月は夜に抱かれて

凪瀬夜霧

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2章:王の胎動

1話:妖しき夜会

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▼グリフィス

 グリフィス達が古びた教会の祭壇奥にある隠し戸を押し開けたのは、王都脱出から六日後の事だった。予定よりも少し早かったのは、ひとえにレヴィンのおかげだろう。

 シリルとレヴィンはあの夜を境に急速に親密になった。レヴィンという男は意外と人づきあいがいいらしい。何よりも目端がきく。シリルが疲れていると分かるとそれとなく言って休息を取ったり、時に背負って進むこともあった。
 シリルは最初それに恥ずかしそうにしていたが、話すうちに心を許したのか楽しそうにしていた。
 これにはグリフィスも他の兵も驚いた。レヴィンは他の兵の事もよく見ていて、それとなくグリフィスに報告したりもしていた。そのおかげで、全員必要以上の疲労を溜めずにここまでこられた。

「やっとお天道様の陽を浴びられるね。夜型の俺でもさすがに滅入る」

 グリフィスの後ろで頭の後ろに手を置き、レヴィンがのんびりそんな事を言っている。
 最初に地下道を出て周囲を確認したグリフィスが、他の者にも上がってくるように指示する。皆思い思いに体を伸ばし、首や肩を回している。その表情は心なしか明るかった。
 レヴィンに引き上げられるようにして外に出てきたシリルも、久しぶりの日差しと風に安堵したようにほんのりと笑みを見せた。

「そうのんびりもしていられない。できるだけ早く周囲を確認し、必要ならば山越えを考えなくては」

 全員が無事に出てきたことを確認して、グリフィスは教会から外へ出た。目が明りに慣れておらず、眩しさに目を細める。けれど確かに、そこに人の影があった。
 思わず剣に手をかける。だが、響いた声は柔らかく、そして懐かしいものだった。

「私を斬るつもりか、グリフィス」
「クレメンスか!」

 ようやく目が明りに慣れてきて、グリフィスはしっかりとその影を確認した。
 肩にかかる金色の髪に、切れ長の青い瞳。品のある端整な顔立ちをした男が、相変わらず眉間に皺を寄せてそこに立っていた。
 懐かしい顔に安堵した事でようやく肩の力が抜けた。ここにクレメンスがいるということは、山越えは必要ないということだ。

「お勤めご苦労様。後は私が引き受けよう」

 肩を叩かれ労をねぎらわれ、グリフィスの顔にも苦笑が浮かび、素直に疲労の色を顔に浮かべた。そして、素直にクレメンスに後の事を任せる事とした。

◆◇◆

▼クレメンス

 クレメンスはグリフィスの背後にいるシリルへと視線を移す。そして、その傍らに立つレヴィンにも。どちらかと言えばレヴィンの方が気にかかった。だが、まずはやるべきことを済ませてしまわなければ。

「遠路遥々、ようこそお越しくださいましたシリル様。聖ローレンス砦の前首座、クレメンス・デューリーと申します。ユリエル殿下の名代として、皆様をお迎えに上がりました。これより先に敵はございません。馬車を用意しておりますので、どうぞこちらへ」

 丁寧に礼を取ったクレメンスにシリルは柔らかく笑う。安堵したというのが大半に思えた。

「わざわざ有難うございます。まずは皆さんを休ませてあげてもらえますか? 皆、とても疲れています」
「勿論です。近くの町に馬車を用意しております。ここから馬車を走らせれば、夕刻にはユリエル殿下の居られる聖ローレンス砦へと辿り着くでしょう。今しばらく、ご辛抱下さい」
「皆、馬車に乗れるのですか?」
「勿論、そのように準備をいたしております」

 満面の笑みを浮かべたクレメンスに、シリルは安堵したように頷いた。そして、背後の者達も安堵した。皆それぞれ、疲れがたまっている様子だった。

◆◇◆

▼ユリエル

 その日の夕刻、馬車が聖ローレンス砦へと到着した。荷馬車を降りたシリルが外で待っていたユリエルを見つけて駆け寄ってくる。大きな新緑色の瞳に涙を溜めたシリルを、ユリエルは手を広げて迎えた。

「シリル」

 呼びかけに駆け寄ったシリルは、溜めていた感情を溢れさせるように泣いた。ユリエルの胸に飛び込み、体を震わせている。
 その体を抱きしめ、頭を撫でるユリエルもまた心から彼の無事を喜んだ。大切な弟がやはり愛しい。この小さな子を再び抱きしめる事が出来て、安心していた。

