俺とあなたと指輪の事情

ぷぴれ

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1・その男

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  指輪。

 左薬指の指輪。

 飾り気のない小さな銀の円環。

 小さな、小さな輪っかでしかないのに。

 それが大きな枷となって、俺を苦しめる。

 あの忌々しい存在に気が付いたのは、いつの事だっただろうか。











 男と初めて会ったのは、五月の大型連休の初日だった。

 高級そうなスーツを纏った男は、開店と同時にふらりとやってきて、値の張る花ばかりで花束を注文した。

(ずいぶんと端整な男だな…。)

 男の注文を伝票に書き込みながら、かなえはそんなことを思った。

 年齢は適のひとまわりは上、三十過ぎといったところか、落ち着いた大人の雰囲気を漂わせていた。

 柔らかな光を宿した切れ長の瞳に通った鼻梁、引き締まった顎。欠点など見当たらないほど整った顔に、人当たりの良さそうな、嫌味の無い笑顔を湛えた男だった。

 男は適の身長より二十センチ以上は高い。一九〇センチ近いのではないだろうか。

 見下ろされる形になるが、不快ではなかった。

 さぞかし女性にモテることだろう。

(……この花もプレゼントか…)

 胸の奥で、チリチリと火のようなものが興る。

 奇妙な感覚を振り払う為に、適は視線をそらし、ぶっきらぼうに言った。

「…贈り物ですか?」

「ええ、クライアントの誕生日パーティーに呼ばれていまして。今日の夕方、取りに伺いますので作っておいてもらえますか?」

 心地良く響く低音の声が、適の鼓膜を震わせる。

 クライアントと聞いて、ホッとしている自分に驚いた。

(……なにホッとしてんだ……)

 いつの間にか喉はカラカラに乾いていて、思うように言葉が発せられない。かろうじて了承の言葉を返すと、男は再び柔らかな笑みを浮かべ、店を出て行った。

 適はその男の後姿を、ただ見送ることしかできなかった。男の姿が見えなくなっても、その場から動くことができず、しばらくはぼんやりと突っ立ったままだった。

 店奥から声を掛けてきた店長にも気が付かず、ひどく不審がられたが、そんな事はどうでもよかった。

 すぐさま店長に、艶やかで目を惹くラッピングの花束を作ってもらった。さすがに、バイトの自分では自信が無かったからだ。

 再び店を訪れた男は、花束をかなり気に入ってくれた。

「あぁ、いいですね。素晴らしいです。これならきっと喜んでもらえます…どうもありがとう」

 花束を左右から眺め回し、大げさなほど適を褒めてくれた。

「……えっと、それ…店長が作ったもので…俺、バイトだから…その…」

 気恥しいがそのままにもしておけず、たどたどしく否定する。

 男は一瞬、目を瞠ると柔らかく微笑み、言った。

「では、今度はあなたが作った花束をいただけますか?」

「……はぁ」

 まだ経験の浅いバイドの身だ、改まって見せるほどのものは作れない。そう思ったが、言えるわけもなく、中途半端な返事でお茶を濁した。

「楽しみにしています。約束ですからね」

 男はひどく優しい声色で言葉を紡ぐと、花束を抱える。大輪の白百合を存分にあしらった豪華な花束を持つ姿は、あまりに自然で、男に似合っていた。

「……あんな男もこの世にはいるんだ…」

 感嘆のあまり呟いてしまった。

 小さくなる男の背を見つめながら、あの男にはどんな花が似合うだろうか…そればかりを考えていた。





 あれから半月。男との妙な約束は果たされる事無く、あっという間に時間が過ぎた。

 その場の社交辞令のようなもので、本気にする方がどうかしている。

 頭では理解していたが、気が付けば店の外を眺め、男の姿を探していた。暇さえあれば、男の事ばかりを気に掛けていた。

 草薙慎一くさなぎしんいち―――それが男の名だ。

 注文を受けたのも、領収書を切ったのも適自身だ。必然的に名前を聞いた。

 男は名刺を出してくれたが、その時は名前だけを控えて返してしまった。

 連絡先どころか、勤め先も覚えていない。

 覚えていたところで、男に電話をするどころか、訪ねて行く事などできるわけもない。

(約束の花束届けに来ましたって?…ないない、そんな事できるわけない!)

