月は夜に抱かれて

凪瀬夜霧

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2章:王の胎動

7話:海辺の再会(ユリエル編)

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▼ルーカス

 ユリエル達が出発した翌早朝、ルーカスは部下を半置き去りにして馬を走らせていた。その表情には苦々しい色が浮かんでいる。
 やられた。ルーカスは出し抜かれた事と、部下を一人失った事に舌打ちをする。昨夜、どれ程待っても密偵は来なかった。他の者に探させたがその行方は知れない。
 ユリエルの馬車を追った部隊からは規模の大きな砦に辿り着いたとの報告があった。だが、その後の動きは特に確認できていない。

「一人は王太子一行を追った部隊に合流、状況を説明しろ。一人はジョシュにキエフ港の守りを固めるように連絡しろ。残りは俺についてマリアンヌ港へと向かう!」

 部下にそう伝令をして、ルーカスは馬に乗って飛び出した。
 悪い予感がする。旅芸人は港に向かったと酒場の主人は言っていた。そこに海賊の噂だ。全てを結びつけるには強引な気もするが、ユリエルという人物が手を選ばないなら結びつく可能性もある。
 戸惑う部下を置いてルーカスは飛ぶように馬を走らせ、単騎チェリ平原を駆けていった。

◆◇◆

▼ユリエル

 ユリエルはマリアンヌ港に到着し、前もって用意していた屋敷に滞在していた。だがここでトラブルが起こってしまった。

「明後日には出られるそうだよ、殿下」

 港から戻ってきたレヴィンが船員からの報告をユリエルに伝える。この時すでにユリエルは女装を解き、赤く染めた髪も綺麗に洗い流してバスローブ姿になっていた。

「残念だったね、突然の嵐だなんて」
「まぁ、仕方のないことです。目的を達する前に沈まれたのでは困りますからね。しっかりと点検してもらってください」

 ユリエルは軽く笑みを浮かべてレヴィンに言う。だがその心中は穏やかとは言えなかった。この間にルルエ側に本当の目的を悟られれば追いつかれる。目的に気付いていなくても、ここまで追って来られたら邪魔がはいる。
 今頃、密偵からの連絡がない事を不審がっているだろう。そうなれば不審な旅芸人に追手がかかるかもしれない。
 不安はある。だがなぜか心はワクワクと浮き立つ。挑戦的な気持ちもあるのだろう。止められるものならば止めてみよと。

「大丈夫なの? 船が出る前に見つかったら、相手に先手を打たれるんじゃないの?」

 アルクースが当然のように聞いてくる。だが、ユリエルは逆に鋭い笑みを浮かべ一同を見回した。

「無理矢理にでも押し通すのみですよ。アルクース、腕に自信は?」

 挑発的なユリエルの瞳をキョトと見たアルクースは、だが次にはニッと笑みを浮かべ、腰につけている剣の柄を遊んだ。

「これでも盗賊……じゃなくて、傭兵の端くれ。恥じない程度には役立つつもりだよ。試してみる?」
「その必要はないさ。アルの剣はよく手入れされてるけれど曇ってるしね」

 レヴィンの指摘に、アルクースは苦笑した。
 アルクースの剣は標準的な両刃の剣だ。装飾も特にない。だが、鞘から抜けば様子が違う。とても丁寧に手入れされているが、その刀身は僅かに曇っている。生き物を斬るとその脂が刀身を曇らせる。人を斬った事のある証拠だ。

「まぁ、野宿だったのですからゆっくり体を休めておいてください。焦っても船の準備ができなければ出港はできません。今は体力を温存する事にしましょう」

 ユリエルの言葉に皆が頷いて、それぞれの部屋へと引っ込む。
 ユリエルは窓から外を見た。この屋敷は海の傍にあり、そこから夜の海がよく見える。空には月が、海にも月が、二つの明かりが照らしている。水面の月はゆらゆらと海を飾っている。

「エトワール、貴方は今頃どこにいるのでしょうね」

 綺麗な月の夜に出会った彼は、一体どこにいるのだろうか。ユリエルは思って月を見ていた。今はどこを旅しているのか。まさか、嵐になど巻き込まれてはいないだろうか。不意に心配になった。

「まぁ、彼ならば」

 大丈夫だろう。鍛えられた体をしていた。何かあっても一人で対処できるだろう。そういう人だと思える。トラブルくらい回避できるだろう。
 願わくは、もう一度会いたい。別れた時からそのように思っていた。月の綺麗な夜はよく思い出し、その度に心が温かくなる。寄り添っている事を心地よいと思った相手は彼が初めてだ。
 身分や姿を偽っていなければ。出会った場所が安全な場所であったならば、もう少し長く彼の傍にいて言葉を交わしていたかった。

 そんな事を思いながら、ユリエルは早めに床に就いた。そして、温かな思いを胸に眠りにつくのだった。

◆◇◆

 翌日の日中は準備や確認、読書をして過ごしたユリエルだったが、さすがに夜になると落ち着かなくなった。レヴィンとアルクースは意外と気が合うのか仲良くなり、今頃は酒場で遊んでいる。
 ユリエルも決心して外に出る事にした。銀の髪を水色に染め、詩人の服を着こみ、首に旅人のお守りを下げる。手には竪琴を。剣なんて不粋な物は持たない。
 その姿で、ユリエルはこっそりと海の見える港へと向かった。

 港に人影はない。ただ静かな波の音だけが耳につく。この時間、大抵の船員は休んでいるか酒場で遊んでいる。特にユリエルが来たのは港の端。停泊している船はない。
 海を見渡せる桟橋に腰を下ろし、ユリエルは竪琴を爪弾いた。

「太陽に神あり、月に女神あり
 日に二度顔を合わせたり
 想い募り叶わぬと泣く二人の神に、創造主は言う」
「日に闇が差したならば、二人を引き合わせようと」

 背後でした穏やかな声に、ユリエルは心臓を鷲掴みされたような気持ちで振り返った。そこには、望んだ人の姿があった。穏やかな金色の瞳が優しく見つめている。

「どうやら旅人の神は、俺達二人に加護を与えてくれたらしい。出会えてよかった、リューヌ」
「私も貴方に会えて嬉しく思います、エトワール」

 ユリエルは彼を隣へと招く。それに応じて、エトワールも隣に座った。そして共に、同じ海を見つめた。

「なぜ、ここへ?」

 エトワールに問われ、ユリエルは一瞬言葉につまった。なんと言っていいか迷った。真実を告げられない以上、嘘をつくしかない。それがほんの少し心苦しい。

「海が、見たくなったのです」

 彼に偽りを告げるのは苦しい。だが、正体を明かせないのだから仕方がない。むしろ正体を偽っているからこそ、心はとても素直だった。

「奇遇だ。俺も近くを通り、海に誘われたんだ」

 穏やかに柔らかく彼が笑う。金の瞳はどこまでも温かくユリエルを見ていた。

「あれから、どのように過ごした?」
「小さな町や村を転々としておりました。貴方は?」
「同じようなものだ。野宿をしながら町を転々としていた」

 ほんの少しの嘘を織り交ぜて、それでも心はいつも以上に偽りがない。彼の傍は心地よく、温かく感じる。緊張している今、ユリエルはこの温もりを離し難く思っていた。

「月を見るたびに、君の事を思い出していた」
「え?」

 不意に言われた言葉に、ユリエルは心臓が鼓動を早めるのを感じた。ユリエルも同じだったからだ。ふとした時に、特に苦しい時や興奮した時に思い出しては温かく幸せな気持ちになった。

「おかしなものだ。こんな気持ちは生まれて初めてなんだ。誰かを思い眠る時間を、これほど幸福に思うなんて」
「それは、私を口説いているのですか?」

 とても優しく甘い表情でエトワールが言うものだから、ユリエルはからかうように言った。だが隣のエトワールはふと驚いた表情をして、次には僅かに顔を赤くする。その様子に、ユリエルの想いは僅かに甘く期待を持った。

「……分からない。そもそも、俺は今まで恋愛などしたことがないから」
「それは勿体ない。貴方なら、女性が放ってはおかないでしょうに」

 意外な言葉に、ユリエルの期待は少しずつ膨らむように思う。恋愛など知らないという彼が、では一体なぜこのように、甘く誘うように囁くのか。無自覚でもいい、多少は情があるのだと都合よく解釈してもいいのだろうか。
 エトワールは困ったように苦笑する。そして、本当に恥じるように頬をかいた。

「前にも言った通り、俺は不粋な男なのだろう。女性はどうも理解しがたい。突然酔ったふりをしたり、胸を押し当てたり。素知らぬふりをしたり人に任せると、怒りだしたり殴られたりする。彼女たちが何故怒るのか、俺には未だに分からないままだ」
「それは……殴られることを十分にしているように思いますが」

 女性たちは明らかに彼を誘惑していたのに、彼がつれなくするものだから怒ったのだろう。案外鈍いのか、それとも色恋に嗅覚が働かないのか、もしくは分かっていて無下にしているのか。

「何か、まずい事をしていたのか?」
「本当に分からないのですか?」
「あぁ」
「その女性たちは、貴方を誘惑していたのですよ。酔ったふりをして気を引いたり、身体的な魅力を見せつけたり。それなのに貴方がつれなくするから殴られたのですよ」
「そうだったのか!」

 本当に驚いた顔をして言うものだから、ユリエルは思わず声を上げて笑った。これは本当に鈍いらしい。そんな彼が、少し可愛く見えてきた。
 そして、そんな鈍い彼が自分にこのような想いを寄せる心に、期待してしまう。何を思って、彼は忘れられなかったと言うのか。ユリエルは好奇心と共に、淡く踊る気持ちに鼓動を早めた。

「では、そんな鈍い殿方がなぜ、男の私にそのような思いを抱くのです? よもや、私を女と間違えてはいませんよね?」

 金色の瞳が僅かに見開かれ、次には本当に困った顔をした。考え込むような、困惑しているような表情。それを見て、ユリエルは笑みを深くする。これは、思ったよりも脈がありそうだ。

 そして、そんな事を思う自分もどうかと思う。自分は、彼に誘われたいのか?
 自分に問いかけても答えは出てこない。ユリエルもまた、恋愛などしたことがない。だからこそ、とても不思議だった。思うだけで穏やかになり、優しく包まれるような安心感を得られる相手なんて出会ったことがない。
 だが、これが誰かを『好きになる』という気持ちなのかもしれない。王太子ではない、ユリエルという一人の人間が求めたものなのかもしれない。そう思うと、妙に納得した。
 今の感情が素直な気持ちであるのなら、この衝動が求めたものならば、嘘はないだろうと。

「エトワール」

 未だ答えが出ないのか、エトワールは難しい顔のままだ。柔らかく笑い、ユリエルは追い詰めるように迫る。それに促され、エトワールもまた考えながら口を開いた。

「性別は、認識している。だが……なぜだろう。俺にも分からない。分からないからこそ、もう一度会いたいと望んだ。会えば、この胸にあるものが分かるかもしれないと思ったんだ」
「それで、分かったのですか?」

 心を決めたユリエルには余裕がある。欲しいものを素直に欲しいと受け入れれば、気持ちは楽だ。後は彼の心を確かめてから、縋るでも諦めるでも、迫るでもしてみよう。

「なんと言えば、いいのか……。傍にいて、温かく穏やかな心地になれる。とても安堵して、欲しているのかもしれない。たった一度会っただけの君に、こんな気持ちを抱く理由が俺にはわからない。だが、この想いは消せそうにない」
「どうしてその口説き文句を女性に言ってあげないのですか?」

