5 / 6
5・逃げて、逃げて、逃げて
しおりを挟む
草薙が、会いたいと言った水曜日。
午前中だけの授業が終わると、適は足早に帰宅した。
普段なら買い物に行ったり、大学の図書館でレポートを仕上げたり、少し前なら川田と遊びに行ったりしただろう、週中の大切な
今となってはそんな事が懐かしく感じる。
草薙から何度もメールが来ていたが、どれも読まずに削除した。
アドレスも変更してしまった。当たり前だが、これでは連絡の取りようは無い。
次のバイトを探す気もおきない。やる気が全く出ない。
昼下がりの電車は、いつもと違って少しだけ混雑していた。
中高生くらいの女の子のグループや小学生くらいの子供が目に付いた。
(あぁ…夏休みか…)
頭の片隅に浮かんだ言葉に、納得した。
適も、もうじき夏休みを迎える。去年の夏休みは…などと考えてみるが、いまいちはっきりと思い出せない。
だらけた格好でシートに座り、窓の向こうの空を眺める。
目が痛いほど晴れ渡った青空に、大きな真っ白い雲が浮かんでいた。
もしあの時、「はい」と言っていたら…。
―――好きです。適さん。
彼の指を縛める指輪になんて気が付かない振りをして、黙って受け入れていたら…。
そうしたら今頃、何をしていたのだろうか。
あの男と、何処へ行ったのだろう。
映画にでも行ったかもしれない。
アクション、恋愛、ホラー、ミステリー。あの男なら、迷わず恋愛ものを選びそうだ。
薄暗い館内で手でも握り合って、お決まりの感動シーンに迂闊に涙してしまう。きっと、すかさずハンカチが出てきて涙を拭ってくれる。
終わった後は、次は予告のあれを見ようと、お茶でもしながらにこやかに話す。
もしかしたらドライブにでも行ったかもしれない。
今の時期だと海。海辺で二人隣りわせて座って、寄り添った肩は男の方が少し高くて、凭れかかると頬の辺りに肩が当たる。
波の音を聞き、潮風を感じながら、たわいない話に笑い合う。
そして、男は次の約束を取り付ける。
―――絶対にまた一緒に行きましょう。
きっと、そんな事を言って微笑むのだ。
見つめていた空の青さが目にしみて、うっすらと涙がにじむ。
涙が溢れる前に、そっと瞼を閉じた。
「……夢だ…」
会わなくてよかった。本当によかったと思う。
もし、草薙にあっていたら…もう戻れなくなる。
一緒にいたら弱くなって、甘えて、彼の家族の事などどうでもよくなってしまう。どんどん男に溺れていって、溺れきって、そして後悔する。
馬鹿な事をしたと、後になって悔むに違いない。だからバイトを辞めて、男を振りきって正解だったのだ。
(これでよかったんだ…何もかも…)
ふと立ち上がりかけたのは、花屋のある駅だった。もう降りる必要は無い駅なのに、すっかり習慣化されている事に苦笑しながら、座り直す。
何度も乗り降りした馴染みのある駅だったが、今日はいやによそよそしく思えた。
出発してゆっくりと動き出す景色を、視界の端で留める。
(………実家に、帰ろうかな…)
唐突にそう思った。
こっちでバイトを見つけてからは、長期の休みですら帰省していない。
夏休みは田舎の空気を吸って、懐かしい山々の緑を眺めて過ごすのも悪くないかもしれない。
戻ってきてから新しいバイトを探そう。いっそ、引っ越すのもいいかもしれない。金銭的な余裕はそんなに無いが、いい部屋を探して、新しい住処で新しいバイトを探そう。心機一転、やり直す。
いつ帰省するか、引っ越しはどうするか、資金はなどと考え始めたら、降車駅に着いてしまった。駅前の本屋で住宅情報誌を見て帰るのも悪くない。
帰宅したらネットでも探して、その前に帰省する事を実家に連絡しなければ、お土産はどうしよう、考えだしたらキリが無い。
しばらくはこの駅も使わない。引っ越してしまったら、もう来る事も無い。
少しだけ、寂しい気分に浸りながらホームを歩く。
人は疎らだ。改札周辺も閑散としている。
だから、すぐに目に飛び込んできた。
見間違えようのない端整な男が、改札口を見張るようにして壁に凭れていた。
自分の見ているものが信じられず瞬きを繰り返し、目を擦ってしまった。
なんでこんな所に、彼がいるのだろうか。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。
(夢に違いない…いや、夢でありますように……)
信じられずその場に立ちすくんでしまう。
「適さんっ!」
現実が鋭く呼びかけてきた。
その声に弾かれたように、出てきた改札に戻ろうと試みたが、一方通行の改札は無情にも適の侵入を拒んだ。おまけに、硬直した足はもつれ、思うように動かない。
まずい、と思った時には、草薙に行く手を阻まれていた。
「どこに、行く気なんですか?」
手首を掴まれ、反射的に振り払う。しかし草薙は諦める事はせず、両手で適の腕を抑え込む。
これみよがしに、左手の指輪が煌めいた。
だんだんと腹が立ってきて、つい怒鳴ってしまう。
「離せっ!」
さすがの草薙も怯み、腕を抑え込む力が緩んだ。
その隙に草薙を振り払い、一目散に駅舎を飛び出した。
「待ちなさい!」
叫ぶ草薙を振り返る事もせず、駅前を走り抜ける。
まさか、大の大人が学生を本気で追いかけては来るまい。
そんな考えは、一瞬で吹き飛んだ。
「適さん、待ちなさい!」
ちらりと振り返えると、必死の形相の草薙が走ってくる。
(じょ、冗談じゃない!)
