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3章:雲外蒼天
7話:もう一つの親書
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翌日、ユリエルはどうにもやる気が出なかった。何も手につかない。それを周囲の者は心配した。その結果、この日は休みとなったのだ。
だが正直、休みというのは余計に考えてしまって辛かった。仕事をしている方が気がまぎれるというのに。
部屋の中にいても辛いばかりだと、ユリエルは軽い装備で周囲の森に出た。自然の多い場所を少し散策すれば気分転換にはなるだろうと思ったのだ。
その足は自然と、昨日エトワールに出会った場所へと向かっていた。
考えるのは昨日の事。互いに装備を付けて、剣を持っていた。そして、言葉はあまりに少なかった。それでも戸惑っているのは分かった。互いに戸惑って、そして言葉と時間は足りなかった。
できるならばもう一度、彼に会いたい。
そこから更に奥へと向かうと、視界が開けてきた。そして目の前に青い湖が見えだした。聖域の中にこんな場所があったとは知らなかった。清々しい風が吹き抜けていく。苦しいものや悲しいものを撫でていくように。
そうして辺りを見回すと、そこにもう一つの影があるのに気づいた。それは黒い髪に、凛々しい顔立ちの……。
「!」
見間違えるはずがない。肌を合わせたほどに彼に惹かれたのだ。再会を願ってやまなかったのだ。そんな人を、たとえ遠目でも間違えるはずがない。
逃げなければいけない。そう、王であるユリエルが訴える。話をしたいと、心が願う。その狭間で体は迷って背を向けたまま動けなくなった。
決断なんてできない。できるはずがない。こんなにも心が温かくなるのに。顔が見たいと願うのに。振り切れば息ができなくなるほどに苦しいと分かっているのに。
それでもようやく、足が一歩前に出た。静かに離れれば気づかれないままいられる。交わってはいけない運命だ。これ以上顔を合わせれば、心に逆らえなくなる。
「待ってくれ!」
後ろからかけられた声が、とても近かった。伸びた腕に抱き寄せられる。その腕は温かくて、逞しくて、逆らえない。抱き寄せられる体が心地よくて、縋りたくてたまらなかった。
「待ってくれ、リューヌ」
「エトワール……」
互いに躊躇いながら名を口にした。口にしたけれど、もう隠し事はばれている。もう、元通りになんてなれない。
「今夜、ここで待っている。一人で来てくれないか?」
「……来ないと、言っても?」
「そうだとしても待っている」
腕は離れてしまうと急に冷たくなるように思えた。急いで振り向いても、そこにあるのは彼の背中だけ。軽装に黒いマントが翻るだけ。本当はその背中に言いたかった。「愛している」と。
◆◇◆
その夜、ユリエルは迷った。行くべきか、行かぬべきか。そう思うのにすっかり身支度をしている。軽装のまま、外套を纏う。剣に手をかけそうになって、その手を止めた。彼と会うのに剣を持って出かけるなんて考えられない。それは、彼を敵として見るのと同じだ。
でも剣を持たなければいざという時、抵抗できずに確実に殺される。
彼に限ってそんな事はしない。彼はそんな人ではない。一人で来てくれといった。話がしたいのだろう。その言葉を疑ったら全ての時間を疑う事になる。全ての時間を疑えば、心が苦しくて辛くて潰れてしまいそうだ。
悩んだ挙句、ユリエルは剣を置いた。そして、傍らにあった[[rb:竪琴 >リュラー]]を手にした。もしも彼が嘘をついて兵を伏して死ぬ運命でも、それを受け入れる事にしたのだ。
こっそりと砦を抜け出し、森へと入る。今夜は少し冷える。足を速めていくと日中に見た湖が視界に入る。そこはすっかり夜の顔をしていて、湖面には月が映っている。
そしてその月光の下には、彼がいた。
「エトワール」
「リューヌ」
