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5章:すれ違いもまたスパイス
9話:宿り木(ベリアンス)
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逃げるように食堂を出たベリアンスは行き慣れた部屋へと向かっていたが、ふと立ち止まった。それというのも、時間的にアルフォンスの出勤時間が近いんじゃないだろうかと思ったのだ。
今日は夜番だと聞いていたのだ。
行くべきか。だが、出勤までの休める時間にこんな個人的な事を……しかも説明も出来ない事をグダグダ話していいものか。日を改めるべきじゃないのか?
そんな事を考え立ち止まっていると、不意に物音が聞こえてくる。見れば料理府の控え室前だった。
「ぁ……んぅ、ジェイ、さん」
「!」
妙に艶っぽい掠れ声に思わずビクリと震えたあと、体が動かなくなった。ドア一つ向こうで何が行われているのかなんて、この声を聞けば未経験でも分かる。
「やぁ、ジェイ……さん! ここ、人……っ」
「圧かけといた」
「無駄な権力使わないで! はぁぁ」
声の主は料理府副長のジェイク。もう一人は多分だが、ランバートと一緒にいる事の多いメンバーの一人だ。
「こんなとこ、で……あっ、ふか、ぃぃ!」
「!」
深いって何がだ!
扉の向こうで何やら生々しい声と音が小さく聞こえ、切なげかつ甘い雰囲気が漂い始めて更に石化しているベリアンスは、自然と自分の鼓動も早くなっていくのに焦った。体中の血が加速するような、妙な興奮も感じている。
その時、突如肩を叩かれたものだから悲鳴が上がった。分かっているように後ろから口元を覆われたので声なき悲鳴ではあったが、心臓が痛くなるほど驚いたのは確かだった。
「すまない、驚かせたか。悪いがこのままきてくれ」
囁くアルフォンスの声に後ろを確認して、ベリアンスは何度か深呼吸して頷いた。
まだラフな格好のまま苦笑する彼に手を引かれ、ようやく当初の予定通りベリアンスは料理府長室を訪れる事ができた。
部屋の中は昨日のまま、適度に整頓されている。
招かれるとようやく息が真っ当にできるみたいで、ベリアンスは大きく吐き出した。
「悪いな、本当に。あいつには俺から言っておくよ」
「あぁ、いや……」
もの凄くバツが悪い。他人の秘め事を知ってしまったのだから当然なのだが、気まずくてたまらない。
分かっているようにアルフォンスの柔らかな瞳が困ったように下がり、苦笑が浮かぶ。それでも強く咎める様子はない。黙認している、という感じがした。
「まぁ、今回は大目に見てやってくれないか? 新婚早々に嫁が戦地の只中で、戻ってきたら自分が忙しいで、随分溜まってたみたいなんだ」
「新婚? 結婚……してるのか?」
「あぁ。随分長く想っていた相手で、ようやくな」
「そういう事情なんだ」と言わんばかりに眉を下げたアルフォンスは、咎めつつも嬉しそうにしている。同時に、ベリアンスを労っているようにも思う。
帝国騎士団では同じ隊員同士の結婚も許されている。というのは聞いていた。だがこんな身近に実例がいるとは思ってもみなかった。
そして、申し訳ない思いも多少は引っかかる。そんな幸せな時間を引き裂いたのは祖国の戦争で、自分はその中心にいたのだ。
俯き加減になっていた肩を優しく叩かれる。見上げればアルフォンスがやはり穏やかにこちらを見ていた。
「ところで、あんな所でどうしたんだ? もしかして、俺に用事だったか?」
「あ……」
当初の目的を思い出して、ベリアンスは違う意味で動けなくなる。どうやって話をきりだすつもりだったのかさえ、本人を前に出てこない。
それでもアルフォンスは微笑んで待っていてくれるから、多少落ち着く事ができる。いっこうに頭は回らないが、意を決して何かを言わなければ始まらないのも確かだ。
「アルフォンスは」
「ん?」
「アルフォンスは、ジェイクとその……奥方の事をどう思っているんだ? その……同性だろ?」
困り果てて出たのは、そういうものだった。もしもこれで「同性はない」という事ならば次の言葉は封じたほうがいい。下手な事を言って避けられるよりは友人のほうが余程いい。
いや、そもそも自分の感情が恋愛感情であるかも定かではないのだが。
言い訳みたいな事を考えている。そしてアルフォンスはベリアンスからこんな言葉が出てくるとは思っていなかったようで、少し驚いていた。
「俺は別に、普通だと思っている」
「普通?」
「あぁ。べつに性別で誰かを好きになるわけではないし、子を残す必要もないのなら自由でいいと思っている。誰を好きになって結婚しても、ジェイクはジェイクだからな」
「アルフォンス自身は、同性でも構わないのか?」
矢継ぎ早に問いかけてしまうと、驚きながらも次は微笑んで頷いてくれる。はしたない自分の行動に多少焦って目を合わせられない。耳まで熱い気がしている。
「俺もそう思っているよ。継がなきゃならない家もないしな。それに、誰かを好きになる気持ちが大事だと思わないか?」
僅かに肩をすくめてそんな事を言うから、妙なドキドキがある。これは……何かを期待しているのか?
