The Blood in Myself

すがるん

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第2部 峡谷の底

16 湊斗の記憶⑩~濁り~

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 日曜日。
「お母さん、ちょっと走ってくるね」
 湊斗は玄関から居間の方へ、弾んだ声をかけた。速乾性の白いTシャツに黒のハーフパンツ姿で、靴棚からランニング用のスニーカーを取り出した。スニーカーには黒地に紫で『N』のロゴが入っている。
「気をつけてね、湊斗」
 ほどなく、居間から母が顔を出した。寝間着の上にカーディガンを羽織っている。時刻は午前十時を過ぎていた。今日の母は具合が落ち着いており、起きていられそうだと言う。
「うん。自転車で堤防まで行ってランニングして、帰りに買い物してくるから。昼前には戻るよ」
 湊斗はそう言いながら、やや手狭な玄関にスニーカーを置いた。父は会社の上司とゴルフをするという話で、朝から家を出ている。
 湊斗は腰を下ろすと、パカッと口を開けたようなスニーカーに両足を入れた。右、左と、慣れた手つきで靴ひもを穴へ通し、途中でほどけないよう、しっかりと結ぶ。
「よし」
 満足げな表情で、湊斗は立ち上がった。
「じゃあ、行ってきます」
 湊斗は晴れやかに母に笑いかけてから、勢いよくドアを押した。分厚く重いドアがギギッと音を立てて開いた先には、梅雨の中休みの青空が見えた。


 社宅の棟を出た湊斗は、まっすぐ手前の駐輪場へ向かった。屋根つきの駐輪場には、様々な大きさや形の自転車がずらりと並んでいる。
 湊斗が自転車の鍵を手に、うろうろしていると、
「あら、湊斗くん。お出かけ?」
 背後から、年配の女性の声に呼びとめられた。
「あ……どうも」
 湊斗は振り向きざまに、軽く会釈をする。そこには、ちょうど同じタイミングで駐輪場にやってきたらしい、二人組の女性がいた。
「今日はいいお天気だものねえ。そういえば、お母さん大丈夫?」
 湊斗に声をかけてきた女性が、やや大げさに気遣う口調で話し続けた。彼女は湊斗と同じA棟に住む庄野という女性で、母と変わらない年代のようだった。
「ええ、まあ……」
 湊斗は曖昧にうなずきながら、自分の自転車を見つけ出そうと意識を集中させた。庄野の視線はいつも無遠慮で、こちらを探っているのではないかと感じさせる。言い知れぬ居心地の悪さで、湊斗は以前から彼女が苦手だった。
 幸い、湊斗の努力が報われて、自転車はすぐに見つかった。これ以上何か聞かれる前に、湊斗は濃いグリーンの愛車を急いで引き出した。一応、もう一度だけ庄野の方へ頭を下げると、女性たちも穏やかな愛想笑いを浮かべた。
 しかし、自転車をこぎ出した湊斗の耳に、かすかだが庄野たちの会話が飛び込んできた。
「あの子の母親がそうなの?」
「ええ、ずっと病院通いよ。旦那さんは出世頭なのにねえ。外面が良くても、中では色々あるんじゃない? ほら、モラハラとかDVとか――」
 湊斗の両手に思わず力が入り、ハンドルを握りしめていた。
(……何だよ、それ)
 もう聞こえていないと思ったのだろう。だが、事情を知りもしない人間の口から出た言葉は、湊斗の心を容赦なく踏みにじった。胸の奥底で、怒りと苛立ちが、黒いかげろうのように揺らめくのを感じた。
 せっかく、今日は母の調子が良かったのに。楽しい気分は一瞬で台無しになってしまった。
(あいつら、転んでケガでもすればいいのに――)
 湊斗はペダルを踏む足に力をこめ、心の中で毒づいた。


 それでも、社宅の敷地を出た湊斗は気を取り直して、二階建てや三階建ての家が並ぶ道を抜けていった。しばらく自転車をこぎ進めると、町を南北に流れる川沿いの土手の前に出る。ここが、堤防と呼ばれる場所だった。
 しばらく手入れされていない土手は草が伸び放題で、所々にある石段をほとんど覆い尽くしてしまっている。そして、自転車の湊斗が上の道へ行くには、近くの長い上り坂を越えねばならなかった。
「よし!」
 湊斗は馬力をつけ、腰を半分浮かせながら坂道を上っていく。途中、自転車を押して歩く子どもや通行人を追い抜くと、一気に上の道までたどり着いた。
 天気の良い休日のためか、そこにはすでに人の姿がたくさんあった。湊斗のようにランニングに精を出す男性や、犬の散歩をする年配の女性。そして土手の下に広がる空き地では、老人たちが集まってゲートボールに興じている。
(ああ、風が気持ちいいな)
 湊斗は自転車から降りると、空き地のようすを眺めつつ、立ち止まって、空気をめいっぱい吸い込んだ。湿気もほとんどなく、走りやすい貴重な晴れ間だった。空き地の先へ目をやると、社宅や、今しがた通った住宅街も見える。
 鮮やかな晴天と広い町並みを眺めるうちに、湊斗の気分もずいぶん良くなっていた。
(あのガードレールの横に自転車を停めて、スタートするか)
 湊斗は息を整えながら、道の前方へ視線を向けた。数メートル手前から道幅が少し広がって、歩道と白いガードレールが整備されている。そこに駐輪し、軽くストレッチをして、いよいよ走り出す……というのが、湊斗のランニングのパターンだ。
 ところが、
(ん?)
 この日は先客がいた。ジャージ姿の少年が、湊斗より一足先に、ガードレールに両手を置いてストレッチに取り組んでいる。
 湊斗は立ち止まったまま、その少年を凝視した。
 遠目だが、見覚えのある横顔は。
「……山那?」
 小声のつもりであったが、その呟きが風に乗って届いたかのように、三景がゆっくりと湊斗の方を振り向いた。


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