互いに視線を向け、見つめ合うがその距離はなかなか縮まらない。見つめ合ったまま少しの時間がたった。
「リューヌ」
「はい」
「……ユリエル」
「……はい、ルーカス」
本当の名で呼ばれる事がこんなにも苦しい。ユリエルは俯いてしまった。言葉がない。
「聞かせてくれないか、ユリエル。君は、俺の正体を知っていたのか?」
「いいえ」
これだけは断言できる。知っていたならこんな関係にはなっていない。なるはずがない。叶わない恋に身を焦がすなんて心は持っていない。
だが、ルーカスはそれを知って安心したように弱く笑い、近づいてくる。目の前まできて見つめ合った瞳は、色々なものを秘めているだろう。戸惑い、困惑、苦しみ、愛情。だが、ルーカスの金の瞳はそれ以上の決意を秘めていた。
「もう一つ、聞いてもいいだろうか」
「どうぞ」
「俺と過ごした時間は、本物だったのだろうか」
偽りは多くあった。だが、心まで偽った事はない。例え神に問われても、これだけは真実だ。
「沢山の嘘をつきました。それでも、貴方と過ごし、肌を合わせた時間は嘘ではありません。気持ちを含めて、私は自分の心を偽った事はありません」
「……ならば、いいんだ」
強い腕に抱き寄せられて、ユリエルは戸惑った。戸惑ったが、触れた体温には逆らえなかった。背中に腕を回し、抱き返して瞳を閉じる。近くに感じた体温と心音が心地よい。安らぎを感じる。もう、離したくはない。
「愛している、ユリエル。全てを知っても止められなかった」
「はい……。私も、貴方を想う事を止められなかった。愛しています、ルーカス」
苦しい気持ちが解けていく。温かな心が戻ってくる。惹かれてはいけない相手だと分かっていても、こればかりはどうにもならない。ここにいるのは王ではなく、私人だった。
顔を上げて、見つめ合って、ユリエルは少し背伸びをする。ルーカスは少しだけ身をかがめた。そうして触れた唇は甘いばかりではなかった。けれど嬉しくて、愛しくて心が震えた。
互いの体を抱きしめたまま、時間がゆっくりと過ぎていく。そうして思う存分互いの存在を確かめ合ってようやく、ユリエルは彼を離す事が出来た。湖の岸に腰を下ろした二人は月を見上げていた。
「どうして、剣を持ってこなかった?」
含み笑うような問いに、ユリエルは「貴方だって」と返した。きっと互いに相手を完全に信じる自信はなかっただろう。そうであってもらいたい。
「信じる事にしたのですよ。これで死んだら呪ってやろうと」
「まぁ、俺も同じようなものだな。もしも君が俺を殺しても、俺は恨まない事にした。それだけのことをした」
「貴方だけの責任ではありませんよ。この出会いは……神が起こした残酷な仕打ちです」
「そうだとしても、出会えたことに悔いはない。交えた心と言葉に、恨みはない」
以前から思っていた。彼は時々欲しい言葉をくれる。与えられる愛情が嬉しくて、与えたいと願う。与えられているだろうか。
「傷はもう、癒えたか?」
その言葉に、ユリエルの胸は痛んだ。思わず見上げた瞳はとても静かだった。
「あの傷は、ジョシュがつけたものだったんだな」
「……私が憎いなら、貴方は剣を持ってくるべきでしたよ」
「正直に言えば、失った直後ならそうしただろう。タニス王都で会った時ならそうしたかもしれない。だが、今は痛んでも憎しみにはならない。俺はもう、大切な者を失う苦しみを味わいたくはない」
大きくて少し硬い手がふわりと髪を撫でる。それは心地よく、胸が痛んだ。
「私が、手を下したのです。私は、彼を……」
「強かっただろ? あいつは俺にも引けをとらないからな」
「全力でした。だからこそ、私も全力で彼に応じました。彼は最後まで誇り高い騎士でした」
その言葉に、ルーカスは深く頷いた。
「すみません」
「それはいいんだ。戦なのだから。だがユリエル、一つ聞きたい。どうして父王を殺した?」