 思わずため息が漏れる。

 たった一度、花を買っただけのお客だ。それ以上も以下も無いのに、まるで恋い焦がれたように男を待つなど、自分はどうかしてしまったんじゃないかと思えてくる。

 あの男の発した『約束』という言葉が、適を縛りつける。

(…草薙…草薙、草薙慎一…)

 知っていても、その名を呼ぶ事など永遠に無い。当たり前の事なのにそう思うとなぜか、胸の隅が痛む気がして、適は困惑した。

(俺おかしいのかな…いや、疲れてるだけだ…疲れてる…だけ)

 適は自分に言い聞かせるように、胸の内で繰り返し、作業に集中する。

 やらなければいけない事は山のようにある。明日以降の注文と配達の確認、店頭販売用のミニブーケ作り、花の水変え、掃除、売り上げのチェック、閉店作業に施錠まで…それを今日は、適一人でこなさなければならない。

 仕切ってくれる店長は、出産で里帰りする奥さんを送っていく為に、午後から休みを取っている。

 適を信用し留守を任せてくれた店長に報いる為にも、ここはしっかりしなくてはならない。



 若村適は十九歳。信州から進学のために上京してきて、今年で二年になる。

 アパートでひとり暮らしをしながら、大学に通う生活にもだいぶ慣れた。

 適には幼い頃からの夢があった。

 友人にすら話さず、ずっと自分の中で思い描いてきた――それは『花屋』になりたいという夢だった。

 夢の為に大学で経営の勉強をする傍ら、花屋のバイトで実地経験を積んでいる。いつか小さくてもいい、自分の店を持ち、穏やかな人生を送りたい。そういう理想がある。

 だが実際、適は自分の理想とは正反対の人間だった。

 目鼻立ちのはっきりした、人からは整っていると言われる顔立ち。しかし、人見知りで無口、無愛想だからか、整っているゆえに酷薄そうだ、と思われる事が多い。

 性格は馬鹿正直で真面目。間違っていることをそのままにはしておけず、つい言葉や顔に出てしまい、一人目立ってしまう。

 言いかえれば、そういう人間だからこそ、『穏やかな生活』を望み、植物を相手にする仕事に憧れたのかもしれない。とはいえ、花屋は客商売だ。無愛想な店主では成り立つわけがない。

