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14章:春色アラカルト

11話:家ねこの社交事情(チェルル)

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 ハムレットの傷も十分に癒えて別荘地に戻ったのは三月の初旬。ようやく二人での生活が始まったと思ったのだが、ハムレットの診察を待つ患者はけっこういたらしく、この一ヶ月は忙しくしていた。
 当然ハムレットの診察にはチェルルもついていった。ちょっとの手伝いや話し相手、その家の雑事を手伝ったりと、戦争前の状態に戻った感じだった。
 嬉しかったのは別荘地の人達がチェルルを忘れずにいてくれて、歓迎してくれたこと。そして以前と変わらぬ様子で受け入れてくれたことだった。

 だが問題は多忙なだけじゃない。実はハムレットの嫉妬を大いに煽っている事柄があるのだ。


 王都ウルーラ通りを我が物顔で進む女性の後を、チェルルはちょっと小さくなってついていく。流行の春色のドレスを着た彼女は鼻歌交じりで上機嫌なのだが、もう二時間付き合っているチェルルとしては心臓に悪い時間を過ごしている。

「あの、シルヴィア様」

 たまらず声を掛けると、数歩前を行く彼女はくるんと綺麗なステップで後ろを振り返り、綺麗な柳眉を寄せた。

「もぉ、チェルルちゃん何度も言ったじゃない。私の事はお義母様でしょ?」
「恐れ多いですよ!」

 ちょっとむくれた彼女みたいな様子で言うが、相手は天下のヒッテルスバッハ夫人で人妻だ。圧倒的お貴族様な彼女に向かって「お義母様」なんて、貧乏な孤児だったチェルルが言えるはずがない。

 だがこれを言うと、シルヴィアは更に機嫌を損ねてしまうのだ。

「もぉ、いいじゃない。貴方は私の息子なんだもの」
「それは……そうなんですか?」

 確かにものすごく受け入れられているし、ハムレットの恋人である自覚はある。彼の為ならチェルルは全てをなげうつ覚悟もできている。
 けれど、いまいち息子と言われることには慣れていない。同様にジョシュアの事を「義父」、アレクシスの事を「義兄」、ランバートの事を「義弟」という感覚もあまりない。なので一律で名前に様をつけて呼んでいる。
 他からはこれで物言いがついた事はないのだが、シルヴィアだけはどうしても毎回訂正が入ってしまうのだ。

「チェルルちゃんはもう私の息子よ。ハムレットのお嫁さんなんだもの」
「それはそのつもりですが……俺、そもそも一般的な家族がいた試しがないので、そういう感覚はよく分からないんですよ」

 困って正直に伝えると、シルヴィアの表情も多少は曇る。気遣うような視線に余計にいたたまれなくなってしまった。

 チェルルは孤児だ。両親の顔も知らない。教会で育ち、沢山の血の繋がらない兄弟がいて、神父が父の代わりをしてくれた。
 大勢で家族という居心地の良さは知っているものの、一般的な家庭の家族というのは縁遠くて実感がない。
 現在はハムレットと暮らしているが、これといって家族らしい事はしていないように思う。一緒にご飯を食べて、彼の仕事を手伝って、一緒にお風呂に入って洗いあって、一緒に寝る。どっちかと言えば恋人の時間が続いている。

「すみません、不器用で。少しずつ慣れていきますから」
「もう、不器用な子。私を実の母と思って甘えてくれていいのよ?」
「その実の母の記憶もないので、無茶言わないでくださいよ」

 ズイッと近づいてくるシルヴィアがポンポンと頭を撫でてくれる。これは……正直好きだ。ハムレットもしてくれるけれど、落ち着く。

「さて、買い物は後数件あるから、しっかりついていらっしゃい」
「えぇ!! まだあるんですか?!」
「当然よ。ここからは貴方の荷物を取りに行くのもあるからね。覚悟なさい」
「うえぇ、目が回るよぉ」