追いかけっこ状態の男二人を、昼下がりの平和な商店街にいた通りすがりの人々は、目を丸くして見ていた。
それもそうだ。自分だって当事者でなければ、興味津津で見てしまうと思う。
変に冷静になっている頭で、今の状況を客観視してしまう。
「適さんっ!待って!」
「名前を呼ぶな!…は、恥ずかしい!」
絶対に引っ越そう。そう強く決め、適は少しでも人の少ない方へと、商店街を逸れるように小道に入った。
しかし、その先に児童公園があるのを思い出す。夏休みのこの時間に、子供たちがいないわけがない。
(…子供に、男同士の修羅場なんか見せられない!)
もう一度、別の小道に入る。
まだ草薙は追ってくる。
突き当りを右へ。さらに左へ曲がる。
次第に見覚えのある景色になってきて、適は気が付いた。
(……ヤバい…うちの近所だ……)
いくら引っ越す事を決めたとはいえ、今住まいが草薙に知れるのは非常に困る。
どうしたものか、と迷っているうちに、草薙に追いつかれてしまう。
「捕まえた!」
肩を思い切り掴まれ、たたらを踏む。
まだ逃げようとする適を拘束するように、草薙の腕が身体に回る。
「…離、せ……」
「離した、ら…また、逃げるでしょう!」
息も絶え絶えという感じで、草薙は言った。
心臓が破裂寸前のように激しく鼓動を刻んでいる。
互いに息が上がり言葉が途切れ、荒い呼吸音だけが聞こえる。
先に言葉を発したのは草薙だった。
「…逃げないで…」
もう関わらないと決めた人間に追いかけられて、逃げない奴などいない。
「逃げないで、下さい」
馬鹿らしい。じっとしていろとでも言うのか。大人しく待ってなどいられない。
―――草薙とその家族を、不幸につき落とす事などできない…。
「適さん」
荒い息を整え、呼ばれる。
瞼の裏が熱過ぎて、返事などできない。
「適さん、適さん…適さん」
草薙のこの声に呼ばれる事を、こんなにも焦がれていた。
「適さん、どうして?」
耳の後ろに囁かれる、切なく吐き出される声。
膝が震えた。
逃げ出したいのか、このまま彼に抱き付いてしまいたいのか分からない。
背から胸に回された草薙の腕に、力が込められるのが分かった。
「どうして?どうして、私から逃げるんですか?」
「…くさ、なぎ」
このままずっと彼に名を呼んで欲しい、離さないで欲しいと願ってしまう。
求めてしまう。
それを口にしたら、いつか彼を追い詰めてしまう。
「俺…」
言葉が出てこない。こんな時、何と言っていいのか分からない。
「メール。返事もくれないし、そのうち送信もできなくなって…気になってお店に行ったらバイトは辞めたというし…酷いですよ」
肩越しに甘く責められる。
それを適は、食いしばるようにして耐えた。今ここで何か言えば、墓穴を掘るのが目に見えていたからだ。
「適さん!」
強く肩を掴まれ、抵抗する間もなく向かい合わせに抱きすくめられる。
きつく、その胸に抱かれた。
男の微かな香りが鼻を掠め、身体の芯が熱くなる。
「…店長さんにあなたの住所を聞いたんです。もちろん教えてくれなくて…何度もお願いして、説き伏せ、最後は泣き落として、やっと…最寄り駅だけ、教えてもらいました。朝からずっと、あそこで待っていました」
どんな状況だったのか想像もしたくないが、とにかく店長には申し訳なくなった。
(もうあの店に…顔出せないじゃん!)
