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18章:お嬢様の恋愛事情
7話:貴方をください!(アリア)
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誘拐事件の翌日、朝から検査をして問題ないということでアリアはシュトライザー別宅に戻ってきた。
バーサは頭に包帯を巻いた状態だったが元気そうで、泣いてアリアを抱きしめてくれた。
そしてアーサーには、とても怒られた。しばらくは屋敷から出てはいけないと言われ、勉強も禁止された。
自業自得だ。そしてこうなると、考えるのはウルバスの事ばかりになった。
助けに来てくれた時、とても嬉しかった。あんな酷い事をしたのに来てくれた。それが嬉しくてたまらなかった。
けれど次には怖いと思ってしまった。
アリアの中でウルバスはいつも穏やかに笑っていて、ちょっと悪戯な顔をしたりもして、優しくて……。
けれどあの時のウルバスはまるで別人のようで、本当に人を殺すんじゃないかと思ってしまった。
いや、止めなかったら殺していたのだと思う。
――そんなに俺のものにはなりたくないのか!
まるで、悲鳴みたいな声だった。苦しくなるような声音と表情に胸の奥が苦しくなった。
可能なら、あの人のものになりたい。隣にいて欲しいと思う。交わした手紙が今でも宝物であるように、もらったブローチが宝物であるように、想いも全部が大切なものなんだ。
この想いと僅かな思い出を胸にこの恋を忘れてしまおうとしていた。けれど……出来そうになかったんだ。
別れを伝えた日からずっと、忘れようとする度に苦しくて泣きたくなった。それを悟られないように明るく振る舞ったけれど、ふと一人になると涙が溢れそうだった。
後でハムレットからあのオイルの事を聞いた。「ウルバスの様子が違ったのは、あれのせいだと思うよ」と、フォローももらった。けれどアレが本心を暴くものであったのはアリアがよく知っている。ウルバスもきっと……あれが本心なのだろう。
好いていてくれたのだろうか。自分のものにと思ってくれたのだろうか。そうならば、嬉しいと思ってしまうのは短絡的だろうか。
謹慎が終わったら会いたい。会って、改めて気持ちを全部伝えたい。
好きな事。嬉しかった事。勿論お礼と……謝罪を。どうして別れを口にしたのか、その理由も。そして、不可能な事や、身の上や……願いも。
「みゃぁ」
「ミーナ、おいで」
とてとてと小さな足で近づいてくる子猫を抱き上げて、アリアは頭を指で撫でる。気持ちよさそうに目を細めてすり寄ってくる子を見ながら、アリアはこの思いをしっかりと胸に刻んだ。
それから三日、穏やかな時間が過ぎている。体の調子も戻った。今は絵を描くことを楽しんでいる。キャンバスにはウルバスの寝顔がある。あの時描いたスケッチを元に、色をつけてみたのだ。
ちょっと変態っぽいかと焦ったけれど……自分だけの秘密にしようとこそこそ描いている。
そんな穏やかな日常に不意の来客があったのは、お昼ご飯の少し後だった。
「ごめんね、なんだか中途半端な時間にお邪魔してしまって。迷惑じゃなかったかい?」
「そんなことありませんわ、フランクリンさん」
車椅子を押す女性と共に訪ねてきてくれたフランクリンを迎え、アリアはニコニコと笑った。家族以外の人と久しぶりに話したかもしれない。
「あっ、これお土産。シュークリームなんだけど、好きかな?」
「はい! 有難うございます」
「ふふっ、良かった。ルシールさん、お茶のお手伝いをお願いできますか? 私はここから動かないので」
「かしこまりました」
車椅子を押していた女性にお土産を預け、バーサと連れだって出て行く。そうするとここにはフランクリンとアリアの二人だけになった。
「綺麗な方ですよね」
「ルシールさん? そうだね、とても綺麗で厳しくて、優しい女性なんだ」
そう言った時のフランクリンはとても優しい顔をする。ふわっと雰囲気も柔らかくなって、嬉しそうだ。
「……あの、間違っていたらごめんなさい。フランクリンさんって、ルシールさんのこと」
「あぁ、うん。好きなんだけれどね……でも彼女の方が受けてくれないんだ」
「え!」
とても素直に教えてくれるフランクリンの恥ずかしそうな幸せ顔に、アリアは桃色な声を上げる。他人の恋バナはとてもワクワクした。
「どうして断るのでしょうか? 素敵だと思うのに」
「身分差がありすぎると言われてしまってね。私は気にしないし、父に伝えたら構わないって言われたし。私はこんな体だから、事情を知ってくれている方がいいし」
こんな体。それは分かる気がする。少しだけ、心に痛みがあった。
「あの、馴れ初めってなんですか?」
「彼女は私の専属医師みたいなものなんだ。足が不自由になった私の介助と、リハビリ、マッサージなんかもしてくれる。普段からあまり表情が変わらないんだけれど、頑張った時には少しだけ微笑んでくれる。それがとても可愛くて、好きなんだ」
「わぁ、素敵ですね!」
自分にしか見せてくれない表情なんて、特別感がある。それが頑張りを褒めてくれるようなものであれば余計に嬉しいものだ。
アリアも少しずつ歩く距離を伸ばしたり、苦い薬を頑張って飲んだりした。それはウルバスの手紙のおかげだと思う。苦しくてもあの手紙を読めば頑張れるんだ。
「……ぁれ? 何で私、泣いてるのでしょう?」
不意に頬が熱くなって、手の甲に滴が落ちる。それを見て、アリアは驚いてしまった。止めようと思うのに後から後から溢れてくるのだ。
「ごめんなさい、私。悲しい話なんてしてないのに」
「……止めなくていいよ」
アリアの手に重ねるように、フランクリンの手が触れる。大きいけれど柔らかい手だ。ウルバスの手は大きくて、もっとゴツゴツしていて、所々硬くて……。
涙は止まらなくて困ってしまう。フランクリンはそんなアリアの側にいて、ずっと黙って頷いてくれた。
「色々、我慢したりしてたんだね。ごめんね、前に会ったときにもっと聞いてみればよかった。困ってる事はないかって」
「そんな! 困ってる事なんてなかったんです。皆さんのお話が聞けて、私嬉しくて」
「それでも、無理をしていたんでしょ? 緊張してるのは分かったんだけれど、もう少し深読みすべきだったね」
優しい声が言ってくれて、真っ白いハンカチを差し出される。申し訳なく受け取って涙を拭うと、フランクリンは真剣な眼差しでアリアを見た。
「君の事を聞いてきたんだ。怖かったんじゃないかとか、今も怯えているんじゃないかって思って」
「それは……大丈夫だと思います。とても反省していますけれど」
心残りなのは、ウルバスとちゃんと話せないまま時間がたっていることだ。
また、新しい涙が落ちた。それをハンカチにしみこませるアリアに、フランクリンは困った顔をした。
「君のせいばかりじゃないよ。国外持ち出し禁止の薬物を譲った奴も悪いし、それに操られた奴らも弱い。君に落ち度がなかったとは言えないけれど、今までそんな悪意からは無縁の世界にいたんだから、今回はしかたがないよ」
「でも、私がもっとしっかりしていればこんな事は起こらなかったんです。私が悪いんです」
ちゃんとしていればバーサは怪我をしなかった。不用意に近づかなければあの二人も犯行を押しとどまっただろう。ウルバスとは穏やかな形で会うことができたかもしれない。
もしもばかりが頭をよぎる。どんどん落ち込むアリアに、フランクリンは困り顔で応じた。
「責めてばかりでは先にゆけない。失敗は、糧にしないと無駄になってしまうんだよ」
少し沈んだ声に顔を上げると、フランクリンは苦笑して自分の左足に手を置いた。
「少し長くて、かっこ悪い話なんだけど、聞いてくれる?」
「え? はい、勿論です」
困った顔のままのフランクリンは、なんだか痛そうな顔をしている。それでも何かを決めて、アリアを見て話し出してくれた。