「ごめんなさい、兄上。僕は何もできなくて」
「いいのですよ。無事に私の所に来てくれたのですから、それ以上など望みません。辛かったでしょ? もう大丈夫。私が守ります」

 心温まる兄弟の再会だ。だがそれは、ユリエルという人間の一面でしかない。本当に弟のシリルに対しては天使のように優しく甘い。
 ふと、ユリエルの視線が背後に立つ三人の人物へと移る。グリフィスに、クレメンス。もう一人目立つ赤毛の男がいるが、知らない者だった。

「グリフィス、ご苦労でした」
「いいえ。無事にお連れすることができて安堵しております」
「お前は国一番の騎士。信じていましたよ」

 鋭く凛としたユリエルの視線に、グリフィスは肩を竦めて応じた。

「あの、兄上。一人紹介したい人がいるのですが」

 まだ涙を拭いながら、それでもシリルはあどけない笑みを見せる。そして一度ユリエルの傍を離れて、見守っていた知らない男の腕を引いてきた。

「え?」
「レヴィンさん、紹介します」

 シリルが少し強引に赤毛の男を引いてくる。その様子に、ユリエルは少し驚いてしまった。
 見知らぬ相手に対して人見知りするタイプのシリルがこうも強引な態度を見せている。しかも、相手は決してシリルが交わり合うような人物ではないと思うのだが。

「兄上、紹介します。僕をここまで連れてきてくれた、レヴィンさんです。とてもお世話になったのです。だから、ちゃんと僕が紹介したいと思って」
「そうですか」

 上辺だけの穏やかな笑みを見せ、ユリエルはレヴィンと向き合う。その視線に、レヴィンは肩を竦めてみせた。

「ユリエルです。弟が大変お世話になりました。明日にでも改めて、お礼をさせてください」
「とんでもない。俺ごときがそのような温情を賜れば他がなんと言うか」

 そうは言うが、レヴィンの瞳は強く輝いている。そしてその野心の闇を見過ごすユリエルでもなかった。

◆◇◆

 翌日、改めて辿り着いた兵達を労う宴が催された。聖ローレンス砦は一気に士気を上げている。ユリエルがいて、クレメンスがいるだけでも一定の士気を保っていたが、そこにシリルとグリフィスが加わったのだ。

「これで王都奪還は見えた!」

 そう息巻く者もいるくらいだ。この砦には若い兵も多い。そういう者は単純で、この高揚感に酔いしれている。
 だが実際はそう簡単な事ではないと、主要な者達は分かっていた。


 その夜、ユリエルはクレメンスの屋敷で夜会を開いた。この屋敷は現在領主である叔父の持ち物だが、この叔父は全面的にクレメンスの味方をしている。場所の提供くらいは快く受けてくれた。
 程なく怪しい夜会に招かれたグリフィス、シリル、そしてレヴィンを含む五人は、グラスを傾ける事となった。

「皆、本当にご苦労でした。特にグリフィス、そしてレヴィン。貴方達の迅速な行動のおかげで、シリルを無事に保護する事ができました」
「本当に、グリフィス将軍とレヴィンさんにはなんと言ってお礼をすればいいか分かりません。足手まといの僕をここまで連れてきてくれて、本当に有難うございました」

 小さな頭を深々と下げたシリルに、名を上げられた二人は慌てて頭を上げるように促す。そして、互いに行軍の労を思って苦笑を交わしていた。

「さて、グリフィスはいいとしてレヴィン。貴方はここに呼ばれた理由を、正しく理解していますか?」

 鋭さのある瞳を向けると、レヴィンは僅かに肩を竦める。だが、その意味は正しく理解している様子だった。

「勿論、そのつもりでここにいますよ。レヴィン・ミレット、命ある限り貴方に尽くしてご覧に入れましょう」

 堂々と慇懃に礼をする姿はどこか道化のようであった。だがそれで、ユリエルは構わなかった。有能かつ、悪事をこなせる者であればよいのだ。

「シリルは、ここにいますか? 話を聞けば否とは言えなくなりますよ?」

 その言葉に、シリルは僅かに怯えたようだった。グリフィスがここを出るように促す。だが、次には新緑の瞳が真っ直ぐにユリエルを見た。その瞳には強い意志が宿っている。

「ここにいます。僕も、逃げているわけにはいかないのです。力になれることは少なくとも、知らずにおくほど子供でもいられません」
「良い覚悟です」

 まだまだ幼く頼りないとばかり思っていた弟は、この行軍で確実に強くなったようだった。元々頑固な部分があったが、それに意志の強さも合わさっている。

「では、これより先は無礼講に。殿下と言った者には罰がありますよ」

 にこやかに言ったユリエルの言葉に、グリフィスが飲みかけた酒を詰まらせて咽た。じろりと睨んだその瞳に、ユリエルは悪戯な笑みを見せる。

「罰というと、定番は酒の一気とかかな?」
「こらレヴィン、乗るな!」
「いいではありませんか、グリフィス。私は無礼講と言ったのですよ。堅苦しいのがお前の悪いところです」

 笑いながら対応するユリエルに、グリフィスも諦めたように息をつく。そして、グラス一杯の酒を一気に飲み干し、また新たに注いだものも飲み干した。飲まずには付き合えないということだろう。

「さて、危険な夜会は始まったわけだが。ユリエル様、今後は何からなさるおつもりで?」

 クレメンスが壁に凭れて、実に楽しそうに笑う。より危険な方向へと話しが進むことを楽しんでいるような様子にグリフィスが睨んだ。

「この方の望みは決まっている。国を取り戻し、王となる。それ以外にあるのか」

 酒が入って多少タガが外れたようで、グリフィスが予想よりも大きな声で言う。シリルなどはそれに驚き、ユリエルは愉快そうに笑った。

「お前は的確ですね、グリフィス。確かに、早々に国を取り戻さなければなりません。その算段を立てるわけですが。さて、どうしましょうかね」
「実質問題、そこが問題だ。兵を集める事はこの際機を見て一斉蜂起という方法が取れるが、問題はあちらの兵力がこれ以上入らないようにすることだ」
「そうなると、キエフ港を抑えないとかな?」

 クレメンスの言葉を引き継ぐようにレヴィンは言う。それに、グリフィスとシリルは驚いた様子だったが、ユリエルは大して驚きはしなかった。

「お前は賢いですね」
「それはどうも。まぁ、冷静に考えればそれ以外に侵入路は考えられないでしょ? 陸がダメなら海。ルルエ海軍はおっかないって聞くし、今は怖いものなしなんじゃないかな」

 レヴィンの言う事はもっともだ。ユリエルとクレメンスもそこをどうすべきか考えている。そして、兵を送りこんだ方法もまた、大方予想はついていた。

「いくつかの商船が、関所の兵や役人に賄賂を送り荷や船員の数を誤魔化していると報告がありました。おそらくルルエの兵が商人を買収し、自軍の者を少しずつ送り込んでいたのでしょう」
「まぁ、だろうね。あいつらは金が入ればそれでいいから。でも今は、その商人を罰する事よりもルルエ海軍を叩く方法を考える方が先だね」

 レヴィンがご機嫌に酒を飲む。決して呑気な話ではないが、この男が言うと緊張感がない。だが、これは当面最も大きな問題だった。
 ただ、ユリエルも決して呑気に構えていたわけではない。この事態を打破する方法を一応は用意していた。

「では、まずは奴らの兵力を絶てる者を見つける必要がありますね」
「何をなさるおつもりです」

 低い声でグリフィスが問う。見ればクレメンスが面白がってどんどん飲ませている。グリフィスは酒に弱いわけではないが、ストレスからか酔うと言葉が荒くなり、遠慮がなくなる。
 まぁ、それをユリエルも楽しんではいるが。
 ユリエルはテーブルの上にタニスの地図を広げた。そして、この砦から一番近い港を指さした。

「ここ、ローレンスから一番近いマリアンヌ港に、腕の立つ海賊がいるそうです。我が国の軍船も数度、痛い目にあっています」
「まさか、海賊を引き入れようと考えてはいませんよね?」

 言わんとしている意味を正しく理解したグリフィスが、睨み上げて問い詰める。それに、ユリエルは溜息をついた。

「誰です、こいつにこんなに飲ませたのは」
「申し訳ない、ユリエル様。随分ストレスが溜まっていたようで」
「責任とって宥めなさい」
「かしこまりました」

 苦笑するクレメンスが「落ち着け」と言って座らせてさらにブドウ酒を注ぐ。どうやら酔い潰すつもりらしい。

「ですが兄上、グリフィス将軍の言わんとしている事はもっともです」

 とても遠慮がちにシリルが言う。チビチビ舐めるようにお酒を飲んでいた彼は、見られる事に一瞬たじろいだようだった。

「確かに問題もございます。貴方が賊を召し抱えたとなれば彼らは官軍。そうなれば、兵達は不満を持つ可能性があります。いかがお考えで?」
「私が個人的に召し抱える。秘密裏にね。それで手を打たないのなら討ち取って、罪の償いとして働いてもらいますよ」
「わぁお、豪胆な人だ」

 楽しそうに口笛を吹くレヴィンをグリフィスが睨む。だが、このくらいでしおらしくなる奴ではないだろう。実に楽しそうに、レヴィンはユリエルを見た。

「賊を飼いならそうってわけだ」
「使える者は無理にでも使います。現在、キエフ港が敵方に落ちたままでは人も武器も入りほうだいです。早々に絶たなければ蜂起する事もできません」
「餌は何にするおつもりかな? 奴らの欲しいものをちらつかせないと、乗ってこないと思うけれど」

 危険な笑みと鋭い瞳がユリエルを見る。ユリエルには確信があった。レヴィンは何かを知っていると。

「お前の情報、私が買います。知っている事を教えなさい」
「俺の情報は高くつきますけど?」
「レヴィン!」

 さすがの言いようにグリフィスは声を荒げる。だが、ユリエルの方は挑戦的にレヴィンを見て、口の端を上げた。

「望みは?」
「うーん、今はないかな。掛売しとく」
「いいでしょう」

 怪しい取引が成立し、グリフィスは睨みクレメンスは溜息をつく。思った通り相性のいい相手に、ユリエルは危険な笑みを浮かべた。

「その海賊の噂は、下町や港の酒場ではよく聞くよ。なんでも、大商人グリオンを狙っているとか」
「ほぉ?」

 レヴィンの言葉に、ユリエルは鋭く冷たい笑みを浮かべた。
 ユリエルは件の商人を知っている。何度か品物を城へ売りに来たことがあるが、どうにも好かない相手だった。絡みつく視線も、あからさまな世辞も、媚びる姿勢も全て気に食わなかった。
 役人を買収し、船員や荷を誤魔化していたのはこのグリオンを頭とする商人達だった。ユリエルは疑っていた。今回ルルエ軍を引き入れたのは、こいつではないかと。

「噂で聞いたことがあるな。その商人、元はマコーリー家の下男だったとか。彼の家が惨事に消えた後で突如頭角を現した故、黒い噂が絶えぬ男です」

 マコーリー家の悲劇はタニスでは有名な話だ。裕福な商家だったマコーリー家は人望もあり、貧しい者に施しをし、仕事を斡旋していた。だが、今から五年以上前に突如屋敷が業火に消え、一家は死亡した。
 この火災には多くの疑問が残る。火元が分からない事や、家にいた者が誰も逃げられなかった事だ。そのせいで、今も色々な噂がある。

「あまりの悲劇に未だ屋敷の跡地は当時のまま。なんでも、亡霊が立つらしいよ」
「亡霊、ですか」

 ユリエルは腕を組んで眉根を寄せる。
 ユリエル個人は亡霊などというものを信じていない。死ねば等しく土に返り、国籍も罪も現世では許される。その考えがあるから、ユリエルは死ねば敵も味方もなく安らかな眠りを願い、等しく弔っている。
 おそらくその屋敷跡に現れる亡霊も死人ではないだろう。そう考えている。

「グリオンの身柄を引き渡す事を条件に、こちらへの協力を取り付ける事ができそうですね」
「民を売るのですか?」

 シリルが不安そうに問う。その目には多少の非難もあった。だが、ユリエルは臆する事はない。叩けば埃まみれだろう。

「まずは彼らと話しをして決めます。罪があれば引き渡しも考えます。まぁ、これだけ追い回されているのですから、全くの無罪とは思えません」
「他に要求された場合は、いかがいたします?」
「要求によりますね。あまりに対価が多ければ、やはり捕えてしまいます」

 どちらに転ぶかは賊しだい。ユリエルだって協力を願う者に理不尽な事はしない。契約として成立できる内容ならば、それで丸く納めるつもりだ。

「では、その危険な旅路を誰とするおつもりかな?」

 レヴィンが楽しそうなので、ユリエルも遠慮なく彼を見る。この様子では既に何かを期待しているようにしか思えない。

「お前がきなさい、レヴィン。危険を承知の強行軍でよければ」
「それは楽しみだね。是非ともご一緒いたしましょう、ユリエル様」

 慇懃に礼をするレヴィンを不安そうに見つめるのはシリルだった。心配そうな顔をしている。その様子にユリエルは少し驚き、そして微笑ましく笑った。

「さて、それでは当面はこの方向に。分かっているとは思いますが、ここでの話は他言無用。もしも漏らせば首はないと思いなさい」

 ユリエルの厳しい言葉にその場にいる全員が顔を見合わせ、そしてそれぞれ強く頷くのだった。
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