月は夜に抱かれて

凪瀬夜霧

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3章:雲外蒼天

11話:疑惑

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 翌日、ユリエルは簡単な恰好で外に出た。その後にはシリルとレヴィンもついてくる。肩には鷹のフォレを乗せてきた。フォレの運動と食事を理由に飛ばす事にしたのだが、本当はこっそりと手紙を持たせてある。

「この子、帰ってこられるかな?」
「大丈夫ですよ」
「随分な自信だね」

 ユリエルは苦笑したが確信がある。フォレはきっと彼を見つけ、その手紙を持って戻ってくると。

「さて、シリルは剣の練習があるのでしょ? 私も仕事がありますから」
「鷹は?」
「夕刻くらいには戻ってきますよ」

 放っておいても大丈夫とユリエルは砦に戻った。そろそろアルクースが来る頃だろう。

「ユリエル陛下!」

 丁度良く、砦の兵士がユリエルにアルクースが来たことを伝える。ユリエルは頷いて砦へ戻り、レヴィンも無言のままその後に続いた。
 会議室ではアルクースが国内の情報を主要なメンバーに報告する為に待っていた。

「アルクース、長旅ご苦労さまでした」
「陛下、お久しぶり。なんでも派手にやったんだって?」

 僅かに咎めるような調子で言うのにユリエルは苦笑する。そして、全員が席についた。

「まず国内の状況ですが、今年は豊作と豊漁だったようで安定しています。表面上の混乱はありません。ですが、やはり戦況が伝わっていない事が不安に繋がっているようです」
「分かりました、有難う」

 大まかな報告にユリエルは頷く。まずは予想通りだ。戦況としては荒れたが、天候などは理想的だった。豊作であれば民の生活も安定してくる。国に蓄えも数年は戦が無かった事で充実しているから、税も上げる必要はない。
 だがここで一度は国内と向き合わなければ不安ばかりが広がるだろう。ユリエルではないが、ユリエルに次ぐ者の言葉と姿で不安や疑心を取り除く事をした方がいい。
 それもユリエルは考えていた。そしてその条件は整いつつある。ここにアルクースが来たことが最後のピースだ。

「収穫祭などについては後日としましょう」

 そう言ってユリエルは話しを切り上げる。それに誰も異論はなかった。これからは少し対策を考え、状況を整えなければならない。

「では、次に今後の話ですが。怪我人や希望者を一度国に戻そうかと思います。物理的に進軍は不可能ですが、同時に攻められる可能性も低い。兵達にも休息を取らせます」

 ここまでが駆け足だった。そろそろ兵にも休暇が必要になってくる。最低限の人数を残し、交代で国に戻し家族に会わせてやりたい。その時間は十分にある。

「さっき見せてもらったけれど、随分派手に落とされたんだね。これじゃ石工も苦労するよ。足場もどう組むんだか」

 アルクースの言葉にユリエルは苦笑する。だからいいんだとはさすがに言わないが。
 会議を終えて執務室までゆくと、部屋の前で待っている影があった。剣の修練を終えて待っていたシリルだ。

「シリル、どうしました?」
「あ、兄上! お疲れさまです」

 軽く頭を下げるシリルは困った顔をしている。何か相談があるのだろう。ユリエルは笑みを見せ、寝室の方へとシリルを招いた。
 座らせてお茶を出し、ユリエルはシリルの前に座る。しばらくだんまりが続く。きっと、何を話せばいいかを考えているのだろう。次には深呼吸をして、前を見た。

「兄上、夜這いってどうやればいいのですか?」
「シリル……」

 考えた結果がこれとは、なんだか悲しくなる。だが、そういう考えに至る理由は何となく察しがつく。
 しばらく考えて、ユリエルは真剣なシリルに年長者のアドバイスをした。

「あの男が、また何かしましたか?」
「あの、違います! レヴィンさんはとても優しいけれど……僕が不安になっているのです。だって、レヴィンさんはとても魅力的で、女性にもきっともてるし」
「たんに口が上手くて付き合いがいいだけですよ。シリル、早まると後悔します」
「でも僕、他の人に取られたくなくて! 焦っているのでしょうか? 自分に自信なんてないし」