「私には年の離れた弟がいてね。とても、才能のある子なんだ。明るくて、好奇心旺盛で、失敗なんて恐れない強い子でね、彼の周りには常に笑顔が多かった。それに比べて私は臆病で保守的。知らない事は怖いし、失敗も怖い。いつも控えめに、添え物のような感じだった」
そう語るフランクリンはほんの少し落ち込んで見える。けれどまだ笑顔が見える。それに今はそんな、添え物なんて言葉は彼にはみられない。穏やかな木漏れ日もように暖かくて優しい、そんな人に思えるのだ。
「仲が良かったんだよ、特に母が亡くなってからは。弟に頼られるのが好きだった。けれどだんだん大人になっていって……家の男児は私と弟だけで、弟には才能がある。長子が必ず家督を継ぐとは言えない家で、いつしか私は弟を恐れ、遠ざけるようになってしまった」
「嫌いになってしまったんですか?」
「……ううん、そうじゃなかったんだよ。今冷静に思えばね。私は焦っていたし、弟には勝てないと思っていた。商人として、私は大胆さに欠けるし駆け引きも苦手。自分の長所を見つけられないまま、弟に家督を取られてしまうのではないか。頑張ってきた事は全て無駄なんじゃないか。この家に……私の居場所はなくなるんじゃないか。そんな漠然とした恐怖に支配されていたんだ」
それは、よく分からない。家督なんてものはそもそもアリアの上になかったものだ。
けれど、家族の中で少し距離があったりする寂しさは知っている。離れて生活していた間、家族が何をしているのかまったく分からなかったから。
「そんな時、私はまた失敗して。弟は新しい販路を見つけて……弟の下について見聞を広めろと父に言われてしまった」
「え!」
「もうダメだ、私は弟には勝てない。家督は弟が継いでその下で生きることになるんだ。いよいよ焦って…………弟が憎くも思えた私は人生最大の失敗をした」
「あの、何を……?」
「他国での仕事の最中に、弟を他国の人間に売り渡そうとしたんだ」
「!」
フランクリンの思わぬ言葉に、アリアは驚いて息をのんだ。この穏やかな人がそんな事を考えるなんて思っていなかった。
そんなアリアの様子を見たフランクリンが力なく笑って、「酷い兄だよね」と言う。
「弱みや焦りを、人買いに見抜かれてしまったんだ。手を貸して弟と共に人買いの船まで行って…………そこで、やっぱり売らない、返せと暴れた。思い出したんだ、弟の小さな頃の姿とか、していた話とか。家族を売ろうなんて思った自分をとても恥ずかしく思ったし、絶対に取り戻さなければと思って。でもそんなの、通用するわけなかったんだよ」
フランクリンの握りしめている手に力が入った。ほんの少しの沈黙の後、彼は自分の足をさする。痛そうな顔を一瞬見せた人は、次には静かな笑みを浮かべた。
「本当はその時、私は殺されるはずだった。足を折られるだけで済んだのは弟のおかげ。彼が自分を犠牲に私を守ってくれたからなんだ。その後、騎士団の人達によって助け出されたけれど……私はその後も怖かった」
「何が怖かったんですか?」
「犯した罪の大きさに後悔を通り越して絶望したのもあるけれど、何よりも居場所を失った事が恐ろしかったんだ。辛うじてあった足場が崩れた。けれどこれを招いたのが己の愚かさだから、誰を責める事も頼る事もできない。背負うしかないのだと目覚めてからずっと考え続けていて…………国に帰る船で何度、このまま海に飛び込もうかと思った」
僅かに俯いたフランクリンの手に、今度はアリアが触れた。そんな事にならなくてよかった。今があってよかった。心からそう思うのだ。
「家に帰ったら、父が抱きしめて「すまない」なんて言って……涙を流してくれた。そんな姿、母の葬儀の日以来だったから驚いたけれど、苦しいのが全部流れるみたいに私も泣いて楽になった。今では弟と一緒に頑張っている。私は交渉とかは苦手だけれど、戦略を練ったりその為に手を回したりするのは案外得意みたいでね。広告や、流れを作り出す事に力を入れて成果が出ている」
「良かったです」
「うん。でもこれも他の人の力があってだよ。私一人は歩くこともままならない半人前以下で、それは忘れちゃいけない。今頑張れるのは、周囲の人の助けのおかげでもある。そして私も、周りの人の力になりたいと思っている」
「はい」
「アリアちゃんも、周囲の人の力を頼る事は悪くないよ。むしろ一人で頑張るよりもずっと、沢山の事ができるはず。全部自分でなんて抱え込んじゃいけないよ」
手に触れていた、その手の上からフランクリンが触れて、にっこりと笑う。安心する暖かい笑みが、とても心に染みるようだった。
「今、アリアちゃんは自分の行いを反省して、とても苦しかったり、悲しかったりしている?」
「はい」
「じゃあ、どうしたいの?」
「……話を、したいんです。一方的に考えて、思い込んで、頑固になって別れを伝えた人がいるんです。でも……その人が私を助けてくれた。なのに私、ちゃんと伝えるべき事を伝えていないんです。私がどうして別れを伝えたかとか……やっぱり、別れたくないとか」
「大事だね。方法はある?」
「……分かりません。接点が切れてしまって、どう顔を合わせたらいいか分かりません」
「そうか。では、間を取り持ってくれそうな人はいないの?」
「それは……」
真っ先に浮かんだのはファウストとランバート。あの二人ならきっと、ウルバスとの間を取り持ってくれる。ファウストに頼むと全部を話さなければならないだろう。それこそ、あの廃屋でのやり取りも。
それならまだランバートの方がソフトだ。素直に話さなければならないし、お叱りもあるだろうけれど彼の中だけで留めてくれると思う。
「います」
「うん。そこまで分かっているなら、すべきことが見えるよね?」
「はい。連絡して、取り持ってもらえるようにお願いしてみます」
「良かった、やっぱり君は賢いね」
満足そうに笑ったフランクリンが体を離す。その時、まるで見計らったようにドアがノックされた。
「お茶をお持ちいたしました」
「有難う、ルシールさん」
本当に嬉しそうな顔をするフランクリンを見て、アリアは羨ましかった。不自由があってもこんなに素直に好意を伝えようとしている。卑屈になんてなっていない彼を見ると、自分はどうなんだと考えてしまう。
そういえば、今まで自分の体の事や現状を伝える事はしても、それについて彼の意見を聞くことはなかった。求めなかったからだし、捕らわれていたから。
ウルバスさんは、どう思っているの? 体が弱い事や、家督を継いだ事。ウルバスさんは、好意を持ってくれている? それは、どんな種類の好意なの?
急に聞きたくなった。一方的過ぎた事に今更気づいて、そうしたら会いたくてたまらなくなった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
新しいハンカチを差し出してくれるルシールを見上げ、アリアはまた新たに涙がこぼれている事に気づいた。
「大事な事は伝えないとね。私はあれ以来、弟や父と沢山喧嘩をするんだよ」
「え!」
「旦那様がお困りです。遅れすぎた反抗期がこうも面倒くさいとは思わなかったと」
「でも、飲み込むよりはいいとも言うよ?」
「……確かに、そのようです。ですが、着地点を見つけるまで大変だと仰っております」
「その分いい案が出るんだからいいんだ。とことん突き合せて議論していい物が出来たほうがいいじゃないか。結論が出ない時は時期が早いって事なんだよ」
「……性格が変わったと、苦労なさっていますが」
「今まで手がかからなかったんだから、今から手をかけてもらおうね。あの人は自分の手で後継者を育てるべきだと思うよ。結果だけじゃなくて、過程にも関わってもらわないと」
とてもいい笑顔で言うフランクリンを見るに、この人もかなりいい性格をしている気がする。でも、羨ましい気もした。
フランクリンとルシールのやり取りを微笑ましくも羨ましく見ていた。そうして頂いたシュークリームを食べ終えた頃、ふと廊下が騒がしくなった。
「困ります! 今は来客中で」
「そんな事を言っている場合ではないのです!」
バーサの声と、もう一人は……ランバートさん?