凛とした声が問う。それは王の声だった。有無を言わせず、従える声。だがユリエルも王だ。それに易々と答えるほど心は弱くない。言葉を選び、嘘にならないように考える。そして、口を開いた。
「あの人は国の全てを家臣に任せて、王としての職務を放棄した。その結果、国内は腐り始めている。私はそこから治療しなければならないのです。溜まった膿を手段を選ばずかきださなければならない。そこに、古い病巣は邪魔なだけでした」
「……そうか」
軽蔑されたわけではなく、受け入れられたことに驚きを隠せない。ユリエルは安堵したように、少しだけ力が抜けた。
「苦しくはないか?」
「父を殺した罪悪感ならありません。あれは、母を苦しめた。母が弱音を吐かない事をいいことに、存在すらないように扱った。私はその仕打ちを一度だって許していない」
「母親が、大切だったんだな」
「あれほどに、凛として聡明な女性を他に知りません。王としての私を育てた人です」
母がいなければ、あの人が教えてくれなければ、ユリエルはとっくに潰されていた。頼る者のない状況でも強くあれたのは母の教えがあったから。誇りだったから。
「ユリエルにとって、母が生きる糧だったのだな」
「そうかもしれませんね」
温かく微笑んでくれるこの人が、今後の支えになってくれるだろうか。そうであってもらいたいと願う。
だがそのためにはこの争いを止めなければ。このまま戦争を続けるわけにはいかない。だが、それには大きな問題があった。
「ルーカス」
「どうした?」
「どうして、私の親書に応えてくれなかったのですか?」
ユリエルは射るような目でルーカスを見た。最初に送ったあの親書に彼が応えてくれていたら、ラインバールの戦いは起こらなかった。
だがその言葉に、ルーカスは訝しそうに首をひねる。そして同じように射るような瞳が、ユリエルへと向けられた。
「何の事だ? 俺は開戦を受け入れる旨の親書しか受けていない。それにユリエル、君こそどうして俺の親書に応えてくれなかった?」
「何の事ですか? 私はルルエからの宣戦布告しか受け取っていません」
互いの瞳が、大きく見開かれる。ユリエルの心臓は嫌な音を立てて鳴っていた。そして、こみ上げる怒りに震え、立ち上がった。
「ユリエル!」
走りだそうとしたユリエルの腕をルーカスが掴んだ。だがユリエルは振り返り、止めるルーカスを睨み付けた。
「離せ! あの毒虫共、今すぐに殺してくれる! よりにもよって王の親書を盗んだんだぞ! そのせいで、どれだけの兵が死んだと思う。どれだけの者が悲しむと思う。どれだけの憎しみが生まれると思う! 血の一滴も流さぬ愚か者が温かな場所で幸せに暮らし、国の為に戦った者が不幸を背負うなどあってなるものか!」
「落ち着け、ユリエル! それだけはしてはいけない!」
掴まれた腕が強く引かれ、暴れても敵わぬ力で抱きとめられる。それでも、怒りに染まった心はなかなか収まらなかった。
「ユリエル、証拠も無しに酷い仕打ちをすればその後どれ程の善政を敷こうが、君は暴君と言われてしまう。一時の感情に呑まれて虐殺などすれば、人の信頼は失われる。お前の治世は始まったばかりなんだぞ」
「では、これを許せと言うのか!」
荒れる心のままに怒気を含む声をルーカスに向ける。だが、返ってくるのはどこまでも静かな金の瞳だった。その瞳にはユリエルと同じくらい、怒気や憎しみが含まれていた。
「証拠を見つけ、裁く。王の親書を盗み、国の道筋を歪めた行いは間違いなく謀反だ。それを証明し、堂々と裁く」
「親書を、探すのですか?」
静かな問いに、ルーカスはただ頷いた。
「どういった内容だったんだ、ユリエル」
「平和的に両国の関係を改善させていきたい。その為の話し合いが持てるなら、捕虜とした兵を引き渡し、ジョシュ将軍の遺体を引き渡す」
「概ね同じような内容だな。俺は、両国の関係改善のための話し合いを求めた。捕虜の引き渡しに関しては、見受け代を払う事で納得してもらうつもりでいた」
「私と貴方の願いは同じだったのに、真逆の事をしているなんて。これで、引っ掛かりが取れました」