 シリルの気持ちは分からないではなかった。ユリエルもルーカスを他人になど取られたくない。彼をずっと魅了するためなら何だってするだろう。そういう焦りがシリルの中にもあるのだろうか。それほどの恋情が、あるのだろうか。
 だがさすがにまだ止めるべきだ。何もそんなに早く男に体を捧げる必要はない。それにきっと、あの男はこの子の元に落ちてくる。だから今は体ではなく気持ちを大切にしてもらいたい。

「あのね、シリル」

 柔らかく丁寧に、そして穏やかに声を作ってユリエルは言う。必死に止めるのではなくて、受け入れてかつ考えるように仕向けなければ。

「レヴィンもきっと、貴方の事を考えていますよ」
「そうでしょうか?」

 いまいち自信のない声が問い返す。こんなにじれったいというのはどういう関係なんだ。

「シリルは、レヴィンとどのような関係になりたいのですか?」
「ずっと、一緒にいたいのです。誰にも取られないように。クレメンスさんが言っていました。大事な人はちゃんと捕まえておかないと、取られてしまうよって。だから、僕は取られないように、その……」
「体で繋ぎ止めておこうと?」

 こくんと頷くシリルに、「それは不純な関係です」とはユリエルは言える立場じゃない。国や仲間すらも裏切って大切な人の傍にありたいと、しかもこんな幼い子まで利用しようとしているのだから。

「シリル、聞いてください。レヴィンもきっと考えています。貴方の事を大切に思っているからこそ、考えて考えて、奥手になっているのですよ」

 ユリエルはシリルにしっかりと向き合って言う。レヴィンはあれで多分不器用な男なのだろう。遊びならいくらでも楽しむが、本気となれば悩む。その結果、手がでずに逆に放そうとしてしまうのだろう。

「彼もね、貴方を大切に思っているはずです」
「本当、ですか?」
「貴方の思いと彼の考えが一致していないだけですよ。レヴィンは貴方との関係をどのような形にするのか、考えていると思います。そこで貴方が焦って迫ればレヴィンは戸惑ってしまいますよ。焦る気持ちはわかりますが、しばらくは彼に任せて同じ時間を過ごしてみてはどうですか?」

 しばらくシリルは黙って俯いていた。初恋が男だというだけでも戸惑いが多いだろうに、相手があれではシリルの分が悪い。それでも逃げずに真っ向から挑戦する姿勢は、ユリエルも見習うべきところがある。
 よく考えれば、ユリエルもルーカスが初恋の相手だ。遊びではいくらでも相手がいたが、心まで任せていいと思える相手は彼だけ。それどころか、命を預けても構わないような相手だ。

「分かりました、しばらくはレヴィンさんに任せます」
「冷静に、彼と話し合ってみなさい。そうして過ごす時間は十分に満ち足りた時間のはずですよ」

 そんな時間、ユリエルにはない。いつも遠くから彼を思い、その身を案じるばかりだ。案じるもなにも、彼を危険に晒しているのは自分自身だが。

「兄上は、誰か気になる方がいるのですか?」
「え?」

 突然の質問の意図がよく掴めない。いや、単に好奇心とか、興味の問題なのだと思う。だが、後ろめたいユリエルは思わず焦った。誰にも言えない相手との誰にも言えない蜜月。それは胸を温かく締め付ける。

「兄上?」
「……遠い、月のような人です」

 遠くを見て切ない笑みを浮かべる。心に浮かべる人の顔を、昨夜の逢瀬を思い出す。逢瀬と呼ぶにはあまりに色気がなく、殺伐とした状況だった。それでも、触れた唇や交わした言葉に胸は熱くなり、体の芯は痺れた。

