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第一章
アレクセス城の魔王 6
しおりを挟む騎士の城【クレメンデ】に、ハンナが飛び込んで来たのはある深夜の事だった。
自室ですやすやと心地良い眠りについていたライディティルは、ハンナの容赦の無い張り手によって睡眠を邪魔されたものの、その不機嫌な顔を見て文句を噤んだ。
一番簡単とはいえ、物理的な方法で覚醒を促す事を躊躇わない妹には辟易しながらも、実は自分も度々同じ事をしてしまうのでこれも文句は言えない。
「ツカサ様がおかしゅうございます」
目覚めたライディティルに開口一番、言う。
「ここ数日、顔色も優れません。何がありましたの」
ツカサの様子は、先日修練場でエディアルドに会ってからというもの一向に浮上しない。それはツカサの教育係であるハンナにも、勿論分かる事だった。ただハンナは、あの日彼が街の観光を辞した理由を知らなかった。おかしい、と感じても、その原因まではとても測れなかった。
「何だ。身が入ってないのか?」
「そのような事はありません。むしろ以前より余程、自主的に学んでおられます」
ただ無理が過ぎるのだ、とハンナは顔色を曇らせた。教えた事を全て身の内にためようとする姿勢は好ましい。ただ、作ったような笑顔と余所余所しい態度に、時間があれば一心不乱に竹刀を振って、朝から晩まで休む間も無い。そこには鬼気迫るものがある。
「ご自分の立場を自覚されての事であれば、よろしいのです。お若いのですから多少の無理をした所で、何ということもありませんでしょう」
倒れでもして迷惑がかからなければいい、と言い切る妹にライディティルは苦笑する。この場合の迷惑は勿論自分に、という意味なのだからやり切れない。
「ただティシア様も心配しておられます」
そして自分への迷惑より何よりも、自身の主人が気を揉もんでいる状態が重要である。
ですから何がありましたの、と再度聞かれて、ライディティルは全てを打ち明けた。もとより隠し立てするつもりは無い。隠し通せるとも思えない。ライディティルは5つ下のこの妹に頭が上がらないのだ。
全てを聞いて思案するハンナを見つめながら、ライディティルは自身の獅子の鬣のような爆発した髪の毛を混ぜた。この癖毛は寝癖もつかないかわりに、ちょっとやそっとの事では形を変えない。同じ血族ながら癖の一つも無い妹の纏め髪を眺めながら、うらやましいものだと嘆息する。
「ツカサ様は、」
埒の無い事を考えていたライディティルは、躊躇うようなハンナの潜んだ声音に、曖昧だった視界を取り戻す。寝台の端に腰をかけるハンナは秀麗な眼差しを落とした。
「何故そうまでしてティシア様とのご結婚を嫌がられるのでしょう」
「そりゃ嫌だろう」
「ティシア様にご不満が?」
「そうじゃない」
常であれば、何様だとでも怒り出しそうなハンナだ。王家の兄弟に主従以上の親愛を抱いている兄弟にとっては、ツカサの頑なさは不満を通り越して疑問だった。
「ティアは確かに身分も容姿も性格だって言う事無い。彼女に嫉妬する者はあっても、嫌うのは難しいだろうよ。ただそれと結婚は別だ」
ハンナも分かっているだろう事を、ライディティルはあえて口にする。
ライディティルにとってもハンナにとっても、結婚は好き嫌いだけで交わされるものではない。王族程結婚に重きを置かない騎士一族にとっても、「結婚します」「はいどうぞ」で済む話ではなかった。家同士の繋がりもあるが、一番はなるべくはいい血を子孫に残す事。ライディティルやハンナが結婚を意識する時、感情以外に家柄であったり身分であったりというものは無視できない。
ただそれは、幼い頃からそういうものだ、と分かっているからこそ許諾できる。
「ツカサにとっては結婚は身近なものじゃない。そういう世界観に生まれてるんだ」