 目の前で数百~数千というお金が当然のように飛んでいくのを散々見てきたチェルルは、本当に金銭感覚崩壊寸前で目眩がしてしまった。

 そうして連れてこられたのは、丁度ヒッテルスバッハ邸にお邪魔していた時に彼女につれてこられた店だった。オーダーの紳士服の店だ。
 その時は訳も分からないまま全身くまなく採寸され、髪の色や瞳の色まで見られ、あれこれ綺麗な布を当てられて終わった。結局何をされていたのか分からない出来事だったが、後日綺麗なモーニングとスーツが数点届いた時には戦場以上に震えた。

「俺、もう服はいらないですよ!」

 先制で断っておいたのだが、返ってきたのは「もう作っちゃった」という更なる先制パンチだった。

 足音の全部を吸い込んでしまいそうな毛足の長いワインレッドの絨毯に、趣のある飴色の家具が並ぶ店内。そこに知っているテーラーが恭しく頭を下げて待っている。

「ようこそいらっしゃいました、シルヴィア様、チェルル様」
「ごきげんよう。お願いしておいた物は出来上がっていて?」
「勿論ですとも。さぁ、チェルル様もこちらへ」
「……」

 自分が様をつけられて呼ばれるのは、慣れないを通り越して鳥肌が立つ。どうにかしたいのだが、どうにもならないのが現状だ。

 きっちりと黒髪を撫でつけた、眼鏡の几帳面そうなテーラーが箱を一つ持ってくる。そうして蓋を開けると、中から深いグリーンのスーツが入っていた。

 吸い込まれるような深いグリーンのジャケットは長すぎないお尻が隠れる丈。華美な装飾はないが、縁が控えめな金糸で刺繍してある。揃いのベストは同じくグリーンと明るいブラウンのチェックで、オーソドックスな形のカジュアルスーツだった。

「どう?」
「綺麗……じゃなくて! あの、頂けませんよ!」
「あら、どうして?」
「どうしてって……着ていく場所がありませんし。何より俺では、馬子にも衣装というか、着られている感じがして」

 服装と中身が一致しない。鏡の中の自分を見るたび思い出す。今こうして綺麗な服を着ている自分は、何も持たない孤児なんだって。
 そうしたら、むなしさがこみ上げた。

 シルヴィアは気のない顔をするが、次には鋭い視線をチェルルへ向ける。こういうときの彼女の視線は歴戦の戦士のように鋭く緊張してしまう。

「着ていく場所はすぐにあるわよ」
「え?」
「ハムレットから聞いていないのかしら? あの子、医師会の恩師の誕生パーティーに呼ばれているのよ」
「あの……知らないです」

 聞かされたチェルルの胸に、ズキリと痛みが走って思わず胸元を握る。同時に、こういうことはあることだと自分を納得させた。ハムレットにはハムレットの付き合いがあるんだから、知らないことだって多いだろうと。
 けれどそこに追い打ちをかけるように、シルヴィアは鮮やかな笑みを見せた。

「その恩師の孫娘、ハムレットにぞっこんらしいわよ」
「え?」
「結婚したいそうだけれど、どうするの?」
「どう……て……」

 ズキズキと痛んで、先が見えなくなる。悲しくて、辛くなる。故郷を捨ててあの人を頼ってきたのだから、あの人に捨てられたらチェルルは行き場がなくなる。
 勿論ハムレットがそんなことをしないのは分かっているけれど、貴族の世界は色々複雑で、家の事情とかもある。だから、絶対大丈夫なんて言えないんだ。

「……嫌です。ハムレットは、俺のです」

 グッと拳に力が入ったチェルルを、シルヴィアは満足そうな顔で頷いた。

「これは一つの勝負服よ。これを着て、堂々あの子の隣に立ちなさい。見た目でナメられちゃだめよ。貴方は私や主人、他の家族も認めるハムレットの番。堂々とハムレットにこの事を問いただして、隣にいなさい。俯いちゃ駄目」

 力強い鼓舞の言葉に背中を押され、チェルルは箱の中の服に視線を向け、触れてみた。上質と一目で分かるそれらだが、触れるとより一層感じられる。
 今は中身が伴わない。勉強して、ヒッテルスバッハ家の執事に見習いとしてしばらく修行もして、それでもまだ満足できるハムレットの番になれない。
 それでも、渡したくないんだ。他の誰にもあの人を、たとえ一ミリでも渡したくない。

