じゃあ、それで予定組もうか」
「うん!」

 嬉しそうに笑うチェルルを見る。そしてここもまた、手を離れたのだと感じるのだった。

◆◇◆

 数日前までは口から出てはいけないものが出そうな程に緊張していた。式典の前夜祭の夜、ベリアンスはアルフォンスを皆に紹介する事になった。
 騎士団やカールにこの事を伝えると皆が喜んで協力してくれた。カールは城の応接室と予備のキッチンを提供してくれたり、ジェイクとスコルピオは食事当番を空けてくれた。

「ベリアンス、器を出してくれるか?」
「あぁ」

 七人分の鮮やかな前菜は透明な器に入れた目にも鮮やかなフレンチ。ムースを敷き、その上にコンソメをジュレにして重ね、また薄くムースを乗せた上にソースを掛けたもの。
 小さなカクテルグラスには琥珀色のジュレ。これはオマール海老と野菜だしで作ったものだ。その上に野菜やイクラを乗せてまるで花畑。
 ホタテも表面を軽く炙り、その周囲を薄くスライスしたズッキーニで巻き、上には少量のウニを乗せる。
 テリーヌは野菜を中心にトマトなども入れて鮮やかだ。
 これを透明な皿に一つずつ盛り付けて、ソースを綺麗にかけていく。アルフォンスは普段大皿料理を作る事が多いが、こんなにも繊細な料理も作れるのだ。

 スープは野菜とベーコンのスープ。今回はホストであるアルフォンスも席に着くのでサーブなどができないので、気軽にとこれをスープマグに注いだ。簡易式だ。
 パンも中央にバケットを置いてそこに丸パンを入れている。

 メインは鴨肉のロースト。既に肉を休ませている状態だ。
 デザートはベリアンスの我が儘をきいてもらい、フレンチトーストにした。これは流石に直前に焼くと言われている。

 ワインはメインに合わせて赤を選んだ。

 ふと、顔を覗き込まれて首を傾げた。何かあっただろうかと思うが、アルフォンスはとてもホッとした顔をして笑った。

「顔色が戻ったと思ってな」
「え?」
「数日、酷い顔色だった。筋は通したいと我が儘を言った事を多少後悔してしまったよ」
「あ! いや、その……なんと切り出していいか分からず緊張してしまって。だが、昨日話が出来て皆受け入れてくれて。おかげで今は落ち着いている」

 ランバートが言った通りだった。会えば解決する、そんな事もあるのだ。ジェームダル、祖国を離れ帝国に骨を埋める覚悟をしたこと。アルフォンスからのプロポーズを受け入れたこと。そして今日、会って欲しいということ。
 皆が受け入れてくれた。特にアルブレヒトとレーティスは喜んでくれた。
 ベリアンスも皆にアルフォンスを紹介したい。そんな気持ちが今は強いように思う。

 自然と笑みが浮かんだ。今は緊張ではなく、楽しみだ。この人が自分の大切な人なんだと、どこか見せびらかしたい気持ちがあるのかもしれない。不思議だ、こんな浮き立つような気持ちが自分の中にあるなんて。

「ベリアンス?」
「アルフォンス、俺は今とても楽しみだ。浮かれているのだと思う。大切な仲間にお前を紹介できる事が嬉しいんだ。妙な顔をしていないだろうか?」

 頬が緩んでいるような気がする。こんな締まりのない顔を昔は恥ずかしいと思った。だが今は……悪い事だなんて思えない。この気持ちを「弛んでる」なんて言葉で括りたくない。これが、幸せなんだと受け入れられる。