思っている間にドアが開いてランバートが仕事着で現れる。その表情はとても焦っていて、不安になるものだった。
「あれ、ランバート?」
「フランクリン様でしたか。そういえば先日、お茶会をしたのでしたか」
「そう。それよりも、何かあったのかい?」
問いかけるフランクリンにランバートは慌ててアリアへと視線を向けた。
「アリアちゃん」
「あの、何かあったのですか?」
不安になって問いかけると、ランバートは一瞬口を閉ざした。どう説明したらいいか迷うような間の後、彼は唐突に本題に入った。
「ウルバス様が、姿を消しました」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。心臓がドキドキと鳴って、とてもゆっくりと言葉を反芻している。姿を消した? どうしてそんな事になったの?
「……どういうことだい、ランバート?」
「事件後、薬の影響で少々不安定だったので医療府に入院していたのですが、安定したので昨日自室に戻りました。ですが今日の昼前、皆が就業中に忽然と姿を消してしまったのです。部屋には下賜された剣と制服と……退団届が置いてありました」
「!」
退団届? いったい、何があったの? 何が起こっているの? どうしてそんな事になってしまったの!
涙腺が緩んでいたアリアの頬をまた、新しい涙が落ちていく。ルシールが気遣って肩を支え、涙を拭いた。
「馬は使っていないんでしょ? それなら……」
「あの人の足では馬を使っていなくても時間が経つとかなり遠くまで行かれてしまいます。既に姿を消して三時間が経つと推測されます。急がないと」
「そんなに急ぐ理由はなに?」
「…………昨夜眠れないと言って処方された睡眠薬を、持って出ているのです。お金も……服の一着すら持たずに出たのにそれだけというのが」
「自殺でもするんじゃないかって事だね」
「自殺! あの、どうしてそんな! 私の事件で何かあったのですか? なんで、そんな……」
ウルバスさんが自殺する? どうしてそんな……何があったの?
「俺はなんとも言えない。ただ、とても錯乱して一度未遂を起こしたから医療府に入院していたんだ。そこから日が近いから、皆焦っている」
「そん、な……」
「アリアちゃん、何でもいいからウルバス様が行きそうな場所、知らないかな?」
必死な様子のランバートを前に、アリアは涙に濡れる目をパチリと瞬いた。
ウルバスが行きそうな場所? そんなの、きっと付き合いの長い人のほうが知っているのに。
「私、そんな……」
「……皆、知らなかったんだ。ファウスト様も、同期の仲間も、第三の人達も。ウルバス様が休みの日をどこで過ごしているのか、分からない。王都に頼る相手はいないはずだし、そうなるとどこにいるのか」
知らな、かった……
穏やかに笑って王都を案内してくれていた。皆に信頼されているのは、手紙とかから分かった。なのに、だれもあの人の事を知らなかったの?
考えて、考えて……ふと、この間の事を思い出した。静かで穏やかな草原で、遠くには山が見えて。
思い出したアリアは急いで部屋に戻り、あの時のスケッチブックをひっつかむ。息が上がるのも無視して戻ってきて、あの時描いた風景画をランバートの前に出した。
「ここ! この場所に、いるかもしれません」
「ここ……」
「落ち込んだ時に、ここに来ると落ち着くって、言っていて。王都から馬で三十分、って」
少し咳き込んで、でも言葉は止めない。ここじゃなければもう分からない。
「ここなら分かります。俺もファウスト様と行ったことがあります」
ランバートは頷いて踵を返す。だがその腕を、フランクリンが掴んだ。
「フランクリン様!」
「……アリアちゃん、行かないの?」
「え?」
真剣な目が射貫くようにアリアを見る。その強さに、アリアは言葉を詰まらせた。
「大切な人の事だよね? 他人に任せていいの? それで、後悔しない?」
「でも、私……」
謹慎中だ。それに、行っても足手まといになる。それで何かあったら……助けられなかったら?
でも、行きたい。聞きたいんだ、色んな事を。自殺未遂って、どうして? 貴方は私の事をどう思っているの? 私は……貴方に聞いてもらいたい事も言いたいこともまだある。それを伝えたいと、決めたばかりなのに。
「……ランバート義兄様、私……行きたいです」
ランバートは驚いた。けれど考えて、強く頷いてくれた。
「馬は一人用の鞍だから不安定になる。ちゃんと掴まっていられる?」
「はい」
力強く頷いたアリアの肩に、ふわりと暖かなコートがかけられた。白い毛皮のコートは暖かくて、意外と軽く感じた。
「アーサー様には私から話をしておくから、安心していって。大丈夫、人助けだから」
「フランクリン様……っ、有難うございます!」
ガバリとお辞儀して、ランバートに連れられて外に出た。馬に跨がったその先を睨み付けて、アリアはただ強く無事を祈るばかりだった。
▼ウルバス
つくづく、馬鹿な事をしている。
薬が抜けて冷静にはなった。だが、冷静ではなかった時に自覚した感情に歯止めがかかる予感がしなかった。
あの日を境に見る夢は、どれも甘美で愚かしく、そして狂気だった。
誰も知らない石造りの部屋に格子をはめて、ベッドに括ったアリアを見ている。「愛している」と囁いても彼女は何も返さない。黒い瞳は何も写していないようなのに、それにも気づかず悦に入る自分のなんて間抜けな姿か。
でも、甘美なのだ。安心するんだ、自分のものだと。ここに置いておけば誰かに取られることはない。彼女を傷つける奴もいない。
自分が一番彼女を傷つけ壊しているのに、それに気づかない狂気があるんだ。
これは、きっと現実になる。そんな予感に飛び起きて、震えていた。その次に見るのは母の自殺風景。けれどそれが徐々に、アリアに変わっていく。「酷い」「私を壊したのは貴方だ」と、酷く折れた体で責める。
「こんなはずじゃなかったんだ」と言っても、これはおそらく自分のせいで……酷く残酷で現実的な予知夢に思えてしまった。
爽やかな草原の風は、冷たい冬の空気を連れてくる。薄い服に、コート一枚。ポケットには睡眠薬。手には、少し前まで自殺防止の為につけられていた手錠がある。
普通に戻ったと思って油断しているのは分かったから、こっそりくすねておいた。もう少し暗くなったら山の方に行って、そこにある湖に入ろうと思っている。手錠は重しを離さない為のものだ。
ゴロンと横になったウルバスは高い空を見上げている。そしてふと、先日の事を思い出した。
隣で屈託なく笑うアリアを可愛いと思った。寝顔、一生懸命に描いてたから起きてるって言えなかった。別に構わなかったし、真剣な黒い瞳が輝いているのを見るのは好きだから、もう少し見ていたかった。
ねぇ、君はあの時にはもう、別れを考えていたの? あれは、最後の思いで作りのつもりだった?
