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浮世の夢
美貌剣客
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夜の帳が下り、周囲を闇が包んでいる――。
「本郷もかねやすまでが江戸の内」との川柳があるように、本郷の薬屋『かねやす』より先は、板屋根や茅葺の民家がまばらにあるばかりで、大都市江戸の活気も失せ、人の往来も少なくなる。
まして、今は草木も眠る丑三つ時――。
物の怪のひとつやふたつ出てきてもおかしくはない。
雲の切れ目からちらりと差し込む月明かりと常夜灯が夜道を照らしていく。
その夜道を、提灯もなく懐手に歩くのは、浪人風の男だった。
暗がりに沈んだ影を、淡く現世に照らし出す。
年の頃は二十歳を二、三過ぎたほどか。
三文銭の紋を染め抜いた藍染めの着流しに、朱鞘を佩いている。
この浪人者、只者ではない――。
総髪に束ねた髪は、絹に墨を含ませたかのように艶やか。
切れ長の双眸は、磨き込まれた黒曜石にも似た輝きを放つ。
書画の達人が丹精込めて引いたような眉、すっと透った鼻筋、結ばれた口元……。
すべてが、妖しいほどに美しかった。
月夜の闇の中でも、幻想めいた美貌はなんら曇ることはない。
ともすると、この世のものではないのではないか、それほどのものであった。
その浪人の足が、ふと止まる。
もはや家々もなく、その先に生い茂る葦に囲まれた廃庵がある。
ながらく人の手は入っておらず、荒れ放題の様相を呈している。
およそ人が棲んでいるとも思えぬが、どうやら浪人の目指すものはその先だ。
「止まれ――」
何処から上がったともともしれぬ、不気味な声。
息を潜めているような気配もないが、浪人の耳に届いた。
「ここから先は、妖怪の領分。早々に立ち去らねば、取って喰らうぞ」
気の弱い者なら、それだけで腰を抜かしたに違いない。
だが、この浪人には少しも動じた様子はない。
「では、妖怪殿にお訊ねしよう。先日、さる大名の姫君が神隠しにあったそうだが……よもや、おぬしらの仕業ではあるまいな?」
「………………」
浪人の問いに帰ってきたのは、重い沈黙。
その沈黙の中にかすかな動揺が感じられた。
ふたたび、例の声が響く。
「……おぬし、どうやってここを突き止めた?」
「蛇の道は蛇という。そちらが妖怪というならば、拙者も似たようなものだ」
「留守居役め、野良犬を雇ったわけか。鼻が利くようだが、所詮はここまでよ。うぬがあの世へいって――仕舞いじゃ」
ザッ――。
投げ込み松明が辺りを照らす。ぼうっと赤々と燃える火が浪人の美貌を浮かび上がらせる。
茂みから飛び出した五つの影が素早く浪人を取り囲んだ。
皆、漆黒の装束に身を包み、手にはさまざまな武器を携えている。
おそらくは、忍びの者――。
研ぎ澄まされた殺気が、じわりじわりと闇に染み出してくる。
ただならぬ手並みを有していることは、その身のこなしでわかる。
「できれば血を見ずにすませたかったのだが、そうもゆかぬか」
やむなしという具合に呟くと、浪人は静かに柄に手をかけた。
抜刀の構えを取る。五人の手練れ相手に、臆した風もない。
「カカカカカッ、少しは腕に覚えがあるようだが、相手が悪かったのう。わしらを相手にしたのが運の尽きよ」
叢を揺らし、忍びたちが動く。
浪人を包囲した円陣が、ぐるぐると恐るべき迅さで回り始める。
まるで風が巻いているような動き。だが、それでいて草擂りの音すら立てない。
「殺ャァァァ――ッ!!」
突如、奇声を上げてひとりが円陣から躍りかかる。
この忍びの算段では、美貌の浪人者は車輪のごとく回る円陣の前に幻惑され、なす術もなく殺されるはず――だったのだ。
一拍の間をおいて、そいつは胴からすうっとふたつに分かれた。
まるであらかじめ切れ込みが入っていたかのごとく、音もなく鮮やかに。
いつの間に抜いたのか、浪人の手には刀が下げられている。