 アルフォンスを見ると、彼はほんのりと赤くなり困った顔をしている。首を傾げるとギュッと抱き寄せられ、額にキスをされた。

「?」
「可愛い顔をされると、少し困るんだ。大事な挨拶の前に盛るなんて、流石にな」
「……では、キスまでならいいのか?」

 して欲しいと素直に思ってしまい、そのまま口に出てしまった。いや、彼の言っている事は理解できている。大事な時の前に浮ついた気持ちになる事を彼は戒めているのだ。なのにこんな事を願ってしまうのははしたないのだろうが……して欲しくなってしまった。
 案の定、アルフォンスは少し困った。でも、嫌だとは思っていないだろう。だから安心して、ベリアンスの方から触れるだけのキスをした。欲情ではなく愛情で触れる唇は、硬くなる心を柔らかく解してくれる。緊張しがちなベリアンスにとっては、魔法のような瞬間だ。

「さぁ、あと三十分程で皆が来てしまう。急いで準備をしてしまおう」
「……たまに君の可愛さが憎らしくなるな」
「?」
「いや、なんでもない。さて、仕上げをしてしまおう」

 いつも以上に顔を赤らめ、困ったように笑う。そんなアルフォンスに首を傾げながらも、ベリアンスは意欲的に動き始めるのだった。


 予定よりほんの少し早く、アルブレヒト達が応接室へと来てくれた。出迎えたベリアンスは胸を張っていられる。その隣に準備を整えたアルフォンスも並んだ。

「うわ……これで料理人っていうのが勿体ない体」
「ハクイン」
「だって、大きいし腕も太いし」
「ハクインの欲しいものを持った、理想の方ということです。深い意味はないのですアルフォンス様」

 思わずという様子で口に出たハクインの隣で、リオガンが少し焦りレーティスが笑ってフォローを入れる。それに、アルフォンスも穏やかに微笑んで頷いた。

「よく言われますのでお気になさらず。食材の運び込みや、休みなく大鍋を掻き混ぜたり、大きなフライパンを振り続けるにはこのくらいの筋力がなければならないのだよ」
「うひぃぃ! 料理人ってそんなに大変なんですか!」

 ハクインは驚いたようだが、ベリアンスはその様子を見ているから驚かない。並の騎士でも持ち上げられない食材の詰まった木箱をこの人は持ち上げる。その時の筋肉の張りといったら、なかなかに惚れるものがある。

「さぁ、まずは席にお着き下さい。コースとはゆきませんが、ささやかな夕食を用意しました」
「有り難うございます、アルフォンス。せっかくだから皆いただこう」

 にっこりと微笑んだアルブレヒトがアルフォンスに袋を渡す。中は紅白のワインだ。有り難く受け取り、「後で二人でね」と念押しされてしまった。お言葉に甘える事にした。

 それぞれが席につき、アルフォンスが改めてアルブレヒトへと向き直り頭を下げた。

「本日はこのような席にお越しくださり、感謝いたします陛下」
「感謝は此方の台詞です、アルフォンス。ベリアンスがここまで持ち直したのは貴方のお陰です。とても案じておりました。今こうして彼のふやけた笑みが見られる事が、ここにいる皆の心からの喜びですよ」
「ふやけてなど! ……いるだろうか?」

 否定しようとしたが自信がなく、思わずアルフォンスを見てしまう。それを見たアルフォンスが僅かに赤くなって「そんなことはない」と言い、アルブレヒトが可笑しそうに吹き出しそうになっている。これは何が正解なのだろう。

「あの、え? え?」
「もっ、もういいですベリアンス。お前、存外可愛い奴だったのですね」
「え! いえ、そのような事は決して。こんな愛想のない奴を可愛いなんて言うのはアルフォンスくらいなもので」
「あ……とりあえず、食事を始めよう。冷めても美味しいはずだが、早いほうがいいから」
「そうですね。ハクイン、涎が出そうですよ」
「!」
「では、ご相伴にあずかります」
「どうぞ、お召し上がりください」
「いっただっきまーす!」