 花屋のバイトを見付けた時は、これだ!と思った。接客のイロハや花について学ぶことができるとわくわくした。

 しかし、最初のうちは慣れない接客と覚えることの多さに悪戦苦闘した。なによりも思っていた以上の肉体労働で、学業の傍らのアルバイトとしては過酷極まりないものだった。

 だがそれも吹き飛ぶほどの楽しさがあった。店長夫妻も優しく、適の夢を応援してくれている。

 まっすぐに、自分の夢に向かって進めばいいのだ。余計なことに気を向ける余裕なんてない。人生のステップを順調に踏んでいけばいい、そう思っていた…。

 そう、さっきまでは。



 平日とはいえ、駅にほど近い場所にあるこの店は終日忙しい。接客をこなしながら作業に追われていると、余計な事を考える間もなく時間は過ぎていった。

 すっかり日が暮れ、客も引き始める時間になってようやく一息つく事ができたが、それも束の間だった。

「こんばんは」

 店先で声をかけられ顔上げた瞬間、適は心臓が口から飛び出すのでは、と思うほど驚いた。

 目の前に、あの男―――草薙が立っていたのだ。

「こんばんは。この間は大変お世話になりました。仕事が立て込んで、すこし間が空いてしまいましたが…覚えていますか?」

 草薙はどこか不安気な顔をして適を見た。

 忘れたくとも、忘れられるはずなどない。

「は、はい…えぇっと、あの…こちらこそ…お世話になって…その…」

 仕事帰りなのかこの前よりも、少しだけ疲れの滲んだ顔に、ほっとしたような表情が浮かぶ。

「この前の花束、大変好評でした。ありがとうございました」

「…それはよかった、です」

 たとえ、自分が作ったものではなくても、喜んでもらえたと聞けばもの凄く嬉しい。

 咲き誇る命を借りて仕事をしているのだ。花たちがより美しく見えるように力を添え、受け取った人に喜んでもらいたい、できるだけ長く愛でてほしいと思う。

「仕事が立て込んでいて…やっとこちらに伺う事ができました。今日は、あなたに花を選んでいただけますよね?」

 え…?と、驚きの声をあげてしまう適に、草薙は目を細めて笑った。

「約束しましたよね?玄関に花を飾りたいのですが…見立ててください」

 断る言葉が思いつかなかった。第一それが仕事なのだから、断る事などできない。

「お願いします」

「……は、はいっ」

 草薙の言葉に急き立てられて、適は慌ててフラワーケースと向き合う。

 一足早く夏の訪れを匂わすような、明るい色見のアレンジがいいだろうか。しかし、連日蒸し暑い日が続いている。ならば玄関では、涼しげな色が出迎えたほうがいいかもしれない。

 イメージを固めながら、花を選りだす。白紫陽花と淡いブルーの紫陽花をメインに、グリーンと差し色にイエローの小花を足す。

 貧相にならないように、色のバランスを見ながら品良く整えていく。

 適の指先が茎や葉を揃え、束ねていく。その動きを、人見はただじっと見つめていた。

(……緊張する!)

 なんだか息が詰まりそうになる。心臓が早鐘のようだ。

「…こんな感じで、どうでしょうか?」

 途中、何度も失敗しそうになりながらも、なんとか出来上がった花束を見せると、草薙は嬉しそうに頷いてくれた。

「とても綺麗だ」

 ―――綺麗。

 顔が熱くなる。赤くなっているに違いない。

(花のことだ!…なのになんで顔赤くしてんだ、俺!…あぁ、恥ずかしい!)

 顔を見られたくなくて、隠すように背を向ける。

「あっ…ラッピングしますんで!」

「すぐにあけますから、簡単に包んでくれれば大丈夫ですよ。このすぐ先なんです、私の家」

 草薙の言葉に無言で頷き、オフホワイトの無地の包装紙で花を包む。

 何の飾りも無い包装だが、適はこれが一番好きだった。花が持つ生命力を、強く感じられる気がするからだ。

「…お待たせ、しました…」

「ありがとうございます」

 草薙には、しょっちゅうお礼を言われているような気がする。

(これじゃ立場が逆…)

 だが草薙は、何も気にしている様子は無く、花を受け取ると目元を緩めた。

「…こちらこそ、ありがとうございます。…気に入ってもらえて、よかったです」

 適の言葉に、人見は柔らかく微笑む。その鳶色の瞳と視線がかち合い、適の心臓が大きく跳ねる。

 草薙にジッと見つめられ、胸がざわつく、今まで感じた事の無い、激しい衝動が巻き起こる。

(…何、これ…苦しい…)

 胸が締め付けられるような息苦しさに、適はただ耐える事しかできなかった。

 無言で見つめ合ってしまう。適にとっては長い時間に感じられたが、実際はほんの一瞬の事だろう。

 草薙の唇が動く。

「もし、嫌じゃなかったら…あなたのお名前を教えてはくれませんか?」

 いつもの適ならば、なんでそんな事を教えなければいけないのだ、と拒んだだろう。

「あなたの名前が、知りたい」

 もう、拒む事などできなかった。

「か、なえ…」

「かなえ?」

 一度動き出した適の唇は、本人にも止める事はできない。

「わ、かむら…かなえ…若村適、です」

「若村適」

 草薙が繰り返す。草薙の声で名を呼ばれた瞬間、適の背に微かな電流のようなものが走る。甘い痺れが、まるで疼くように適を苛む、

「適さん」

 頷くだけの適に、草薙は言った。

「私は…」

「草薙…」

 呟くようにそっと口にすると、草薙は大きく目を見開き、殊更優しく微笑んだ。

「ご存知だったんですね」

 そう言われて、しまったと思った。教えてもいないのに知っているなど、不自然に決まっている。

「あ…あの、あっ…この前、領収書…」

「覚えていてくれたんですね、嬉しいです」

 慌てる適に、草薙はひどく嬉しそうな顔をして、笑みを深めた。

(もう…だめ…苦しい、息が…できなくなる)

