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第2部 峡谷の底
18 湊斗の記憶⑫~揺らぎ~
しおりを挟む数日後の朝。
「週末に、この棟の階段から落ちた人がいるらしいな。確か、庄野さんの奥さんと、その知り合いだったか」
居間で、父がトーストを手早く口に入れながら、思い出したように湊斗に言った。
「う、うん……日曜日だったよ。ぼくが昼前に帰ってきた時、ちょうど救急車が来てて、野次馬がたくさんいた」
父と向かい合って牛乳を飲んでいた湊斗は一瞬ギクリとしたが、平静を装って答える。別に自分があの事故に直接かかわったわけではないのだから、後ろめたさを感じる理由などないはずだった。
しかし、
「落ちた人たちは、大丈夫なのかな?」
やはり気になって、湊斗はさりげなく尋ねてみた。
「ああ、二人とも大したことないらしいぞ。病院からすぐ帰ってきたって話だし」
それを聞いた湊斗は、ひそかに胸を撫で下ろした。
(いや、ぼくのせいじゃない。関係あるもんか。だって、ぼくはただ、あの時……)
庄野たちが転んでケガでもすればいいと、願っただけなのだ。あの日、湊斗の父母を深く知りもせず適当なことを言った彼女らに、内心で悪態をついただけ。少し気味は悪いが、偶然に過ぎない。
(それに、すぐ治るケガで済んだなら、いいじゃないか)
深刻な事態でないとわかり、湊斗は安心すると同時に、どこかせいせいする気がしていた。
(お母さんは何年も苦しんでるんだぞ。それに比べれば、あの二人のケガなんか軽いもんだ――)
不謹慎な考えかもしれない。頭ではそう理解しつつも、湊斗は内側で芽生えた声を打ち消すことができなかった。むしろ、それはとめどなく膨らんでいく気配さえある。
「ただ、ちょっと妙な点があるみたいだな」
そんな湊斗の思考を遮るかのように、父がふと呟いた。
「妙な点?」
「庄野さんは四階の自宅から下へ降りる途中で、後ろから誰かに背中を押されたと言ってるそうだ。でも、そんな人がいた形跡はないらしい。四階は最上階だ。仮に犯人が逃げるなら、庄野さんたちの横を通って下へ行くしかないんだが、連れの女性は誰も見てないって噂だし……」
「しばらくどっかに隠れてたとかじゃないの?」
もし事実なら、それも嫌な話だが、湊斗はとりあえず思いついた可能性を口にした。
だが、父は首を左右に振り、
「庄野さんの悲鳴を聞いて、自宅にいた旦那さんがすぐ見に行ったっていうんだ。けど、周りには誰もいなかった。あの狭い場所に人が隠れられるスペースはないし、庄野さんの隣は空室だから施錠されて入れないだろう? 一体、どういうわけなんだかな」
そこまで言うと、慌ただしく食事を再開した。
湊斗はどうにも釈然としないまま、牛乳に浸したトーストを口にした。水分を含んで重くなったトーストが、どろりと喉の奥へ落ちていった。
朝食を終えた父が会社へ向かった直後、洗濯機がピロピロと甲高いメロディで湊斗を呼びつけた。
母は週明けから再び調子を崩し、今朝もベッドから起き上がれない。そのため、衣類の洗濯はもっぱら湊斗の仕事であった。
父より遅く家を出られるといっても、学校へ行くまでの短時間で洗濯物を干してしまわなければならない。
(やっぱり、人の不幸なんて喜ぶもんじゃないよな)
湊斗は洗濯機から下着やシャツなどをどんどんカゴへ放りこみながら、庄野たちのことに思いを巡らせていた。
父母の噂をした彼女たちに天罰が下った気がして、胸がスカッとしたのは束の間だった。落ち着いて考えてみると、自分の醜い一面を目の当たりにした不快感がまとわりついた。
湊斗は浮かない気持ちを切り替えるべく、衣類をカゴに移し終えるとベランダへ走った。
居間のテレビでは情報番組が流れていて、視聴者のペットを紹介するコーナーになっていた。いつも通りの流れだ。湊斗は女子アナウンサーの柔らかいナレーションを耳にしながら、勢いよく吐き出し窓を開けた。
すると、ベランダの一角に、朝日を浴びてきらりと光るものがあった。
「クモの巣……」
ベランダの左隅。黒い手すりの間に、円形の蜘蛛の巣が張られていた。巣の大きさは子どもの手のひらほど。緻密に張り巡らされた糸の一本一本が、白い陽光に照らされ、虹色に輝いている。
湊斗は七色のきらめきに、一瞬、目を奪われた。そして、引き寄せられるように巣の方へ近づいていくと、その中心に一匹の蜘蛛がいることに気づいた。
「何だ、まだちっちゃい奴じゃないか。いっちょまえに、巣だけは立派だな」
湊斗の感想通り、蜘蛛の体は豆つぶくらいしかなかった。この辺では珍しい銀色の蜘蛛のようだが、いかんせん小さすぎて、目を凝らさないとよくわからない。
「もしお母さんが見たら、嫌がるかな……」
母は昔から虫の類いが苦手なのだ。湊斗は今のうちに蜘蛛を追い払おうかと考えたが、登校までの時間が残り少ない。まずは洗濯物を片付けるのが先だった。
「お前、あんまり長居するなよ。お母さんに見つかったら、大変だからな」
おそらく蜘蛛はいずれ他の場所へ移動するだろうし、母も今日は洗濯物を取る元気はなさそうだ。そう見当をつけた湊斗は、蜘蛛相手に軽い調子で呼びかけると、まずはタオルから順に干し始めた。
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