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2章:王の胎動
17話:王都包囲網・前編
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▼開戦
朝靄が、深く濃く垂れこめる。一メートル先が見えないほどだ。ユリエルはその先へと厳しい視線を向ける。風のない、静寂の朝だった。
「動きますかね?」
「動くさ」
背後に立ったグリフィスが問いかける。それに、ユリエルは厳しい眼差しのまま答えた。
「手筈通りに行きます。グリフィス、気を抜くな」
「畏まりました」
律儀な足音が遠ざかる。既に兵はいつでも動けるようになっている。後はただ、ファンファーレが鳴るだけだ。
朝靄を散らすように僅かに風が吹く。その瞬間、大きな太鼓の音がした。
「敵襲! 背後に迫られています!」
にわかに場が緊張する。ともすれば騒々しくなりそうな兵達の前に立ったのは、グリフィスだった。
「狼狽えるな!」
その一喝で、全ての兵が冷静さを取り戻しただろう。本当に頼もしいばかりのグリフィスの姿に、ユリエルも安堵した。
「手筈通りに動きなさい。一千は私に続き正面を、二千はグリフィスに続き後方を守りなさい。残り一千は本陣を守れ!」
この言葉に、兵は士気を取り戻した。
◆◇◆
▼グリフィス
グリフィスは本陣を背に前を睨む。意外と敵は多い。何より、霧に紛れて進軍してきたルルエ軍は意外と近くまできていた。ここでグリフィスが落ちれば挟撃される。ユリエルが危ない。
「気を引き締めよ! ここは死地ではないぞ! 生きて国を我らが手に取り戻すのだ!」
「「おぉぉぉぉ!」」
地が揺れんばかりの声に、グリフィスの方が勇気づけられる気分だった。そして、前を睨み剣を高々と天へ突き上げた。
「全兵、進軍!」
雪崩を打つような声と土煙の先頭に立ち、グリフィスは馬を駆って敵軍へと切り込んだ。
槍を手に、馬上の敵を薙ぎ払う。落馬した敵兵には構うことなく、敵陣を切り裂くように進む黒馬と黒騎士をルルエ軍は止められない。グリフィスは向かう敵の全てを倒していった。
倍はいただろう敵がみるみる減っていく。だが、振り向いた戦場には敵ばかりが転がるわけではない。それを見ると、勝たねばと思う。グリフィスは剣を握り、尚も戦場を疾走した。
「タニス軍のグリフィス殿とお見受けする!」
剣の交わる鋭い音に混じり、馬蹄の音が近づいてグリフィスに迫る。それを正面にとらえたグリフィスは、直後に強い斬撃を受けた。受け止めた槍が僅かにしなるほどだ。
見れば三十代半ばほどの騎士が一人、グリフィスを見据えている。身なりもよく、隊を預かる者のようだった。
「戦場の死神と呼ばれる貴殿と、こうして剣を交える機会があろうとは。是非とも一戦願いたい!」
馬が離れ、改めて双方が睨みあう。グリフィスの馬ローランは苛立ったように前足をかく。その首を撫でて宥めてやりながら、グリフィスは思案した。
そこそこ腕のいい騎士だ。乱戦状態の今、キエフ攻略は時間が命。何よりこの将兵を討ち取れば、この部隊は瓦解し撤退を始めるかもしれない。それこそが、グリフィス達の狙いだ。
殺気を込めたグリフィスの槍が相手を狙う。それに合わせて敵将もまた、槍を構えて突進した。互いの槍が迫る。敵将の切っ先は真っ直ぐにグリフィスの胸を狙っている。
分かったうえで、グリフィスはその槍先を当てて軌道をずらした。そしてすれ違いざま、相手の馬の腹を思いきり蹴りつけた。
驚いたように高く嘶き馬は前足を持ち上げて立ち上がり、背に乗せた主を振り落としてしまう。地面に転がった敵将の首を、グリフィスは正確に突き通した。
舞い上がった血柱は戦場においても派手な演出だった。手を止めた敵兵の顔に、明らかな恐怖が浮かぶ。黒衣を赤く染めたグリフィスが辺りを睨み付けるのにもう、耐えられる者はいなかった。
「撤収だ……」