「ベリアンスはどうなんだ?」
「え?」
「好きになった相手が男だったら、嫌だと思うか?」
問われ、合わさったアルフォンスの目はいつもよりも真剣で、不安そうでもある。そこから目が離せなくなってしまう。吸い込まれるように魅入って、そのまま声が出ていた。
「わから、ない。誰かを好きになった覚えがないんだ」
「そうなのか?」
「ただ、アルフォンスとの関係は好ましい。ただ、どんな関係なのかが分からなくて、それで……戸惑っているんだ」
素直な気持ちがそのまま言葉になるように思う。そうすると胸の内に溜めていたものが抜けて行って、軽くなっていく。不思議だ、話してもいいと思える相手で、聞いてくれるのも分かっているから正直でいられる。見栄も、隠し事もいらない。
「昨日、祖国からの手紙を読みながらふと思ったんだ。お前との関係は、どんなものなんだろうかと。上下の関係じゃない、友人とも違う。一番近いのは肉親だが、それとも何かが違っている。それを感じて、戸惑ってしまった」
「それで昨日、途中から妙な顔をしていたのか」
やはり、気付かれていたんだ。素直に頷くと、アルフォンスは困ったように微笑む。そして、次を促すように待ってくれる。
「一晩考えて、それでも答えは出てこなかった。なかった、と言うのが正しい。それで先程、ファウスト殿と話をして、その……恋人に向けるような感情じゃないかと言われて」
自分の口から「恋人」という言葉が出ると、妙な気恥ずかしさに全身が熱くなってしまう。この年で照れるなんて生娘か何かのようだが仕方がない。実際未経験のまま、どこかこうした事は恥ずかしく思っていたのだから。
アルフォンスは驚いたように目を丸くしている。その顔を見ると言わなければよかったかと、もの悲しい気分がこみ上げる。自然と、足元が震える気がした。
「肯定も否定もできなくなって、それで、その……」
「俺に会って、確かめようとした?」
「……」
そうだ。そして今、もの凄く後悔もしている。突然こんな事を言われて戸惑わない人間はいない。アルフォンスは友人か、手のかかる知り合いとでも思っていたのかもしれない。なのに勝手にこちらが勘違いをして……関係が崩れたらもう顔も合わせられない。
思えば怖くなってくる。このままでいたいのに、壊したのは自分だ。そう思うと、いられなくなった。
「すまない、やはり気のせいに違いないんだ! 出直してっ!」
逃げるように背中を向けてドアを開けようとした。その腕ごと、逞しい腕が引き止めてくる。背中に合わさった熱にドキリと心臓が跳ねた。触れる手の熱さが、ドキドキという感覚を引き上げた。
「気のせいにされると困ると言えば、君を余計に困らせてしまうだろうか」
「……え?」
突然の言葉が耳元でする。僅かにくすぐったい感じに、どこか疼く様な感じがしている。
むき直されて見たアルフォンスの表情は切なげで真剣だ。そして自嘲気味な感じがした。
「ずっと、気になっていたんだ。ずっと辛そうにしていた」
「それは……」
辛かったのはその通りだ。当時は「辛い」と言える心境ではなかったが、今思えば悲鳴をあげていたのかもしれない。一人で生きていこうと思っていたし、痛いのも辛いのも自業自得だと言い聞かせた。
信じてついてきてくれた部下をどれほど殺し、苦しめただろう。不甲斐なく、従うしかなかった無力がどれほどの悲劇を生んだだろうか。セシリアはどれほど苦しんだだろうか。
そんな事を強いた自分が誰かに寄り添い、穏やかな時間を得るなんて許されない。そう、思っていた。
「いつも難しい顔をして、一人で耐えているようだった。それに時折左手を庇っていた。見ていると、左手に力が入らない時があるんだと分かったんだ」
「よく、見ているんだな……」