あの時、この気持ちに気づかなくてよかった。もしも気づいていたら攫っていたかもしれない。別れるなんて、許せなかったかもしれない。手を引けたのは、あの時はまだこんなにも欲しているとは自覚していなかったから。
僅かに空が滲んだ気がして、ウルバスは慌てて目元を擦った。
起き上がり、徐々に暗くなりそうな空を見て立ち上がろうとしたその時、馬蹄の音が近づいてきていた。
確かめもしないで立ち上がり、走り出した。探しているんだろうと思ったから、こっそり抜けてきた。騎士団の人間にはみつかりたくない。変わり果てた姿を彼らの前に晒すのは嫌で……行方不明のままで終わりたくてきたのだから。
走って、走って…………その後ろで、馬の足が止まった。
「待って!!」
「!」
驚いたウルバスは目を見開いて一瞬足を止めてしまった。幻聴かと思ったのだ。こんな所に彼女がいるはずがない。彼女は馬に乗れないはずだ。何よりこんな寒い所に発作を起こした人が来るなんて、危険な事だ。
いや、一番の危険は自分自身だ。もう、歯止めがきかないんだと思う。欲しいと思う欲望を自覚したら、たまらなく辛いんだ。
何より、拒絶されただろう。彼女は好きだと言ってくれたが、同時に別れも言われている。別れたくない。別れるくらいなら攫ってしまいたい。
こんな思考をする自分が一番の危険物だ。
足が止まったのは一瞬。再び走り出そうと足を前に。だがその前に必死な声が草原に響きわたった。
「騎士団を辞めるなら……私に残りの人生くださーい!!」
「!!」
夕刻の鳥が羽ばたく位の声が山まで木霊するほど大きくて、更にはその内容に驚いて、ウルバスの足は止まってしまった。
その間に片腕がずしりと重くなって、息を切らしたアリアが全体重で縋っていた。
「お願い、行かないで。私、貴方を振り向かせるくらい、綺麗になるから。もっと元気になって、貴方のお願いも叶えてあげられるように、なるから。だから、行かないで」
そんな事、望んだわけじゃない。君は君であるだけで十分に綺麗で、放っておけない存在になっている。
だからこそ、側にいられないんだ。目が離せないんだ。親愛が恋情に変わった瞬間、この関係は終わりにしないと危険なんだ。
「ダメだよ、アリアちゃん。君は怖い思いをしているじゃないか」
「あれは……」
「アレが俺の本性だよ。俺は君を縛り付けたい。俺だけのものにしたい。ダメだと分かっているのに君を他のみんなから取り上げて、俺だけにしてしまいたい。そんな身勝手な欲望を持っている。いけない事と知りながらその欲望に負けそうな自分がいるんだ。君にとって一番危険なのは、俺なんだよ」
振り向けないまま、背中に暖かな体温が触れる。腰に、離さないようにと抱きつく細腕がある。触れたい気持ちもあるが、我慢した。触れたらいけない気がするんだ。
「……私は、ウルバスさんが好きです」
「っ」
「私の不自由が貴方を縛ってしまう。だから私は貴方に相応しくないと思って、別れを伝えました」
「……うん」
言っていたね、あの廃屋で。でもそんなの、気にしたことはなかったよ。体の事は知っている。無理ができないのも分かっている。そのうえでもう一年手紙をやりとりして、二度目のデートをしたんだ。相応しいとかそんなこと、考えてもいなかったよ。
アリアの腕が更に強くなった。背中に感じる温もりが、恋しくなってきた。
「でも、もしも我が儘を言っていいなら、私は貴方の側にいたいです」
「だから」
「貴方の狂気を知っても、私の気持ちは変わりません!」
「!」
細い腕が力を入れる。絶対に振り払えないようにと、必死になっている。やろうと思えばこんな腕、簡単に振り払える。なのにそれができないのは、ウルバスもまた未練がありすぎてこのままで居たいと思ってしまったから。
「……それ、自虐が過ぎるよ。分かって言ってる? 俺は君の人としての尊厳を根こそぎ挫くような事を言っているんだけれど」
「シュトライザーの屋敷の中でしたら、捕らわれてもいいです」
「ねぇ、怒るよ? ダメに決まってるじゃないか。俺がおかしいの! そんなのに君が付き合う必要はないんだよ!」
「私がそれでいいと言っているんです! 貴方が狂ってるなら、私も同じでいいじゃないですか!」
いいわけ、ないじゃないか。不幸にしたくないと思っているのに、そうしてしまいそうで怖いのに。君がそれを受け入れてしまったら、いけないんだよ。
「側に、いてください。お願い、話がしたいんです。私、貴方に伝えたい事も話したい事もあります。消えてしまわないで。お願いします」
「…………」
消え入りそうな涙声が、ウルバスをとどまらせる一番の鎖になった。
振り向いたそこには髪を乱し、顔中を涙に濡らし目尻を腫らしたアリアと、そんな二人を少し離れた所から見守るランバートがいた。
「俺に、消えて欲しくないの?」
「勿論です」
「俺は、君に酷い事をした。これからも、するかもしれない」
「はい」
「……アリアちゃんは、虐められたい子だった?」
「違います。けれど、信じています。ウルバスさんの中にはちゃんと、優しい貴方もいるんだって。私を閉じ込めたい貴方もいるかもしれないけれど、それを恐れて逃げようとする貴方は優しいウルバスさんです。私は今の貴方を信じます。それでも閉じ込めたくなったら、私はそれに従います」
信じている。その言葉の重みは凄い。
少し遠くにいたランバートが困ったように眉根を寄せる。そしてそっと、近づいてきた。
「大丈夫ですよ、ウルバス様」
「ランバート?」
「この子の兄、誰だと思っているんです? もしも貴方が暴走しても、あの人が止めますよ。貴方が本気で抵抗したって、ファウスト様には勝てないでしょ? それに、俺も許しません。貴方の暴走を止めますから、あんまりごちゃごちゃ考えずに今の気持ちに従ってください」
深く溜息をつかれて、まるでファウストにするみたいな説教をするランバート。
でも、確かにそうだ。ウルバスが本気を出したってファウストには敵わない。それなら狂った自分がアリアに何かする前にきっと殺してくれる。アリアは無事でいられる。
あぁ、そんな簡単な事、必死すぎて考えもしなかったな。
側に居るアリアがしゃくり上げ、必死に涙を拭っている。白い肌が擦れて痛々しく赤くなっている。
あまり、考えはしなかった。多分自分に許しを与えたのだ。
拭う手を掴んで止めて、涙をこぼす目尻に唇を寄せる。触れた柔肌は心地よくて、もっと沢山触れていたいものだった。
「っ!!」
「ダメだよ、擦ったら。赤くなっているじゃないか」
「あっ、ウルバス、さん、あの、あのぉ!」
「こっちも赤い」
くすくすと笑って、もう片方の目尻にもキスをする。まぁ、もう目尻の赤さなんて目立たないほど顔が真っ赤なんだけれど。まるで苺みたいで可愛い。食べたらきっとランバートが怒るんだろうな。
「美味しそうな苺さん、食べてもいい?」
「ひゃの!!」
「いいわけないじゃないですか! ほら、暗くなりますよ。これ、王都まで歩けないじゃないですか」
見ると空はすっかり薄闇に染まっている。風も冷たくなってきた。
「……ここから徒歩で十五分くらいの所に、小さいけれど温泉宿があるよ」
「え?」
「元、だけれどね。顔なじみの老夫婦がやっていたんだけど、高齢で去年閉めたんだ。お願いすれば、泊めてくれるかもしれない」
この草原は風が気持ち良くて、夜には星が綺麗で、ウルバスはちょいちょい帰るのを忘れてしまう。そんな時にお世話になった宿だ。元は山越えの旅人で賑わっていたそうだが、今はもっと安全なルートが出来てしまって宿泊客が少ないと言っていた。
「そこに一晩お世話になろうか。暖かそうなコートだけれど、冷えるのは良くないから」
誰のコートだろう。明らかに着丈が長い。この長さだと男だと思う。今度もっと似合うのを彼女に贈って、これは返品しよう。
「では、そうしましょうか」
ランバートが馬を引いて促してくるけれど、ほんと言うと君も邪魔。
……いや、居てもらわないと困るか。何かしそうな時に止めてくれないと困る。
うん、色んな本性が出てきている気がする。自分の独占欲にドン引きしそうだけれど、楽になったのも確かな気がした。
そっと隣に並んだアリアが手を繋ごうとして引っ込める。その手をしっかりと繋いで、ウルバスは目的地へとゆっくり進んでいくのだった。
バーサは頭に包帯を巻いた状態だったが元気そうで、泣いてアリアを抱きしめてくれた。
そしてアーサーには、とても怒られた。しばらくは屋敷から出てはいけないと言われ、勉強も禁止された。
自業自得だ。そしてこうなると、考えるのはウルバスの事ばかりになった。
助けに来てくれた時、とても嬉しかった。あんな酷い事をしたのに来てくれた。それが嬉しくてたまらなかった。
けれど次には怖いと思ってしまった。
アリアの中でウルバスはいつも穏やかに笑っていて、ちょっと悪戯な顔をしたりもして、優しくて……。
けれどあの時のウルバスはまるで別人のようで、本当に人を殺すんじゃないかと思ってしまった。
いや、止めなかったら殺していたのだと思う。
――そんなに俺のものにはなりたくないのか!