「……有り難く、お受けいたします」
「そうなさい。貴方のその根性、私大好きよ」

 極上の毒のような笑みを浮かべたシルヴィアに、チェルルは真っ直ぐに頷いた。

◇◆◇

 その夜、チェルルが戻ってくるとハムレットはやっぱりご機嫌斜めな顔をして仁王立ちだった。
 けれど今日はチェルルも言いたいことがある。負けないように踏ん張って見つめると、いつもと違う事にハムレットはすぐに気づいて態度を軟化させた。

「どう、したの? 何か怒ってる?」
「怒ってるよ。先生、俺に何か隠してる事はない?」
「隠し事?」
「……恩師のパーティー」
「あぁ……」

 本当に最初は思い当たらなかったのか真剣に首を捻っていたが、答えを投げ込むとすぐに視線を他に向けて気まずい返事を返してくる。これ、都合が悪い時のこの人の癖だ。

「あぁ、じゃないよ」
「だって、本当に忘れるような話だもん」
「行くんでしょ?」
「顔を立てるだけだよ」
「普段そんなこともしないくせに。大事な人のパーティーなら、俺に知らせておいてもいいじゃん」
「猫くんは関係ないよ」

 「関係ない」という言葉にカチンとくる。同時に、ズキズキと痛い。確かに関係ないんだ。ただ一つの事柄を抜けば。

「……その人の孫娘、先生にぞっこんだって?」
「!」

 パッと顔を上げて、次に都合が悪そうに視線を外す。ということは、そういう話も知っていて、それでもあえて言わずにいたんだ。

 胸の奥が気持ち悪い。分かってる、嫉妬なんだ。今一緒に過ごしているのに、それでもまだ安心しきれなくて囲い込みたい。ハムレットが他に靡くなんてありえないのに、それでも他人の臭いがつくのが嫌だって思ってしまうんだ。

「俺も行く」
「いや、でも……」
「先生に変な臭いつくの、嫌だ。俺が隣にいて、ずっと見張ってる」

 駄々っ子みたいに我が儘を言いながらハムレットの胸元を掴んだチェルルは、そのまま彼の胸に顔を当てた。そうしてようやく、息が出来た気がした。

「チェルル」
「……ごめん、我が儘なのは分かってるよ。でも俺、先生に捨てられるのが怖い」
「捨てるわけないだろ! 猫くんは僕の家族だよ。僕の恋人で、パートナーで、生涯を共にするんだ。お墓も一緒にしよう?」
「分かってるよ」

 分かっていても不安だ。話してもらえなかったこともショックだし、そういう場所に知っていて行こうとしているのも嫌だ。大人の付き合いとかあるけれど、許容できないんだ。

 そっと背中を撫でるハムレットに促されて彼の部屋に。座らされて、珍しく横じゃなくて正面に座って、ちゃんとチェルルを見ている。

「……隠したのはごめん。なんというか……後ろめたかったんだよ。僕にその気はなくて、断りに行くつもりだったけれど、結局参加することに変わりないし」
「うん」
「話したいから、聞いてくれる?」
「うん、勿論」

 ちゃんと座り直したチェルルに合わせて、ハムレットも座り直す。そうして、ハムレットはゆっくりと話してくれた。

「その恩師は、僕がまだ駆け出しだった頃から何かと目を掛けてくれた人なんだ。ヒッテルスバッハからの医者なんて話題ばかりだって言われて、悔しい思いをしていた頃だったからさ。余計に、恩を感じている」

 静かに話し始めたハムレットの声には穏やかで懐かしむ色があって、チェルルも自然と受け入れる。なんだかこんな風にこの人の過去に触れるのは初めてな気がして、ちょっとドキドキもした。

