48 / 76
第2部 峡谷の底
16 湊斗の記憶⑩~濁り~
しおりを挟む日曜日。
「お母さん、ちょっと走ってくるね」
湊斗は玄関から居間の方へ、弾んだ声をかけた。速乾性の白いTシャツに黒のハーフパンツ姿で、靴棚からランニング用のスニーカーを取り出した。スニーカーには黒地に紫で『N』のロゴが入っている。
「気をつけてね、湊斗」
ほどなく、居間から母が顔を出した。寝間着の上にカーディガンを羽織っている。時刻は午前十時を過ぎていた。今日の母は具合が落ち着いており、起きていられそうだと言う。
「うん。自転車で堤防まで行ってランニングして、帰りに買い物してくるから。昼前には戻るよ」
湊斗はそう言いながら、やや手狭な玄関にスニーカーを置いた。父は会社の上司とゴルフをするという話で、朝から家を出ている。
湊斗は腰を下ろすと、パカッと口を開けたようなスニーカーに両足を入れた。右、左と、慣れた手つきで靴ひもを穴へ通し、途中でほどけないよう、しっかりと結ぶ。
「よし」
満足げな表情で、湊斗は立ち上がった。
「じゃあ、行ってきます」
湊斗は晴れやかに母に笑いかけてから、勢いよくドアを押した。分厚く重いドアがギギッと音を立てて開いた先には、梅雨の中休みの青空が見えた。
社宅の棟を出た湊斗は、まっすぐ手前の駐輪場へ向かった。屋根つきの駐輪場には、様々な大きさや形の自転車がずらりと並んでいる。
湊斗が自転車の鍵を手に、うろうろしていると、
「あら、湊斗くん。お出かけ?」
背後から、年配の女性の声に呼びとめられた。
「あ……どうも」
湊斗は振り向きざまに、軽く会釈をする。そこには、ちょうど同じタイミングで駐輪場にやってきたらしい、二人組の女性がいた。
「今日はいいお天気だものねえ。そういえば、お母さん大丈夫?」
湊斗に声をかけてきた女性が、やや大げさに気遣う口調で話し続けた。彼女は湊斗と同じA棟に住む庄野という女性で、母と変わらない年代のようだった。
「ええ、まあ……」
湊斗は曖昧にうなずきながら、自分の自転車を見つけ出そうと意識を集中させた。庄野の視線はいつも無遠慮で、こちらを探っているのではないかと感じさせる。言い知れぬ居心地の悪さで、湊斗は以前から彼女が苦手だった。
幸い、湊斗の努力が報われて、自転車はすぐに見つかった。これ以上何か聞かれる前に、湊斗は濃いグリーンの愛車を急いで引き出した。一応、もう一度だけ庄野の方へ頭を下げると、女性たちも穏やかな愛想笑いを浮かべた。
しかし、自転車をこぎ出した湊斗の耳に、かすかだが庄野たちの会話が飛び込んできた。
「あの子の母親がそうなの?」
「ええ、ずっと病院通いよ。旦那さんは出世頭なのにねえ。外面が良くても、中では色々あるんじゃない? ほら、モラハラとかDVとか――」
湊斗の両手に思わず力が入り、ハンドルを握りしめていた。
(……何だよ、それ)
もう聞こえていないと思ったのだろう。だが、事情を知りもしない人間の口から出た言葉は、湊斗の心を容赦なく踏みにじった。胸の奥底で、怒りと苛立ちが、黒いかげろうのように揺らめくのを感じた。
せっかく、今日は母の調子が良かったのに。楽しい気分は一瞬で台無しになってしまった。
(あいつら、転んでケガでもすればいいのに――)
湊斗はペダルを踏む足に力をこめ、心の中で毒づいた。
それでも、社宅の敷地を出た湊斗は気を取り直して、二階建てや三階建ての家が並ぶ道を抜けていった。しばらく自転車をこぎ進めると、町を南北に流れる川沿いの土手の前に出る。ここが、堤防と呼ばれる場所だった。
しばらく手入れされていない土手は草が伸び放題で、所々にある石段をほとんど覆い尽くしてしまっている。そして、自転車の湊斗が上の道へ行くには、近くの長い上り坂を越えねばならなかった。
「よし!」
湊斗は馬力をつけ、腰を半分浮かせながら坂道を上っていく。途中、自転車を押して歩く子どもや通行人を追い抜くと、一気に上の道までたどり着いた。