「その人のこと、大事?」
「命ほどに」

 キッパリと言い切れる。彼の為に死ねと言われれば、多分考えるだろう。状況が許すならきっとそうする。それほどに、深く想っている。

「その人も、兄上の事を大事にしてくれますか?」
「えぇ。多分彼も、相当なものを犠牲にしているはずですから」
「彼?」

 思わぬ失言にユリエルの顔は一気に熱くなる。だが、どう考えたって後の祭りだ。

「いえ、大丈夫です。あの、兄上が幸せであるならそれで僕は。だから、誰にも言いません」
「有難う」

 こっそりと柔らかくユリエルはシリルに言う。それに、シリルも頷いた。彼は約束を守る子だから、その点は誰よりも信じている。
 その時、開けておいた窓からフォレが戻ってきて止まり木で毛づくろいを始める。ユリエルはそっと笑みを浮かべた。フォレが何かを運んできたのではと期待し、自然と笑みが浮かんだのだ。

「さて、そろそろ執務に戻ります」
「あっ、はい。兄上、有難うございました」

 頭を下げてシリルが部屋を出るのを確認し、ユリエルはそっとフォレに近づく。足につけた筒は実は二重底になっている。そこを開けると、そこには小さな手紙が入っていた。

『落ち着いたようで安心した。ユリエル、実はその砦の地下食糧庫には隠し通路がある。そこを通れば谷底に続く道がある。谷の中の家で、日を決めて会おう』

 知らない情報を得て、ユリエルはやんわりと笑う。彼に会える喜びに、自然と嬉しくて口元が綻ぶ。だが、長くそこを放置しておけば目ざとい奴等が気づくかもしれない。気付かれる前に、何か手を打っておこうか。
 ともあれ、フォレに何度も往復させるのは忍びない。連絡は明日の早朝にすることにし、ユリエルはあれこれと考えている事を実行すべく、執務へと励むことにした。

◆◇◆

 その夜、ユリエルはアルクースを自室にこっそりと呼んだ。薄い夜着のまま迎えられたことにアルクースは若干驚いた様子だったが、素早く入ってくれた。

「ごめん、寝るところだった?」
「いえ、早めに湯浴みを終えただけです。まだ寝る気はありませんでしたよ」
「なら、いいんだけれど」

 戸惑いながらも椅子に腰を下ろした彼の前にブドウ酒を注ぐ。そして軽く乾杯をしてから、話しは始まった。

「まずはこれ、ダレン様から預かってきたもの。中を見ないで直接渡してほしいって頼まれて」

 胸の隠しから一枚の封筒を取り出して、アルクースは差し出す。蝋印は間違いなく、刑裁官のものだ。

「頼んでいた仕事ですね。彼もまた齢を取っても優秀です」
「あんまり年寄りに仕事させちゃだめだよ。労わらないと」
「そうしたいのは山々なのですが、あいにく彼に代わる人物が育っていなくて」

 長年、国の表と裏を見てきたダレンほど優秀な人物はいない。申し訳ない気持ちはあるのだが、もう少し力を貸してもらうより他になかった。
 中身はここに来る前にお願いしていた国賊レベルの役人や地方役人に関する情報だった。どうも地方では横暴な領主が多く、貧富の差が激しくなり餓死者が出る状況となっているらしい。予想よりも酷い内容だ。
 ふと視線が気になる。顔を上げると、食い入るようにアルクースがこちらを見ていた。

「気になりますか?」
「ならないって言ったら嘘になるけれど……ヤバイもの?」
「まぁ、国家機密レベルで」
「聞かない」
「賢明ですね」

 本当に彼は頭が良くて危険を冒さない。必要以上に危険を背負い込まないのは賢い事だ。
 だが、国内がこれだけ荒れるとなると予想よりも厳しい状況が予測される。今考えているものでは危険が大きくなりすぎる。これは二重、三重に手を打っておいた方がいいだろう。

「もしかしたら、国内の事でお前たちの力を借りる事があるかもしれません。荒事になりますが、お願いできますか?」
「陛下の判断で踏み込んでいい事なら力を貸すよ。お頭も退屈してきたみたいだしね」