「王都医師団って、結局は縦社会でさ。社交上手が上に行けたりするの。その点僕は最初から躓いてね。公爵家のボンボンに何が出来るんだって言われて、実績も積めないままモヤモヤしてた。その頃に俺の論文を読んでくれた恩師に誘われて、話をして……そこから、あの人の助手とかして腕を磨いていったんだ」
「先生にもそんな下積み時代あったんだね」
「あったよ。頭の中にあるばかりじゃ駄目だから、ちゃんと実証しなきゃいけない。腕を磨いて、場数を踏んで、失敗も成功も積み重ねて今の僕があるんだ。そういう、最初の部分を作ってくれた人なんだよ」

 穏やかで柔らかく伝えてくるハムレットの表情や視線で、その人物がいい人だというのは十分に分かった。この人は大抵の人間を内側に入れない。そんな人の内側に入っているのだろう恩師という人物は、間違いなく信頼出来る人なんだ。

「おかげで僕は医者としても十分やっていける腕を持った。だからこそ王都医師団なんて知らん顔できるんだけれど、それもこの人がいてだったかな」
「信じてるし、大事な人なんだね」
「そう。今年で七一歳なるんだけれどね、何かと都合がつかなくて顔を出せていなかったんだ。だから招待状が届いた時に、行こうと思って。いつ、何があるか分からないしね」
「うん。それで、その孫娘は?」
「それは寝耳に水なんだ。ただ、そんな噂を聞いてさ。そこもちゃんと断るつもりで行くんだ」
「なんて断るのさ」
「決まってるじゃない? 僕はもう将来を誓い、生活も共にしているかけがえのない家族いがいる。これから一生彼と寄り添って、苦楽も共にしていくと誓った相手だから、君とはお付き合いできない。ごめんなさい」

 ひょこりと頭を下げるハムレットを前にして、チェルルは顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。そして、嬉しかった。

「それでも言い募られたら家の力を使って……」
「ちょ! 一気に雲行きが怪しくなったんだけど!」
「えー、だって僕は猫くんだけって決めてるもん。それに、君に何かしらちょっかいをかけてきたらきっと母上が黙ってないよ。君、母上のお気に入りだもん」
「そんなこと……」
「今日も母上と一緒だったでしょ? それにこの話も母上からじゃないの?」
「うっ!」
「もう、僕がいるのに母上本当に嫌なんだからな。僕の猫くんなのに」

 ブーとふてくされたように頬を膨らませるハムレットにチェルルは慌てる。立ち上がって隣に座って、膨らんでいる頬にちょんとキスをする。するとお返しとばかりに唇にキスが落ちてくる。舌がチラチラと、口腔を舐め回す。

「んぅ、先生くすぐったい」
「くすぐったいだけ?」

 意地悪に笑ったハムレットの手が股ぐらに触れる。ほんの少し熱くなっている部分に触れられて、少し腰が甘く痺れた。

「もぉ、今日はしないよ?」
「しないの?」
「しないの! それに、お腹すいた」

 伝えたのと同時にチェルルのお腹が鳴る。そこそこ大きな音に恥ずかしくなったチェルルを、ハムレットが可笑しそうに笑った。

「もぉ、ムードないなぁ」
「だって」
「ご飯、食べようか」
「うん」

 二人で連れ添って食堂へと降りていく。そんな、日常がチェルルの今になっている。

◇◆◇

 恩師のパーティー当日、チェルルはハムレットの隣にいた。王都の閑静な邸宅の一角は賑わっている。
 エントランスには着飾った人があちこちに居るが、そのほとんどがハムレットよりも十は年上に見える。その中の一人の紳士がこちらに気づいて、にこやかに近づいてきた。

「これはハムレット先生、お久しぶりですね。お噂は色々聞いておりますよ」
「アンソニー先生、お久しぶりです」

 丁寧に礼をしあう二人を見ていると優雅な世界を感じる。チェルルはそっとそこに寄り添うのが精一杯な気がしてしまう。生まれから違うのだと言われているような疎外感がある。