そんな事まで見られていたなんて思っていなかった。話しかけられたのはここに来て七日ほど経った頃。突然ホットミルクを側に置いて、声をかけてくれた。
「これでもプロだよ。君は肉よりも野菜が好きだろ? しかも濃い味付けよりも、素朴なものが好きだ。故郷は海側ではなく、山や内陸なんじゃないか?」
「どうして、そんな事……」
「海の魚をあまり食べ慣れていない感じがする。だが、川はあるだろ? 川魚は好んで食べている。肉や濃い味を好まず、比較的安価な素材を好むのはそういう生活を長年して来た証拠だ」
なるほど、確かにプロだ。食べ物の好みでこんな事まで分かるのか。
アルフォンスは苦笑している。観察眼の鋭い彼の目から見れば、自分はなんて異質に映ったのだろう。
「普段の食事の量や様子を見れば、隊員の不調がわかる。それどころか、喧嘩や上官からの叱責、仲間内での関係の変化も分かるんだよ」
「少し怖いな。そんなお前の目から見て、俺はさぞかし異質だっただろ?」
「そうだな、少し。だが、経験のない事じゃない。拒絶するような雰囲気を漂わせていた人間は多いよ。だから余程苦しい事があったのだろうと思って、声をかけたんだ」
最初は素っ気ない態度を取っていた。けれど毎日のように声をかけてくれて、気遣ってくれて。気付けば沢山の話が出来る相手になった。そして今では、側にいて欲しい相手になった。
「そのうちに、気になって仕方がなくなった。顔が見えないと心配になるし、今日は調子が良さそうだとか、今日は疲れていそうだとか。そしてそんな姿を俺の前だけで見せてくれる事に、嬉しさを感じていた」
少し引き寄せるような動きに大人しく従った。その距離感に最初は驚いたが、感じる体温にゆっくりと落ち着いて委ねる事ができる。そして、落ち着いたら心地よくすらあった。
「ジェイクをまったく笑えなくなったよ。まさか俺まで、こんな風に誰かから目を離せなくなるなんて」
苦笑したアルフォンスがほんの僅か体を離す。失われた熱が寂しくて見上げていた。それを察したように、アルフォンスの唇が額に触れる。愛しそうに。
拒絶はない。ただくすぐったくて、少し恥ずかしく思える。
「君の事を知りたい。恋愛感情が難しければ特別この関係に名前をつける必要はないし、当然同意がない間に体を求める事もない。ただ、側にいさせてほしい」
こんな妙な感覚、感じた事がない。戦場に立つ時のような鼓動の高鳴りなのに、気持ちは温かく穏やかなのだ。緊張からか震えているが、受け止めてくれる体は揺らがない。
「答えも焦らない。ただ、俺の気持ちを伝えておきたかったんだ。今がタイミングだと思って」
「え? いや、その……」
「焦らない」という言葉にベリアンス自身が焦った。なぜならこんなタイミング、ベリアンスだって今後あるか分からない。勢いではないが今何かを言わなければ次があるとは思えない。
ベリアンスは真っ直ぐにアルフォンスを見つめる。そして、迷いながらも口を開いた。
「俺は不器用だから、名前のないものは困る」
「ベリアンス」
「恋人と望むなら、そうしてくれ。俺は恋愛感情を知らないんだから、比べたりもできない。これからお前が、教えていってくれ」
これが精一杯だ。たったこれだけを伝えるだけでも声が震えている。受け入れてくれるのか、不安でもある。だいたいこんな硬くて面白みのない奴、やっぱり面倒だと思われたら困る。
だが、見つめるアルフォンスの表情はとても穏やかなものだった。
指が唇に触れる。少し荒れた硬い手が触れるだけでも、妙にゾクッとした感じが走る。
「ベリアンス」
「なん、だ?」
「触れても、いいだろうか?」
問われて固まった。唇に触れて「触れても」ということは、キス……ということだろうか?