まるで、悲鳴みたいな声だった。苦しくなるような声音と表情に胸の奥が苦しくなった。
可能なら、あの人のものになりたい。隣にいて欲しいと思う。交わした手紙が今でも宝物であるように、もらったブローチが宝物であるように、想いも全部が大切なものなんだ。
この想いと僅かな思い出を胸にこの恋を忘れてしまおうとしていた。けれど……出来そうになかったんだ。
別れを伝えた日からずっと、忘れようとする度に苦しくて泣きたくなった。それを悟られないように明るく振る舞ったけれど、ふと一人になると涙が溢れそうだった。
後でハムレットからあのオイルの事を聞いた。「ウルバスの様子が違ったのは、あれのせいだと思うよ」と、フォローももらった。けれどアレが本心を暴くものであったのはアリアがよく知っている。ウルバスもきっと……あれが本心なのだろう。
好いていてくれたのだろうか。自分のものにと思ってくれたのだろうか。そうならば、嬉しいと思ってしまうのは短絡的だろうか。
謹慎が終わったら会いたい。会って、改めて気持ちを全部伝えたい。
好きな事。嬉しかった事。勿論お礼と……謝罪を。どうして別れを口にしたのか、その理由も。そして、不可能な事や、身の上や……願いも。
「みゃぁ」
「ミーナ、おいで」
とてとてと小さな足で近づいてくる子猫を抱き上げて、アリアは頭を指で撫でる。気持ちよさそうに目を細めてすり寄ってくる子を見ながら、アリアはこの思いをしっかりと胸に刻んだ。
それから三日、穏やかな時間が過ぎている。体の調子も戻った。今は絵を描くことを楽しんでいる。キャンバスにはウルバスの寝顔がある。あの時描いたスケッチを元に、色をつけてみたのだ。
ちょっと変態っぽいかと焦ったけれど……自分だけの秘密にしようとこそこそ描いている。
そんな穏やかな日常に不意の来客があったのは、お昼ご飯の少し後だった。
「ごめんね、なんだか中途半端な時間にお邪魔してしまって。迷惑じゃなかったかい?」
「そんなことありませんわ、フランクリンさん」
車椅子を押す女性と共に訪ねてきてくれたフランクリンを迎え、アリアはニコニコと笑った。家族以外の人と久しぶりに話したかもしれない。
「あっ、これお土産。シュークリームなんだけど、好きかな?」
「はい! 有難うございます」
「ふふっ、良かった。ルシールさん、お茶のお手伝いをお願いできますか? 私はここから動かないので」
「かしこまりました」
車椅子を押していた女性にお土産を預け、バーサと連れだって出て行く。そうするとここにはフランクリンとアリアの二人だけになった。
「綺麗な方ですよね」
「ルシールさん? そうだね、とても綺麗で厳しくて、優しい女性なんだ」
そう言った時のフランクリンはとても優しい顔をする。ふわっと雰囲気も柔らかくなって、嬉しそうだ。
「……あの、間違っていたらごめんなさい。フランクリンさんって、ルシールさんのこと」
「あぁ、うん。好きなんだけれどね……でも彼女の方が受けてくれないんだ」
「え!」
とても素直に教えてくれるフランクリンの恥ずかしそうな幸せ顔に、アリアは桃色な声を上げる。他人の恋バナはとてもワクワクした。
「どうして断るのでしょうか? 素敵だと思うのに」
「身分差がありすぎると言われてしまってね。私は気にしないし、父に伝えたら構わないって言われたし。私はこんな体だから、事情を知ってくれている方がいいし」
こんな体。それは分かる気がする。少しだけ、心に痛みがあった。
「あの、馴れ初めってなんですか?」
「彼女は私の専属医師みたいなものなんだ。足が不自由になった私の介助と、リハビリ、マッサージなんかもしてくれる。普段からあまり表情が変わらないんだけれど、頑張った時には少しだけ微笑んでくれる。それがとても可愛くて、好きなんだ」
「わぁ、素敵ですね!」
自分にしか見せてくれない表情なんて、特別感がある。それが頑張りを褒めてくれるようなものであれば余計に嬉しいものだ。
アリアも少しずつ歩く距離を伸ばしたり、苦い薬を頑張って飲んだりした。それはウルバスの手紙のおかげだと思う。苦しくてもあの手紙を読めば頑張れるんだ。
「……ぁれ? 何で私、泣いてるのでしょう?」
不意に頬が熱くなって、手の甲に滴が落ちる。それを見て、アリアは驚いてしまった。止めようと思うのに後から後から溢れてくるのだ。
「ごめんなさい、私。悲しい話なんてしてないのに」
「……止めなくていいよ」
アリアの手に重ねるように、フランクリンの手が触れる。大きいけれど柔らかい手だ。ウルバスの手は大きくて、もっとゴツゴツしていて、所々硬くて……。
涙は止まらなくて困ってしまう。フランクリンはそんなアリアの側にいて、ずっと黙って頷いてくれた。
「色々、我慢したりしてたんだね。ごめんね、前に会ったときにもっと聞いてみればよかった。困ってる事はないかって」
「そんな! 困ってる事なんてなかったんです。皆さんのお話が聞けて、私嬉しくて」
「それでも、無理をしていたんでしょ? 緊張してるのは分かったんだけれど、もう少し深読みすべきだったね」
優しい声が言ってくれて、真っ白いハンカチを差し出される。申し訳なく受け取って涙を拭うと、フランクリンは真剣な眼差しでアリアを見た。
「君の事を聞いてきたんだ。怖かったんじゃないかとか、今も怯えているんじゃないかって思って」
「それは……大丈夫だと思います。とても反省していますけれど」
心残りなのは、ウルバスとちゃんと話せないまま時間がたっていることだ。
また、新しい涙が落ちた。それをハンカチにしみこませるアリアに、フランクリンは困った顔をした。
「君のせいばかりじゃないよ。国外持ち出し禁止の薬物を譲った奴も悪いし、それに操られた奴らも弱い。君に落ち度がなかったとは言えないけれど、今までそんな悪意からは無縁の世界にいたんだから、今回はしかたがないよ」
「でも、私がもっとしっかりしていればこんな事は起こらなかったんです。私が悪いんです」
ちゃんとしていればバーサは怪我をしなかった。不用意に近づかなければあの二人も犯行を押しとどまっただろう。ウルバスとは穏やかな形で会うことができたかもしれない。
もしもばかりが頭をよぎる。どんどん落ち込むアリアに、フランクリンは困り顔で応じた。
「責めてばかりでは先にゆけない。失敗は、糧にしないと無駄になってしまうんだよ」
少し沈んだ声に顔を上げると、フランクリンは苦笑して自分の左足に手を置いた。
「少し長くて、かっこ悪い話なんだけど、聞いてくれる?」
「え? はい、勿論です」
困った顔のままのフランクリンは、なんだか痛そうな顔をしている。それでも何かを決めて、アリアを見て話し出してくれた。
「私には年の離れた弟がいてね。とても、才能のある子なんだ。明るくて、好奇心旺盛で、失敗なんて恐れない強い子でね、彼の周りには常に笑顔が多かった。それに比べて私は臆病で保守的。知らない事は怖いし、失敗も怖い。いつも控えめに、添え物のような感じだった」
そう語るフランクリンはほんの少し落ち込んで見える。けれどまだ笑顔が見える。それに今はそんな、添え物なんて言葉は彼にはみられない。穏やかな木漏れ日もように暖かくて優しい、そんな人に思えるのだ。
「仲が良かったんだよ、特に母が亡くなってからは。弟に頼られるのが好きだった。けれどだんだん大人になっていって……家の男児は私と弟だけで、弟には才能がある。長子が必ず家督を継ぐとは言えない家で、いつしか私は弟を恐れ、遠ざけるようになってしまった」