ユリエルは納得できなかったのだ。エトワールがルーカスだと分かっても、ならばどうして親書に応えてくれなかったのか。その一点が大きく彼にそぐわなくて不安だった。
だが、これで納得だ。そもそも彼は親書の存在を知らなかったのだから。
「俺もだ。お前が戦没者の慰霊碑に残した言葉を見て、この王とならば話ができると思っていた。だが、答えは返ってこない。平和的な解決などできないのだろうと思ったんだ」
「ルーカス、一度開いた幕は簡単に閉じられない。止める事はできますか?」
「……今は難しい。だが、方法がないわけではない。その為には失われた親書か、それに準ずる物を見つけ、犯人と結び付けなければ」
鋭い瞳で言うルーカスは、決してユリエルには見せない目をする。憎悪よりも更に深く憎い、そんな目だった。
「ユリエル、そちらはどうだ?」
「こちらも難しいですね。止める理由が無ければなりません。私は正直、今の家臣団とは折り合いが悪い。それでなくても弟のシリルに玉座を譲れと言われています。理由もなく、戦果も上げずに停戦などすれば何を言われるか」
「互いに立場は苦しいか」
深い溜息は苦労と心労の現れだろうか。苦々しい顔をするルーカスに、ユリエルは微笑んだ。
「時間をください」
「それは俺も同じだ。だが、どうする?」
「戦いを続けます。ただ、表面的に。被害を最小限に抑えられるように互いに協力し、策を知ったうえで動けば騙せる。そこで時間を稼ぎつつ、裏で動いてもらいます」
「スリリングな話だな。バレたら命はないだろう」
「その時は私も同罪。共に手を取って逃げてみますか?」
溜息をつくルーカスに、ユリエルは鋭い瞳で笑う。冗談っぽく言ったが本気だった。
「叶えたい夢がある。君と、何の気兼ねもなく会い、共にいられる未来を」
「えぇ、是非とも叶えたい未来です。その為にはどんな手でも使う」
「悟られないように」
「たとえ信頼している部下でも、易々とは教えられない」
不敵な笑みを浮かべた二人は、しっかりと向き合って頷き合う。そして、今後の話を軽く確かめ合うのだった。
だが正直、休みというのは余計に考えてしまって辛かった。仕事をしている方が気がまぎれるというのに。
部屋の中にいても辛いばかりだと、ユリエルは軽い装備で周囲の森に出た。自然の多い場所を少し散策すれば気分転換にはなるだろうと思ったのだ。
その足は自然と、昨日エトワールに出会った場所へと向かっていた。
考えるのは昨日の事。互いに装備を付けて、剣を持っていた。そして、言葉はあまりに少なかった。それでも戸惑っているのは分かった。互いに戸惑って、そして言葉と時間は足りなかった。
できるならばもう一度、彼に会いたい。
そこから更に奥へと向かうと、視界が開けてきた。そして目の前に青い湖が見えだした。聖域の中にこんな場所があったとは知らなかった。清々しい風が吹き抜けていく。苦しいものや悲しいものを撫でていくように。
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「!」
見間違えるはずがない。肌を合わせたほどに彼に惹かれたのだ。再会を願ってやまなかったのだ。そんな人を、たとえ遠目でも間違えるはずがない。
逃げなければいけない。そう、王であるユリエルが訴える。話をしたいと、心が願う。その狭間で体は迷って背を向けたまま動けなくなった。
決断なんてできない。できるはずがない。こんなにも心が温かくなるのに。顔が見たいと願うのに。振り切れば息ができなくなるほどに苦しいと分かっているのに。
それでもようやく、足が一歩前に出た。静かに離れれば気づかれないままいられる。交わってはいけない運命だ。これ以上顔を合わせれば、心に逆らえなくなる。
「待ってくれ!」
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「待ってくれ、リューヌ」