こちらのそんな思いも草薙はお構いなしで、続けた。
「あなたが好きだ、初めて見た時から。あなたも私を好きでいてくれている―――あの花を見たとき確信したんです」
まつ毛の一本一本が、くっきり分かるほど近くに顔を寄せてくる。髪や瞳と同じ鳶色のまつ毛が、光を浴びて輝く。
間近で見る彼は、息を飲むほど美しかった。あまりに綺麗で、ずっと見ていたくなる。瞬きする事すらおしい。
「私の思い上がりですか?」
好きだ。
この男が、草薙慎一が好きだ。
死ぬほど、好きで、好きで、好きで…好きでたまらない。
だからこそ、伝えてはいけない。
彼を彼の周りの人を苦しめる事だけは、したくない。
「…好きなんかじゃ、ない」
嘘を吐くのがこんなにも苦しいものだと、知らなかった。
それでも、今はこの嘘を貫き通すしかないのだ。
草薙が眉根を寄せるのを見て、胸が痛んだ。
「嘘だ…」
嘘なんかじゃない。好きだからそれを認めるわけにはいかない。
それが本当の気持ちだ。
草薙を思い切り睨みつける。彼は一瞬目を伏せ、すぐに視線を合わせてくる。
「あなたを愛しています」
指先が頬に触れる。指輪の嵌った手で。
「だからあなたの気持ちを見誤ったりしない。あの花があなたの本心なのに、なんでそんな嘘をつくの?」
分かっていないくせに、分かったような事を言わないで欲しい。
この左手に収まった銀輪は、今も存在を主張している。
―――既に所有者がいるのだ、と。
「…あの花は何となく…草薙に似合う気がしたからだ。深い意味なんか…無い」
その指輪がある限り、傍にいることは許されない。
想いを交わす事も、伝える事すらもできない。
狂おしい程に積もった想いを、密かに伝えられれば十分だった。そして、いつか気が付いて欲しいと思った―――あなたを好きだった人間がいた事に。
それだけで、満足だったのに。
何でこんなに早く、気が付いたの…。
「草薙には普通の幸せを、今の幸せな人生のまま歩んでいって欲しい……」
草薙はわずかに首を傾げた。何か言いたげに口を開きかけ、閉じる。
息が止まりそうだ。苦しい。心が壊れてしまいそうだ。
「俺は…」
自分の腕が手が指が、まるで鉛になったのかと思うほど重い。指先が震える。
震える重い指を、自分の頬に伸ばす。
頬に触れたままの草薙の左手に重ねる。
そっと、その薬指を撫でてみた。つるりとして冷たい、白銀プラチナの感触が伝わってくる。
「草薙の幸せを壊す事はできない」
あっ、と草薙は声も無く唇を開いた。
そして、適の指を握り締めた。指輪の嵌った手で。
「もしかして、これのせいで…身を引こうとか考えていたんですか?」
身を引くもなにも、付き合ってもいないのだが…とにかく適は黙って頷いた。
草薙は痛みを堪えるような、苦しげな表情を浮かべ、目を伏せた。
「お話しようと思っていました。これの事も…今日会って」
「聞きたくない。お前の事なんか好きじゃない!別にどうでもいい!」
「適さん!」
吐き出すように告げ、適は何とか腕から抜け出そうと身を捩る。だが、草薙はいきなり適の頭を押さえつけると、唇を重ねてきた。
ほんの数秒。唇を重ねるだけの、触れ合うだけの短いキス。
短いけれど、適の全身の力を奪うには十分な効果があった。
「私の話を聞いて下さい」
「っ…聞きたく、なんか…ない」
「なら、これで…聞いてくれますか?」
草薙は苦笑いを浮かべると、適の目の前で薬指から指輪を外した。ゆっくりと、まるで見せつけるように。
突然の事で為す術もなく見ていた適に、草薙は抜き取った指輪をかざして見せた。今まで指に嵌っていた、ちっぽけだけど大きな存在だった、銀の円環。
そして草薙が次にとった行動は、適を驚愕させた。
草薙はあろうことか、指輪を投げ捨てたのだ。煌めきながら美しい放物線を描いて、円環は排水路に落ちていった。
「おいっ!何してんだ!」
「もう必要の無いものですから」
この男は何て事をしたのだ。狼狽する適に、草薙はにこやかに言い切った。
草薙を振り払い、適は地面に膝を着き排水路を覗き込む。
何とかして拾えないものか。
しかし草薙は、適の行動を制した。
「いいんですよ。気にしなくて」
「いいわけない!だって…だって…」
あれは証だ。草薙とその奥さんが、生涯を誓った証なのだ。
それを易々と捨ててしまうなんて、正気では無い。
「必要無いものだ、って言ったでしょう?適さん、全部話します。だから聞いて下さい」
「必要無いなんて…そんなわけ無いだろ!そこまでして、なにを聞かせたいんだよ!」
もう絶叫に近かった。
自分のせいで、草薙は大切なものを捨ててしまった。償いようのない罪を、犯してしまった。
涙があふれて止まらない。
草薙は、適のあふれる涙を拭いながら言った。
「適さん、落ち着いて。今日、あなたに話したかった事…」
とめどなくあふれる涙と、嗚咽で返事などできなかった。
どうしたらいいのか、適には何一つ分からなかった。
今は、この男の言葉など聞きたくない。
愛する男の幸せを、壊してしまう。最も恐れていた事が、現実になってしまう。
その事への罪悪感が、適の中に満ち溢れる。
「適さん、落ち着いて…よく聞いてください…」
草薙は適の肩に手を添え、向かい合うと視線を合わせてきた。
「私は…結婚なんてしていません」
分からない。この男が何を言っているのか、分からなかった。
(いま…なんて言った?)