「嫌いになってしまったんですか?」
「……ううん、そうじゃなかったんだよ。今冷静に思えばね。私は焦っていたし、弟には勝てないと思っていた。商人として、私は大胆さに欠けるし駆け引きも苦手。自分の長所を見つけられないまま、弟に家督を取られてしまうのではないか。頑張ってきた事は全て無駄なんじゃないか。この家に……私の居場所はなくなるんじゃないか。そんな漠然とした恐怖に支配されていたんだ」
それは、よく分からない。家督なんてものはそもそもアリアの上になかったものだ。
けれど、家族の中で少し距離があったりする寂しさは知っている。離れて生活していた間、家族が何をしているのかまったく分からなかったから。
「そんな時、私はまた失敗して。弟は新しい販路を見つけて……弟の下について見聞を広めろと父に言われてしまった」
「え!」
「もうダメだ、私は弟には勝てない。家督は弟が継いでその下で生きることになるんだ。いよいよ焦って…………弟が憎くも思えた私は人生最大の失敗をした」
「あの、何を……?」
「他国での仕事の最中に、弟を他国の人間に売り渡そうとしたんだ」
「!」
フランクリンの思わぬ言葉に、アリアは驚いて息をのんだ。この穏やかな人がそんな事を考えるなんて思っていなかった。
そんなアリアの様子を見たフランクリンが力なく笑って、「酷い兄だよね」と言う。
「弱みや焦りを、人買いに見抜かれてしまったんだ。手を貸して弟と共に人買いの船まで行って…………そこで、やっぱり売らない、返せと暴れた。思い出したんだ、弟の小さな頃の姿とか、していた話とか。家族を売ろうなんて思った自分をとても恥ずかしく思ったし、絶対に取り戻さなければと思って。でもそんなの、通用するわけなかったんだよ」
フランクリンの握りしめている手に力が入った。ほんの少しの沈黙の後、彼は自分の足をさする。痛そうな顔を一瞬見せた人は、次には静かな笑みを浮かべた。
「本当はその時、私は殺されるはずだった。足を折られるだけで済んだのは弟のおかげ。彼が自分を犠牲に私を守ってくれたからなんだ。その後、騎士団の人達によって助け出されたけれど……私はその後も怖かった」
「何が怖かったんですか?」
「犯した罪の大きさに後悔を通り越して絶望したのもあるけれど、何よりも居場所を失った事が恐ろしかったんだ。辛うじてあった足場が崩れた。けれどこれを招いたのが己の愚かさだから、誰を責める事も頼る事もできない。背負うしかないのだと目覚めてからずっと考え続けていて…………国に帰る船で何度、このまま海に飛び込もうかと思った」
僅かに俯いたフランクリンの手に、今度はアリアが触れた。そんな事にならなくてよかった。今があってよかった。心からそう思うのだ。
「家に帰ったら、父が抱きしめて「すまない」なんて言って……涙を流してくれた。そんな姿、母の葬儀の日以来だったから驚いたけれど、苦しいのが全部流れるみたいに私も泣いて楽になった。今では弟と一緒に頑張っている。私は交渉とかは苦手だけれど、戦略を練ったりその為に手を回したりするのは案外得意みたいでね。広告や、流れを作り出す事に力を入れて成果が出ている」
「良かったです」
「うん。でもこれも他の人の力があってだよ。私一人は歩くこともままならない半人前以下で、それは忘れちゃいけない。今頑張れるのは、周囲の人の助けのおかげでもある。そして私も、周りの人の力になりたいと思っている」
「はい」
「アリアちゃんも、周囲の人の力を頼る事は悪くないよ。むしろ一人で頑張るよりもずっと、沢山の事ができるはず。全部自分でなんて抱え込んじゃいけないよ」
手に触れていた、その手の上からフランクリンが触れて、にっこりと笑う。安心する暖かい笑みが、とても心に染みるようだった。
「今、アリアちゃんは自分の行いを反省して、とても苦しかったり、悲しかったりしている?」
「はい」
「じゃあ、どうしたいの?」
「……話を、したいんです。一方的に考えて、思い込んで、頑固になって別れを伝えた人がいるんです。でも……その人が私を助けてくれた。なのに私、ちゃんと伝えるべき事を伝えていないんです。私がどうして別れを伝えたかとか……やっぱり、別れたくないとか」
「大事だね。方法はある?」
「……分かりません。接点が切れてしまって、どう顔を合わせたらいいか分かりません」
「そうか。では、間を取り持ってくれそうな人はいないの?」
「それは……」
真っ先に浮かんだのはファウストとランバート。あの二人ならきっと、ウルバスとの間を取り持ってくれる。ファウストに頼むと全部を話さなければならないだろう。それこそ、あの廃屋でのやり取りも。
それならまだランバートの方がソフトだ。素直に話さなければならないし、お叱りもあるだろうけれど彼の中だけで留めてくれると思う。
「います」
「うん。そこまで分かっているなら、すべきことが見えるよね?」
「はい。連絡して、取り持ってもらえるようにお願いしてみます」
「良かった、やっぱり君は賢いね」
満足そうに笑ったフランクリンが体を離す。その時、まるで見計らったようにドアがノックされた。
「お茶をお持ちいたしました」
「有難う、ルシールさん」
本当に嬉しそうな顔をするフランクリンを見て、アリアは羨ましかった。不自由があってもこんなに素直に好意を伝えようとしている。卑屈になんてなっていない彼を見ると、自分はどうなんだと考えてしまう。
そういえば、今まで自分の体の事や現状を伝える事はしても、それについて彼の意見を聞くことはなかった。求めなかったからだし、捕らわれていたから。
ウルバスさんは、どう思っているの? 体が弱い事や、家督を継いだ事。ウルバスさんは、好意を持ってくれている? それは、どんな種類の好意なの?
急に聞きたくなった。一方的過ぎた事に今更気づいて、そうしたら会いたくてたまらなくなった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
新しいハンカチを差し出してくれるルシールを見上げ、アリアはまた新たに涙がこぼれている事に気づいた。
「大事な事は伝えないとね。私はあれ以来、弟や父と沢山喧嘩をするんだよ」
「え!」
「旦那様がお困りです。遅れすぎた反抗期がこうも面倒くさいとは思わなかったと」
「でも、飲み込むよりはいいとも言うよ?」
「……確かに、そのようです。ですが、着地点を見つけるまで大変だと仰っております」
「その分いい案が出るんだからいいんだ。とことん突き合せて議論していい物が出来たほうがいいじゃないか。結論が出ない時は時期が早いって事なんだよ」
「……性格が変わったと、苦労なさっていますが」
「今まで手がかからなかったんだから、今から手をかけてもらおうね。あの人は自分の手で後継者を育てるべきだと思うよ。結果だけじゃなくて、過程にも関わってもらわないと」
とてもいい笑顔で言うフランクリンを見るに、この人もかなりいい性格をしている気がする。でも、羨ましい気もした。
フランクリンとルシールのやり取りを微笑ましくも羨ましく見ていた。そうして頂いたシュークリームを食べ終えた頃、ふと廊下が騒がしくなった。
「困ります! 今は来客中で」
「そんな事を言っている場合ではないのです!」
バーサの声と、もう一人は……ランバートさん?