「エトワール……」
互いに躊躇いながら名を口にした。口にしたけれど、もう隠し事はばれている。もう、元通りになんてなれない。
「今夜、ここで待っている。一人で来てくれないか?」
「……来ないと、言っても?」
「そうだとしても待っている」
腕は離れてしまうと急に冷たくなるように思えた。急いで振り向いても、そこにあるのは彼の背中だけ。軽装に黒いマントが翻るだけ。本当はその背中に言いたかった。「愛している」と。
◆◇◆
その夜、ユリエルは迷った。行くべきか、行かぬべきか。そう思うのにすっかり身支度をしている。軽装のまま、外套を纏う。剣に手をかけそうになって、その手を止めた。彼と会うのに剣を持って出かけるなんて考えられない。それは、彼を敵として見るのと同じだ。
でも剣を持たなければいざという時、抵抗できずに確実に殺される。
彼に限ってそんな事はしない。彼はそんな人ではない。一人で来てくれといった。話がしたいのだろう。その言葉を疑ったら全ての時間を疑う事になる。全ての時間を疑えば、心が苦しくて辛くて潰れてしまいそうだ。
悩んだ挙句、ユリエルは剣を置いた。そして、傍らにあった[[rb:竪琴 >リュラー]]を手にした。もしも彼が嘘をついて兵を伏して死ぬ運命でも、それを受け入れる事にしたのだ。
こっそりと砦を抜け出し、森へと入る。今夜は少し冷える。足を速めていくと日中に見た湖が視界に入る。そこはすっかり夜の顔をしていて、湖面には月が映っている。
そしてその月光の下には、彼がいた。
「エトワール」
「リューヌ」
互いに視線を向け、見つめ合うがその距離はなかなか縮まらない。見つめ合ったまま少しの時間がたった。
「リューヌ」
「はい」
「……ユリエル」
「……はい、ルーカス」
本当の名で呼ばれる事がこんなにも苦しい。ユリエルは俯いてしまった。言葉がない。
「聞かせてくれないか、ユリエル。君は、俺の正体を知っていたのか?」
「いいえ」
これだけは断言できる。知っていたならこんな関係にはなっていない。なるはずがない。叶わない恋に身を焦がすなんて心は持っていない。
だが、ルーカスはそれを知って安心したように弱く笑い、近づいてくる。目の前まできて見つめ合った瞳は、色々なものを秘めているだろう。戸惑い、困惑、苦しみ、愛情。だが、ルーカスの金の瞳はそれ以上の決意を秘めていた。
「もう一つ、聞いてもいいだろうか」
「どうぞ」
「俺と過ごした時間は、本物だったのだろうか」
偽りは多くあった。だが、心まで偽った事はない。例え神に問われても、これだけは真実だ。
「沢山の嘘をつきました。それでも、貴方と過ごし、肌を合わせた時間は嘘ではありません。気持ちを含めて、私は自分の心を偽った事はありません」
「……ならば、いいんだ」
強い腕に抱き寄せられて、ユリエルは戸惑った。戸惑ったが、触れた体温には逆らえなかった。背中に腕を回し、抱き返して瞳を閉じる。近くに感じた体温と心音が心地よい。安らぎを感じる。もう、離したくはない。
「愛している、ユリエル。全てを知っても止められなかった」
「はい……。私も、貴方を想う事を止められなかった。愛しています、ルーカス」
苦しい気持ちが解けていく。温かな心が戻ってくる。惹かれてはいけない相手だと分かっていても、こればかりはどうにもならない。ここにいるのは王ではなく、私人だった。
顔を上げて、見つめ合って、ユリエルは少し背伸びをする。ルーカスは少しだけ身をかがめた。そうして触れた唇は甘いばかりではなかった。けれど嬉しくて、愛しくて心が震えた。
互いの体を抱きしめたまま、時間がゆっくりと過ぎていく。そうして思う存分互いの存在を確かめ合ってようやく、ユリエルは彼を離す事が出来た。湖の岸に腰を下ろした二人は月を見上げていた。
「どうして、剣を持ってこなかった?」
含み笑うような問いに、ユリエルは「貴方だって」と返した。きっと互いに相手を完全に信じる自信はなかっただろう。そうであってもらいたい。