 苦笑したアルクースがそんな事を言う。それに、ユリエルも頷いた。

「それで、こっちがユリエル陛下が御所望の情報。正直、これ以上はちょっと難しいかな」

 簡素な紙が差し出される。ユリエルはそれを、ドキドキした気持ちで受け取った。ルルエの使者の行方。色々なパターンを予測してきたが、どの位置に行くか。それは、この報告次第だ。
 中を開ける。そこには、ラインバール平原を越えてタニス国内に入ってからの足取りが書かれていた。
 いくつかの領地を通り、野宿は避け、途中までは順調に旅をしていたようだ。だが、とある領に入ってから、出た様子はない。その、最終地点。

「現宰相が治める、リジン領シュトラーゼ」

 予測しえた中でもそれはもっとも面倒かつ、落とした時の利益が大きな相手。現在の国政を牛耳る人物を追い落とす可能性を秘めたものだった。

「話では、この町に入った所までは確認取れた。けれど忽然と姿を消してる。彼を泊めた町人は納屋を貸しただけで、その後は分からないって。荷物も全部消えていたらしいよ」
「おそらく、ここの領主が攫ったのでしょうね。彼が通ったルートは現宰相の取り巻きばかりがいる場所です」

 海沿いを行くルート。その道は現宰相の腰巻ばかりが領主を務めている。そのどこからか使者の情報が洩れて伝わり、姿を消した。そう考えるのが自然だろう。

「丁度問題の多い奴等がいるルートです。一緒に掃除しましょうか」
「誰を使うつもり?」

 アルクースが気のない顔で言う。けれど本当は、とても気にしているのだと思う。黒い瞳がこちらを気にしている。

「私と同等の力を持ち、尚且つ奴らがあしらいやすいと油断してボロを出しやすい相手」
「まさか、シリル殿下を使って国内掃除をするんじゃ!」

 予想外だったのか、アルクースは席を立つ。その目は驚きと怒りを含んでいる。その黒い目を見つめ、ユリエルは正直に頷いた。これはもう決めていた事だった。
 そもそも奴らはシリルを王とする事を散々に迫ってきた。となれば、ユリエルが戦の前線に立ち手が離せない事を理由に、シリルを放り込めば食いつく。奴らはシリルを御し易いと考えているのだから油断もする。ボロが出ればこちらのものだ。
 何よりシリルは最近、目に見えて逞しく成長した。武というよりは、精神面で強くなった。更に国政に関して鋭い目を持ち、不正や不義理を許さない頑固さを持っている。そうした彼の成長を知っているからこそ、ユリエルは賭ける事にした。

「シリル殿下に、あの腹黒い狸を狩れると本当に思っているの?」
「彼を大切に思う者が彼を守っているなら可能です」
「レヴィンまで巻き込むの! どうしてそこまでして平和的な解決を考えなきゃいけないの? 現状勝っているのに」

 責める瞳は痛いが、これに負けているようでは勝ちは手にできない。ユリエルは真っ直ぐに見つめる。そして、誠意をもって対した。

「アルクース、武力による制圧がシャスタ族にどのような感情を抱かせたか、お前なら分かるはずです」
「それは……」
「どんな理由にしろ、死んだ人間は戻ってこない。そして、そうした人にも家族がいて、友人がいます。親がいて、兄弟がいて、友がいて。失った命の対価は何をもってしても払えない。憎しみを持った者が子を生んで親となり、苦しみを子に伝えます。子はそれを孫に、ひ孫に。そうして憎しみは実体がぼやけたまま積み重なってゆくのです。そうした状況が、今のタニスとルルエなのです」

 この点に関してユリエルは決して何も譲らない。ルーカスとのことがあるだけではない。この思いはずっと、ユリエルの中にあった。既に憎しみの源流など皆忘れただろう。それでも争いを止められないのは、積み重なったものと一部の人間の欲望からだ。

「シャスタ族の皆とは、この連鎖が生まれる前に一定の和解ができました。私にとってとても幸いな事です。ですがもしもあの時出会えていなかったら。長い苦しい旅の果てに、貴方達もタニスという国に対して大きな敵愾心を持ったはずです」
「……否定できない」