「東の辺境地にしばらく赴いていたとか。軍に力を貸していたとも聞きますが」
「まぁ、そんなところです。軍には弟が世話になっておりますしね」
「そちらの噂も聞いていますよ。辺境地での医療というのは、やはり難しいものですかな?」
「難しい事はありませんが、忙しいでしょうね。何か予定でも?」
「年を取ったら田舎に引っ込もうかと思っていましてね。参考までに」
「そうでしたか。出来ることに限りはありますが、特別な事はないと思います」

 穏やかな会話が交わされる、その視線が不意にチェルルへと向いた。

「ところで、そちらの彼はどなたですかな? 従者……とは、違う様子ですな」

 覚悟していた言葉だったけれど、多少痛みはある。
 普通、こういう場で同性が同席となると従者か息子だろう。ハムレットの年齢で息子はないだろうから、そうなると従者。
 だが普通従者だって華やかな席には出ていかない。控え室で大人しく控えているのが普通だ。それを連れ歩いているのは、礼儀がなっていないのと同じ。

 チェルルは「違う」と言いたかったが、言葉が出てこなかった。だがハムレットがチェルルの腕を組んで、グッと隣に並んだ。

「僕の伴侶です」
「伴侶?」

 アンソニーは驚いたように目を丸くしてチェルルを見たが、ハムレットはしっかりと頷いている。そしてチェルルも、堂々と隣に並び礼をした。

「チェルルと申します。以後、よろしくお願いします」
「驚いた……噂は聞いていたが本当だったのだね」

 アンソニーは心底驚いた顔をしたまま、チェルルにもしっかりと礼をしてくれた。

「アンソニーです。こちらこそ、よろしくお願いします」

 驚きながらも穏やかに迎えてくれたアンソニーと握手を交わして、チェルルはホッとする。とりあえず一人、受け入れてくれる人が居たことが嬉しかった。

「噂と言っておりましたが、やはり?」
「まぁ、大きな事件にもなったからね。君が連れの子を庇って怪我をしたというのは、ここいらでも有名な話だ。それがどうやら特別な相手らしいとね」
「ふーん」
「連れてきたということは、公にしようと?」
「隠せば色々と面倒もありますから」
「そうか……。私は君の技術の高さと医学への献身をよく知っている。応援するし、尊敬もしている。だが、そうでない者は君を攻撃する材料とするだろう。チェルルくんも、矢面に立たされて辛い思いをするかもしれない。覚悟はあるのかね?」

 とても気遣わしい顔をして、アンソニーは気遣ってくれる。だからこそ、チェルルはにっこりと笑って頷き、ハムレットの腕を引き寄せた。

「平気です」
「そうか。……大丈夫、正しく評価する目を持っている者は味方となってくれるだろう。まずはホレス先生に挨拶しておいで」

 丁寧に礼をして下がっていくアンソニーに同じように礼を返したハムレットとチェルルは、ゆっくりとパーティー会場である庭の方へと回った。

 その間、随分な視線が二人をぶしつけに見つめ、小さな声が聞こえた。「礼儀知らず」と罵る者もあれば、「従者連れ?」「噂の相手か?」という声も聞こえた。
 勿論そんなことを気にせず、親しげに話しかけてくれた人もいた。アンソニーのような紳士的な態度の者もいれば、もっとハムレットと年齢が近く気さくな人もいた。どうやらハムレットの恩師であるホレスの門下生のようだった。

 そうしてホレスがいるというメイン会場である庭に行くと、余計にどよめきが大きくなった気がした。
 若い女性と男性が多くて、楽しく歓談している様子だ。着飾った若い人々はこちらを怪訝と好奇の目で見てくる。ハムレットではなく、チェルルを笑う声が多いように聞こえる。

 自然と視線が下がってしまった。寸前までは「自分に恥じるべき所はない」と思っていたのに、ここに来ると顔が上げられない。ハムレットに恥をかかせているような気がしてたならないのだ。

 そんな中、着飾った少女がパッと頬を染めてハムレットの方へと近づいてきた。
 淡いピンク色のドレスに花をあしらった亜麻色の髪の少女は、大きな緑色の瞳を輝かせ頬を薄く染めている。そしてハムレットの前までくると、優雅に一礼した。