 信じられないくらい激しい動機に、心臓が破裂するのではないかと不安になってくるほどだ。

「あの…草薙…あっ、草薙さん!」

「草薙、でいいですよ。あなたの呼びやすいように、話し易いように話して」

 頬が、嫌というほど火照っている。

「それでは適さん、また来ますね」

 草薙は上機嫌で店を出て行く。適は、その背中に追いすがるように、声を掛ける。

「ありがとうございました。また…お待ちしています!」

 振り向いた草薙は軽く頭を下げると、上機嫌なまま帰って行く。その背を、適は見えなくなるまで見送った。

 ―――また来ますね。

 彼はそう言ったけれど、本当にまた来るのだろうか。

 もし、もう二度と来なかったら…そう考えるだけで、言いようのない不安が適を襲う。

(俺…おかしくなっちまったのかな…これじゃまるで…)

 適は自分の脳裏に浮かんだ言葉を、無理やり吹き消すと、仕事に戻る。

 冷静になろう、平静を保とうとすればするほど落ち着かない。手元は狂い、せっかくまとめたブーケをぶちまけたり、水変えのバケツをひっくり返したりと散々だった。

 やっとのことで閉店作業を済まし、店を後にしたのはいつもよりずっと遅い時間だった。







 草薙の言葉に嘘は無かった。

 彼は時折、仕事帰りに適のバイトする店に立ち寄るようになった。

 今日も店の外で足を止め、思案するように首を傾げる。

 店の中に並んだ色とりどりの花を、一通り眺めると顔を上げる―――適と視線がぶつかる。

(…うわぁ…)

 その瞬間、頬が燃えるように熱くなる。

 目が合うのは偶然ではない。適が待っていたからだ。そろそろ草薙が通るのではないか、今日は寄って行くのか、それとも素通りしてしまうのか…。

 日が沈み始める時間になると、そんな事ばかりを考え、外の様子ばかり窺ってしまう。人影が近付く度に、胸が高鳴る。

(…困った…今更、目を逸らすわけにもいかねぇ…ってかめっちゃ不自然だ…)