 俯いて、アルクースは呟いて座った。そしてジッと何かを考えている。そこに、ユリエルは更に言葉を重ねた。

「アルクース、私はこの戦いの連鎖を断ち切りたい。その為にはまず国内を正常化し、戦争をし続ける事に対して国民が向き合わなければならない。更にはルルエとも交渉しなければなりません。その為にはこの使者の行方と、誰が戦争を望み、先導したかを明らかにすることも大事です。簡単ではなくても、例え茨道でも、道が少しでも見えているのならば私は諦めたくないのです」

 分かってくれるだろうか。十人中十人が愚かだと言っても見続ける理想を。綺麗ごとだとは承知しているが、それでも求める心を。

「アルクース、私の理想は愚かでしょうか?」
「……いいえ。ただ、現実味がない」
「そうでしょうね。でも、私は理想で終わらせたりはしません。必ず叶えてみせます」

 強く願って言った言葉にアルクールは暫く考えて、次には力なく笑い、丁寧に頭を下げた。

「俺達は貴方に忠誠を誓った。貴方の理想がそこなら、その理想に近づくために動くのが恩のある陛下への忠義だと思っているよ。だから、安心して使ってね」
「勝負に勝ったくらいでそこまでの忠義は少し大げさですよ。それに、領地に関しては当然の対価です。いえ、今を考えるともう少しこちらが払わなければならないくらいです」
「お頭が勝負に負けたからってのはほんのきっかけ。俺達が陛下を気に入ったから力を貸したいんだ。皆、色々あったけれど今では陛下に感謝している。シャスタ族は義理堅いんだよ」

 温かな笑みと、信頼の眼差し。もしも本当の事を話したら、この信頼は失われてしまうだろう。売国奴と罵られ、軽蔑され、嫌悪されるだろう。それでも転がった心は止められない。止める気もない。

「それでは僕はこれで。陛下、おやすみ」

 時計を見て夜もだいぶ更けた事を知ったアルクースが、一礼して出て行く。ユリエルもそれを見送った。
 残されて考えるのは、弟に対する残酷な仕打ちと、それを躊躇わないでやるだろう自分の恐ろしさ。泣かれるだけでは済まにだろう。それに、ルーカスにも一度話さなければ。けれど、ここでどうにかしなければ、あの二人を完全に共犯者にしてしまわなければ今後は開けない。シリル一人を狼の檻に入れるわけにはいかないのだから。
 ユリエルは僅かな罪悪感を抱きつつ、その夜は眠れぬままに過ごすのだった。

◆◇◆

 その頃、クレメンスとグリフィスは落ち着いた時間を過ごしていた。表向きは。

「クレメンス、ユリエル陛下をどう思う」

 酒を飲みながらのグリフィスの言葉はどこか重たい空気を持っている。それに、クレメンスは少々考える。それに焦れたようにグリフィスは更に言葉を続けた。

「ユリエル陛下は元から他人を頼らない傾向はあった。だが、今回の事は少々引っかかる。あれではまるで」
「自己犠牲、か?」

 クレメンスの言葉に、グリフィスもためらいがちに頷いてみせる。その言葉の意味は分からないではない。赤々と燃える戦場に溶け込むように消えていった背中を見て、拒絶を感じた。傷ついた姿を見て、悲しみを覚えた。
 グラスの酒を一口飲む。そして静かに机へと向かうと、そこから一つの報告書を持ってくる。今朝がた届いたものだ。これを読んで、クレメンスはある意味で今回の作戦をユリエルが強硬に決めた理由が推測できた。

「これは?」

 無言のまま差し出された報告書に戸惑いながら、グリフィスが内容に目を走らせる。その目が見る間に驚きに見開かれ、同時に怒りに燃えるのを見た。

「私は国内外に間者を忍ばせている。これは、その筋から入った情報だ」
「これを、陛下は?」
「私からは伝えていない。だが、陛下も独自の情報網を持っている。もしかしたら、もうその線から情報が入っていたのかもしれない」

 そこには、ルルエからの使者が二人いた事。タニスの最初の使者が行方知れずなままであることが書かれている。つまり、ルルエからの親書は二通、内一通は届いていない。そしてタニスの最初の親書が届いたかが未だ分からない。
 帰ってこない事を不審に思い探させてはいた。だが敵国の内部では思うように間者も動けない。ルルエに消されたのかと思っていたが、この情報で分からなくなった。もしかしたら、ルルエ王も最初の親書の事を知らないままなのではないかと。