抜く手も見せぬ、見事な居合の業。
達人ともなれば、鍔鳴りのうちに勝敗を決するといわれるが、鍔鳴りすら鳴らなかった。
あまりの鮮やかさに、忍びたちですら呆然と心を奪われるほどだ。
「……お、おのれっ!」
動揺を一瞬で振り払うと、続いて勢いよく振り回された鎖分銅が空を裂く。
分銅は、熟達すれば強力な武器となる。
遠心力によって威力を倍加するうえ、相手の得物を絡め取ることもできる。
――この場合、忍び側の腕前は十分だった。
唸りを上げて飛ぶ分銅は、浪人の頭蓋を石榴のように粉砕していなければ道理に合わない。
しかし、相手側の技量は、常人の想像をはるかに超えたものだったのだ。
一瞬、火花が散ったかと思うと、分銅は双頭の蛇のようにのたうち、バラバラになる。
この浪人、向かってくる分銅を鎖ごと真っ向唐竹割りにしたのだ。
「ば、馬鹿な……」
忍びたちから、狼狽えた声が上がる
わずか二振りで十分な驚愕を与える技の冴え。
月夜の晩に現われたのは、鬼か魔か――。
「さて、お前たちに話がある」
「な、なに、話だと?」
「お互いひとつしかない命、大切にせぬか。お前たちが姫を無事に帰すのなら、雇い主は五〇両出すと言っておる」
浪人は、懐から小判をちらつかせて言った。
「ほほう……」
「姫を無事返してくれるならば、この五〇両、置いてゆく。悪い話ではあるまい」
あっという間の神業を見せておいて、取引を持ちかけてくる。
剣の業だけでなく、駆け引きも心得ているようだ。
「……く、く、く、く、く、く、く」
不気味な笑い声を、ひとりが上げた。体格も一回り大きい、忍びたちの頭目格だ。
その笑いに、他の忍びも続く。
先ほどの動揺から、立ち直ったようだ。
「それが取引になると思ったか浪人者が。うぬを殺して五〇両をいただくだけよ」
闇の中で、いやらしく舌なめずりをする音が聞こえる。
それも道理であろう。腕が立つと言っても、相手はひとり。金まで持ってきているのだから、取引になど応じず、その場で殺してから懐を漁ればよいのだ。
「取引は無駄か。もったいないことをする」
「たしかに自惚れるほどの技じゃ、大した腕だと誉めてやろう。だがのう、あれしきで怯むわしらではないわ。うぬごとき、いくらでも葬る手立てはある。――半平太、おぬしの出番じゃ!」
「は、ははっ……」
頭領格が言うと、忍びの中からのっそりとひとりが前に出た。
他の者に比べ、大きく肥満した体躯の持ち主で動作には怯えたところがある。
あきらかに、腕前は劣って見える。
恐る恐る間合いを詰めると、半平太は突進した。
「い……いやえああああっ!」
恐怖のために甲高く裏返った声を上げ、半平太は無茶苦茶に刀を振り回して突進する。
それはあまりに無策、無謀――。
すっと白刃が閃くと同時に、半平太はどうと倒れた。
「ふ、ふひひひひ……か、かかったわ……」
あっけなく斬られたはずの半平太は満面の笑みを浮かべ、そのまま絶命した。
何かある、と浪人が気づいたときには遅かった。
「……ようやった、半平太」
「まこと、忍びの鑑じゃわい」
おかしなことに、忍びたちは何の策もなく倒れた半平太を褒め称える。
異変を察した浪人は、はっと刀を構えなおす。
そして、気づいた。刀身にどす黒い血が泥濘のようにまとわりついているのを。
「む――」
「うぬが斬ったのは数珠野半平太、わしらの中でも一番の下っ端よ。だが、おもしろい体の持ち主でな。半平太の血はそのように外の気に触れるとあっという間に固まる。そのうえ、鉄を錆びさせる。貴様の刀のようにな。これぞ、忍法”血爛れ”の術!」
数珠野半平太は、血液中の血小板の濃度が異常に高い特異体質の持ち主だ。その血小板は大気中の酸素と触れた途端に反応し、凝固してしまう。忍法血爛れの術、命を代償に相手の刀を腐食させるという恐るべき技である。
人間の血脂は、刀の切れ味を格段に落とすという。
数人斬ればもう斬れなくなる、そのように言う者さえいる。忍法血爛れとは、それを狙った技なのだ。