 ベリアンスが食前酒を注ぎ、乾杯の後に前菜を食べ始める。どれも美味しくて幸せだ。いつものアルフォンスの料理も好きだが、こういうオシャレな料理もとても美味しい。

「これはこれは、よい者を逃してしまいましたね」
「?」
「ベリアンスが此方に帰る事を望めば、私はこれを毎日食べられたのかと思うと実に惜しい。とても美味しいです、アルフォンス」
「有り難うございます、陛下」
「本当に、とても美味しいです。ハクイン、何か一品レシピを教わっては?」
「え、教えてくれるの?」
「構わない。では、少ししたら鴨肉の仕上げをするんだが、共に来るかい?」
「いく! アルブレヒト様、俺覚えて作る!」
「ふふっ、それは楽しみですね」

 スープは前菜と一緒に出した。パンも小さめのバケットに数個を入れて置いてある。キフラスはスープが気に入ったのか、やんわりと微笑んでいる。リオガンはまるで観察するようにパンをちぎっては見ている。興味があるのだろうか。

「それでは、俺は一度失礼します」
「あっ、俺も行きます!」
「楽しみにしていますね」

 退室するアルフォンスにくっついて、ハクインも出て行く。彼は料理を始めたと言っていたから、きっと勉強になるだろう。

「よい相手ですね」
「え?」

 パンをちぎりながら、アルブレヒトが微笑む。目を丸くして見ていると、アルブレヒトはとても落ち着いた笑みを見せた。

「彼はとても大らかな、大樹のような者です。大きく手を広げ、疲れた者に分け隔てなく安らぎを与え、見返りを求めず、ただ元気に旅立つ背を見守る。そういう、大きな父性とどっしりとした優しさを兼ね備えている」

 アルブレヒトの言葉はそのまま受け入れられる。なぜなら分かるからだ。アルフォンスは食堂という場で様々な隊員の様子を見て、変化に気づく。辛そうなら側に行って声をかけたり、上官にそれとなく伝えたりして。
 これほど細やかな対応をしてくれるのに、自身は見返りなど求めない。ただ隊員が笑顔を見せ、美味しそうに食べているのを見るだけでいい。そういう人だ。

「お前の傷を癒やし、心も体も気遣い、向けられる笑顔を何よりの報酬として受け取る。それがあの者の幸せなのでしょうね」
「俺は殆ど返せていない。いや、一生をかけて尽くしても返せる気がしない。彼が側にいてくれなかったら俺は……今もずっと咎人の顔をしていた。言うことをきかない腕に苛立ち、犯した罪の大きさに押し潰され……自死すらも考えたかもしれません」
「お前の気性は少し真面目が過ぎるのです。実直であり、真面目であり、鋼のような意志を持つのに曲がった途端に砕けてしまう。柔軟性というものがまったくない」
「うっ」

 まったくもって言い訳ができない。自分でもそのような気性を自覚できてきた。
 それに気づかせてくれたのも、アルフォンスだ。

「だからよいのです」
「え?」
「アルフォンスという男はお前のそのような真面目過ぎる部分を柔らかく包み、否定せず、穏やかに諭していく。あの男といると、まるで子供のような気分がするでしょ?」
「……はい」
「圧倒的な包容力があるのです。その全てをお前に向けるから、そのようになるのでしょうね。相性がとてもいい。お前の頑固を溶かしてしまう相手など他にないでしょう。そしてお前もそれに幸せを感じている」
「はい」

 ダンクラートが同じ事を言ってもカチンとくるが、アルフォンスに言われると不思議と受け入れられる。己の未熟を感じて反省する事ができる。これに不思議を抱かず、当然として受け入れている。そういうことを言っているのだろう。

「ベリアンス、幸せになりなさいね」
「え?」
「難しい顔も、厳しい顔ももうしなくていいのです。何の罪を感じる事もしなくていい。後ろめたいなどと思わなくていい。十年、節目です。明日の式典をもってそのような感情を持つことを禁じます」