 うろたえる適を尻目に、何が楽しいのか草薙は、ニコニコと微笑みながら店に入ってくる。

「こんばんは、適さん」

 しっとりと落ち着いた声が、優しく耳になじむ。

「…こ、こんばんは…」

 上擦った声で返す適は、ひどく落ち着かない。

「花を見繕ってもらえませんか?」

 店内を見回した草薙は、再び適に視線を合わせ微笑む。

 この男の微笑みを見る度に、心臓が鷲掴みにされたような苦しさに襲われる。

「……プレゼント…?」

 声が詰まりそうになりながら、かろうじて訊ねる。

 そうであってほしい…と願いながら。

「いいえ」

 否定の言葉とともに、草薙は小さく首を振る。いつも。

「自宅用です。あまり仰々しくない…ダイニングのカウンターに飾りたいんです」

 いつもそうだ。特別な誰かへの贈り物ではない。

 今日も、言い知れぬ絶望感を味わう。

「…これくらいの大きさのガラスの花瓶で―――」

 草薙は言いながら、大きさや形を手で示す。大きくて、しっかりとした男の手。



 その左手薬指には―――白銀プラチナの指輪。



 適には何の飾りも無いその細い円環が、ダイヤにも勝る輝きと存在感を放っているように見える。

「…んっ、了解」

 草薙に背を向け、花を選ぶ。すぐ後ろに彼がいるから、ため息を吐く事もできない。

 イエローのダリアをメインに、ほんの少し桔梗を添える。グリーンは多めに、カスミソウで全体のバランスを整える。

 明るいイエローは、それだけで場を明るくしてくれる気がする。本格的な夏の訪れを待つ今の時期には、自分ならばこんな花束を貰いたい。

 大人の男といった風情の彼が好むか分からないが、季節の花を、色を楽しんでもらいたかった。

 若干の不安を抱えながら、束ねたものを草薙に差し出す。

「夏らしくていいですね」

 草薙は嬉しそうに、頷きながら言ってくれた。

 照れ臭い、けれど誇らしいような、わけのわからないむず痒さのようなものが腹の底から湧きあがってくる。

 適は無言のまま、包装紙で花を包んでいく。

 草薙がこの店に来てくれるのは、これで何度目になるだろうか。

 草薙がこの店に初めて訪れてから、もう二か月は経つ。最近は五日と空けず顔を出す。

 今日のように花を買ったり、世間話だけして帰っていく日もある。

 ただでさえ人見知りだというのに、この男といると無駄に心拍数が上がって、落ち着かない。

 ほとんどは草薙の質問に適が答えるだけ。会話らしい会話などできないのに、この男は何が楽しいのか嬉々としてこの店に来る。

 変な勘違いをしそうで、怖くなる…。

「適さんの選んでくれた花が家にあると気持ちが安らぎます。部屋の雰囲気にも主張せず溶け込むのに、華やかさを添えてくれる」

「…そんなこと、ない」

 この男は適を褒める事を忘れない。いつも過剰な程の褒め言葉をくれる。

 嬉しくないわけじゃない。褒められれば嬉しい、だがこの男の言葉は恥ずかしくてしかたない。恥ずかしすぎて、拷問のようだと思う。

「あなたの人となりがよく表れている…とても好きだ」

「…っ、草薙!」

 顔が熱い。

 草薙はくすくすとひとしきり笑った後、花を受け取った。

「あぁ、本当に素敵だ」

 瞳を細め、俯きがちに花を見つめるその姿は、映画のワンシーンのようだった。相手が同じ男の自分でなければ、ロマンス映画と言っても過言ではないだろう。

「どうもありがとう。帰ったらすぐに飾りますね」

「…ありがとう、ございました」

 本当はもっと言いたい言葉がある。

 話したい事がたくさんある。

 けれど、それらをすべて飲み込む。

 花束を持つ男の左薬指がそうさせるのだ。

 店を後にするその瞬間まで笑みを絶やさない男の背を、疼く胸の痛みを押さえながら見送る。

 あの薬指の指輪に気が付いたのは、つい最近だった。

 ―――家に飾る花を見立ててください。

 それまでは、彼の為に花を選ぶ事ができるのを、嬉しく思っていた。

 特別な誰かに贈るものではないその花は、草薙の為だけのものだと思っていた。花を捧げるような、恋人はいないのかもしれないと、勝手な想像をしていた。

 しかし、指輪の存在に気が付いてからは、逆にその事が重くのしかかってくる。

 あの指輪の対の持ち主がいるのだ。

 彼の事を家で待つ、『奥さん』という存在が。

 草薙は、奥さんの待つ家に花を買って帰るのだ。『贈り物』ではない『普段使い』の花を。

 特別ではない当たり前の日常の中で、最愛の人との生活を彩る為の花。

 恋人ならば別れる可能性もある、奪い取る事もできるかもしれない。

(…でも違う…違うんだ…)

 生涯を誓った相手なのだ。その人は、自分よりずっと前に彼に出会い、とうに彼を独占していた。

(俺が入り込む余地なんて最初から無かったんだ…)

 せめて草薙が、そして奥さんが喜ぶように、花を選ぶ。それが苦しくてたまらない。

 隣り合った二人が花を見て、綺麗だと微笑みあっているかもしれないと考えるだけで、気が狂いそうになる。

 草薙が好きなのだ。

 彼が来て、声を聞いて、花を選ぶ度に、胸を焦がすような痛みとともに、思いしらされる。



 好きで、好きでたまらない。

 だがそれを口にする事など、許されない。



 この想いが尽き果てるまで、心の内に秘めていなければならない禁句なのだ。
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