「そのなまくらで、いつまでわしらの相手をきるかな?」
「いくら腕が立つといっても、刀が使えねば侍なんぞ虫けら同然じゃ。ヒヒヒヒヒ……」「さあて、どう料理してくれようか」
取り囲む忍びたちから、嘲りの声が飛ぶ。
浪人は、ただ顔を伏せそのあざけりを浴びている。
「どうやら観念したようじゃのう。せいぜい苦しんで死ぬがいいわ」
浪人がついに観念したかと思い、そいつは大きく刀を振りかざして斬りかかった。
その姿勢のまま、腰から上がずるりと斜めに滑り、落ちる。
「戦国の世も過ぎて久しいというのに――」
浪人は、ゆっくりと顔を上げる。
秀麗な美貌が、怒りに彩られていく。まるで、天罰を下す神の使いのような……。
浪人から立ち上る壮絶なものに、さしもの忍びたちは思わず息を呑んだ。
「命を粗末にする業を使わせるとは」
「ば、馬鹿な……。うぬの刀は半平太の血爛ちただれにかかったはずっ!? 」
「半平太とやらには悪いが、血脂で切れ味が鈍るほど拙者の差料は安くはない」
言い放って、血振りひとつ。
すると刃にこびりついていた血の塊が、綺麗にはがれ落ちる。
月光を吸って青白く輝くその刀身は、殺気を凍結させたかように妖しく、冷たい――。
残るふたりとなった忍びは、神々しさすら感じさせる刃の光に完全に圧倒された。
――自分たちは、なんという者を敵に回してしまったのだろう。
「……お、おい! 後はおぬしらに任せる。わしは、あの姫を連れ帰ればならん!」
「そ、そんな刃角様……」
「ええいっ、わしの命が聞けぬか! 大義のために喜んで死ねい」
忍びにとって、上下関係は絶対である。
上の者に死ねと言われれば死なねばならない。それが、戦乱の時代を生き抜いた闇の諜報集団の掟である。
刃角――そう呼ばれた頭領の忍びは、残るひとりに命をかけて自分が退散するまでの時間を稼げと命じたのだ。
浪人は刀を地に向けて下げる。構えは下段。切っ先を下げて相手が打ってくるのを待つ。
「よいのか? 邪魔立てするなら斬らねばならぬが」
浪人は冷たく言い放つ。ゆらりとしているようで、まったく隙がない。
もし、おのれの腕を過信しているような武芸者なら、まだやりようもある。
だが、これほど冷静でいられては、つけ込む隙もない。
「ま、待ってくれ! わしは元来流れ者じゃ。い、命を捨てるまでの義理はありはせん。わ、わかった、悪かったから見逃してくれえいっ!」
彼は、見苦しくも額を地面に摩り付けて哀願した。
浪人の殺気が、ふと緩んだそのときだった。
蛙のように平伏していたその忍びは、そのまま飛び退くとともに手裏剣を放った。
騙まし討ちとは卑怯極まりないと思われよう。
しかし、忍びにとって敵の油断を誘い、不意をつくのは常套手段。誇りにこそなれ、非難されることではない。
が、浪人にはこの不意打ちすら通じなかったのだ。
額めがけて撃ち込まれた手裏剣は、刀によって弾き返され――逆に、そのまま忍びの額にめり込んでいる。
使い捨てにした忍びが倒される隙に、刃角は遁走すべく廃庵に駆け込んだ。
中にいたのは、縛めを受けた妙齢の姫君。
錦糸の着物とあどけなさが残るものの整った顔立ちからすれば、神隠しにあったという姫君であろう。
刃角は、意識を失っている姫を横抱きにして庵を飛び出した。
しかし、逃げ出す先には月明かりを受けた妖刀とたぐいまれなる美貌が待ち受けていた。
「ぬ、ぬう……あやつ、足止めの役にも立たぬとは……」
刃角の頬を、冷たい汗が伝う。
浪人は双眸に憂いすら湛え、刃角を射すくめている。
「そこまでだ。今すぐ姫を解き放てば、見逃してやらぬでもないが」
――否と言えばどうなるか。
その答えは、刃角も十分承知している。それでも、刃角は不敵に笑って見せた。
「フ、フフフ……大した自信だのう。わしごとき、いつでも斬って捨てられる、そう思うておるな」
「…………」
浪人は、無言で剣を構えた。
間合いを一気に詰め、刃角を一撃で葬るだけの腕前がある。
しかし、それを承知した上で、笑みを浮かべる刃角の不敵さは一体?
「わしら忍びには、奥の手というものがあるのよ――ふ、ひゅええええええええっ!」
刃角は突然大きく息を吐き出した。喉を笛のように鳴らし、身体の形が変形するまでに。
その直後、大きな破裂音が響いた。
ビュオオオオオオオッ――!
突如として巻き起こった旋風が、葦を薙ぎ払っていく。
その断面は、まるで鋭利な刃物に断たれたようだ。
――マイクロバーストと呼ばれる現象がある。
何らかの原因で大気中に真空状態が発生すると、猛烈な大気の流れが生じる。それがまた真空状態を、そしてまたそれが大気の流れを……と、断続的に発生する。一時期、イギリス各地で発生したミステリーサークルの原因のひとつに数えられたこともあり、わが国では、カマイタチ現象として知られている。
信じがたいことだが、刃角は強靭な心肺能力で急激に空気を吸引し、真空状態を発生させることができるのだ。
空が弾け、迫りくる風の刃。浪人は咄嗟に危険を察して身を躱した。
ついさっきまで身を置いていた場所を旋風が襲い、生い茂る葦の葉を裁断する。
――もし、あの旋風に呑まれていたら……。
たとえ絶技を誇る浪人であろうと、そこで終焉を迎えていたに違いない。
「ふはははっ! 見たか。これぞ宇頭間刃角の忍法“旋風刃”よ。わしの手下を殺した報いじゃ、寸刻みになって果てるがいい。――そおれ、もうひとつ!」
ふたたび、刃角の身体が変形し、真空状態を起こすべく空気を吸いあげる。
浪人は、その瞬間を見計らって小柄を投げつけた。
「ゲゴッ――!?」
刃角は蛙の鳴き声のような声をあげた。
そして、小脇に抱えた姫を投げ捨て、咽喉を掻き毟る。
真空を作ろうと息を吸い込んだ瞬間、投げつけられた小柄も吸い込んでしまったのだ。呼気とともに強烈な勢いで吸い込まれた小柄は、咽喉の奥に深々と突き刺さっている。
血の泡を吹きながら、咽喉の奥に手を突っ込み必死に取り出そうとする刃角。
「――ガフッ!」
ようやく取れたと、荒い息とともに安堵する刃角だが――
「む!? ヤツめ、どこに逃げ――」
見失った浪人を探し、刃角が首を巡らせたときだった。
刃角の視界が、二度、三度と反転する。
視界の反転が止まると、首を失ったおのれの身体と血振りする浪人の背があった。
目の前には、もうこちらを警戒していない無防備な背中がある。
絶好の機会を逃すまいとするが、刃角の身体は動かない。
――ああ、そうか……。
刃角は、おのれの身に起きた無惨な運命を知った。
自分の首が、すでに胴から離れていることを――。
フランス革命では、罪人に苦痛を伴わせない処刑具としてギロチンが発明され、その自由の名の下に多くの首が落ちた。そのさなか、こんな実験がおこなわれた。断頭台によって刎ねられた首は、本当に苦痛もなく即死するのかどうか? lpmp被験者となった囚人は、首が落ちた後も質問に対してまばたきで答えるという約束を交わした。
果たして、その首は処刑後も十数秒に渡ってまばたきを返したという。
「……ひ、ひとつ、訊かせて、くれい……」
恐るべきことに、首だけとなっても刃角はしゃべっている。
これも、尋常ならざる訓練で生命力を鍛え抜いた賜物であろう。
「…………」
この恐ろしい光景を目の当たりにしても、浪人は動じはしない。
多くの修羅場をくぐり抜けてきたことを物語っていた。
「……おぬし、いったい、何者……じゃ?」
これこそ、刃角が訊かねばならぬこと。
ただの浪人者が、手練の忍者数名を一瞬で斬り伏せられるはずがない。
浪人は、肩越しにちらりと振り返ってその名を告げる。
「素浪人、夢見客人――」
「本郷もかねやすまでが江戸の内」との川柳があるように、本郷の薬屋『かねやす』より先は、板屋根や茅葺の民家がまばらにあるばかりで、大都市江戸の活気も失せ、人の往来も少なくなる。
まして、今は草木も眠る丑三つ時――。