 そのように言われて、驚いたのとまだ後ろめたい想いとが混ざる。帝国の皆もとっくに許されたと言う。だが死んだ者はそうではないだろうと思ってしまうのだ。その者にとってはたった一つのかけがえのない命を、まるで踏みつけるように奪ってしまったのだから。
 だがアルブレヒトは厳しい目で首を横に振った。

「もう誰も、お前を恨んでなどいませんよ」
「ですが、それは奪った側の言いようで。奪われた者にとっては」
「では言い方を変えましょう。お前がそのようにウジウジと悩み、己の幸せを手放したからといって彼等への弔いにはなりません」

 ……この人は時々、もの凄い言葉の剣を突き立ててくる。ベリアンスは胸の痛い思いだ。

「全ての事に、許しはあります。地獄に落ちた者達にすら、十分に罪を償えば新たな命として再生の道が示されるのです。お前はこの十年、慎ましく正しく生きてきました。努力を惜しまず怪我を乗り越えてきました。もう、いいのですよ」

 そう、なのか。いや、アルフォンスも言ってくれる。同じ過ちを繰り返さない事に意味がある。自ら望んで幸せに背を向ける必要はないと。

 不意に、ポンと肩を叩かれて振り向くと、少し困った顔のアルフォンスが頷いている。ハクインの目には涙が薄らあった。

「そういうことで、アルフォンス。彼を全力で幸せにしていただけますか?」
「そのように言われずとも、そうするつもりです。俺の全てで彼を幸せな笑みの絶えない人生にしてみせます。ですから、どうか俺達の結婚をお認めいただきたい」
「勿論、認めるつもりで来ました。日取りが決まりましたら連絡をください。今度は彼の親友を向かわせますから」
「それだけは!」
「よいではありませんか。あちらなどそのうち五人の子持ちになるのですよ? お互い笑い合えばよいのです」
「五人……」

 いや、流石に少し盛りすぎでは? イシュクイナ姫は頑丈そうで健康そうだが、流石にどうなんだ。というか、あいつがそんな小さな子供の面倒を見られているのか? 昔から大雑把で、子供の扱いも雑だった気がするんだが。

 色んな事が頭の中を回って、一瞬フリーズしてしまう。だがそれは皿の置かれる音で解けた。

「俺は会ってみたい」
「え?」
「ジェームダルの者は寄宿舎には基本来ていないし、名は聞いても食堂には来ないからな。会ったことがないんだ」
「いや、会いたいのか? 言ってはなんだが、雑な男で声がデカくてがさつで暴力的でデリカシーのない男だぞ」
「随分とよく知っている間柄じゃないか。そんな相手なら、尚のことあっておきたい。きっと相手もベリアンスの事をよく分かっているだろう。君の幼い頃の事など、聞いてみたいものだ」
「え! いや、そんな話す程の事はない。アレに聞かなくても言ってくれれば話す!」
「では、今夜にでも聞いてみたい。だが、その親友からも聞いてみたい。俺は欲張りかな?」
「…………欲張りでは、ないです」
「よかった」

 満面に笑みで言われてはもう此方が折れる他にない。力が抜けるし、何故か拒絶も薄らいだ。
 このやり取りを見ていたアルブレヒト達が呆気にとられ、次には大笑いをする。驚いて顔を上げると、声を上げて笑うアルブレヒトが涙を拭って言った。

「これはまた、随分と可愛らしくなりましたねベリアンス」
「うぅ……」
「愛は偉大ですね」
「……はい」

 なんとも反論できない。だが、嫌だとは思わない。恥だが笑って流してしまえる柔軟性が備わってきたように思い、ベリアンスもまた笑うのだった。

◆◇◆

 ベリアンスとその伴侶であるアルフォンスは、思った以上によい相性だったと思う。いや、アルフォンスという男の前で寄りかからない者がないと言える。
 帝国の騎士団、その中枢にある者は誰もが魅力的な気を放つが、個性が強い。ファウストは圧倒的な武人としての畏怖、シウスも近寄りがたいだろう。クラウルなども近寄れば威圧感が強い。柔和に見えるオスカルもそれは入口だけで、持っている気は気にくわないものを容赦なく弾き飛ばす。唯一エリオットが間口を広くとってあるが、寄りかかるには細すぎる。
 そこにきてアルフォンスは本当に大樹だ。弱った者が彼を頼り安らぎを得るのが当たり前と言えるほどに。

 傷ついたベリアンスを、あの男は放っておけなかった。そしてアルフォンスの大きな安らぎを知ったベリアンスはそこで羽根を休める事ができた。祖国では鋭く緊張した顔ばかりが印象に残っているが、今日の彼にそのようなものは見られない。当然だ、安らぎがずっと側にあったのだから。

「おかえりなさい、父上」

 部屋に戻ると先に戻っていたルートヴィヒが笑顔で出迎えてくれる。その表情はこの国にきて一番晴れやかで、浮き足立っているように見えた。

「どうしたのですか? 何かいいことがありましたね」
「はい。それでお待ちしておりました」
「エルヴァは?」
「もうお休みです」

 今日はルートヴィヒ、エルヴァ、そしてクシュナートのリシャールとで夕食を取る約束だったはず。帝国の王太子はまだ幼いのでここには加わらないが、何かと人懐っこく一緒に遊ぶ事が多い。
 だがあれも将来的には侮れないだろう。しっかり父であるカーライルの気性を継いでいる。人懐っこい部分と対照的に、鋭く他を制する力も持っている。気性の穏やかなルートヴィヒが将来彼と対峙したとき、押されるのはルートヴィヒだろうな。

 それでも、少し変化が見える。とても細い糸が結ばれているのだ。
 ソファーに腰を下ろしたアルブレヒトの隣にルートヴィヒが腰を下ろす。そして今日の事を話してくれた。

「実は教会で、気になる女性と出会いました」
「気になる女性?」

 なんだろう、女性というなら年上だろうか。まさか女神官とかじゃないだろうな。この子にもよい相手はないだろうかと思うのだが、流石にそのような相手をお願いする事はできない。そもそもこの年の子が言う『女性』とは何歳だ?

「とても愛らしい姫です。金の髪がとても綺麗で、緑色の瞳はエメラルドのようで。私よりも年下なのにとてもしっかりとしていて、淑女なのです」
「年下でしたか」

 なるほど、城暮らしが長いからこその言葉選びだ。女の人はみな女性か。でもそこは『女の子』のほうが分かりやすかったかな。

「どこの姫なのですか?」
「政務長官ヴィンセント様のご息女で、アシュリーさんと仰います」
「あ…………なるほど」

 それはさぞ美人だろう。
 アルブレヒトは何度もヴィンセントと顔を合わせている。それというのも、三国同盟締結にあたり彼は精力的に動いていた。王都をあまり離れられないカーライルの名代として、シウスと共に会議に出たりしていた。あの時はまだ政務長官ではなかったが、顔は分かっている。
 あの男も無駄に顔がよい男だった。奥方もはっきりとした顔立ちの美人だとシウスが言っていた。その娘ならば間違いなく美少女だ。

 様子を見るに、ルートヴィヒは生れて初めての恋をしているように思える。一目惚れだろうか。随分と可愛らしい。
 この子は父親の罰を受けたのか、今まで縁が見られなかった。勿論家族の縁はあるし、臣下との縁はある。だが将来の良縁というものは見えないままだった。
 それが今、まるで絹糸一本分くらいだが見えている。一方的ではなく、あちらも好感を持っている感じだ。これを、大切にしたい。

「連絡先は聞いたのですか?」
「え! あの、はい。アシュリーさんが、お手紙を書きますと言ってくれたので」
「では、国に戻ったら手紙を出すといいですよ」
「……私的な手紙など書いたことがなくて。何より女性への手紙なんて」
「何でもありませんよ。嬉しかった事、楽しかった事。そういう近況を書けばいいのです。勿論、相手への問いかけも忘れずに。貴方はどうお過ごしですか? という一言があればよいのです。愛の言葉ではなく、まずは親しい者として」