「お待ちしておりましたわ、ハムレット先生。私、ルシールと申します。よろしければあちらで一曲お相手願えませんか?」

 可愛く、同時に綺麗だ。きっともう少し成長したら美女だろう。自分の可愛さを知っていて、自信を持っている様子もある。
 だがハムレットの対応はとても冷ややかなものだった。

「初めまして、ルシール。僕は君とどこかで会っているかな?」
「いいえ? でもお父様とお祖父様からお話は伺っていますわ。とても優秀な方だと」
「有難う。けれど、ダンスは遠慮するよ。パートナーにも失礼だ」
「パートナー?」

 ルシールの目が初めて、側にいるチェルルへと向く。その視線の違いは誰が見ても明らかで、不快だった。そこらにある興味のないものを見るように一瞥するのみ。そして綺麗さっぱりチェルルを無視して、にっこりと笑みを作ってハムレットに媚びるのだ。

「立派な従者ですわね」

 この瞬間、側にいれば誰もが閉口するような冷気が走った。ハムレットが明らかに、一段対応を下げた瞬間だった。

「耳、聞こえてる? それともバカなの? 僕は従者だなんて言っていない。パートナーと言ったんだよ。理解できなかったかな?」
「でも、男の方でしょ? あっ、分かりましたわ! 遊び相手ですのね」

 チェルルの方が寒気がする。ハムレットの機嫌はみるみる下がっていくのに、あちらはまったく気づいていない。単純にバカなのか、分かっていて煽っているのか……後者はないだろう。

 青筋を立てるハムレットが大仰に溜息をつく。そして、ゴミを見る目を彼女に向けた。

「君、何を勘違いしてるわけ? 自分に都合のいいように解釈して僕の伴侶を傷つけるのやめてくれる? いい加減耳障りを通り越して不愉快極まりない」
「だって……」
「性格の醜さは見た目の醜さに勝るね」

 吐き捨てるような台詞に、さすがにルシールも目をつり上げる。その彼女の前でハムレットは突然チェルルの腕を引き寄せ、驚いている間にしっかりと唇にキスをした。

「んぅ!」
「なっ!」

 ルシールは怒りに顔を赤くして固まり、チェルルは突然の事に驚いて固まった。だが、これがまた気持ちいい。これでもかってくらいの舌を絡めてくるものだから、公衆の面前だというのに体が火照って大変な事になってしまっている。

 ようやく唇が離れた時には、周囲は明らかに静かになっていた。

「可愛い、チェルル」
「せ! ……ハムレット! なにすんのさ!」
「だって、不愉快だったからさ。見せつけてやろうと思って」

 チラリと彼女を見ると、最初の澄ました仮面が完全に崩れ落ちたものになっていた。

「お呼びじゃないよ、お嬢ちゃん。分不相応な夢はさっさと捨てるんだね。君の器じゃないよ」

 それを言われたらチェルルだって分不相応な気がしないではない。あえては言わないが。

 ルシールは目に涙を浮かべて睨み付けると、ハムレットに向かって持っていたグラスの飲み物をひっかける。シャンパンが服を汚し、周囲は再び時間が流れたように騒々しくなった。

「ヒッテルスバッハのお嫁さんになれると思っていたのに!」

 ヒステリックに言ったその言葉こそが、ハムレットを酷く傷つけている。そんな気がして、チェルルはギュッと腕を掴んだ。痛そうな弱い目が、悲しくて辛かった。

「何事だね?」

 騒然とした人々の中から、杖をついた老人がゆっくりとやってくる。ルシールはチラとその人物が見えた瞬間に人混みに紛れて消えてしまった。
 老人がゆっくりとハムレットへと近づいてくる。そうしてすぐに家の人を呼んで、チェルル共々別室へと促してくれた。人を割って進み、屋内に入った三人はやがて穏やかな談話室へと腰を落ち着けた。

 ハムレットにはすぐに替えの服が用意されたが、老人はとても申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。高級なスーツにシミをつけてしまったと。だがハムレットは全く気にする事なく、穏やかに笑って老人を座らせた。