どこからか起こった声が拡大し、拡散していく。蜘蛛の子を散らすように敵兵は引き上げていく。タニス軍はそれを追い込むように包囲しつつ、だが一定の距離は保った。途中でよろけたり、蹲る者には見向きもせず、ひたすら逃げる兵を囲い込んでキエフへと向かっていく。網で魚を追い込むがごとくだ。
「砦へ連絡しろ。負傷者は運び込んで手当てしろ。無事な者はとりあえず牢へ運び込む」
「は!」
グリフィスの指示に従い、兵の一人が馬首を巡らせ一番近い砦へと向かっていく。それを見届けてから、グリフィスは緩やかにローランの腹を蹴った。
◆◇◆
▼キエフ戦
騒々しくなった外の気配に、ファルハードは耳をそばだてる。そして近くにいるアルクースを肘で突いた。
「始まったみたいだな」
ファルハード同様起きていたらしいアルクースも、その言葉に頷いて周囲を警戒した。
彼らは王都奪還が始まる一月も前からキエフ港に潜伏していた。表向きは荷を上げ下ろしするための労働夫として。だが本来の目的は戦いが始まった時に怪しまれずに動けるようにだった。
「どうするの、お頭。奴らが出た後で門を奪取するのと、捕えられた兵を救出するの。どっちやる?」
「兵の救出がいいかな。門の方はお前に頼む」
「了解。それじゃ、動くよ」
ゆっくりと起き上がったファルハードは慎重に扉へと近づき、周囲の様子を伺って外へと出た。
外では多くの兵が既に出兵した後だった。数日前から突然四千強くらいのルルエ兵が押し寄せた時には、さすがに肝が冷えたが。今はおそらく一千くらいか。
「それにしても、あの人の予想って当たるのな」
感心しつつ呟くのは、この作戦が始まる前の事だった。
シャスタの面々は事前に働き口を探しに来たふりをして潜伏し、時が来たら動くようにと任務が与えられた。その時の話である。
「おそらくルルエ軍は挟撃に出るでしょう。大人数で城に立てこもるよりも、多少いい戦いができますから」
冷静そのもののユリエルだったが、ファルハードは生きた心地がしない。挟み撃ちできるくらいの大軍を相手になんて、とても戦えないと感じたのだ。
「なぁ、殿下。俺達がそいつらと戦うのか?」
恐る恐る聞いてみるとジェードの瞳が丸くなり、次には大笑いされた。
「まさか、そこまで鬼ではありませんよ。勝てない戦いはしません。安心なさい」
「いや、だってさ」
「貴方達には捕えられた兵の解放と、人の出払ったキエフ港の占拠をお願いしたいのです」
ほへ? としたファルハードの脇を、アルクースがこつく。恥ずかしいと言わんばかりだ。
「殿下が引き付けてくれるので?」
「えぇ。動かないと言うならば、動かしてみせます。グリフィスが追い立てますから、貴方達は港の門を占拠し、グリフィス達を迎え入れてくれればいいのです」
「つまり、町に籠城できなくすればいいってわけだ」
アルクースは溜息をつき、次には鋭い視線をユリエルに投げる。こういう時は大抵、ちょっと怒ってる。
「殿下、自分を囮にして敵を引き出そうってのはさ、大将としてどうなの?」
ファルハードの視線もユリエルに向く。アルクースみたいに非難するのではなく、悲しい目で。
戦った時に思った事がある。この人は真っ先に自分の身を晒していると。一番危険な場所にあえて立っているんじゃないかと思う。そういう生き方しか知らないみたいだ。
「餌は魅力的でなくてはなりませんよ」
「なぁ、殿下。危ないと思ったら無理しないってのも、大事だぜ」
思わず出た言葉に、ファルハード自身が驚いた。ハッとして口を噤んだが遅い。ユリエルはとても意外そうな顔をして見ていた。
「ファルハード?」
「あぁ、いや。……いや、いいんだ。あんたがそうしたいなら、誰も止められないんだし。ただ、あんたが怪我するとさ、痛いのはあんただけじゃないと思ってさ」
かっこ悪い事を言った。戦う者の気を削ぐような事を言ってしまった。反省していると、不意に頭を撫でる誰かの手があった。
アルクースが笑って、頭を撫でていた。まるでガキにするように。