「この期に及んでその意志を貫けますか」
「それは俺らの常識だ。ツカサは今だって、自分の世界に帰る気でいる。無理だとも無駄だとも考えずに」
ライディティルはツカサの部屋の寝台の下に、幾つもの書物が潜んでいるのを知っていた。それはこちらの目を盗んで、ツカサが異世界への帰り道を探っている証だった。クリフの話では自室に篭ってもその気配は朝方まで消えず、恐らくその睡眠は2、3時間のものだというから、かなりの時間そうしているのだろう。
ただどんなに書物を漁ってみても、そこに答えは無い筈だ。長い歴史の中で、奇妙な異世界との繋がりを研究していた者は少なくない。高名な学者しかり、知識人しかり、ある時は王自らが率先してその理を探ったものだ。それでも解明出来ない事を、幾ら自分達とは違う知識を持った異世界の住人でも、出来るとは考えられない。
「陛下をあれ程に畏れながらも、成そうと考えられるものですか?」
「それをおしても帰りたい――否、結婚出来ない理由があるんだろう」
「どのような」
「それが分かれば苦労しない」
だからこそ困窮しているのだ、とライディティルは嘆息した。
「ハナからあいつは、結婚出来ないと再三言っていた。でもけして、自分の国に帰るから結婚出来ないとは言わなかった。例えば自分は既に結婚しているとか、子供がいるとか、好きな相手がいるとか――ましてや子供が出来ない身体だとか、な。結婚出来ない理由は明確にしていない」
だからこそ、頑なだと感じる。
なおも答えを求めるように向けられるハンナの真っ直ぐな視線を、ライディティルは苦く笑った。何時もはけして自分を当てにしないハンナが、こういう時だけ仰ぐのが可笑しくも嬉しくもあった。
寝台の横のテーブルに置かれたランプの灯りを、ライディティルは見つめる。それはまるでツカサの心であるかのように、ぼやけて曖昧に揺れる。
付き合いの浅い自分達には、けして掴めないツカサの心中。
「ティアとの結婚の唾棄も、ましてや異世界へ帰る事も、簡単じゃないのはツカサも分かってるだろう。だからこそあいつが一番に望んだのは、この世界での保証だ」
エスカ・ジャスティンの後見を得て、見せたあの心からの安堵。それでも尚、事情を吐露するまでの信頼は覚えていない。
「お前はどうする?」
幼い色を残しながらも、それでも大人の顔をした異世界の青年を思い、ライディティルは問い掛けた。
「どう、とは……?」
ハンナは炎を宿した瞳を瞬かせる。
「俺は、中々にあいつを気に入ってる。仮に――ティアと結婚しなくても、だ……エスカ・ジャスティン程の力にはならないが、騎士見習いとしてでも下に置いてもいいと思ってる」
何より、まだ未熟ながらも筋がいい。実践ではまだまだ役に立たないものの、こちらとは違う独特の戦い方はその内大きな成果を出すだろう。
国王陛下の刃の盾の一端ぐらいにはなってやれる、とライディティルは思った。
聞かれた意味を悟って、ハンナは逡巡する。
「私は、ティシア様の幸福が第一前提です」
しばらくして控え目に、呟く。
「けれど私も、ツカサ様の素直な気性は好ましく感じております」
それでいいだろう、とライディティルは頷く。
実際にツカサがグランディアにとって邪魔でしかない、と判断されれば、自分は愚かエスカ・ジャスティンでさえ、判断を覆すのは目に見えている。何よりも優先するべくはグランディアの安寧である事は間違いないのだから。
「そう思うなら一日も早く、あいつを一人前に育て上げろ。それが最善だ」
「分かっております」
偉そうな兄の態度が勘に触ったのか、ハンナは眉の根元に皺を寄せて言う。
しかしその表情は、ライディティルを訪ねた時より幾分和らいでいた。
「夜分に失礼しました。帰ります」
颯爽と身を翻したハンナは、振り返らなかった。
こちらの世界に来て、二ヶ月。
誰の手を煩わさなくても生活出来る程度には、慣れた。
あちらの世界への執着は、薄れた。家族の顔も、飼っていた犬のザッシュも、高志の馬鹿笑いも、学校や部活、頭の痛くなる授業も、ゲーム機や漫画に、コンビニ、ジャンクフード。全部が全部、懐かしいだけ。
自分があちらでどういう扱いになっているかなんて、考えても仕方がない。誰かが悲しんでくれている、捜してくれている、なんて思っても、申し訳なくも寂しくも思っても、こちらと同じ様にあちらも、日々は間違いなく過ぎていく。
もしニュースが報道しても、次の日には別のニュースで塗り替えられて、簡単に忘れ去られてしまうだろう。
俺があちらの世界を思い出す瞬間が少なくなったように、あちらもまた、俺を話題にしなくなる。学校の俺のクラス、俺の空席が最初のうちは目立っても、それが何時しか当たり前になって。部活ではきっと、俺の代わりの誰かが試合に出て。俺の帰りをまんじりとしないで待っているかもしれない家族や高志も、毎朝毎夜そうだったものが数日にいっぺんになり、数週間にいっぺんになる。俺の不在に違和感を感じていた日々が、当たり前になっていく。
俺がどうしようもないように、あちらもどうしようもない。まさか異世界にトリップしているなんて考えてもいないだろうし。
家出、なんて言葉であっさり片付けられている気もする。
そこら辺は無事に帰り着くまで、予想しか出来ない。
まあ俺が何だかんだいって日々を生きているのと同じ様に、あちらも皆、何だかんだで日常を生きているのだろう。
それは諦めでもなく当然の事だと認識している。
だから、ただ、しょうがないとしか思わない。
十七年間生きてきた世界をあっさりと過去に出来る位に、俺は順応力が高かったようだ。
でも、それだけだった。
ライドは相変らず俺の傍をチョロチョロしていたし、ハンナさんの鬼教官っぷりはあいもかわらず。俺は前にも増して疲れ切って、悩む暇も無く忙しい毎日を過ごしている。
――否、無理矢理忙しくしている、と言っていいだろう。
のんびりした時間を持つと、どうしても国王陛下の宣言が蘇ってしまう。
あれっきり朝の修練場で顔を合わす事は無かったが、少し気を抜いた瞬間に、あの鋭い目がどこからか注がれているんじゃないかと思ってしまう。
俺のだれた姿をどこかで目にして、剣を抜いてやってくるんじゃないか、とか。何かミスをすれば、あの無機質な声で切り捨てられるんじゃないか、とか。
ただの被害妄想でしかないのだけど。
朝の鍛錬場でも、そこに向かう道すがらでも、朝食の時間も、ハンナさんにしごかれている時も、個室のトイレに篭っていても、浴場で汗を流していても、部屋のベッドに横になる時も、どこかで見張られている気がして、あたりの様子を窺っていた。
監視カメラなんて代物があるわけでもないし、実際の所国王陛下も暇なわけではないから俺に構う事も無い。むしろ興味すら向けていない。
そうは分かっていても何時でも何処でも国王陛下の瞳に見張られている気がして、体力以上に精神が磨耗している。
だから行動の一つにも余裕が無いし、時々思い出したようにキョロキョロしてしまうような挙動不審さを、自分でも自覚しながらどうにも出来なかった。
そんな様子を俺と接しているライドやクリフが気付かない筈もないのだろうけど、彼らは何も言わないし聞かない。ハンナさんは何か言いたげにしている事が多々あったけど、結局は何も言わない。
俺が自分の世界に帰ろうと躍起になっていたって、それを咎めない。方法が無い、と知っているからこそかもしれないけれど。
その気遣いが、彼らの優しさなのだと思った。
彼らを信用できないかと言われれば、今はもう、否と答える。
それでも俺はティシアさん達に秘密を抱えたままだ。
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