「これが事実だとすれば、誰かが意図的に王の親書を掠め取った事になる」
「そしてルルエ王もこちらの最初の親書を受け取っていないばかりか、使者が出された事すらも知らない可能性が出てくる」
「信憑性はどのくらいだ、クレメンス」
「高い、とだけ。まだ正確な事は何も分かっていない。だが、この情報をどこからか陛下が入手していたならば、この砦を無理を押して落とした事も、自身が最初に砦に入るように作戦を譲らなかった事も、扉を開けるまでに時間がかかった事も説明できる」

 グリフィスが一気に酒を食らう。空になったグラスにもう一度酒を注ぎ足し、それも一気に飲み干した。そして深呼吸をし、唸るように口にした。

「では、なんだ? 陛下はこの情報をどこからか入手し、対話での解決が可能かもしれないと考え、戦いを強制的に長期間停止させる為にあえて危険を侵して侵入し、橋を落としたと?」
「あの方の性格なら考えうる。あくまでも平和的な解決を望んでいた陛下だ、可能性が見えれば無理もするだろう」
「だが、それなら言ってもらえれば」
「情報の出所を言えない。もしくは信憑性も確信もない段階では我らが訝しむと思い、言えなかった」

 この発言には自信がある。クレメンスもにわかには信じられなかった。特に、ルルエの使者が二人いたことについては。
 正直、今も半信半疑だ。何の証拠も出てきてはいないし、託された親書がどのような内容だったかもわからない。ただ、ルルエ王という人物像から考えられる予測では安易に戦いを望むものではなかっただろう。

「リゴット砦の橋が落ち、数か月から半年という猶予が出来た。陛下はきっと国内の掃除を始めるのだろう」

 クレメンスはそう言って、グラスの酒を覗き込む。実に情けない顔をした自身が映る。それはそのまま、心境だった。

「現在の家臣団は陛下を良くは思っていないだろうし、ルルエとの戦も支持している。加えて奴らの横暴を許せば民が苦しみ、それは徐々に陛下への不信に繋がるだろう。陛下が国内を掌握するにしても、現家臣団の力を削がなければ」
「だが、陛下が直接そこに介入すれば抵抗も反発も強くなるだろ。何より奴らがそう簡単に尻尾を出すとは思えない。血の粛清などすれば、息を潜めている穏健派や[[rb:高貴なる血筋 > オールドブラッド]]までが騒ぎ出す。一体、どうするつもりだ?」

 グリフィスの言葉は実に理にかなっている。狸は簡単に尻尾など出さないだろうし、ユリエル自身が動けば警戒する。血の粛清などもってのほかだ。
 だがこれは、ユリエル自身が理解しているだろう。こんな事にも気づかぬアホな主を持った覚えはない。

「俺にもそれはまだ分からない。今は見守るとしよう。我らが焦った所でどうにかなる話ではない」

 クレメンスは既に覚悟を決めていた。元より仕えると決めたならば主は一人と決めていた。ユリエルは扱いづらい主ではある。警戒心が強く秘密が多い。だが、人を大切にし、誠実な主だ。例え身分の差があっても交わした約束を反故にすることはない。そういう人だ。
 酒に映る自身の像をクレメンスは一気に飲み干す。それは、惑う自分を一掃するような気持ちの現れであった。

◆◇◆

 翌日、天気は快晴。レヴィンは周囲の森の探索を終えてのんびりと日向ぼっこをしていた。戦争中というのが嘘のような穏やかさだ。
 森の木々を通る日差しは心地よい温かさがあって、何とも昼寝にはうってつけ。そよぐ風も心地いい。

「こんなに気持ちのいい日なのに、それを楽しむ事すら困難なんて。国ってのは本当に厄介だな」

 なんて呟いてみる。勿論、聞く者などないと分かっていて。
 緑の世界に、所々赤や黄色の差し色が見える。葉の隙間からは青い空が見える。自然はこんなに綺麗なのに、人間の世界ってのはごちゃごちゃしていて綺麗じゃない。そんな世界の国を治めるとなると、人間性格も歪むし苦労も多い。それはユリエルを見ると顕著だ。
 そんな取り留めも無いことを考えていると、不意に足音が聞こえてきた。草を踏む、まだ軽い足音。確認しなくても分かる相手だ。

「レヴィンさん」
「シリル、こっちにおいで。あんまり一人で出歩くと心配されるよ」

 草地に寝転がったままで手招きすると、シリルはその傍に座り、突然覆いかぶさるように抱きついてくる。これには流石のレヴィンも驚いて面食らった。だが、しがみつく体が僅かに震えているのに気づいて、その背を撫でた。

「どうしたのさ、シリル。何かあったのかい?」
「僕は、いけない子です。兄上が心配で、兄上を疑っています」

 今にも泣きだしそうな新緑の瞳が覗き込む。それを下から見上げるレヴィンは、そっと頬に手を添えた。

「俺には肉親がいないから分からないけれど、そんなもんだと思うよ。特にあの人は忙しくて秘密主義だからね。いけないなんて事はないよ」
「違うんです! 僕は……兄上の幸せを願っているのに、兄上が遠くに行ってしまうのを恐れて兄上の幸せを心から応援できないんです」
「どういうこと?」

 どうも話の焦点が見えないし、シリルの様子が違う。レヴィンは起き上がって、真っ直ぐにシリルを見た。幼い体が震えている。困惑に表情が強張っている。その額に口づけて、しばらく体を抱いた。体の震えが消えて冷静に話しが出来るようになるまで。
 たっぷりと十分以上が過ぎて、シリルはようやく落ち着いたみたいだった。レヴィンは体を少し離し隣に座る。シリルはまだ俯いていたけれど、やがてポツリと話し始めた。

「兄上と昨日、話しをしました」
「うん」
「その時、兄上は好きな人がいると言ったんです。しかも、男の人」
「あぁ……」

 なんと言うか、聞いていい話なのだろうか。別に他人の趣味をあれこれ言うつもりはないし言える立場でもない。だが、あの人の相手が男というのは……生々しいな。
 一瞬想像したレヴィンは妙に腰に響くものを感じて妄想を止めた。最近そちらはご無沙汰だから妙な色気に当てられそうだ。

「ユリエル陛下は、なんて?」
「その人の事、遠い月のようだって。それに、命ほど大切だとも言っていました」
「意外と一途で情熱的なんだね、ユリエル陛下って」
「相手も相当無理をして、色んなものを犠牲にしてるって。そう、苦しそうに、幸せそうに言うんです。でも、そう言ったのと同じ表情でフォレを愛でる兄上を見ていたら妙に、不安になってきて」

 考えすぎだと言えばそれまでだ。恋人を想って幸福な顔をするのは普通の事。敵国の鳥を愛でて幸福な顔をしたのは、単に動物好きと言えなくもない。だが、シリルはこの二つを直感的に結びつけたのだろう。だから不安になっているんだ。
 レヴィンも考えた。ユリエルが詩人に扮して時々抜け出していたのは知っている。ただそれは、堅苦しくて息が詰まる日常からほんの少し逃避して、息抜きに出ただけだと思っていた。もしもあの時、誰かに会いに行くことが目的だったら?
 それにラインバール平原での戦の直後、ユリエルは明らかに様子が違った。塞ぎ込んで珍しく仕事を放棄して森に散策に出たのをレヴィンは窓から目撃している。しかも、立て続けにその夜も出かけていた。
 その翌日からはむしろ元気になっていた。そして今回の強硬な作戦だ。
 いつもその陰にルルエの存在があるように思う。明確ではなくても、距離が近い。疑うにはあまりに恐ろしい事だが、一度不審を抱くと妙な確信があるように思えてくる。

「そんなに心配なら、つけてみようか?」

 ここでこうして考えたって答えはでない。レヴィンは軽い調子でシリルに言った。それにシリルは困惑したが、やがてしっかりとした表情で頷いた。
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