 聞いているユリエルの方が恥ずかしくなるような口説き文句だ。思わず顔が熱くなってくる。それでも、悪い気はしない。

「本当に初めてなんだ、こんな気持ちは。正直、俺も戸惑っている。君はどうして、そんなに意地悪な事を言うんだ?」
「意地悪ですか? 私はこれで正直な人間ですよ」

 なんて、からかうような口調で笑いながらユリエルはエトワールを見る。彼の方は決まりが悪そうに頬をかいた。そんな彼が少し可愛くも見え、ユリエルは笑う。ひとしきり笑って、次には悪戯な瞳でエトワールを見た。

「そんなに気になるのなら、確かめてみてはいかがですか?」
「ん?」

 不意の言葉に固まるエトワールを、ユリエルは見る。何を意味しているのか分からず、戸惑っているのが分かる。そんな彼に溜息をつき、ユリエルは更に体を寄せた。

「定まらぬ心を考えても、答えなど分からぬものでしょ? それならばいっそ、体に聞いてみてはいかがですか?」
「……何を言っているのか、分かっているのかい?」

 一つ低くなる声、厳しくなる表情。それは予想以上に男を思わせるもので、見つめていると胸の奥が熱くなる。

 あぁ、やはり気持ちは彼を求め、体はその証を求めるのだな。
 そんな思いに、ユリエルは苦笑した。

 ユリエル自身は男同士という事に嫌悪を持っていない。軍籍に長くいて、そうしたものに慣れたのだろう。ユリエルには性欲を慰める係がいて、その相手は大抵が男だ。世継ぎ問題があるからだ。
 その場合も、ユリエルは当然抱くほうだ。ただ、興味はあった。同性という無理のある行為だというのに、それでも抱かれる側は徐々に気持ちよさそうにしていた。案外悪くないのかもしれない。
 もしもそのような事を試すなら、気持ちのある相手がいい。そう、彼がいい。

「分かっているつもりですよ」
「男に抱かれる趣味があるのか?」
「いいえ。ただ、貴方ならば心地がいいだろうと思いまして。私も貴方と同じ気持ちでいました。貴方の傍は心地よく、交わす言葉に胸が躍る。こんなに誰かを心に留め、反芻して幸せを感じるなど、今までありませんでした。だからこそ、抱かれてみたいと思うのです」

 ほんの少し迫るように近づくと、エトワールはビクリと震える。それでも逃げないから、そっと手を重ねてみた。

「これもまた、神の悪戯なのかもしれませんね。不意に出合わせ、人の心を弄ぶ。けれど、踊らされるのもいいかと思っています。貴方は、嫌ですか?」
「……神もまた、とんでもない悪戯をしかけるものだ。本当にいいのか? 俺は、途中で止められる自信はないぞ」
「貴方が私を、恋人のように慈しんでくれるのなら」

 痛いのも乱暴なのも遠慮願いたい。最初は痛いだろうから、それには耐える。だが、乱暴にされて陶酔する趣味はない。
 そっと、恐れるように腕が回る。抱き寄せられるのに任せ、身を寄せる。自分の鼓動と彼の鼓動が聞こえてきて、随分耳についた。早いテンポで鳴っている。それなのに、寄り添う温もりが愛しく思えた。

「本当に、構わないのか?」
「くどいですよ、エトワール。私は一度言った事を引っ込めたりはしません。後は、貴方の気持ちしだいです」

 しっかりと見据え、逃げる気はないと彼に伝える。迷いように揺れる瞳が、やがてしっかりと見つめるのを感じた。心は定まったのだと、分かった。
 もう一度強く抱き寄せられ、髪を梳かれ、心地よくそれに従う。腕の力が緩み、少しだけできた距離を埋めるように、エトワールの柔らかな唇が額へと落ちた。
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