「よく言ったよ、お頭。俺もそう思う。だから殿下、あんま無茶しないようにね」
重ねて言ったアルクースに苦笑したユリエルが、柔らかく笑って頷いた。
あの顔を思うと、気合が入る。あの人は今、危険を承知で前線に立っている。それを助けてやりたい。
ファルハードは既に、ユリエルという人物がけっこう好きだった。いや、助けてやりたいと思えていた。沢山のものを背負うように立つその姿を支える一人であろうと、思ったのだった。
◆◇◆
▼アルクース
まだ薄暗く霧のたちこめるキエフの港は、アルクースにとっても動きやすい。十人程の仲間を連れて霧に紛れて門に近づいたアルクースは、緊張に唾を飲みこむ。
何度も戦ったし、今更綺麗な事は言わない。それでも、軍人と戦うのは初めてだ。何よりこれが上手くいかなければ港の占拠はできない。ユリエルの作戦は失敗する事になる。
「ほんと、盗賊崩れの傭兵なんかにこんな大事な事任せるなんて、あの人何考えてるんだろうね」
汗が滲む。けれど口元には、不思議と笑みが浮かんだ。プレッシャーと同時に、嬉しくもある。寄せられる信頼に応えたいと思う。
ユリエルは今回の作戦に、自分の部下は誰一人つけなかった。全面的にアルクース達に任せてくれたのだ。ただ一言「信じていますから」とだけ添えて。こんなやり方、ある意味卑怯だ。手放しで信頼など寄せられれば、裏切りも失敗もできない。
「あぁ、これがあの人の術中なのかな?」
厳しいし、怒らせると怖いし、色々暗い部分もある人だ。それでも何故か、魅力的だと思う。簡単に言えば人たらしなのだろう。深く触れた人は誰もが、あの人を放っておけなくなる。
だからだ、タイプの違う癖のある人があの人の周りに集まり、身分も関係なく協力する。そういう、不思議な感じがある。
「アルクースさん、人の出入りが止まった」
「いよいよか」
人の流れが止まり、門が閉じられる。アルクースにも緊張が走る。港に残っている兵の大半は、いつでも撤退できるように船の整備などをしている。だが気づかれればこちらに雪崩れ込んでくるだろう。
可及的速やかに。アルクースは身を低くし、はやりそうな気持を抑えて走り寄った。
シャスタ族は『古き狼の民』と呼ばれている。その由来は強靭な足だ。瞬足であり、健脚。それは内向きなアルクースも同様だ。
門の付近に居るのは二人。身を低く走り込んだアルクースはダガーを逆手に持ち、その背後へと素早く迫る。そして躊躇うことなく、その首を狙ってダガーを一閃させた。
声を発する事もできず、兵の一人が倒れる。その兵が地に倒れるよりも前に、アルクースのダガーはもう一人の兵の首も切り裂いていた。
「さすがアルクース。予言者じゃなきゃ暗殺者だよな」
倒れた兵を素早く引きずり目立たない所に隠している仲間がそんな事を言う。それにアルクースは苦笑するしかなかった。
実際、アルクースも仲間の言う通りだと思う。身が軽く素早いアルクールは小柄でもあり、暗殺に向いていると思う。それなりに度胸もあるつもりだ。両親もなく、引き取ってくれた預言者のじっちゃんが才能を見つけてくれなければ、今頃暗い道を歩いていた。
「暗殺者なんて、お頭がさせないさ」
一人が肩を叩き、笑って言ってくれる。ニッカと笑うファルハードの顔が浮かび、心が救われる。あの単純脳筋バカ頭はそれでも人の道に反する事を仲間にさせたがらない。真っ直ぐな気性の人だ。だから、救われる事もある。
「分かってるよ。俺は、預言者だ」
元気が出た。アルクースは門に寄り、門兵がいる駐留所の扉に手をかける。全員に視線を向け、頷き合い、一気に扉を開けて中へと雪崩れ込む。その素早さは喧騒など無いほどだった。
作戦開始からわずか十五分で、門は彼らの手に落ちたのだった。
◆◇◆
▼ファルハード
その頃キエフ港にある役人の屋敷の一つは静かに占領されていた。
「それにしてもよぉ、アルクースの薬って恐ろしいよな……」
屋敷にいた人はほぼ全員が眠っている。それを確認しながらファルハードは引きつった顔をする。