「独身なんです。あの指輪は…小道具のようなもので…便利なので、ずっと使っていました」
「どく…し、ん……独身…?」
そうです、と草薙は頷いた。
「でも…小道具って…」
「仕事柄、職場にも取引先にも女性が多いんです。…指輪をしていると既婚者だと思ってもらえるので、色々楽なんです。着けっぱなしにしているとつい存在を忘れてしまって…」
思考停止していた脳が、少しずつ活動を再開し始める。
「…結婚…してない?」
「はい。独身です」
「……ほん、とに?」
「本当です」
初めから、彼を独占して家で待っている奥さんなど、いなかったという事か…。
彼を欲しいと望んで、それで不幸になってしまう人は、この世に存在していない。
「そっか……よかった…」
露骨に安堵してしまった。
「分かってもらえましたか?」
草薙も安心したのか、嬉しそうに瞳を輝かせていた。
勘違いだったのだ、全てが。
今までずっと勘違いしてきた適は、恥ずかしさに耐えられず、ふくれっ面で草薙に抗議した。
「…ずっと悩んでた…すっごい、悩んだ…諦めなきゃいけないって……ずっと、思ってたんだからな!」
「誤解させてしまってすいませんでした。あなたを苦しませていたなんて…」
草薙の広い胸に、包みこまれるように抱きすくめられる。
それに応えられる事が、適は最高に嬉しかった。躊躇わず草薙の背に腕を回せば、彼はきつく抱きしめてくれた。
耳元で草薙が囁く。
「もう二度と、あなたを苦しめたり哀しませたりしない。愛しています、適さん」
「俺、も……愛してる」
交わした愛の言葉に酔った。目眩がしそうな程の幸福感に包まれ、ここが真っ昼間の裏路地だという事すら忘れていた。
「ねぇ、適さん…この前の続きを……あなたが、欲しい」
「なっ!…ばっ、ばかっ!何言ってんだよ!」
「もちろん、こんな所でなんて無粋な事はしませんよ…家に、私の家に来ませんか?」
抱きしめられたまま耳元で吐かれる言葉。
男が何を意図しているか、分からない程の子供では無い。
もう何も適の邪魔をするものは無いのだ、そう思うと自然に動いていた。
適は、草薙の腕の中で静かに頷いた。
午前中だけの授業が終わると、適は足早に帰宅した。
普段なら買い物に行ったり、大学の図書館でレポートを仕上げたり、少し前なら川田と遊びに行ったりしただろう、週中の大切な
今となってはそんな事が懐かしく感じる。
草薙から何度もメールが来ていたが、どれも読まずに削除した。
アドレスも変更してしまった。当たり前だが、これでは連絡の取りようは無い。
次のバイトを探す気もおきない。やる気が全く出ない。
昼下がりの電車は、いつもと違って少しだけ混雑していた。
中高生くらいの女の子のグループや小学生くらいの子供が目に付いた。
(あぁ…夏休みか…)
頭の片隅に浮かんだ言葉に、納得した。
適も、もうじき夏休みを迎える。去年の夏休みは…などと考えてみるが、いまいちはっきりと思い出せない。
だらけた格好でシートに座り、窓の向こうの空を眺める。
目が痛いほど晴れ渡った青空に、大きな真っ白い雲が浮かんでいた。
もしあの時、「はい」と言っていたら…。
―――好きです。適さん。
彼の指を縛める指輪になんて気が付かない振りをして、黙って受け入れていたら…。
そうしたら今頃、何をしていたのだろうか。
あの男と、何処へ行ったのだろう。
映画にでも行ったかもしれない。
アクション、恋愛、ホラー、ミステリー。あの男なら、迷わず恋愛ものを選びそうだ。
薄暗い館内で手でも握り合って、お決まりの感動シーンに迂闊に涙してしまう。きっと、すかさずハンカチが出てきて涙を拭ってくれる。