「本当に、うちの孫娘がすまないことをしたね、ハムレットくん」
「ホレス先生のせいじゃありませんよ。それよりも、お誕生日おめでとうございます。遅くなりましたが、お祝いです」

 ジャケットの内ポケットから出した封筒の中身は、王都近郊の温泉地の宿泊券だった。家族全員分だ。

「不快な思いをさせてしまったのに、更に贈り物など受け取れないよ」
「それとこれは別です。それに、先生に不快な思いをさせられた訳ではありませんし」
「だが……」
「いい年なんだから、温泉でゆっくりして長生きして欲しいってことです。いいから受け取って。うちの行きつけの宿だから居心地は保証するから」

 ハムレットは差し戻されそうな宿泊券をガンとして受け取らない姿勢を見せる。それに、ホレスは苦笑して礼を述べて受け取った。

「それにしても、どうしてこうなったわけ? 俺は結婚しないって周囲にも言ってたのに」
「それがな。うちの息子夫婦が君の話をしていたようなんだよ。独身で大貴族の子息なのに日々研究熱心で、論文も多く出していると。それを聞いて、勝手に自分が君のお嫁さんに相応しいと思い込んだようなんだ。本当に、どうしてこうなったものだか」

 頭をかかえたホレスから気苦労がにじみ出ている。いっそ可愛そうな気がして、チェルルはニコッと笑った。

「あの、もう大丈夫だと思います。多分、嫌われたので」
「チェルルくんと言ったか。有難う、こんな老いぼれを気遣ってくれて」

 穏やかに微笑んだ人も大分苦労をしている。そんな気がしてならなかった。
 だが本当に、もう大丈夫だ。綺麗さっぱり嫌われただろう。なんせ気位の高そうな子だったから、それをへし折ったハムレットを憎みこそすれ慕いはしないだろう。
 勿論、何か危害を加えようというならチェルルは容赦しないつもりだ。大分平和な日常を過ごしているが、いつでも戦えるように爪は研いでおく。これが猫だ。

「あの子には私の方からキツく言っておく。ハムレットくんはどうするかね?」
「騒ぎも起こしてしまったので、これでおいとましますよ」
「そうか。また後日、顔を見せにきておくれ。チェルルくんも歓迎しよう。是非のんびりと、二人の噂の真偽を聞きたいものだよ」
「はい、後日」

 立ち上がったハムレットが握手を求め、ホレスもそれに応じる。チェルルにも同じようにしてくれて、優しい視線を向けてくれる。
 そのまま今日はヒッテルスバッハの家に帰る事になった。

 馬車をお願いしようかと思ったが、ハムレットは歩きたいと言って歩き出してしまう。追ったチェルルが隣に並ぶと、珍しくハムレットがそれに寄り添った。

「先生?」
「……ねぇ、猫くんは僕がヒッテルスバッハの息子で、良かったと思う?」
「え?」

 突然問われて、チェルルは戸惑ってしまった。だが、ハムレットから「正直に」と言われて、躊躇いながらも答えた。

「そうじゃなきゃ会うこともなかったと思うけれど……違ったらもっと気楽にいられたと思う。俺みたいに何も持たない野良猫あがりに、先生の背負ってるものは大きすぎるから」

 これが本音だった。

 ランバートの兄で凄腕の医師だったから、チェルルは会うことができし助かる事ができた。けれどヒッテルスバッハという大きな家に入る事は容易ではなく、今も勉強している。背負うものの大きさも考えると、もっと楽な相手はいたのだろう。
 それでも離れるつもりはない。一緒に背負えるように頑張って、支えたいと思っている。

「そっか」

 そう呟いたハムレットは、とても嬉しそうだった。

「ヒッテルスバッハのお嫁さんになりたい人は沢山いてもね、違ったら良かったなんてなかなか聞かないよ」
「だって、俺は元野良猫だもん。そんなに大きなものは持てないよ。だから俺はいざとなったら、先生だけを助けて他はどうにもならないと思う」
「……僕の事は、助けてくれるんだ」