戸惑いとかはあった。だがこれではっきりと分かるだろう。キスをされて嫌悪があれば、この関係は恋愛じゃないか、まだ成熟していないのだ。
そう思ったからこそ、頷いた。
大切に抱き込まれ、柔らかく確かめるように触れる唇の感触は思っていたものよりも柔らかく弾力がある。そして、嫌悪なんて何一つない。それどころかドキドキと心臓が高鳴っていく。
「んっ……んぅっ」
ちらりと舌が唇に触れる感触に震え、ほんの少し開けた。そこから入り込んだ舌が触れてくる。絡まるとそれだけで背に甘い痺れが走っていく。それが、気持ちいい。
「ふっ……」
これは、まずい。体が動かないどころか力が抜ける。まるでこの温もりに従え、この甘い痺れに従えと言わんばかりだ。
どのくらいそうしていただろう。長いような、あっという間のような時間に夢心地のままアルフォンスを見ていた。精悍な瞳がこちらを見て、柔らかく微笑む。離れた唇をなぞられて、それだけでまたゾクリと背が震えた。
「嫌だったか?」
問われて、首を横に振った。嫌じゃない。それどころか、どこか疼くこの感覚は癖になりそうだ。
嬉しそうなアルフォンスがこちらを見つめ、甘く笑う。そしてもう一度唇を寄せた。
従えばさっきよりも優しく、そして確かに触れられる。それを、ベリアンスも自然と受け入れられる。
これからもきっと、小さな事に悩んだり、落ち込んだりするだろう。そういう面倒な人間だと分かっている。理屈っぽくもあるだろう。
けれどもう怖くはない。側にある宿り木のような存在があれば、きっと大丈夫だと思えるから。
今日は夜番だと聞いていたのだ。
行くべきか。だが、出勤までの休める時間にこんな個人的な事を……しかも説明も出来ない事をグダグダ話していいものか。日を改めるべきじゃないのか?
そんな事を考え立ち止まっていると、不意に物音が聞こえてくる。見れば料理府の控え室前だった。
「ぁ……んぅ、ジェイ、さん」
「!」
妙に艶っぽい掠れ声に思わずビクリと震えたあと、体が動かなくなった。ドア一つ向こうで何が行われているのかなんて、この声を聞けば未経験でも分かる。
「やぁ、ジェイ……さん! ここ、人……っ」
「圧かけといた」
「無駄な権力使わないで! はぁぁ」
声の主は料理府副長のジェイク。もう一人は多分だが、ランバートと一緒にいる事の多いメンバーの一人だ。
「こんなとこ、で……あっ、ふか、ぃぃ!」
「!」
深いって何がだ!