 この関係はまだ恋にはならない。しつこくすれば相手に拒まれるだろう。だが恋になる可能性を十分に秘めている。
 やはりカーライルに提案してみよう。ルートヴィヒを帝国に留学させる。この国では学ぶ事が多いだろう。

 年齢のわりにまだ人として頼りない我が子の頭を撫でながら、アルブレヒトは決意を一つ胸にやんわりと微笑むのだった。

◆◇◆

 帝国の王城前広場は今、多くの人々で埋め尽くされている。カールより大切な言葉がある時にここは一般に開放される。結婚の発表も、王太子の誕生もここで発表された。
 そして今、同盟締結十周年の記念行事が行われている。これからここのテラスにカール、アルブレヒト、フェオドールが並び、平和への宣言を行うのだ。

 ここまで、決して平坦ではなかった道のり。テロリスト達との戦いや、過去の貴族主義との戦い、西の反乱、ジェームダル戦争。他にも色々な事があった。
 この十年はこれに比べて比較的平和だったとは言え、平和ぼけ出来るほどではない。西の王国とも緊張状態になったし、海賊がすぐ沖合まで迫った事もあった。
 それでも負けはしない。この手が剣を掴む事を諦めない限り、燃やす命がある限りは負けはしない。それが帝国騎士の生き様と誇りだ。

「始まるぞ」

 警備の仕事をしながらも、今日はファウストの隣にいる。静かに腕を組んでいたファウストがスッと背を正し、拳を胸に当てて会釈をする。丁度王達がバルコニーに出てきた所だった。
 ランバートも同じようにする。ひしめき合う人々は口々に祝いの言葉をかけている。

 まず前に出たのはクシュナートのフェオドールだった。思い起こすと不思議な縁だった。クシュナートではとても頼りなく傀儡にされていた人が、今はこんなにも立派だ。
 昨日ボリスと夜になって飲んだが、彼も変わらない。相変わらずいい性格だ。

「今日という記念すべき時を、こうして多くの者と迎える事ができたことを喜ばしく思う。諸事情によりクシュナート国王アルヌールはこの場に立つ事ができないが、代わりに祝辞を預かっている」

 堂々前を向き、通る声でそう告げたフェオドールが懐から手紙を取り出して広げる。そして、とても柔らかな声で人々へと語り出した。

「『今日という日は、三国にとって一つの節目の時となるだろう。この十年の、なんて穏やかな日々だったか。雪深い我がクシュナートは冬の訪れが早く、冬期の食糧事情を他国に頼る事も多い。この同盟に助けられ、多くの民が飢える事なく冬を越せるようになった。それも全てはよき隣人のお陰であろう。帝国、そしてジェームダルの民に、同じく民を持つ王としてまずは感謝を。そして、同じ隣人として誓いを。其方達が窮するとき、我がクシュナートは必ず助けとなる。この同盟がある限り、我が国はよき隣人であり続けるのだから』」

 手紙をしまったフェオドールがにっこりと微笑んで軽く会釈をして下がった。
 それに替わるように前に出たのは、アルブレヒトだった。
 途端、見惚れたように人々の間で溜息が起こる。あの人も四十を過ぎているというのに、その美貌に陰りがないから。

「このような穏やかな時がこの地上に長く続く事は、奇跡と言って過言ではありません。我がジェームダルは十年と少し前まで、多くの悲しみと争いの渦中にありました。沢山の民が苦しみ、悲しみ、傷ついていました。そして同じ痛みを帝国へと向けてしまいました」

 これに、僅かながら声を詰まらせる者もいた。戦争は戦う者の上にばかりあるのではない。民もまた、不安を感じ心を病むのだ。
 それを見たアルブレヒトが申し訳なく瞳を閉じる。手を胸の前で組み、祈るような形を取る。それを見た小さな子が同じように祈り、それはやがて広場全体に広まっていった。