 嬉しそうな視線がチェルルを見る。それはハムレットの素直な甘えに思えて、チェルルは素直に頷いた。

「勿論だよ。俺は先生が助かればそれが一番だもん。勿論余力があれば先生の大事なものも守りたいと思うけれど、俺にはそこまでの力は無いと思うから。だから、一番は先生」
「そっか……ふふっ、最高だ。僕は愛されてるね」
「勿論だよ!」

 愛してなかったら故郷も捨てて友とも別れて一人異国にはいない。まったく畑違いの世界に飛び込んで、もがくように努力したりもしていない。全部、この人の事を愛しているからだ。

 ハムレットは嬉しそうに、でも弱い顔をする。そしてチェルルの肩に頭を預けるようにして、珍しく甘えてきた。

「それじゃあ、今日はこれからその愛を確かめない?」
「え?」
「チェルルとエッチな事がしたいです。駄目?」

 上目遣いと誘う言葉に、心臓がドキリとした。そして、自然と顔が火照ってきた。
 勿論駄目なんて事はない。ただ……改めて言われるとちょっと恥ずかしいだけ。明日は診察もないし、予定よりも時間は早い。恋人の時間は十分にある。

「駄目?」
「いい、よ。あの、恥ずかしいし久しぶりだから、あまり上手じゃないかもしれないけど」
「そんなこと? むしろ猫くんの辿々しい感じとか、僕いつでも興奮するよ」
「往来でそんなこと言わないでよ!」

 デレデレするハムレットと、恥ずかしそうにするチェルル。幸せそうな二人の姿は夜の貴族街へと消えていくのだった。
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Ωである栗栖灯(くりす あかり)は訳もわからず、山の中の邸宅の檻に入れられ、複数のαと性行為をする。 顔に火傷をしたΩの男の指示のままに…… やがて、灯は真実を知る。 火傷のΩの男の正体は、2年前に死んだはずの元番だったのだ。 番が解消されたのは響一郎が死んだからではなく、Ωの体に変わっていたからだった。 ある理由でαからΩになった元番の男、上天神響一郎(かみてんじん きょういちろう)と灯は暮らし始める。 しかし、2年前とは色々なことが違っている。 そのため、灯と険悪な雰囲気になることも… それでも、2人はαとΩとは違う、2人の関係を深めていく。 発情期のときには、お互いに慰め合う。 灯は響一郎を抱くことで、見たことのない一面を知る。 日本にいれば、2人は敵対者に追われる運命… 2人は安住の地を探す。 ☆前半はホラー風味、中盤〜後半は壊れた番である2人の関係修復メインの地味な話になります。 注意点 ①序盤、主人公が元番ではないαたちとセックスします。元番の男も、別の女とセックスします ②レイプ、近親相姦の描写があります ③リバ描写があります ④独自解釈ありのオメガバースです。薬でα→Ωの性転換ができる世界観です。 表紙のイラストは、なと様(@tatatatawawawaw)に描いていただきました。

【R18】孕まぬΩは皆の玩具【完結】

海林檎
BL
子宮はあるのに卵巣が存在しない。 発情期はあるのに妊娠ができない。 番を作ることさえ叶わない。 そんなΩとして生まれた少年の生活は 荒んだものでした。 親には疎まれ味方なんて居ない。 「子供できないとか発散にはちょうどいいじゃん」 少年達はそう言って玩具にしました。 誰も救えない 誰も救ってくれない いっそ消えてしまった方が楽だ。 旧校舎の屋上に行った時に出会ったのは 「噂の玩具君だろ?」 陽キャの三年生でした。

国王様は新米騎士を溺愛する

あいえだ
BL
俺はリアン18歳。記憶によると大貴族に再婚した母親の連れ子だった俺は5歳で母に死なれて家を追い出された。その後複雑な生い立ちを経て、たまたま適当に受けた騎士試験に受かってしまう。死んだ母親は貴族でなく実は前国王と結婚していたらしく、俺は国王の弟だったというのだ。そして、国王陛下の俺への寵愛がとまらなくて? R18です。性描写に★をつけてますので苦手な方は回避願います。 ジュリアン編は「騎士団長は天使の俺と恋をする」とのコラボになっています。

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