扉の向こうで何やら生々しい声と音が小さく聞こえ、切なげかつ甘い雰囲気が漂い始めて更に石化しているベリアンスは、自然と自分の鼓動も早くなっていくのに焦った。体中の血が加速するような、妙な興奮も感じている。
その時、突如肩を叩かれたものだから悲鳴が上がった。分かっているように後ろから口元を覆われたので声なき悲鳴ではあったが、心臓が痛くなるほど驚いたのは確かだった。
「すまない、驚かせたか。悪いがこのままきてくれ」
囁くアルフォンスの声に後ろを確認して、ベリアンスは何度か深呼吸して頷いた。
まだラフな格好のまま苦笑する彼に手を引かれ、ようやく当初の予定通りベリアンスは料理府長室を訪れる事ができた。
部屋の中は昨日のまま、適度に整頓されている。
招かれるとようやく息が真っ当にできるみたいで、ベリアンスは大きく吐き出した。
「悪いな、本当に。あいつには俺から言っておくよ」
「あぁ、いや……」
もの凄くバツが悪い。他人の秘め事を知ってしまったのだから当然なのだが、気まずくてたまらない。
分かっているようにアルフォンスの柔らかな瞳が困ったように下がり、苦笑が浮かぶ。それでも強く咎める様子はない。黙認している、という感じがした。
「まぁ、今回は大目に見てやってくれないか? 新婚早々に嫁が戦地の只中で、戻ってきたら自分が忙しいで、随分溜まってたみたいなんだ」
「新婚? 結婚……してるのか?」
「あぁ。随分長く想っていた相手で、ようやくな」
「そういう事情なんだ」と言わんばかりに眉を下げたアルフォンスは、咎めつつも嬉しそうにしている。同時に、ベリアンスを労っているようにも思う。
帝国騎士団では同じ隊員同士の結婚も許されている。というのは聞いていた。だがこんな身近に実例がいるとは思ってもみなかった。
そして、申し訳ない思いも多少は引っかかる。そんな幸せな時間を引き裂いたのは祖国の戦争で、自分はその中心にいたのだ。
俯き加減になっていた肩を優しく叩かれる。見上げればアルフォンスがやはり穏やかにこちらを見ていた。
「ところで、あんな所でどうしたんだ? もしかして、俺に用事だったか?」
「あ……」
当初の目的を思い出して、ベリアンスは違う意味で動けなくなる。どうやって話をきりだすつもりだったのかさえ、本人を前に出てこない。
それでもアルフォンスは微笑んで待っていてくれるから、多少落ち着く事ができる。いっこうに頭は回らないが、意を決して何かを言わなければ始まらないのも確かだ。
「アルフォンスは」
「ん?」
「アルフォンスは、ジェイクとその……奥方の事をどう思っているんだ? その……同性だろ?」
困り果てて出たのは、そういうものだった。もしもこれで「同性はない」という事ならば次の言葉は封じたほうがいい。下手な事を言って避けられるよりは友人のほうが余程いい。
いや、そもそも自分の感情が恋愛感情であるかも定かではないのだが。
言い訳みたいな事を考えている。そしてアルフォンスはベリアンスからこんな言葉が出てくるとは思っていなかったようで、少し驚いていた。
「俺は別に、普通だと思っている」
「普通?」
「あぁ。べつに性別で誰かを好きになるわけではないし、子を残す必要もないのなら自由でいいと思っている。誰を好きになって結婚しても、ジェイクはジェイクだからな」
「アルフォンス自身は、同性でも構わないのか?」
矢継ぎ早に問いかけてしまうと、驚きながらも次は微笑んで頷いてくれる。はしたない自分の行動に多少焦って目を合わせられない。耳まで熱い気がしている。
「俺もそう思っているよ。継がなきゃならない家もないしな。それに、誰かを好きになる気持ちが大事だと思わないか?」
僅かに肩をすくめてそんな事を言うから、妙なドキドキがある。これは……何かを期待しているのか?