物の怪のひとつやふたつ出てきてもおかしくはない。
雲の切れ目からちらりと差し込む月明かりと常夜灯が夜道を照らしていく。
その夜道を、提灯もなく懐手に歩くのは、浪人風の男だった。
暗がりに沈んだ影を、淡く現世に照らし出す。
年の頃は二十歳を二、三過ぎたほどか。
三文銭の紋を染め抜いた藍染めの着流しに、朱鞘を佩いている。
この浪人者、只者ではない――。
総髪に束ねた髪は、絹に墨を含ませたかのように艶やか。
切れ長の双眸は、磨き込まれた黒曜石にも似た輝きを放つ。
書画の達人が丹精込めて引いたような眉、すっと透った鼻筋、結ばれた口元……。
すべてが、妖しいほどに美しかった。
月夜の闇の中でも、幻想めいた美貌はなんら曇ることはない。
ともすると、この世のものではないのではないか、それほどのものであった。
その浪人の足が、ふと止まる。
もはや家々もなく、その先に生い茂る葦に囲まれた廃庵がある。
ながらく人の手は入っておらず、荒れ放題の様相を呈している。
およそ人が棲んでいるとも思えぬが、どうやら浪人の目指すものはその先だ。
「止まれ――」
何処から上がったともともしれぬ、不気味な声。
息を潜めているような気配もないが、浪人の耳に届いた。
「ここから先は、妖怪の領分。早々に立ち去らねば、取って喰らうぞ」
気の弱い者なら、それだけで腰を抜かしたに違いない。
だが、この浪人には少しも動じた様子はない。
「では、妖怪殿にお訊ねしよう。先日、さる大名の姫君が神隠しにあったそうだが……よもや、おぬしらの仕業ではあるまいな?」
「………………」
浪人の問いに帰ってきたのは、重い沈黙。
その沈黙の中にかすかな動揺が感じられた。
ふたたび、例の声が響く。
「……おぬし、どうやってここを突き止めた?」
「蛇の道は蛇という。そちらが妖怪というならば、拙者も似たようなものだ」
「留守居役め、野良犬を雇ったわけか。鼻が利くようだが、所詮はここまでよ。うぬがあの世へいって――仕舞いじゃ」
ザッ――。
投げ込み松明が辺りを照らす。ぼうっと赤々と燃える火が浪人の美貌を浮かび上がらせる。
茂みから飛び出した五つの影が素早く浪人を取り囲んだ。
皆、漆黒の装束に身を包み、手にはさまざまな武器を携えている。
おそらくは、忍びの者――。
研ぎ澄まされた殺気が、じわりじわりと闇に染み出してくる。
ただならぬ手並みを有していることは、その身のこなしでわかる。
「できれば血を見ずにすませたかったのだが、そうもゆかぬか」
やむなしという具合に呟くと、浪人は静かに柄に手をかけた。
抜刀の構えを取る。五人の手練れ相手に、臆した風もない。
「カカカカカッ、少しは腕に覚えがあるようだが、相手が悪かったのう。わしらを相手にしたのが運の尽きよ」
叢を揺らし、忍びたちが動く。
浪人を包囲した円陣が、ぐるぐると恐るべき迅さで回り始める。
まるで風が巻いているような動き。だが、それでいて草擂りの音すら立てない。
「殺ャァァァ――ッ!!」
突如、奇声を上げてひとりが円陣から躍りかかる。
この忍びの算段では、美貌の浪人者は車輪のごとく回る円陣の前に幻惑され、なす術もなく殺されるはず――だったのだ。
一拍の間をおいて、そいつは胴からすうっとふたつに分かれた。
まるであらかじめ切れ込みが入っていたかのごとく、音もなく鮮やかに。
いつの間に抜いたのか、浪人の手には刀が下げられている。
抜く手も見せぬ、見事な居合の業。
達人ともなれば、鍔鳴りのうちに勝敗を決するといわれるが、鍔鳴りすら鳴らなかった。
あまりの鮮やかさに、忍びたちですら呆然と心を奪われるほどだ。
「……お、おのれっ!」
動揺を一瞬で振り払うと、続いて勢いよく振り回された鎖分銅が空を裂く。
分銅は、熟達すれば強力な武器となる。
遠心力によって威力を倍加するうえ、相手の得物を絡め取ることもできる。
――この場合、忍び側の腕前は十分だった。
唸りを上げて飛ぶ分銅は、浪人の頭蓋を石榴のように粉砕していなければ道理に合わない。
しかし、相手側の技量は、常人の想像をはるかに超えたものだったのだ。
一瞬、火花が散ったかと思うと、分銅は双頭の蛇のようにのたうち、バラバラになる。
この浪人、向かってくる分銅を鎖ごと真っ向唐竹割りにしたのだ。
「ば、馬鹿な……」
忍びたちから、狼狽えた声が上がる
わずか二振りで十分な驚愕を与える技の冴え。
月夜の晩に現われたのは、鬼か魔か――。
「さて、お前たちに話がある」
「な、なに、話だと?」
「お互いひとつしかない命、大切にせぬか。お前たちが姫を無事に帰すのなら、雇い主は五〇両出すと言っておる」
浪人は、懐から小判をちらつかせて言った。
「ほほう……」
「姫を無事返してくれるならば、この五〇両、置いてゆく。悪い話ではあるまい」
あっという間の神業を見せておいて、取引を持ちかけてくる。
剣の業だけでなく、駆け引きも心得ているようだ。
「……く、く、く、く、く、く、く」
不気味な笑い声を、ひとりが上げた。体格も一回り大きい、忍びたちの頭目格だ。
その笑いに、他の忍びも続く。
先ほどの動揺から、立ち直ったようだ。
「それが取引になると思ったか浪人者が。うぬを殺して五〇両をいただくだけよ」
闇の中で、いやらしく舌なめずりをする音が聞こえる。
それも道理であろう。腕が立つと言っても、相手はひとり。金まで持ってきているのだから、取引になど応じず、その場で殺してから懐を漁ればよいのだ。
「取引は無駄か。もったいないことをする」
「たしかに自惚れるほどの技じゃ、大した腕だと誉めてやろう。だがのう、あれしきで怯むわしらではないわ。うぬごとき、いくらでも葬る手立てはある。――半平太、おぬしの出番じゃ!」
「は、ははっ……」
頭領格が言うと、忍びの中からのっそりとひとりが前に出た。
他の者に比べ、大きく肥満した体躯の持ち主で動作には怯えたところがある。
あきらかに、腕前は劣って見える。
恐る恐る間合いを詰めると、半平太は突進した。
「い……いやえああああっ!」
恐怖のために甲高く裏返った声を上げ、半平太は無茶苦茶に刀を振り回して突進する。
それはあまりに無策、無謀――。
すっと白刃が閃くと同時に、半平太はどうと倒れた。
「ふ、ふひひひひ……か、かかったわ……」
あっけなく斬られたはずの半平太は満面の笑みを浮かべ、そのまま絶命した。
何かある、と浪人が気づいたときには遅かった。
「……ようやった、半平太」
「まこと、忍びの鑑じゃわい」
おかしなことに、忍びたちは何の策もなく倒れた半平太を褒め称える。
異変を察した浪人は、はっと刀を構えなおす。
そして、気づいた。刀身にどす黒い血が泥濘のようにまとわりついているのを。
「む――」
「うぬが斬ったのは数珠野半平太、わしらの中でも一番の下っ端よ。だが、おもしろい体の持ち主でな。半平太の血はそのように外の気に触れるとあっという間に固まる。そのうえ、鉄を錆びさせる。貴様の刀のようにな。これぞ、忍法”血爛れ”の術!」
数珠野半平太は、血液中の血小板の濃度が異常に高い特異体質の持ち主だ。その血小板は大気中の酸素と触れた途端に反応し、凝固してしまう。忍法血爛れの術、命を代償に相手の刀を腐食させるという恐るべき技である。
人間の血脂は、刀の切れ味を格段に落とすという。
数人斬ればもう斬れなくなる、そのように言う者さえいる。忍法血爛れとは、それを狙った技なのだ。
「そのなまくらで、いつまでわしらの相手をきるかな?」
「いくら腕が立つといっても、刀が使えねば侍なんぞ虫けら同然じゃ。ヒヒヒヒヒ……」「さあて、どう料理してくれようか」
取り囲む忍びたちから、嘲りの声が飛ぶ。
浪人は、ただ顔を伏せそのあざけりを浴びている。
「どうやら観念したようじゃのう。せいぜい苦しんで死ぬがいいわ」
浪人がついに観念したかと思い、そいつは大きく刀を振りかざして斬りかかった。
その姿勢のまま、腰から上がずるりと斜めに滑り、落ちる。
「戦国の世も過ぎて久しいというのに――」
浪人は、ゆっくりと顔を上げる。
秀麗な美貌が、怒りに彩られていく。まるで、天罰を下す神の使いのような……。
浪人から立ち上る壮絶なものに、さしもの忍びたちは思わず息を呑んだ。
「命を粗末にする業を使わせるとは」
「ば、馬鹿な……。うぬの刀は半平太の血爛ちただれにかかったはずっ!? 」
「半平太とやらには悪いが、血脂で切れ味が鈍るほど拙者の差料は安くはない」
言い放って、血振りひとつ。
すると刃にこびりついていた血の塊が、綺麗にはがれ落ちる。
月光を吸って青白く輝くその刀身は、殺気を凍結させたかように妖しく、冷たい――。
残るふたりとなった忍びは、神々しさすら感じさせる刃の光に完全に圧倒された。
――自分たちは、なんという者を敵に回してしまったのだろう。
「……お、おい! 後はおぬしらに任せる。わしは、あの姫を連れ帰ればならん!」
「そ、そんな刃角様……」
「ええいっ、わしの命が聞けぬか! 大義のために喜んで死ねい」
忍びにとって、上下関係は絶対である。
上の者に死ねと言われれば死なねばならない。それが、戦乱の時代を生き抜いた闇の諜報集団の掟である。
刃角――そう呼ばれた頭領の忍びは、残るひとりに命をかけて自分が退散するまでの時間を稼げと命じたのだ。
浪人は刀を地に向けて下げる。構えは下段。切っ先を下げて相手が打ってくるのを待つ。
「よいのか? 邪魔立てするなら斬らねばならぬが」
浪人は冷たく言い放つ。ゆらりとしているようで、まったく隙がない。
もし、おのれの腕を過信しているような武芸者なら、まだやりようもある。
だが、これほど冷静でいられては、つけ込む隙もない。
「ま、待ってくれ! わしは元来流れ者じゃ。い、命を捨てるまでの義理はありはせん。わ、わかった、悪かったから見逃してくれえいっ!」
彼は、見苦しくも額を地面に摩り付けて哀願した。
浪人の殺気が、ふと緩んだそのときだった。
蛙のように平伏していたその忍びは、そのまま飛び退くとともに手裏剣を放った。
騙まし討ちとは卑怯極まりないと思われよう。
しかし、忍びにとって敵の油断を誘い、不意をつくのは常套手段。誇りにこそなれ、非難されることではない。
が、浪人にはこの不意打ちすら通じなかったのだ。
額めがけて撃ち込まれた手裏剣は、刀によって弾き返され――逆に、そのまま忍びの額にめり込んでいる。
使い捨てにした忍びが倒される隙に、刃角は遁走すべく廃庵に駆け込んだ。
中にいたのは、縛めを受けた妙齢の姫君。
錦糸の着物とあどけなさが残るものの整った顔立ちからすれば、神隠しにあったという姫君であろう。
刃角は、意識を失っている姫を横抱きにして庵を飛び出した。
しかし、逃げ出す先には月明かりを受けた妖刀とたぐいまれなる美貌が待ち受けていた。
「ぬ、ぬう……あやつ、足止めの役にも立たぬとは……」
刃角の頬を、冷たい汗が伝う。
浪人は双眸に憂いすら湛え、刃角を射すくめている。
「そこまでだ。今すぐ姫を解き放てば、見逃してやらぬでもないが」
――否と言えばどうなるか。
その答えは、刃角も十分承知している。それでも、刃角は不敵に笑って見せた。
「フ、フフフ……大した自信だのう。わしごとき、いつでも斬って捨てられる、そう思うておるな」
「…………」
浪人は、無言で剣を構えた。
間合いを一気に詰め、刃角を一撃で葬るだけの腕前がある。
しかし、それを承知した上で、笑みを浮かべる刃角の不敵さは一体?