この屋敷に捕えられたタニスの兵がいることが分かり、ユリエルの指示で屋敷に人を潜入させた。馬を世話する馬番だが、屋敷に入れればどんな身分でも構わなかった。
そして、事が動いた事を知ったそいつがこっそりと眠り薬を焚いたのだ。その結果、屋敷にいるほぼ全ての人間が眠った状態で現在縛られている。
「できるだけ殺さないように捕えるってのは、面倒だよな。まぁ、無駄な殺しをしなくていいってだけいいけどな」
「お頭、捕まってる兵は地下みたいっすよ」
仲間の一人が言って、それに「おう」と答えたファルハードは地下へ降りる階段を歩いて行った。
地下には百人近い人が押し込められていた。そして、上で何が起こったのかと不安な顔をしていた。
「あんたらが、タニスの水軍かい?」
「あぁ、そうだが。一体何が起こっているんだ?」
「まぁ、戦いが始まったんだけどな」
ファルハードの言葉に、その場にいた兵がざわつく。代表で話をしている人物もまた、緊張と動揺に顔が引きつっている。
「貴方達は何故ここにいる?」
「ユリエル殿下のお味方さ。これを見せれば信じてもらえるだろうって、預かってる物があるんだ」
ファルハードは首から下げている銀の指輪を見せる。そこには繊細な百合が彫り込まれていた。
「確かにこれは、ユリエル殿下の指輪だ」
「その殿下から伝言な。速やかに自身の船を確保せよ。だが、逃げようとする者を追う必要はない」
「それは!」
戸惑いが広がる。だが、ユリエルの指輪を持つファルハードの言葉を疑う事もできないのだろう。軍におけるユリエルの影響と信頼を見るようだ。
「まぁ、じきにグリフィス将軍がくる。それまでは静かにしておいてほしいらしい。外に出た兵をグリフィス将軍がここに追い込み、国から追い出す。その時にタニスの軍船を取られるのは避けたいんだって。俺よりもあんたたちの方が理解できるだろ?」
「……了解した」
丁寧に礼を取った兵達を見て、ファルハードも頷き、仲間から檻の鍵を受け取って開けて行く。
その頃、外も丁度騒がしくなりだしたようだった。
朝靄が、深く濃く垂れこめる。一メートル先が見えないほどだ。ユリエルはその先へと厳しい視線を向ける。風のない、静寂の朝だった。
「動きますかね?」
「動くさ」
背後に立ったグリフィスが問いかける。それに、ユリエルは厳しい眼差しのまま答えた。
「手筈通りに行きます。グリフィス、気を抜くな」
「畏まりました」
律儀な足音が遠ざかる。既に兵はいつでも動けるようになっている。後はただ、ファンファーレが鳴るだけだ。
朝靄を散らすように僅かに風が吹く。その瞬間、大きな太鼓の音がした。
「敵襲! 背後に迫られています!」
にわかに場が緊張する。ともすれば騒々しくなりそうな兵達の前に立ったのは、グリフィスだった。
「狼狽えるな!」
その一喝で、全ての兵が冷静さを取り戻しただろう。本当に頼もしいばかりのグリフィスの姿に、ユリエルも安堵した。
「手筈通りに動きなさい。一千は私に続き正面を、二千はグリフィスに続き後方を守りなさい。残り一千は本陣を守れ!」
この言葉に、兵は士気を取り戻した。
◆◇◆
▼グリフィス
グリフィスは本陣を背に前を睨む。意外と敵は多い。何より、霧に紛れて進軍してきたルルエ軍は意外と近くまできていた。ここでグリフィスが落ちれば挟撃される。ユリエルが危ない。
「気を引き締めよ! ここは死地ではないぞ! 生きて国を我らが手に取り戻すのだ!」
「「おぉぉぉぉ!」」
地が揺れんばかりの声に、グリフィスの方が勇気づけられる気分だった。そして、前を睨み剣を高々と天へ突き上げた。
「全兵、進軍!」
雪崩を打つような声と土煙の先頭に立ち、グリフィスは馬を駆って敵軍へと切り込んだ。
槍を手に、馬上の敵を薙ぎ払う。落馬した敵兵には構うことなく、敵陣を切り裂くように進む黒馬と黒騎士をルルエ軍は止められない。グリフィスは向かう敵の全てを倒していった。