「ベリアンスはどうなんだ?」
「え?」
「好きになった相手が男だったら、嫌だと思うか?」
問われ、合わさったアルフォンスの目はいつもよりも真剣で、不安そうでもある。そこから目が離せなくなってしまう。吸い込まれるように魅入って、そのまま声が出ていた。
「わから、ない。誰かを好きになった覚えがないんだ」
「そうなのか?」
「ただ、アルフォンスとの関係は好ましい。ただ、どんな関係なのかが分からなくて、それで……戸惑っているんだ」
素直な気持ちがそのまま言葉になるように思う。そうすると胸の内に溜めていたものが抜けて行って、軽くなっていく。不思議だ、話してもいいと思える相手で、聞いてくれるのも分かっているから正直でいられる。見栄も、隠し事もいらない。
「昨日、祖国からの手紙を読みながらふと思ったんだ。お前との関係は、どんなものなんだろうかと。上下の関係じゃない、友人とも違う。一番近いのは肉親だが、それとも何かが違っている。それを感じて、戸惑ってしまった」
「それで昨日、途中から妙な顔をしていたのか」
やはり、気付かれていたんだ。素直に頷くと、アルフォンスは困ったように微笑む。そして、次を促すように待ってくれる。
「一晩考えて、それでも答えは出てこなかった。なかった、と言うのが正しい。それで先程、ファウスト殿と話をして、その……恋人に向けるような感情じゃないかと言われて」
自分の口から「恋人」という言葉が出ると、妙な気恥ずかしさに全身が熱くなってしまう。この年で照れるなんて生娘か何かのようだが仕方がない。実際未経験のまま、どこかこうした事は恥ずかしく思っていたのだから。
アルフォンスは驚いたように目を丸くしている。その顔を見ると言わなければよかったかと、もの悲しい気分がこみ上げる。自然と、足元が震える気がした。
「肯定も否定もできなくなって、それで、その……」
「俺に会って、確かめようとした?」
「……」
そうだ。そして今、もの凄く後悔もしている。突然こんな事を言われて戸惑わない人間はいない。アルフォンスは友人か、手のかかる知り合いとでも思っていたのかもしれない。なのに勝手にこちらが勘違いをして……関係が崩れたらもう顔も合わせられない。
思えば怖くなってくる。このままでいたいのに、壊したのは自分だ。そう思うと、いられなくなった。
「すまない、やはり気のせいに違いないんだ! 出直してっ!」
逃げるように背中を向けてドアを開けようとした。その腕ごと、逞しい腕が引き止めてくる。背中に合わさった熱にドキリと心臓が跳ねた。触れる手の熱さが、ドキドキという感覚を引き上げた。
「気のせいにされると困ると言えば、君を余計に困らせてしまうだろうか」
「……え?」
突然の言葉が耳元でする。僅かにくすぐったい感じに、どこか疼く様な感じがしている。
むき直されて見たアルフォンスの表情は切なげで真剣だ。そして自嘲気味な感じがした。
「ずっと、気になっていたんだ。ずっと辛そうにしていた」
「それは……」
辛かったのはその通りだ。当時は「辛い」と言える心境ではなかったが、今思えば悲鳴をあげていたのかもしれない。一人で生きていこうと思っていたし、痛いのも辛いのも自業自得だと言い聞かせた。
信じてついてきてくれた部下をどれほど殺し、苦しめただろう。不甲斐なく、従うしかなかった無力がどれほどの悲劇を生んだだろうか。セシリアはどれほど苦しんだだろうか。
そんな事を強いた自分が誰かに寄り添い、穏やかな時間を得るなんて許されない。そう、思っていた。
「いつも難しい顔をして、一人で耐えているようだった。それに時折左手を庇っていた。見ていると、左手に力が入らない時があるんだと分かったんだ」
「よく、見ているんだな……」
そんな事まで見られていたなんて思っていなかった。話しかけられたのはここに来て七日ほど経った頃。突然ホットミルクを側に置いて、声をかけてくれた。
「これでもプロだよ。君は肉よりも野菜が好きだろ? しかも濃い味付けよりも、素朴なものが好きだ。故郷は海側ではなく、山や内陸なんじゃないか?」
「どうして、そんな事……」
「海の魚をあまり食べ慣れていない感じがする。だが、川はあるだろ? 川魚は好んで食べている。肉や濃い味を好まず、比較的安価な素材を好むのはそういう生活を長年して来た証拠だ」
なるほど、確かにプロだ。食べ物の好みでこんな事まで分かるのか。
アルフォンスは苦笑している。観察眼の鋭い彼の目から見れば、自分はなんて異質に映ったのだろう。
「普段の食事の量や様子を見れば、隊員の不調がわかる。それどころか、喧嘩や上官からの叱責、仲間内での関係の変化も分かるんだよ」
「少し怖いな。そんなお前の目から見て、俺はさぞかし異質だっただろ?」