天気の良い休日のためか、そこにはすでに人の姿がたくさんあった。湊斗のようにランニングに精を出す男性や、犬の散歩をする年配の女性。そして土手の下に広がる空き地では、老人たちが集まってゲートボールに興じている。
(ああ、風が気持ちいいな)
湊斗は自転車から降りると、空き地のようすを眺めつつ、立ち止まって、空気をめいっぱい吸い込んだ。湿気もほとんどなく、走りやすい貴重な晴れ間だった。空き地の先へ目をやると、社宅や、今しがた通った住宅街も見える。
鮮やかな晴天と広い町並みを眺めるうちに、湊斗の気分もずいぶん良くなっていた。
(あのガードレールの横に自転車を停めて、スタートするか)
湊斗は息を整えながら、道の前方へ視線を向けた。数メートル手前から道幅が少し広がって、歩道と白いガードレールが整備されている。そこに駐輪し、軽くストレッチをして、いよいよ走り出す……というのが、湊斗のランニングのパターンだ。
ところが、
(ん?)
この日は先客がいた。ジャージ姿の少年が、湊斗より一足先に、ガードレールに両手を置いてストレッチに取り組んでいる。
湊斗は立ち止まったまま、その少年を凝視した。
遠目だが、見覚えのある横顔は。
「……山那?」
小声のつもりであったが、その呟きが風に乗って届いたかのように、三景がゆっくりと湊斗の方を振り向いた。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説
新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。
エンジニア(精製士)の憂鬱
蒼衣翼
キャラ文芸
「俺の夢は人を感動させることの出来るおもちゃを作ること」そう豪語する木村隆志(きむらたかし)26才。
彼は現在中堅家電メーカーに務めるサラリーマンだ。
しかして、その血統は、人類救世のために生まれた一族である。
想いが怪異を産み出す世界で、男は使命を捨てて、夢を選んだ。……選んだはずだった。
だが、一人の女性を救ったことから彼の運命は大きく変わり始める。
愛する女性、逃れられない運命、捨てられない夢を全て抱えて苦悩しながらも前に進む、とある勇者(ヒーロー)の物語。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
失声の歌
涼雅
BL
……声が出ない
それは唐突に俺を襲った
いつもは当たり前にできたこと
それが急にできなくなった
暗闇に突き落とされて、目の前なんて見えなくなった
うるさい喧騒の中でひとつだけ、綺麗な音が聴こえるまでは
この噛み痕は、無効。
ことわ子
BL
執着強めのαで高校一年生の茜トキ×αアレルギーのβで高校三年生の品野千秋
α、β、Ωの三つの性が存在する現代で、品野千秋(しなのちあき)は一番人口が多いとされる平凡なβで、これまた平凡な高校三年生として暮らしていた。
いや、正しくは"平凡に暮らしたい"高校生として、自らを『αアレルギー』と自称するほど日々αを憎みながら生活していた。
千秋がαアレルギーになったのは幼少期のトラウマが原因だった。その時から千秋はαに対し強い拒否反応を示すようになり、わざわざαのいない高校へ進学するなど、徹底してαを避け続けた。
そんなある日、千秋は体育の授業中に熱中症で倒れてしまう。保健室で目を覚ますと、そこには親友の向田翔(むこうだかける)ともう一人、初めて見る下級生の男がいた。
その男と、トラウマの原因となった人物の顔が重なり千秋は混乱するが、男は千秋の混乱をよそに急に距離を詰めてくる。
「やっと見つけた」
男は誰もが見惚れる顔でそう言った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる