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第一章
辺境からの手紙 2
しおりを挟む馬って、案外でかい。そして、意外に可愛い。
俺が乗馬を習うようになって、馬に持ったのはこんな感想。
実際にあちらの世界で馬に触れる機会なんて皆無で、テレビで見る事はあっても、所詮そんな程度では馬の大きさなんて良く分からないものだ。
こちらに来てあまり多くは無いが、アレクセス城内でも馬車を使って移動する事があるから馬を身近に感じつつあったものの、馬に跨るのとはまた違った。
移動で使う二頭馬車は割りと小柄だったのだな、と、乗馬用の馬に引き合わされて思った。
最も乗馬用として貸してくれた馬が騎士が乗る軍用馬だったからそう感じたのかもしれないけれど。
訓練された馬は人に従順で大人しい。それぞれ短気だとか癇癪持ちだとか、のんびり屋だとか人間みたいに性格もあるらしいけど。立派な体躯に筋肉質な脚、柔らかな鬣に獣程じゃないけど恐ろしげにも感じる口。
実際見て触れると感動だった。
それに目がくりっとしていて、小動物とまではいかないけど可愛らしいのだ。額から鼻にかけてを撫でると、まるで顎を撫でられた猫みたいに小さく唸って、もっととせがむように鼻面を押し付けてくる姿は、断然犬派の俺でもちょっとぐらっときた。
そういえばグランディアには猫はいるけど犬は狼に分類されるらしい。ペットとして扱われるのは猫で、チワワやダックスフンドなんて居ない。犬はすべからく野山を駆けずり回る獰猛な狼分類。あと猫も希少らしくて、飼っているのはお金持ちとか王族ぐらい。アレクセス城では誰も飼っていないけれど、欲しいなら用意してくれる――生物を用意って何だって感じだけれど――ってライドが言ってくれた。何時あちらに帰るとも分からないから、俺は謹んで辞退したけど。
車や自転車なんていう移動手段がないこちらの世界では馬が大変重宝される。だからアレクセス城には馬房――馬の厩舎が、それぞれの城にある。一番大きいのが騎士のそれで、各自一頭無いし二頭専用の馬を持っている。
ライドの馬は葦毛の馬ブリークスと月毛のディンジャーの二頭で、ブリークスは王種と脚の強い種の混血で、かなりいい馬らしい。そういわれると体格も他よりよっぽど立派に見えるから不思議だけれども、その実力は主に戦闘で発揮されるのだという。グランディアで戦争と呼べる大きなものは百年と起こってはいないけれど、それでも小競り合いは各地であるようだ。それがどの程度の規模を指すのかは判断できない。
ディンジャーは尾と鬣、それから足首辺りが白い馬で、気性は大人しく落ち着いている馬だそうで、乗馬の練習にはこの馬を貸してくれた。
ライドの馬番である十歳前後の少年は、ディンジャーに俺が乗る事にあまりいい顔をしなかった。どうも主の馬を他人に貸し与える事を良しとしないようである。
どちらも名馬であるから、特に素人に扱っては欲しくない、という事みたいだ。
ライドがいいというのだから否は言わないけれど、二人で乗馬をする度に軽く睨まれる。
馬といえば、俺は食べた事がないけど馬肉が美味しいらしいと聞いていたから興味から「美味しいのか」と尋ねたら、怖い顔でライドに殴られた。どうやら馬肉を食べる習慣はないらしい。
そんなこんなして最初は楕円形のトラックコースで馬に跨るところから走る所までを何度か練習したが、運動神経はいい方なので思いの他すぐに軽く走らせられるようになった。それだけディンジャーが良馬という事もあるのだが、ライドはしきりに誉めてくれたものだ。
今までハンナさんの紳士化教育(調教ともいう)に当てていた時間をほとんど乗馬に費やし、城外へ出て遠乗りにも出られるようになると、俺はもう、馬が大好きで大好きで仕方がなくなって、乗馬の時間になるとウキウキ跳ねるような足取りでディンジャーの元に向かうようになっていた。
その様子を見て、どうやらティアが気を遣ってくれたらしい。
「……俺の馬?」
ある日ライドと連れ立って馬房に向かった所、ディンジャーとブリークスを通り過ぎた最奥まで連れて行かれ、一頭の馬を紹介された。何でも俺の為に、とティアが遠方から取り寄せてくれたらしい。元々馬の育成は二、三歳まで調教師が行い、その後騎士や王族の元に送られてくるので、そもそもこの城には新しい馬というのが居なかったのだ。だからこそライドの馬を借りて乗馬をしていたわけだ。
青毛といわれる真っ黒な毛並の馬で、蹄との境が分からない程真っ黒だった。慣れない厩舎で落ち着かないのか、しきりに前脚で床を掻いていた。
ライドが頬に手をやると、ぶるると首を降り、まるでいやいやと言うように二、三歩後退した。
気の弱い馬だ、とライドが呟いた。
それがどういう事を指すのかと俺が訝しげに首を捻ると、それに気付いたライドは取り繕うように笑う。
「ああ、いやまあ、慣れれば何て事ないだろう。この手の馬は一度主を決めてしまえば従順に付き従うだろうし――戦には駆り出せないな、と思っただけだ」
そういう意味なら俺には関係ない、と首肯してライドとは反対側から馬の面に手を伸ばす。
ぎょろり、と忙しなく動いていた目玉が、俺を見据えたように感じた。
瞳の色だけは、青。深い海の底のような、限りなく黒に近い色だ。その目が俺の手を追うように移動して、俺の指が耳の下から頬に触れかけた時に、あちらから顔を押し付けてきた。
世話が行き届いているのだろう、触り心地は抜群だ。
「……お前とは、相性が良さそうだ」
軽く拒絶されたライドに比べて、その黒馬は俺に対しては警戒心薄く甘えるように擦り寄ってきた。俺も何だか嬉しくなって、二度三度と顔を撫でてやった後、しなやかな背に手を回す。
その間中馬は大人しかった。
ライドはにんまり笑顔の俺と馬とをしばらく見守ってから、隣のブリークスの房へ向かい、自身もブリークスを撫で始めた。
「で、名前は何にする?」
「名前?」
「ああ。お前の相棒になるんだ。名前ぐらいつけてやらないと失礼だろう」
「……名前かあ」
実家の犬につけたザッシュなんて安易なものは恐らく許されない。とは言え、自分に名付けの才能があるとも思えなかった。
うんうん唸りながら考え付いたのが、クロスケだとかブラックだとかという安直な名前。
ちょっと捻って最終的に、
「ネロ、」
黒馬を窺うようにして、俺は呟いた。あちらの世界での、黒を意味する外国語だ。
「ネロ?」
聞き慣れない発音なのだろう、ライドはどういう意味だと尋ねてきた。
「俺の世界で、“黒”を意味する言葉だよ」
「ああ、成程。お前は“黒”でブラッド、そいつも“黒”でネロか」
「いいじゃん、別に」
クロスケより断然マシだよ、と唇を突き出しながら言えば、またしてもライドが問い掛けてきたが、それは無視してやった。
それからライドの馬番の少年に鞍を装着してもらってから、俺とライドはコースに出て乗馬を楽しんだ。
ネロ、という新しい、それも自分だけの馬を手に入れて、俺はテンションを上げっぱなしだった。
ネロとの交流を終えて、グランディア城のティアの元に向かった。彼女が最近成人式の準備に向けて忙しいのは分かっていたが、どうしてもネロのお礼が言いたかったのだ。
俺がティアと摂るようになった夕食の折、どれだけ乗馬が楽しいか、どれだけ馬が可愛いものかを朗々と語っていた為に、ネロをプレゼントしてくれたのだ。それも王種に次ぐ血統で、おいそれと手に入れられないような名馬だという。ティアの成人祝いという名目で国王陛下に強請ったという事だったが、元から俺に譲ってくれるつもりだったのだろう。
俺がティアの部屋を訪れた時、彼女は来る式の為のピアノの練習中――晩餐会で弾く予定があるのだという――だったが、彼女はその演奏の手を止めて、狂喜する俺を迎え入れてくれた。
「喜んで頂けたなら、安心したわ」
そういって控え目に微笑むティアは、本当に天使のようだった。背中に純白の翼が生えていてもおかしくない、と思える程清廉で、疲れているだろうにも関わらず、俺の為に自らお茶を淹れてくれるのだ。
俺が素を出し過ぎているせいで、メイドさんを下がらせたのだとは落ち着いてから気付いて、恐縮してしまったが。
ついうっかり、というか何というか、ダ・ブラッドの仮面を被るのを忘れていたのだ。
愛嬌のあるくりっとした青い目が可愛いんだ、とか、触り心地が抜群なんだ、とか、しなやかなスタイルの良い馬なんだ、とか。興奮しきりの俺を優しく見つめてくるティアには年に不相応な落ち着きがある。
「ツカサの世界では、“黒”は『ネロ』というのね……?」
不思議な響き、とティアは小さな唇を綻ばせて言う。化粧をしているわけでも無いのに、艶やかに潤んた薔薇色のそれに、思わず目がいってしまう。
「一般的にはブラックって言うんだけど……ネロっていうのも外国語でそういう意味だったから。見た目が真っ黒だったから、分かり易くていいかなぁと」
まあ他に思いつかなかっただけだけど。
「ライドには単純過ぎるって笑われた」
「まあ。そういうライドも、ツカサの黒髪から連想してブラッドと名付けたくせに」
「そうそう。自分を棚に上げて何を、って感じだよね」
ハンナさんというお目付け役がいないので、俺はちっとも姿勢なんて気にせずに、テーブルの上に突っ伏す。その体勢でテーブルの中央にある氷菓子を食む。
カキ氷をぎゅっと凝縮して飴にしたようなお菓子は、運動後の火照った身体を調度良く冷ましてくれるように思う。舌の上で二、三度転がすと溶けてしまうので、ついつい続けて口に放ってしまう。
「ティアの馬は何ていう名前?」
「ガルーウィーンというの。額に十字の白い毛を持つ、栗色の馬よ。ライドのブリークスに負けないくらい、脚には自信があるのよ?」
「へぇ」
「今度一緒に遠駆けしましょうね?」
「うん!」
嫌な顔一つせず俺の馬談義に付き合ってくれるティアは本当にいい子。
その笑顔を見ているだけで、俺の心もほっこり暖かくなる気がして、ティアにお礼だけ言って帰ろうと思っていたのに、気がつけば余りの居心地の良さに一時間が経過していた。
ノックの音と共にメイドさんが顔を出して時計を確認し、時間の経過に驚いたけど席を立つタイミングを逃した。
どうやらメイドさんはティアに手紙を渡しに来たらしい。
テーブルの傍までメイドさんがやってきたので、その手元の白い封筒を俺も視界に入れた。青い蝋で封がされていて、その蝋に差出人の家の紋章が押されているようなのだが、紋章からそれが誰からかなんて推測できる程の知識は俺には無い。
ただティアが大きく目を見開いた後、それを両手で大事そうに抱きしめたので、何やら嬉しい相手なのだろうな、と思ったぐらい。
「ごめんなさい、ツカサ。少し、待っていて下さる?」
喜びを隠し切れないような震える声でティアに言われて、頷いてから退出すれば良かったとは思ったのだけれど、その頃にはティアは手紙を持って奥に引っ込んでいて、俺は一人取り残されたわけで。
まあいいか、と頭の片隅で考えて、氷菓子をもう一つ手に取った。
だけどティアは、俺が氷菓子を全て平らげてしまっても、戻っては来なかった――。
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