「そうだな、少し。だが、経験のない事じゃない。拒絶するような雰囲気を漂わせていた人間は多いよ。だから余程苦しい事があったのだろうと思って、声をかけたんだ」
最初は素っ気ない態度を取っていた。けれど毎日のように声をかけてくれて、気遣ってくれて。気付けば沢山の話が出来る相手になった。そして今では、側にいて欲しい相手になった。
「そのうちに、気になって仕方がなくなった。顔が見えないと心配になるし、今日は調子が良さそうだとか、今日は疲れていそうだとか。そしてそんな姿を俺の前だけで見せてくれる事に、嬉しさを感じていた」
少し引き寄せるような動きに大人しく従った。その距離感に最初は驚いたが、感じる体温にゆっくりと落ち着いて委ねる事ができる。そして、落ち着いたら心地よくすらあった。
「ジェイクをまったく笑えなくなったよ。まさか俺まで、こんな風に誰かから目を離せなくなるなんて」
苦笑したアルフォンスがほんの僅か体を離す。失われた熱が寂しくて見上げていた。それを察したように、アルフォンスの唇が額に触れる。愛しそうに。
拒絶はない。ただくすぐったくて、少し恥ずかしく思える。
「君の事を知りたい。恋愛感情が難しければ特別この関係に名前をつける必要はないし、当然同意がない間に体を求める事もない。ただ、側にいさせてほしい」
こんな妙な感覚、感じた事がない。戦場に立つ時のような鼓動の高鳴りなのに、気持ちは温かく穏やかなのだ。緊張からか震えているが、受け止めてくれる体は揺らがない。
「答えも焦らない。ただ、俺の気持ちを伝えておきたかったんだ。今がタイミングだと思って」
「え? いや、その……」
「焦らない」という言葉にベリアンス自身が焦った。なぜならこんなタイミング、ベリアンスだって今後あるか分からない。勢いではないが今何かを言わなければ次があるとは思えない。
ベリアンスは真っ直ぐにアルフォンスを見つめる。そして、迷いながらも口を開いた。
「俺は不器用だから、名前のないものは困る」
「ベリアンス」
「恋人と望むなら、そうしてくれ。俺は恋愛感情を知らないんだから、比べたりもできない。これからお前が、教えていってくれ」
これが精一杯だ。たったこれだけを伝えるだけでも声が震えている。受け入れてくれるのか、不安でもある。だいたいこんな硬くて面白みのない奴、やっぱり面倒だと思われたら困る。
だが、見つめるアルフォンスの表情はとても穏やかなものだった。
指が唇に触れる。少し荒れた硬い手が触れるだけでも、妙にゾクッとした感じが走る。
「ベリアンス」
「なん、だ?」
「触れても、いいだろうか?」
問われて固まった。唇に触れて「触れても」ということは、キス……ということだろうか?
戸惑いとかはあった。だがこれではっきりと分かるだろう。キスをされて嫌悪があれば、この関係は恋愛じゃないか、まだ成熟していないのだ。
そう思ったからこそ、頷いた。
大切に抱き込まれ、柔らかく確かめるように触れる唇の感触は思っていたものよりも柔らかく弾力がある。そして、嫌悪なんて何一つない。それどころかドキドキと心臓が高鳴っていく。
「んっ……んぅっ」
ちらりと舌が唇に触れる感触に震え、ほんの少し開けた。そこから入り込んだ舌が触れてくる。絡まるとそれだけで背に甘い痺れが走っていく。それが、気持ちいい。
「ふっ……」
これは、まずい。体が動かないどころか力が抜ける。まるでこの温もりに従え、この甘い痺れに従えと言わんばかりだ。
どのくらいそうしていただろう。長いような、あっという間のような時間に夢心地のままアルフォンスを見ていた。精悍な瞳がこちらを見て、柔らかく微笑む。離れた唇をなぞられて、それだけでまたゾクリと背が震えた。
「嫌だったか?」
問われて、首を横に振った。嫌じゃない。それどころか、どこか疼くこの感覚は癖になりそうだ。
嬉しそうなアルフォンスがこちらを見つめ、甘く笑う。そしてもう一度唇を寄せた。
従えばさっきよりも優しく、そして確かに触れられる。それを、ベリアンスも自然と受け入れられる。
これからもきっと、小さな事に悩んだり、落ち込んだりするだろう。そういう面倒な人間だと分かっている。理屈っぽくもあるだろう。
けれどもう怖くはない。側にある宿り木のような存在があれば、きっと大丈夫だと思えるから。
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大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。
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