思っている間にドアが開いてランバートが仕事着で現れる。その表情はとても焦っていて、不安になるものだった。
「あれ、ランバート?」
「フランクリン様でしたか。そういえば先日、お茶会をしたのでしたか」
「そう。それよりも、何かあったのかい?」
問いかけるフランクリンにランバートは慌ててアリアへと視線を向けた。
「アリアちゃん」
「あの、何かあったのですか?」
不安になって問いかけると、ランバートは一瞬口を閉ざした。どう説明したらいいか迷うような間の後、彼は唐突に本題に入った。
「ウルバス様が、姿を消しました」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。心臓がドキドキと鳴って、とてもゆっくりと言葉を反芻している。姿を消した? どうしてそんな事になったの?
「……どういうことだい、ランバート?」
「事件後、薬の影響で少々不安定だったので医療府に入院していたのですが、安定したので昨日自室に戻りました。ですが今日の昼前、皆が就業中に忽然と姿を消してしまったのです。部屋には下賜された剣と制服と……退団届が置いてありました」
「!」
退団届? いったい、何があったの? 何が起こっているの? どうしてそんな事になってしまったの!
涙腺が緩んでいたアリアの頬をまた、新しい涙が落ちていく。ルシールが気遣って肩を支え、涙を拭いた。
「馬は使っていないんでしょ? それなら……」
「あの人の足では馬を使っていなくても時間が経つとかなり遠くまで行かれてしまいます。既に姿を消して三時間が経つと推測されます。急がないと」
「そんなに急ぐ理由はなに?」
「…………昨夜眠れないと言って処方された睡眠薬を、持って出ているのです。お金も……服の一着すら持たずに出たのにそれだけというのが」
「自殺でもするんじゃないかって事だね」
「自殺! あの、どうしてそんな! 私の事件で何かあったのですか? なんで、そんな……」
ウルバスさんが自殺する? どうしてそんな……何があったの?
「俺はなんとも言えない。ただ、とても錯乱して一度未遂を起こしたから医療府に入院していたんだ。そこから日が近いから、皆焦っている」
「そん、な……」
「アリアちゃん、何でもいいからウルバス様が行きそうな場所、知らないかな?」
必死な様子のランバートを前に、アリアは涙に濡れる目をパチリと瞬いた。
ウルバスが行きそうな場所? そんなの、きっと付き合いの長い人のほうが知っているのに。
「私、そんな……」
「……皆、知らなかったんだ。ファウスト様も、同期の仲間も、第三の人達も。ウルバス様が休みの日をどこで過ごしているのか、分からない。王都に頼る相手はいないはずだし、そうなるとどこにいるのか」
知らな、かった……
穏やかに笑って王都を案内してくれていた。皆に信頼されているのは、手紙とかから分かった。なのに、だれもあの人の事を知らなかったの?
考えて、考えて……ふと、この間の事を思い出した。静かで穏やかな草原で、遠くには山が見えて。
思い出したアリアは急いで部屋に戻り、あの時のスケッチブックをひっつかむ。息が上がるのも無視して戻ってきて、あの時描いた風景画をランバートの前に出した。
「ここ! この場所に、いるかもしれません」
「ここ……」
「落ち込んだ時に、ここに来ると落ち着くって、言っていて。王都から馬で三十分、って」
少し咳き込んで、でも言葉は止めない。ここじゃなければもう分からない。
「ここなら分かります。俺もファウスト様と行ったことがあります」
ランバートは頷いて踵を返す。だがその腕を、フランクリンが掴んだ。
「フランクリン様!」
「……アリアちゃん、行かないの?」
「え?」
真剣な目が射貫くようにアリアを見る。その強さに、アリアは言葉を詰まらせた。
「大切な人の事だよね? 他人に任せていいの? それで、後悔しない?」
「でも、私……」
謹慎中だ。それに、行っても足手まといになる。それで何かあったら……助けられなかったら?
でも、行きたい。聞きたいんだ、色んな事を。自殺未遂って、どうして? 貴方は私の事をどう思っているの? 私は……貴方に聞いてもらいたい事も言いたいこともまだある。それを伝えたいと、決めたばかりなのに。
「……ランバート義兄様、私……行きたいです」
ランバートは驚いた。けれど考えて、強く頷いてくれた。
「馬は一人用の鞍だから不安定になる。ちゃんと掴まっていられる?」
「はい」
力強く頷いたアリアの肩に、ふわりと暖かなコートがかけられた。白い毛皮のコートは暖かくて、意外と軽く感じた。
「アーサー様には私から話をしておくから、安心していって。大丈夫、人助けだから」
「フランクリン様……っ、有難うございます!」
ガバリとお辞儀して、ランバートに連れられて外に出た。馬に跨がったその先を睨み付けて、アリアはただ強く無事を祈るばかりだった。
▼ウルバス
つくづく、馬鹿な事をしている。
薬が抜けて冷静にはなった。だが、冷静ではなかった時に自覚した感情に歯止めがかかる予感がしなかった。
あの日を境に見る夢は、どれも甘美で愚かしく、そして狂気だった。
誰も知らない石造りの部屋に格子をはめて、ベッドに括ったアリアを見ている。「愛している」と囁いても彼女は何も返さない。黒い瞳は何も写していないようなのに、それにも気づかず悦に入る自分のなんて間抜けな姿か。
でも、甘美なのだ。安心するんだ、自分のものだと。ここに置いておけば誰かに取られることはない。彼女を傷つける奴もいない。
自分が一番彼女を傷つけ壊しているのに、それに気づかない狂気があるんだ。
これは、きっと現実になる。そんな予感に飛び起きて、震えていた。その次に見るのは母の自殺風景。けれどそれが徐々に、アリアに変わっていく。「酷い」「私を壊したのは貴方だ」と、酷く折れた体で責める。
「こんなはずじゃなかったんだ」と言っても、これはおそらく自分のせいで……酷く残酷で現実的な予知夢に思えてしまった。
爽やかな草原の風は、冷たい冬の空気を連れてくる。薄い服に、コート一枚。ポケットには睡眠薬。手には、少し前まで自殺防止の為につけられていた手錠がある。
普通に戻ったと思って油断しているのは分かったから、こっそりくすねておいた。もう少し暗くなったら山の方に行って、そこにある湖に入ろうと思っている。手錠は重しを離さない為のものだ。
ゴロンと横になったウルバスは高い空を見上げている。そしてふと、先日の事を思い出した。
隣で屈託なく笑うアリアを可愛いと思った。寝顔、一生懸命に描いてたから起きてるって言えなかった。別に構わなかったし、真剣な黒い瞳が輝いているのを見るのは好きだから、もう少し見ていたかった。
ねぇ、君はあの時にはもう、別れを考えていたの? あれは、最後の思いで作りのつもりだった?