「時を戻す事は適いません。失ったものを元に戻す事もできません。ですがそうした者達の犠牲の上に、今こうして長い平和があるのです。私は一国の王として、この同盟と関係が少しでも長く続くために力の限りを尽くす事を誓います。悲しみを拭うように多くの笑顔がこの地上に咲き誇るよう、憎しみではなく慈しみで隣人を迎えられるように。そしてそれは可能だと思っています。ここに集う人々の心に、平和と愛情が宿れば争いは大きく燃え上がる事はないのです。皆が願う幸せな未来を、共に守り抜こうではありませんか」

 問いかける柔らかな声音、人を引きつける魅惑を持つアルブレヒトの演説は人々の心に染みただろう。
 それに替わって、カーライルが前に出る。人々の目に勇気と希望が宿る。王は何処までも雄々しく、そして大きく映るものだ。

「私が帝位に就いた時、この国は沢山の傷と痛みを伴った状態だった。貧富の差に泣き、身分の差に泣き、争いは絶えず、私も幾度となく命を狙われてきた。その頃に比べ、今はどれほどに穏やかで平和か。これもみな、この平和を守ろうと思う皆の力あっての事。この十年の功績は皆の功績でもある。誇らしいことだ」

 凜とした声、浮かべる笑みは僅かに恥ずかしそうに。でも、誇らしげに。

 隣のファウストがそっとランバートの手を握る。その手から色々と伝わってきそうだ。乗り越えてきた時が、色々と。

「まずは十年。だが二十年後、三十年後もこうして三国が集まり、祝いの日を共に過ごす事ができる事が何よりの願いだ。それもまた、決して平坦ではないだろう。問題は日々起こる。悲しみや苦しみはある日なんの前触れもなく訪れるものだ。だが決して、今日のこの日を忘れないように。ここまでの道のりを忘れなければそれは己の誇りとなるだろう。剣を持たぬ者が弱いのではない。その心に強い信念と誇りを持つならば、それは立派な剣と同じ。その剣を持って困難を乗り越えてゆく。帝国の民ならば可能だと、私は信じている」

 カーライルの激励を胸に刻んだ。折れそうな時もあった。負けてしまいそうな時も。だがその時、必ず側にいてくれたのはファウストだ。

「俺は、ファウストが隣にいてくれれば大丈夫だな」
「ん?」
「俺の剣はファウストといれば決して折れない。俺の誇りは、心の剣は、ファウストと共にあるんだ」

 それは何よりも誇らしい。追いつきたいと伸ばした手を、ファウストが引き寄せてくれた。守りたい背中、その場所を空けておいてくれた。今は隣で、大切な伴侶としてその身を預けてくれる。

「それは俺も同じだ」
「え?」
「お前が隣にいてくれれば、俺はどこまでも強くなれる。決して諦めない力を得る。お前に愛想をつかされるような体たらくは見せられないからな」
「そんな日はこないって」
「だといいが。それに、満ち足りた今を守る為に戦うのは誇らしい。大切な主や友、何よりも伴侶を守る為ならいくらでも、俺の剣は強くなれる」

 真っ直ぐ前を見るファウストの先、三国の王が互いの手を取り合って微笑み、用意された花かごから沢山の花びらを撒く。それに、人々が声を上げて笑い合っている。

「この光景をまた見たい。その為には、強くあろう」
「お供するよ」
「あぁ、頼む」

 互いに微笑み、握る手に力が少しこもる。決して離れぬようにと誓いあって。

 まだ道のりは半ば。更に十年後、二十年後、同じように二人手を取り合って祝いの日を迎えるのだろう。この国と、この騎士団と、そして多くの友も一緒に。
 大丈夫、何より隣にいるこの人は最強の軍神なのだから。
 そして隣にはその軍神を支える、軍神の妻ランバートがいるのだから。

END
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