「わしら忍びには、奥の手というものがあるのよ――ふ、ひゅええええええええっ!」
刃角は突然大きく息を吐き出した。喉を笛のように鳴らし、身体の形が変形するまでに。
その直後、大きな破裂音が響いた。
ビュオオオオオオオッ――!
突如として巻き起こった旋風が、葦を薙ぎ払っていく。
その断面は、まるで鋭利な刃物に断たれたようだ。
――マイクロバーストと呼ばれる現象がある。
何らかの原因で大気中に真空状態が発生すると、猛烈な大気の流れが生じる。それがまた真空状態を、そしてまたそれが大気の流れを……と、断続的に発生する。一時期、イギリス各地で発生したミステリーサークルの原因のひとつに数えられたこともあり、わが国では、カマイタチ現象として知られている。
信じがたいことだが、刃角は強靭な心肺能力で急激に空気を吸引し、真空状態を発生させることができるのだ。
空が弾け、迫りくる風の刃。浪人は咄嗟に危険を察して身を躱した。
ついさっきまで身を置いていた場所を旋風が襲い、生い茂る葦の葉を裁断する。
――もし、あの旋風に呑まれていたら……。
たとえ絶技を誇る浪人であろうと、そこで終焉を迎えていたに違いない。
「ふはははっ! 見たか。これぞ宇頭間刃角の忍法“旋風刃”よ。わしの手下を殺した報いじゃ、寸刻みになって果てるがいい。――そおれ、もうひとつ!」
ふたたび、刃角の身体が変形し、真空状態を起こすべく空気を吸いあげる。
浪人は、その瞬間を見計らって小柄を投げつけた。
「ゲゴッ――!?」
刃角は蛙の鳴き声のような声をあげた。
そして、小脇に抱えた姫を投げ捨て、咽喉を掻き毟る。
真空を作ろうと息を吸い込んだ瞬間、投げつけられた小柄も吸い込んでしまったのだ。呼気とともに強烈な勢いで吸い込まれた小柄は、咽喉の奥に深々と突き刺さっている。
血の泡を吹きながら、咽喉の奥に手を突っ込み必死に取り出そうとする刃角。
「――ガフッ!」
ようやく取れたと、荒い息とともに安堵する刃角だが――
「む!? ヤツめ、どこに逃げ――」
見失った浪人を探し、刃角が首を巡らせたときだった。
刃角の視界が、二度、三度と反転する。
視界の反転が止まると、首を失ったおのれの身体と血振りする浪人の背があった。
目の前には、もうこちらを警戒していない無防備な背中がある。
絶好の機会を逃すまいとするが、刃角の身体は動かない。
――ああ、そうか……。
刃角は、おのれの身に起きた無惨な運命を知った。
自分の首が、すでに胴から離れていることを――。
フランス革命では、罪人に苦痛を伴わせない処刑具としてギロチンが発明され、その自由の名の下に多くの首が落ちた。そのさなか、こんな実験がおこなわれた。断頭台によって刎ねられた首は、本当に苦痛もなく即死するのかどうか? lpmp被験者となった囚人は、首が落ちた後も質問に対してまばたきで答えるという約束を交わした。
果たして、その首は処刑後も十数秒に渡ってまばたきを返したという。
「……ひ、ひとつ、訊かせて、くれい……」
恐るべきことに、首だけとなっても刃角はしゃべっている。
これも、尋常ならざる訓練で生命力を鍛え抜いた賜物であろう。
「…………」
この恐ろしい光景を目の当たりにしても、浪人は動じはしない。
多くの修羅場をくぐり抜けてきたことを物語っていた。
「……おぬし、いったい、何者……じゃ?」
これこそ、刃角が訊かねばならぬこと。
ただの浪人者が、手練の忍者数名を一瞬で斬り伏せられるはずがない。
浪人は、肩越しにちらりと振り返ってその名を告げる。
「素浪人、夢見客人――」
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