終わった後は、次は予告のあれを見ようと、お茶でもしながらにこやかに話す。
もしかしたらドライブにでも行ったかもしれない。
今の時期だと海。海辺で二人隣りわせて座って、寄り添った肩は男の方が少し高くて、凭れかかると頬の辺りに肩が当たる。
波の音を聞き、潮風を感じながら、たわいない話に笑い合う。
そして、男は次の約束を取り付ける。
―――絶対にまた一緒に行きましょう。
きっと、そんな事を言って微笑むのだ。
見つめていた空の青さが目にしみて、うっすらと涙がにじむ。
涙が溢れる前に、そっと瞼を閉じた。
「……夢だ…」
会わなくてよかった。本当によかったと思う。
もし、草薙にあっていたら…もう戻れなくなる。
一緒にいたら弱くなって、甘えて、彼の家族の事などどうでもよくなってしまう。どんどん男に溺れていって、溺れきって、そして後悔する。
馬鹿な事をしたと、後になって悔むに違いない。だからバイトを辞めて、男を振りきって正解だったのだ。
(これでよかったんだ…何もかも…)
ふと立ち上がりかけたのは、花屋のある駅だった。もう降りる必要は無い駅なのに、すっかり習慣化されている事に苦笑しながら、座り直す。
何度も乗り降りした馴染みのある駅だったが、今日はいやによそよそしく思えた。
出発してゆっくりと動き出す景色を、視界の端で留める。
(………実家に、帰ろうかな…)
唐突にそう思った。
こっちでバイトを見つけてからは、長期の休みですら帰省していない。
夏休みは田舎の空気を吸って、懐かしい山々の緑を眺めて過ごすのも悪くないかもしれない。
戻ってきてから新しいバイトを探そう。いっそ、引っ越すのもいいかもしれない。金銭的な余裕はそんなに無いが、いい部屋を探して、新しい住処で新しいバイトを探そう。心機一転、やり直す。
いつ帰省するか、引っ越しはどうするか、資金はなどと考え始めたら、降車駅に着いてしまった。駅前の本屋で住宅情報誌を見て帰るのも悪くない。
帰宅したらネットでも探して、その前に帰省する事を実家に連絡しなければ、お土産はどうしよう、考えだしたらキリが無い。
しばらくはこの駅も使わない。引っ越してしまったら、もう来る事も無い。
少しだけ、寂しい気分に浸りながらホームを歩く。
人は疎らだ。改札周辺も閑散としている。
だから、すぐに目に飛び込んできた。
見間違えようのない端整な男が、改札口を見張るようにして壁に凭れていた。
自分の見ているものが信じられず瞬きを繰り返し、目を擦ってしまった。
なんでこんな所に、彼がいるのだろうか。
もしかしたら、これは夢なのかもしれない。
(夢に違いない…いや、夢でありますように……)
信じられずその場に立ちすくんでしまう。
「適さんっ!」
現実が鋭く呼びかけてきた。
その声に弾かれたように、出てきた改札に戻ろうと試みたが、一方通行の改札は無情にも適の侵入を拒んだ。おまけに、硬直した足はもつれ、思うように動かない。
まずい、と思った時には、草薙に行く手を阻まれていた。
「どこに、行く気なんですか?」
手首を掴まれ、反射的に振り払う。しかし草薙は諦める事はせず、両手で適の腕を抑え込む。
これみよがしに、左手の指輪が煌めいた。
だんだんと腹が立ってきて、つい怒鳴ってしまう。
「離せっ!」
さすがの草薙も怯み、腕を抑え込む力が緩んだ。
その隙に草薙を振り払い、一目散に駅舎を飛び出した。
「待ちなさい!」
叫ぶ草薙を振り返る事もせず、駅前を走り抜ける。
まさか、大の大人が学生を本気で追いかけては来るまい。
そんな考えは、一瞬で吹き飛んだ。
「適さん、待ちなさい!」
ちらりと振り返えると、必死の形相の草薙が走ってくる。
(じょ、冗談じゃない!)
