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現の幻
十字架公方
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富岳風穴――。
富士山麓に広がる青木ヶ原風穴の中でも最大のものである。
その奥底から、大勢の人々の歌声が響いていた。グレゴリオ聖歌の合唱である。
慶長の頃に邪宗門として禁教令が出されると、キリスト教への弾圧は日増しに強まっていった。
キリシタンの流行は西国を中心としたことであるが、関東周辺にも隠れキリシタンたちは所在し、その信仰を守るために幕府の目から逃れて潜伏していた。
かつてローマ帝国で弾圧されたキリスト教徒たちが地下墓地に潜んで礼拝を行なったように、この富岳風穴もまた多くの者たちが魂の救済を願い、祈りを捧げる場となっている。
信徒たちの熱く純真な視線の先、イエス・キリストが磔刑に処せられている十字架に跪き、カッパ・マグナという祭服に身を包んで祈りを捧げるのは、ひとりの老人であった。
齢七十に達するかどうかの老境の域にあっても、その老いた瞳には信仰の光と強い意志が宿っている。
彼は、東国の隠れキリシタンたちの教導的立場となって密かにこれを庇護し、さらには幕府の目を盗んで密貿易によって富を得んとする豪商、大名らと、外国勢力との仲介を斡旋する黒幕でもある。
幕府からの執拗な弾圧から庇護を受ける信徒たち、その隠然たる力を知る者たちは、この老人をこう呼ぶ。
十字架公方ドン・フィリッポ・フランシスコと――。
「十字架公方様、西国より戻りました――」
その十字架公方にささやくように告げたのは、緋のマントを陣羽織のかわりに纏った男であった。
歳は、三十に届いていまい。
息を呑むほどの美しさは、この世のものとは思えぬほどだ。
面立ちの整った、端正な美しさとある種の鋭さを備えている。
ぼうっと薄闇に照らされた容貌は、妖美そのもの。
篝火と蝋燭の中で、男の瞳は緑と青の違った輝きを放つ。
左右の瞳の色が違うのだ。
薄銀の髪は、波打つように癖があり、後ろで髷に束ねている。
腰には刀を佩いているが、拵えは鍔ではなく加護型護拳を充てたものだ。
「世槃か……」
「はい。榊世槃、ここに」
榊世槃――。それが妖人の名である。
十字架公方の片腕にして“逆さ卍”を与えられた逆卍党の若き党首でもあった。
「天草島原の談合は、いずれまとまりましょう。島原、天草での圧政は激しさを増し、信徒同胞も耐えかねております」
肥前島原の松倉勝家と唐津の寺沢堅高の圧政は苛烈を極めた。
双方とも二代目藩主であったことも関係していよう。特に島原の場合は重政、勝家の親子二代の見栄によって四万石程度の禄高を十万石として報告したこと、島原城の築城、並びに江戸城普請の捻出のための重税と徴収が行われた。
そのうえ禁教令にともなってキリシタンたちの改宗を迫り、雲仙地獄での拷問、水牢、蓑踊りと呼ばれる残虐な処刑によって民衆の不満は溜まりに溜まっていた。
「一刻も早い同胞の救済と十字の旗が必要じゃな」
「いかにもです。天草においては、小西行長公の遺臣、益田甚兵衛好次の子が奇蹟を起し、神童、救世主として民心の掌握に努めております」
世槃が言及したのは、後に島原の乱の少年総大将となる天草四郎時貞のことである。
海の上を渡り、神の言葉を説き、小鳥の卵から経文を出す奇蹟を起こした。
また、宣教師ママコスが追放される際に「二十五年後に天変地異が起こり、人は滅亡に瀕するであろう。この時十六歳の天童現れ、キリストの教えに帰依するものを救うであろう」とも予言したという。
歴史の書には記されていないが、これらは十字架公方の命を受けた榊世槃が策動して演出したものである。
一揆の求心力としての旗印として、人々を救う少年救世主の伝説を振りまいたのだ。
「よくやったと、褒めて遣わす……」
「過分なお言葉ございます」
しゃがれた十字架公方の声に、榊世槃は恐縮して頭を垂れてみせた。
だが、その端正な口元――。
わずかに、あざ笑うかのような歪みが現れる。
「神が遣わした救世主に加え、おぬしのいう“奇蹟の姫”がおるなら、切支丹の力を結集して幕府転覆も相成ろう」
「そのときこそ、この日の本が我ら同胞の楽園と変わりましょう」
「世槃、裏切るなよ――」
何かの確信を持って、十字架公方は囁いた。
世槃は、ぴくりとも動揺を見せることはなかった。
富士山麓に広がる青木ヶ原風穴の中でも最大のものである。
その奥底から、大勢の人々の歌声が響いていた。グレゴリオ聖歌の合唱である。
慶長の頃に邪宗門として禁教令が出されると、キリスト教への弾圧は日増しに強まっていった。
キリシタンの流行は西国を中心としたことであるが、関東周辺にも隠れキリシタンたちは所在し、その信仰を守るために幕府の目から逃れて潜伏していた。
かつてローマ帝国で弾圧されたキリスト教徒たちが地下墓地に潜んで礼拝を行なったように、この富岳風穴もまた多くの者たちが魂の救済を願い、祈りを捧げる場となっている。
信徒たちの熱く純真な視線の先、イエス・キリストが磔刑に処せられている十字架に跪き、カッパ・マグナという祭服に身を包んで祈りを捧げるのは、ひとりの老人であった。
齢七十に達するかどうかの老境の域にあっても、その老いた瞳には信仰の光と強い意志が宿っている。
彼は、東国の隠れキリシタンたちの教導的立場となって密かにこれを庇護し、さらには幕府の目を盗んで密貿易によって富を得んとする豪商、大名らと、外国勢力との仲介を斡旋する黒幕でもある。
幕府からの執拗な弾圧から庇護を受ける信徒たち、その隠然たる力を知る者たちは、この老人をこう呼ぶ。
十字架公方ドン・フィリッポ・フランシスコと――。
「十字架公方様、西国より戻りました――」
その十字架公方にささやくように告げたのは、緋のマントを陣羽織のかわりに纏った男であった。
歳は、三十に届いていまい。
息を呑むほどの美しさは、この世のものとは思えぬほどだ。
面立ちの整った、端正な美しさとある種の鋭さを備えている。
ぼうっと薄闇に照らされた容貌は、妖美そのもの。
篝火と蝋燭の中で、男の瞳は緑と青の違った輝きを放つ。
左右の瞳の色が違うのだ。
薄銀の髪は、波打つように癖があり、後ろで髷に束ねている。
腰には刀を佩いているが、拵えは鍔ではなく加護型護拳を充てたものだ。
「世槃か……」
「はい。榊世槃、ここに」
榊世槃――。それが妖人の名である。
十字架公方の片腕にして“逆さ卍”を与えられた逆卍党の若き党首でもあった。
「天草島原の談合は、いずれまとまりましょう。島原、天草での圧政は激しさを増し、信徒同胞も耐えかねております」
肥前島原の松倉勝家と唐津の寺沢堅高の圧政は苛烈を極めた。
双方とも二代目藩主であったことも関係していよう。特に島原の場合は重政、勝家の親子二代の見栄によって四万石程度の禄高を十万石として報告したこと、島原城の築城、並びに江戸城普請の捻出のための重税と徴収が行われた。
そのうえ禁教令にともなってキリシタンたちの改宗を迫り、雲仙地獄での拷問、水牢、蓑踊りと呼ばれる残虐な処刑によって民衆の不満は溜まりに溜まっていた。
「一刻も早い同胞の救済と十字の旗が必要じゃな」
「いかにもです。天草においては、小西行長公の遺臣、益田甚兵衛好次の子が奇蹟を起し、神童、救世主として民心の掌握に努めております」
世槃が言及したのは、後に島原の乱の少年総大将となる天草四郎時貞のことである。
海の上を渡り、神の言葉を説き、小鳥の卵から経文を出す奇蹟を起こした。
また、宣教師ママコスが追放される際に「二十五年後に天変地異が起こり、人は滅亡に瀕するであろう。この時十六歳の天童現れ、キリストの教えに帰依するものを救うであろう」とも予言したという。
歴史の書には記されていないが、これらは十字架公方の命を受けた榊世槃が策動して演出したものである。
一揆の求心力としての旗印として、人々を救う少年救世主の伝説を振りまいたのだ。
「よくやったと、褒めて遣わす……」
「過分なお言葉ございます」
しゃがれた十字架公方の声に、榊世槃は恐縮して頭を垂れてみせた。
だが、その端正な口元――。
わずかに、あざ笑うかのような歪みが現れる。
「神が遣わした救世主に加え、おぬしのいう“奇蹟の姫”がおるなら、切支丹の力を結集して幕府転覆も相成ろう」
「そのときこそ、この日の本が我ら同胞の楽園と変わりましょう」
「世槃、裏切るなよ――」
何かの確信を持って、十字架公方は囁いた。
世槃は、ぴくりとも動揺を見せることはなかった。
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