「信じる事にしたのですよ。これで死んだら呪ってやろうと」
「まぁ、俺も同じようなものだな。もしも君が俺を殺しても、俺は恨まない事にした。それだけのことをした」
「貴方だけの責任ではありませんよ。この出会いは……神が起こした残酷な仕打ちです」
「そうだとしても、出会えたことに悔いはない。交えた心と言葉に、恨みはない」
以前から思っていた。彼は時々欲しい言葉をくれる。与えられる愛情が嬉しくて、与えたいと願う。与えられているだろうか。
「傷はもう、癒えたか?」
その言葉に、ユリエルの胸は痛んだ。思わず見上げた瞳はとても静かだった。
「あの傷は、ジョシュがつけたものだったんだな」
「……私が憎いなら、貴方は剣を持ってくるべきでしたよ」
「正直に言えば、失った直後ならそうしただろう。タニス王都で会った時ならそうしたかもしれない。だが、今は痛んでも憎しみにはならない。俺はもう、大切な者を失う苦しみを味わいたくはない」
大きくて少し硬い手がふわりと髪を撫でる。それは心地よく、胸が痛んだ。
「私が、手を下したのです。私は、彼を……」
「強かっただろ? あいつは俺にも引けをとらないからな」
「全力でした。だからこそ、私も全力で彼に応じました。彼は最後まで誇り高い騎士でした」
その言葉に、ルーカスは深く頷いた。
「すみません」
「それはいいんだ。戦なのだから。だがユリエル、一つ聞きたい。どうして父王を殺した?」
凛とした声が問う。それは王の声だった。有無を言わせず、従える声。だがユリエルも王だ。それに易々と答えるほど心は弱くない。言葉を選び、嘘にならないように考える。そして、口を開いた。
「あの人は国の全てを家臣に任せて、王としての職務を放棄した。その結果、国内は腐り始めている。私はそこから治療しなければならないのです。溜まった膿を手段を選ばずかきださなければならない。そこに、古い病巣は邪魔なだけでした」
「……そうか」
軽蔑されたわけではなく、受け入れられたことに驚きを隠せない。ユリエルは安堵したように、少しだけ力が抜けた。
「苦しくはないか?」
「父を殺した罪悪感ならありません。あれは、母を苦しめた。母が弱音を吐かない事をいいことに、存在すらないように扱った。私はその仕打ちを一度だって許していない」
「母親が、大切だったんだな」
「あれほどに、凛として聡明な女性を他に知りません。王としての私を育てた人です」
母がいなければ、あの人が教えてくれなければ、ユリエルはとっくに潰されていた。頼る者のない状況でも強くあれたのは母の教えがあったから。誇りだったから。
「ユリエルにとって、母が生きる糧だったのだな」
「そうかもしれませんね」
温かく微笑んでくれるこの人が、今後の支えになってくれるだろうか。そうであってもらいたいと願う。
だがそのためにはこの争いを止めなければ。このまま戦争を続けるわけにはいかない。だが、それには大きな問題があった。
「ルーカス」
「どうした?」
「どうして、私の親書に応えてくれなかったのですか?」
ユリエルは射るような目でルーカスを見た。最初に送ったあの親書に彼が応えてくれていたら、ラインバールの戦いは起こらなかった。
だがその言葉に、ルーカスは訝しそうに首をひねる。そして同じように射るような瞳が、ユリエルへと向けられた。
「何の事だ? 俺は開戦を受け入れる旨の親書しか受けていない。それにユリエル、君こそどうして俺の親書に応えてくれなかった?」
「何の事ですか? 私はルルエからの宣戦布告しか受け取っていません」
互いの瞳が、大きく見開かれる。ユリエルの心臓は嫌な音を立てて鳴っていた。そして、こみ上げる怒りに震え、立ち上がった。
「ユリエル!」
走りだそうとしたユリエルの腕をルーカスが掴んだ。だがユリエルは振り返り、止めるルーカスを睨み付けた。