追いかけっこ状態の男二人を、昼下がりの平和な商店街にいた通りすがりの人々は、目を丸くして見ていた。
それもそうだ。自分だって当事者でなければ、興味津津で見てしまうと思う。
変に冷静になっている頭で、今の状況を客観視してしまう。
「適さんっ!待って!」
「名前を呼ぶな!…は、恥ずかしい!」
絶対に引っ越そう。そう強く決め、適は少しでも人の少ない方へと、商店街を逸れるように小道に入った。
しかし、その先に児童公園があるのを思い出す。夏休みのこの時間に、子供たちがいないわけがない。
(…子供に、男同士の修羅場なんか見せられない!)
もう一度、別の小道に入る。
まだ草薙は追ってくる。
突き当りを右へ。さらに左へ曲がる。
次第に見覚えのある景色になってきて、適は気が付いた。
(……ヤバい…うちの近所だ……)
いくら引っ越す事を決めたとはいえ、今住まいが草薙に知れるのは非常に困る。
どうしたものか、と迷っているうちに、草薙に追いつかれてしまう。
「捕まえた!」
肩を思い切り掴まれ、たたらを踏む。
まだ逃げようとする適を拘束するように、草薙の腕が身体に回る。
「…離、せ……」
「離した、ら…また、逃げるでしょう!」
息も絶え絶えという感じで、草薙は言った。
心臓が破裂寸前のように激しく鼓動を刻んでいる。
互いに息が上がり言葉が途切れ、荒い呼吸音だけが聞こえる。
先に言葉を発したのは草薙だった。
「…逃げないで…」
もう関わらないと決めた人間に追いかけられて、逃げない奴などいない。
「逃げないで、下さい」
馬鹿らしい。じっとしていろとでも言うのか。大人しく待ってなどいられない。
―――草薙とその家族を、不幸につき落とす事などできない…。
「適さん」
荒い息を整え、呼ばれる。
瞼の裏が熱過ぎて、返事などできない。
「適さん、適さん…適さん」
草薙のこの声に呼ばれる事を、こんなにも焦がれていた。
「適さん、どうして?」
耳の後ろに囁かれる、切なく吐き出される声。
膝が震えた。
逃げ出したいのか、このまま彼に抱き付いてしまいたいのか分からない。
背から胸に回された草薙の腕に、力が込められるのが分かった。
「どうして?どうして、私から逃げるんですか?」
「…くさ、なぎ」
このままずっと彼に名を呼んで欲しい、離さないで欲しいと願ってしまう。
求めてしまう。
それを口にしたら、いつか彼を追い詰めてしまう。
「俺…」
言葉が出てこない。こんな時、何と言っていいのか分からない。
「メール。返事もくれないし、そのうち送信もできなくなって…気になってお店に行ったらバイトは辞めたというし…酷いですよ」
肩越しに甘く責められる。
それを適は、食いしばるようにして耐えた。今ここで何か言えば、墓穴を掘るのが目に見えていたからだ。
「適さん!」
強く肩を掴まれ、抵抗する間もなく向かい合わせに抱きすくめられる。
きつく、その胸に抱かれた。
男の微かな香りが鼻を掠め、身体の芯が熱くなる。
「…店長さんにあなたの住所を聞いたんです。もちろん教えてくれなくて…何度もお願いして、説き伏せ、最後は泣き落として、やっと…最寄り駅だけ、教えてもらいました。朝からずっと、あそこで待っていました」
どんな状況だったのか想像もしたくないが、とにかく店長には申し訳なくなった。
(もうあの店に…顔出せないじゃん!)