あの時、この気持ちに気づかなくてよかった。もしも気づいていたら攫っていたかもしれない。別れるなんて、許せなかったかもしれない。手を引けたのは、あの時はまだこんなにも欲しているとは自覚していなかったから。
僅かに空が滲んだ気がして、ウルバスは慌てて目元を擦った。
起き上がり、徐々に暗くなりそうな空を見て立ち上がろうとしたその時、馬蹄の音が近づいてきていた。
確かめもしないで立ち上がり、走り出した。探しているんだろうと思ったから、こっそり抜けてきた。騎士団の人間にはみつかりたくない。変わり果てた姿を彼らの前に晒すのは嫌で……行方不明のままで終わりたくてきたのだから。
走って、走って…………その後ろで、馬の足が止まった。
「待って!!」
「!」
驚いたウルバスは目を見開いて一瞬足を止めてしまった。幻聴かと思ったのだ。こんな所に彼女がいるはずがない。彼女は馬に乗れないはずだ。何よりこんな寒い所に発作を起こした人が来るなんて、危険な事だ。
いや、一番の危険は自分自身だ。もう、歯止めがきかないんだと思う。欲しいと思う欲望を自覚したら、たまらなく辛いんだ。
何より、拒絶されただろう。彼女は好きだと言ってくれたが、同時に別れも言われている。別れたくない。別れるくらいなら攫ってしまいたい。
こんな思考をする自分が一番の危険物だ。
足が止まったのは一瞬。再び走り出そうと足を前に。だがその前に必死な声が草原に響きわたった。
「騎士団を辞めるなら……私に残りの人生くださーい!!」
「!!」
夕刻の鳥が羽ばたく位の声が山まで木霊するほど大きくて、更にはその内容に驚いて、ウルバスの足は止まってしまった。
その間に片腕がずしりと重くなって、息を切らしたアリアが全体重で縋っていた。
「お願い、行かないで。私、貴方を振り向かせるくらい、綺麗になるから。もっと元気になって、貴方のお願いも叶えてあげられるように、なるから。だから、行かないで」
そんな事、望んだわけじゃない。君は君であるだけで十分に綺麗で、放っておけない存在になっている。
だからこそ、側にいられないんだ。目が離せないんだ。親愛が恋情に変わった瞬間、この関係は終わりにしないと危険なんだ。
「ダメだよ、アリアちゃん。君は怖い思いをしているじゃないか」
「あれは……」
「アレが俺の本性だよ。俺は君を縛り付けたい。俺だけのものにしたい。ダメだと分かっているのに君を他のみんなから取り上げて、俺だけにしてしまいたい。そんな身勝手な欲望を持っている。いけない事と知りながらその欲望に負けそうな自分がいるんだ。君にとって一番危険なのは、俺なんだよ」
振り向けないまま、背中に暖かな体温が触れる。腰に、離さないようにと抱きつく細腕がある。触れたい気持ちもあるが、我慢した。触れたらいけない気がするんだ。
「……私は、ウルバスさんが好きです」
「っ」
「私の不自由が貴方を縛ってしまう。だから私は貴方に相応しくないと思って、別れを伝えました」
「……うん」
言っていたね、あの廃屋で。でもそんなの、気にしたことはなかったよ。体の事は知っている。無理ができないのも分かっている。そのうえでもう一年手紙をやりとりして、二度目のデートをしたんだ。相応しいとかそんなこと、考えてもいなかったよ。
アリアの腕が更に強くなった。背中に感じる温もりが、恋しくなってきた。
「でも、もしも我が儘を言っていいなら、私は貴方の側にいたいです」
「だから」
「貴方の狂気を知っても、私の気持ちは変わりません!」
「!」
細い腕が力を入れる。絶対に振り払えないようにと、必死になっている。やろうと思えばこんな腕、簡単に振り払える。なのにそれができないのは、ウルバスもまた未練がありすぎてこのままで居たいと思ってしまったから。
「……それ、自虐が過ぎるよ。分かって言ってる? 俺は君の人としての尊厳を根こそぎ挫くような事を言っているんだけれど」
「シュトライザーの屋敷の中でしたら、捕らわれてもいいです」
「ねぇ、怒るよ? ダメに決まってるじゃないか。俺がおかしいの! そんなのに君が付き合う必要はないんだよ!」
「私がそれでいいと言っているんです! 貴方が狂ってるなら、私も同じでいいじゃないですか!」
いいわけ、ないじゃないか。不幸にしたくないと思っているのに、そうしてしまいそうで怖いのに。君がそれを受け入れてしまったら、いけないんだよ。
「側に、いてください。お願い、話がしたいんです。私、貴方に伝えたい事も話したい事もあります。消えてしまわないで。お願いします」
「…………」
消え入りそうな涙声が、ウルバスをとどまらせる一番の鎖になった。
振り向いたそこには髪を乱し、顔中を涙に濡らし目尻を腫らしたアリアと、そんな二人を少し離れた所から見守るランバートがいた。
「俺に、消えて欲しくないの?」
「勿論です」
「俺は、君に酷い事をした。これからも、するかもしれない」
「はい」
「……アリアちゃんは、虐められたい子だった?」
「違います。けれど、信じています。ウルバスさんの中にはちゃんと、優しい貴方もいるんだって。私を閉じ込めたい貴方もいるかもしれないけれど、それを恐れて逃げようとする貴方は優しいウルバスさんです。私は今の貴方を信じます。それでも閉じ込めたくなったら、私はそれに従います」
信じている。その言葉の重みは凄い。
少し遠くにいたランバートが困ったように眉根を寄せる。そしてそっと、近づいてきた。
「大丈夫ですよ、ウルバス様」
「ランバート?」
「この子の兄、誰だと思っているんです? もしも貴方が暴走しても、あの人が止めますよ。貴方が本気で抵抗したって、ファウスト様には勝てないでしょ? それに、俺も許しません。貴方の暴走を止めますから、あんまりごちゃごちゃ考えずに今の気持ちに従ってください」
深く溜息をつかれて、まるでファウストにするみたいな説教をするランバート。
でも、確かにそうだ。ウルバスが本気を出したってファウストには敵わない。それなら狂った自分がアリアに何かする前にきっと殺してくれる。アリアは無事でいられる。
あぁ、そんな簡単な事、必死すぎて考えもしなかったな。
側に居るアリアがしゃくり上げ、必死に涙を拭っている。白い肌が擦れて痛々しく赤くなっている。
あまり、考えはしなかった。多分自分に許しを与えたのだ。
拭う手を掴んで止めて、涙をこぼす目尻に唇を寄せる。触れた柔肌は心地よくて、もっと沢山触れていたいものだった。
「っ!!」
「ダメだよ、擦ったら。赤くなっているじゃないか」
「あっ、ウルバス、さん、あの、あのぉ!」
「こっちも赤い」
くすくすと笑って、もう片方の目尻にもキスをする。まぁ、もう目尻の赤さなんて目立たないほど顔が真っ赤なんだけれど。まるで苺みたいで可愛い。食べたらきっとランバートが怒るんだろうな。
「美味しそうな苺さん、食べてもいい?」
「ひゃの!!」
「いいわけないじゃないですか! ほら、暗くなりますよ。これ、王都まで歩けないじゃないですか」
見ると空はすっかり薄闇に染まっている。風も冷たくなってきた。
「……ここから徒歩で十五分くらいの所に、小さいけれど温泉宿があるよ」
「え?」
「元、だけれどね。顔なじみの老夫婦がやっていたんだけど、高齢で去年閉めたんだ。お願いすれば、泊めてくれるかもしれない」
この草原は風が気持ち良くて、夜には星が綺麗で、ウルバスはちょいちょい帰るのを忘れてしまう。そんな時にお世話になった宿だ。元は山越えの旅人で賑わっていたそうだが、今はもっと安全なルートが出来てしまって宿泊客が少ないと言っていた。
「そこに一晩お世話になろうか。暖かそうなコートだけれど、冷えるのは良くないから」
誰のコートだろう。明らかに着丈が長い。この長さだと男だと思う。今度もっと似合うのを彼女に贈って、これは返品しよう。
「では、そうしましょうか」
ランバートが馬を引いて促してくるけれど、ほんと言うと君も邪魔。
……いや、居てもらわないと困るか。何かしそうな時に止めてくれないと困る。
うん、色んな本性が出てきている気がする。自分の独占欲にドン引きしそうだけれど、楽になったのも確かな気がした。
そっと隣に並んだアリアが手を繋ごうとして引っ込める。その手をしっかりと繋いで、ウルバスは目的地へとゆっくり進んでいくのだった。
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我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。
こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。
同性婚が当たり前の世界。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
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