「離せ! あの毒虫共、今すぐに殺してくれる! よりにもよって王の親書を盗んだんだぞ! そのせいで、どれだけの兵が死んだと思う。どれだけの者が悲しむと思う。どれだけの憎しみが生まれると思う! 血の一滴も流さぬ愚か者が温かな場所で幸せに暮らし、国の為に戦った者が不幸を背負うなどあってなるものか!」
「落ち着け、ユリエル! それだけはしてはいけない!」
掴まれた腕が強く引かれ、暴れても敵わぬ力で抱きとめられる。それでも、怒りに染まった心はなかなか収まらなかった。
「ユリエル、証拠も無しに酷い仕打ちをすればその後どれ程の善政を敷こうが、君は暴君と言われてしまう。一時の感情に呑まれて虐殺などすれば、人の信頼は失われる。お前の治世は始まったばかりなんだぞ」
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荒れる心のままに怒気を含む声をルーカスに向ける。だが、返ってくるのはどこまでも静かな金の瞳だった。その瞳にはユリエルと同じくらい、怒気や憎しみが含まれていた。
「証拠を見つけ、裁く。王の親書を盗み、国の道筋を歪めた行いは間違いなく謀反だ。それを証明し、堂々と裁く」
「親書を、探すのですか?」
静かな問いに、ルーカスはただ頷いた。
「どういった内容だったんだ、ユリエル」
「平和的に両国の関係を改善させていきたい。その為の話し合いが持てるなら、捕虜とした兵を引き渡し、ジョシュ将軍の遺体を引き渡す」
「概ね同じような内容だな。俺は、両国の関係改善のための話し合いを求めた。捕虜の引き渡しに関しては、見受け代を払う事で納得してもらうつもりでいた」
「私と貴方の願いは同じだったのに、真逆の事をしているなんて。これで、引っ掛かりが取れました」
ユリエルは納得できなかったのだ。エトワールがルーカスだと分かっても、ならばどうして親書に応えてくれなかったのか。その一点が大きく彼にそぐわなくて不安だった。
だが、これで納得だ。そもそも彼は親書の存在を知らなかったのだから。
「俺もだ。お前が戦没者の慰霊碑に残した言葉を見て、この王とならば話ができると思っていた。だが、答えは返ってこない。平和的な解決などできないのだろうと思ったんだ」
「ルーカス、一度開いた幕は簡単に閉じられない。止める事はできますか?」
「……今は難しい。だが、方法がないわけではない。その為には失われた親書か、それに準ずる物を見つけ、犯人と結び付けなければ」
鋭い瞳で言うルーカスは、決してユリエルには見せない目をする。憎悪よりも更に深く憎い、そんな目だった。
「ユリエル、そちらはどうだ?」
「こちらも難しいですね。止める理由が無ければなりません。私は正直、今の家臣団とは折り合いが悪い。それでなくても弟のシリルに玉座を譲れと言われています。理由もなく、戦果も上げずに停戦などすれば何を言われるか」
「互いに立場は苦しいか」
深い溜息は苦労と心労の現れだろうか。苦々しい顔をするルーカスに、ユリエルは微笑んだ。
「時間をください」
「それは俺も同じだ。だが、どうする?」
「戦いを続けます。ただ、表面的に。被害を最小限に抑えられるように互いに協力し、策を知ったうえで動けば騙せる。そこで時間を稼ぎつつ、裏で動いてもらいます」
「スリリングな話だな。バレたら命はないだろう」
「その時は私も同罪。共に手を取って逃げてみますか?」
溜息をつくルーカスに、ユリエルは鋭い瞳で笑う。冗談っぽく言ったが本気だった。
「叶えたい夢がある。君と、何の気兼ねもなく会い、共にいられる未来を」
「えぇ、是非とも叶えたい未来です。その為にはどんな手でも使う」
「悟られないように」
「たとえ信頼している部下でも、易々とは教えられない」
不敵な笑みを浮かべた二人は、しっかりと向き合って頷き合う。そして、今後の話を軽く確かめ合うのだった。
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