こちらのそんな思いも草薙はお構いなしで、続けた。
「あなたが好きだ、初めて見た時から。あなたも私を好きでいてくれている―――あの花を見たとき確信したんです」
まつ毛の一本一本が、くっきり分かるほど近くに顔を寄せてくる。髪や瞳と同じ鳶色のまつ毛が、光を浴びて輝く。
間近で見る彼は、息を飲むほど美しかった。あまりに綺麗で、ずっと見ていたくなる。瞬きする事すらおしい。
「私の思い上がりですか?」
好きだ。
この男が、草薙慎一が好きだ。
死ぬほど、好きで、好きで、好きで…好きでたまらない。
だからこそ、伝えてはいけない。
彼を彼の周りの人を苦しめる事だけは、したくない。
「…好きなんかじゃ、ない」
嘘を吐くのがこんなにも苦しいものだと、知らなかった。
それでも、今はこの嘘を貫き通すしかないのだ。
草薙が眉根を寄せるのを見て、胸が痛んだ。
「嘘だ…」
嘘なんかじゃない。好きだからそれを認めるわけにはいかない。
それが本当の気持ちだ。
草薙を思い切り睨みつける。彼は一瞬目を伏せ、すぐに視線を合わせてくる。
「あなたを愛しています」
指先が頬に触れる。指輪の嵌った手で。
「だからあなたの気持ちを見誤ったりしない。あの花があなたの本心なのに、なんでそんな嘘をつくの?」
分かっていないくせに、分かったような事を言わないで欲しい。
この左手に収まった銀輪は、今も存在を主張している。
―――既に所有者がいるのだ、と。
「…あの花は何となく…草薙に似合う気がしたからだ。深い意味なんか…無い」
その指輪がある限り、傍にいることは許されない。
想いを交わす事も、伝える事すらもできない。
狂おしい程に積もった想いを、密かに伝えられれば十分だった。そして、いつか気が付いて欲しいと思った―――あなたを好きだった人間がいた事に。
それだけで、満足だったのに。
何でこんなに早く、気が付いたの…。
「草薙には普通の幸せを、今の幸せな人生のまま歩んでいって欲しい……」
草薙はわずかに首を傾げた。何か言いたげに口を開きかけ、閉じる。
息が止まりそうだ。苦しい。心が壊れてしまいそうだ。
「俺は…」
自分の腕が手が指が、まるで鉛になったのかと思うほど重い。指先が震える。
震える重い指を、自分の頬に伸ばす。
頬に触れたままの草薙の左手に重ねる。
そっと、その薬指を撫でてみた。つるりとして冷たい、白銀プラチナの感触が伝わってくる。
「草薙の幸せを壊す事はできない」
あっ、と草薙は声も無く唇を開いた。
そして、適の指を握り締めた。指輪の嵌った手で。
「もしかして、これのせいで…身を引こうとか考えていたんですか?」
身を引くもなにも、付き合ってもいないのだが…とにかく適は黙って頷いた。
草薙は痛みを堪えるような、苦しげな表情を浮かべ、目を伏せた。
「お話しようと思っていました。これの事も…今日会って」
「聞きたくない。お前の事なんか好きじゃない!別にどうでもいい!」
「適さん!」
吐き出すように告げ、適は何とか腕から抜け出そうと身を捩る。だが、草薙はいきなり適の頭を押さえつけると、唇を重ねてきた。
ほんの数秒。唇を重ねるだけの、触れ合うだけの短いキス。
短いけれど、適の全身の力を奪うには十分な効果があった。
「私の話を聞いて下さい」
「っ…聞きたく、なんか…ない」
「なら、これで…聞いてくれますか?」
草薙は苦笑いを浮かべると、適の目の前で薬指から指輪を外した。ゆっくりと、まるで見せつけるように。
突然の事で為す術もなく見ていた適に、草薙は抜き取った指輪をかざして見せた。今まで指に嵌っていた、ちっぽけだけど大きな存在だった、銀の円環。
そして草薙が次にとった行動は、適を驚愕させた。
草薙はあろうことか、指輪を投げ捨てたのだ。煌めきながら美しい放物線を描いて、円環は排水路に落ちていった。
「おいっ!何してんだ!」
「もう必要の無いものですから」
この男は何て事をしたのだ。狼狽する適に、草薙はにこやかに言い切った。
草薙を振り払い、適は地面に膝を着き排水路を覗き込む。
何とかして拾えないものか。
しかし草薙は、適の行動を制した。
「いいんですよ。気にしなくて」
「いいわけない!だって…だって…」
あれは証だ。草薙とその奥さんが、生涯を誓った証なのだ。
それを易々と捨ててしまうなんて、正気では無い。
「必要無いものだ、って言ったでしょう?適さん、全部話します。だから聞いて下さい」
「必要無いなんて…そんなわけ無いだろ!そこまでして、なにを聞かせたいんだよ!」
もう絶叫に近かった。
自分のせいで、草薙は大切なものを捨ててしまった。償いようのない罪を、犯してしまった。
涙があふれて止まらない。
草薙は、適のあふれる涙を拭いながら言った。
「適さん、落ち着いて。今日、あなたに話したかった事…」
とめどなくあふれる涙と、嗚咽で返事などできなかった。
どうしたらいいのか、適には何一つ分からなかった。
今は、この男の言葉など聞きたくない。
愛する男の幸せを、壊してしまう。最も恐れていた事が、現実になってしまう。
その事への罪悪感が、適の中に満ち溢れる。
「適さん、落ち着いて…よく聞いてください…」
草薙は適の肩に手を添え、向かい合うと視線を合わせてきた。
「私は…結婚なんてしていません」
分からない。この男が何を言っているのか、分からなかった。
(いま…なんて言った?)