倍はいただろう敵がみるみる減っていく。だが、振り向いた戦場には敵ばかりが転がるわけではない。それを見ると、勝たねばと思う。グリフィスは剣を握り、尚も戦場を疾走した。
「タニス軍のグリフィス殿とお見受けする!」
剣の交わる鋭い音に混じり、馬蹄の音が近づいてグリフィスに迫る。それを正面にとらえたグリフィスは、直後に強い斬撃を受けた。受け止めた槍が僅かにしなるほどだ。
見れば三十代半ばほどの騎士が一人、グリフィスを見据えている。身なりもよく、隊を預かる者のようだった。
「戦場の死神と呼ばれる貴殿と、こうして剣を交える機会があろうとは。是非とも一戦願いたい!」
馬が離れ、改めて双方が睨みあう。グリフィスの馬ローランは苛立ったように前足をかく。その首を撫でて宥めてやりながら、グリフィスは思案した。
そこそこ腕のいい騎士だ。乱戦状態の今、キエフ攻略は時間が命。何よりこの将兵を討ち取れば、この部隊は瓦解し撤退を始めるかもしれない。それこそが、グリフィス達の狙いだ。
殺気を込めたグリフィスの槍が相手を狙う。それに合わせて敵将もまた、槍を構えて突進した。互いの槍が迫る。敵将の切っ先は真っ直ぐにグリフィスの胸を狙っている。
分かったうえで、グリフィスはその槍先を当てて軌道をずらした。そしてすれ違いざま、相手の馬の腹を思いきり蹴りつけた。
驚いたように高く嘶き馬は前足を持ち上げて立ち上がり、背に乗せた主を振り落としてしまう。地面に転がった敵将の首を、グリフィスは正確に突き通した。
舞い上がった血柱は戦場においても派手な演出だった。手を止めた敵兵の顔に、明らかな恐怖が浮かぶ。黒衣を赤く染めたグリフィスが辺りを睨み付けるのにもう、耐えられる者はいなかった。
「撤収だ……」
どこからか起こった声が拡大し、拡散していく。蜘蛛の子を散らすように敵兵は引き上げていく。タニス軍はそれを追い込むように包囲しつつ、だが一定の距離は保った。途中でよろけたり、蹲る者には見向きもせず、ひたすら逃げる兵を囲い込んでキエフへと向かっていく。網で魚を追い込むがごとくだ。
「砦へ連絡しろ。負傷者は運び込んで手当てしろ。無事な者はとりあえず牢へ運び込む」
「は!」
グリフィスの指示に従い、兵の一人が馬首を巡らせ一番近い砦へと向かっていく。それを見届けてから、グリフィスは緩やかにローランの腹を蹴った。
◆◇◆
▼キエフ戦
騒々しくなった外の気配に、ファルハードは耳をそばだてる。そして近くにいるアルクースを肘で突いた。
「始まったみたいだな」
ファルハード同様起きていたらしいアルクースも、その言葉に頷いて周囲を警戒した。
彼らは王都奪還が始まる一月も前からキエフ港に潜伏していた。表向きは荷を上げ下ろしするための労働夫として。だが本来の目的は戦いが始まった時に怪しまれずに動けるようにだった。
「どうするの、お頭。奴らが出た後で門を奪取するのと、捕えられた兵を救出するの。どっちやる?」
「兵の救出がいいかな。門の方はお前に頼む」
「了解。それじゃ、動くよ」
ゆっくりと起き上がったファルハードは慎重に扉へと近づき、周囲の様子を伺って外へと出た。
外では多くの兵が既に出兵した後だった。数日前から突然四千強くらいのルルエ兵が押し寄せた時には、さすがに肝が冷えたが。今はおそらく一千くらいか。
「それにしても、あの人の予想って当たるのな」
感心しつつ呟くのは、この作戦が始まる前の事だった。
シャスタの面々は事前に働き口を探しに来たふりをして潜伏し、時が来たら動くようにと任務が与えられた。その時の話である。
「おそらくルルエ軍は挟撃に出るでしょう。大人数で城に立てこもるよりも、多少いい戦いができますから」
冷静そのもののユリエルだったが、ファルハードは生きた心地がしない。挟み撃ちできるくらいの大軍を相手になんて、とても戦えないと感じたのだ。
「なぁ、殿下。俺達がそいつらと戦うのか?」
恐る恐る聞いてみるとジェードの瞳が丸くなり、次には大笑いされた。
「まさか、そこまで鬼ではありませんよ。勝てない戦いはしません。安心なさい」
「いや、だってさ」
「貴方達には捕えられた兵の解放と、人の出払ったキエフ港の占拠をお願いしたいのです」
ほへ? としたファルハードの脇を、アルクースがこつく。恥ずかしいと言わんばかりだ。
「殿下が引き付けてくれるので?」
「えぇ。動かないと言うならば、動かしてみせます。グリフィスが追い立てますから、貴方達は港の門を占拠し、グリフィス達を迎え入れてくれればいいのです」
「つまり、町に籠城できなくすればいいってわけだ」
アルクースは溜息をつき、次には鋭い視線をユリエルに投げる。こういう時は大抵、ちょっと怒ってる。
「殿下、自分を囮にして敵を引き出そうってのはさ、大将としてどうなの?」
ファルハードの視線もユリエルに向く。アルクースみたいに非難するのではなく、悲しい目で。
戦った時に思った事がある。この人は真っ先に自分の身を晒していると。一番危険な場所にあえて立っているんじゃないかと思う。そういう生き方しか知らないみたいだ。
「餌は魅力的でなくてはなりませんよ」
「なぁ、殿下。危ないと思ったら無理しないってのも、大事だぜ」
思わず出た言葉に、ファルハード自身が驚いた。ハッとして口を噤んだが遅い。ユリエルはとても意外そうな顔をして見ていた。
「ファルハード?」
「あぁ、いや。……いや、いいんだ。あんたがそうしたいなら、誰も止められないんだし。ただ、あんたが怪我するとさ、痛いのはあんただけじゃないと思ってさ」
かっこ悪い事を言った。戦う者の気を削ぐような事を言ってしまった。反省していると、不意に頭を撫でる誰かの手があった。
アルクースが笑って、頭を撫でていた。まるでガキにするように。
「よく言ったよ、お頭。俺もそう思う。だから殿下、あんま無茶しないようにね」
重ねて言ったアルクースに苦笑したユリエルが、柔らかく笑って頷いた。
あの顔を思うと、気合が入る。あの人は今、危険を承知で前線に立っている。それを助けてやりたい。
ファルハードは既に、ユリエルという人物がけっこう好きだった。いや、助けてやりたいと思えていた。沢山のものを背負うように立つその姿を支える一人であろうと、思ったのだった。
◆◇◆
▼アルクース
まだ薄暗く霧のたちこめるキエフの港は、アルクースにとっても動きやすい。十人程の仲間を連れて霧に紛れて門に近づいたアルクースは、緊張に唾を飲みこむ。
何度も戦ったし、今更綺麗な事は言わない。それでも、軍人と戦うのは初めてだ。何よりこれが上手くいかなければ港の占拠はできない。ユリエルの作戦は失敗する事になる。
「ほんと、盗賊崩れの傭兵なんかにこんな大事な事任せるなんて、あの人何考えてるんだろうね」
汗が滲む。けれど口元には、不思議と笑みが浮かんだ。プレッシャーと同時に、嬉しくもある。寄せられる信頼に応えたいと思う。
ユリエルは今回の作戦に、自分の部下は誰一人つけなかった。全面的にアルクース達に任せてくれたのだ。ただ一言「信じていますから」とだけ添えて。こんなやり方、ある意味卑怯だ。手放しで信頼など寄せられれば、裏切りも失敗もできない。
「あぁ、これがあの人の術中なのかな?」
厳しいし、怒らせると怖いし、色々暗い部分もある人だ。それでも何故か、魅力的だと思う。簡単に言えば人たらしなのだろう。深く触れた人は誰もが、あの人を放っておけなくなる。
だからだ、タイプの違う癖のある人があの人の周りに集まり、身分も関係なく協力する。そういう、不思議な感じがある。
「アルクースさん、人の出入りが止まった」
「いよいよか」
人の流れが止まり、門が閉じられる。アルクースにも緊張が走る。港に残っている兵の大半は、いつでも撤退できるように船の整備などをしている。だが気づかれればこちらに雪崩れ込んでくるだろう。
可及的速やかに。アルクースは身を低くし、はやりそうな気持を抑えて走り寄った。
シャスタ族は『古き狼の民』と呼ばれている。その由来は強靭な足だ。瞬足であり、健脚。それは内向きなアルクースも同様だ。
門の付近に居るのは二人。身を低く走り込んだアルクースはダガーを逆手に持ち、その背後へと素早く迫る。そして躊躇うことなく、その首を狙ってダガーを一閃させた。
声を発する事もできず、兵の一人が倒れる。その兵が地に倒れるよりも前に、アルクースのダガーはもう一人の兵の首も切り裂いていた。
「さすがアルクース。予言者じゃなきゃ暗殺者だよな」
倒れた兵を素早く引きずり目立たない所に隠している仲間がそんな事を言う。それにアルクースは苦笑するしかなかった。
実際、アルクースも仲間の言う通りだと思う。身が軽く素早いアルクールは小柄でもあり、暗殺に向いていると思う。それなりに度胸もあるつもりだ。両親もなく、引き取ってくれた預言者のじっちゃんが才能を見つけてくれなければ、今頃暗い道を歩いていた。
「暗殺者なんて、お頭がさせないさ」
一人が肩を叩き、笑って言ってくれる。ニッカと笑うファルハードの顔が浮かび、心が救われる。あの単純脳筋バカ頭はそれでも人の道に反する事を仲間にさせたがらない。真っ直ぐな気性の人だ。だから、救われる事もある。
「分かってるよ。俺は、預言者だ」
元気が出た。アルクースは門に寄り、門兵がいる駐留所の扉に手をかける。全員に視線を向け、頷き合い、一気に扉を開けて中へと雪崩れ込む。その素早さは喧騒など無いほどだった。
作戦開始からわずか十五分で、門は彼らの手に落ちたのだった。
◆◇◆
▼ファルハード
その頃キエフ港にある役人の屋敷の一つは静かに占領されていた。
「それにしてもよぉ、アルクースの薬って恐ろしいよな……」
屋敷にいた人はほぼ全員が眠っている。それを確認しながらファルハードは引きつった顔をする。
この屋敷に捕えられたタニスの兵がいることが分かり、ユリエルの指示で屋敷に人を潜入させた。馬を世話する馬番だが、屋敷に入れればどんな身分でも構わなかった。
そして、事が動いた事を知ったそいつがこっそりと眠り薬を焚いたのだ。その結果、屋敷にいるほぼ全ての人間が眠った状態で現在縛られている。
「できるだけ殺さないように捕えるってのは、面倒だよな。まぁ、無駄な殺しをしなくていいってだけいいけどな」
「お頭、捕まってる兵は地下みたいっすよ」
仲間の一人が言って、それに「おう」と答えたファルハードは地下へ降りる階段を歩いて行った。
地下には百人近い人が押し込められていた。そして、上で何が起こったのかと不安な顔をしていた。
「あんたらが、タニスの水軍かい?」
「あぁ、そうだが。一体何が起こっているんだ?」
「まぁ、戦いが始まったんだけどな」
ファルハードの言葉に、その場にいた兵がざわつく。代表で話をしている人物もまた、緊張と動揺に顔が引きつっている。
「貴方達は何故ここにいる?」
「ユリエル殿下のお味方さ。これを見せれば信じてもらえるだろうって、預かってる物があるんだ」
ファルハードは首から下げている銀の指輪を見せる。そこには繊細な百合が彫り込まれていた。
「確かにこれは、ユリエル殿下の指輪だ」
「その殿下から伝言な。速やかに自身の船を確保せよ。だが、逃げようとする者を追う必要はない」
「それは!」
戸惑いが広がる。だが、ユリエルの指輪を持つファルハードの言葉を疑う事もできないのだろう。軍におけるユリエルの影響と信頼を見るようだ。
「まぁ、じきにグリフィス将軍がくる。それまでは静かにしておいてほしいらしい。外に出た兵をグリフィス将軍がここに追い込み、国から追い出す。その時にタニスの軍船を取られるのは避けたいんだって。俺よりもあんたたちの方が理解できるだろ?」
「……了解した」
丁寧に礼を取った兵達を見て、ファルハードも頷き、仲間から檻の鍵を受け取って開けて行く。
その頃、外も丁度騒がしくなりだしたようだった。
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