「独身なんです。あの指輪は…小道具のようなもので…便利なので、ずっと使っていました」
「どく…し、ん……独身…?」
そうです、と草薙は頷いた。
「でも…小道具って…」
「仕事柄、職場にも取引先にも女性が多いんです。…指輪をしていると既婚者だと思ってもらえるので、色々楽なんです。着けっぱなしにしているとつい存在を忘れてしまって…」
思考停止していた脳が、少しずつ活動を再開し始める。
「…結婚…してない?」
「はい。独身です」
「……ほん、とに?」
「本当です」
初めから、彼を独占して家で待っている奥さんなど、いなかったという事か…。
彼を欲しいと望んで、それで不幸になってしまう人は、この世に存在していない。
「そっか……よかった…」
露骨に安堵してしまった。
「分かってもらえましたか?」
草薙も安心したのか、嬉しそうに瞳を輝かせていた。
勘違いだったのだ、全てが。
今までずっと勘違いしてきた適は、恥ずかしさに耐えられず、ふくれっ面で草薙に抗議した。
「…ずっと悩んでた…すっごい、悩んだ…諦めなきゃいけないって……ずっと、思ってたんだからな!」
「誤解させてしまってすいませんでした。あなたを苦しませていたなんて…」
草薙の広い胸に、包みこまれるように抱きすくめられる。
それに応えられる事が、適は最高に嬉しかった。躊躇わず草薙の背に腕を回せば、彼はきつく抱きしめてくれた。
耳元で草薙が囁く。
「もう二度と、あなたを苦しめたり哀しませたりしない。愛しています、適さん」
「俺、も……愛してる」
交わした愛の言葉に酔った。目眩がしそうな程の幸福感に包まれ、ここが真っ昼間の裏路地だという事すら忘れていた。
「ねぇ、適さん…この前の続きを……あなたが、欲しい」
「なっ!…ばっ、ばかっ!何言ってんだよ!」
「もちろん、こんな所でなんて無粋な事はしませんよ…家に、私の家に来ませんか?」
抱きしめられたまま耳元で吐かれる言葉。
男が何を意図しているか、分からない程の子供では無い。
もう何も適の邪魔をするものは無いのだ、そう思うと自然に動いていた。
適は、草薙の腕の中で静かに頷いた。
0
お気に入りに追加
27
あなたにおすすめの小説
肌が白くて女の子みたいに綺麗な先輩。本当におしっこするのか気になり過ぎて…?
こじらせた処女
BL
槍本シュン(やりもとしゅん)の所属している部活、機器操作部は2つ上の先輩、白井瑞稀(しらいみずき)しか居ない。
自分より身長の高い大男のはずなのに、足の先まで綺麗な先輩。彼が近くに来ると、何故か落ち着かない槍本は、これが何なのか分からないでいた。
ある日の冬、大雪で帰れなくなった槍本は、一人暮らしをしている白井の家に泊まることになる。帰り道、おしっこしたいと呟く白井に、本当にトイレするのかと何故か疑問に思ってしまい…?
少年ペット契約
眠りん
BL
※少年売買契約のスピンオフ作品です。
↑上記作品を知らなくても読めます。
小山内文和は貧乏な家庭に育ち、教育上よろしくない環境にいながらも、幸せな生活を送っていた。
趣味は布団でゴロゴロする事。
ある日学校から帰ってくると、部屋はもぬけの殻、両親はいなくなっており、借金取りにやってきたヤクザの組員に人身売買で売られる事になってしまった。
文和を購入したのは堂島雪夜。四十二歳の優しい雰囲気のおじさんだ。
文和は雪夜の養子となり、学校に通ったり、本当の子供のように愛された。
文和同様人身売買で買われて、堂島の元で育ったアラサー家政婦の金井栞も、サバサバした性格だが、文和に親切だ。
三年程を堂島の家で、呑気に雪夜や栞とゴロゴロした生活を送っていたのだが、ある日雪夜が人身売買の罪で逮捕されてしまった。
文和はゴロゴロ生活を守る為、雪夜が出所するまでの間、ペットにしてくれる人を探す事にした。
※前作と違い、エロは最初の頃少しだけで、あとはほぼないです。
※前作がシリアスで暗かったので、今回は明るめでやってます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる