The Blood in Myself

すがるん

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第2部 峡谷の底

7 湊斗の記憶①~羨望~

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 深い闇の中で、まどろむ『影』があった。
 ――誰かの話し声がする。
 『影』はゆらゆらと揺蕩いながら、ある声を感知していた。
 ――この声は、やんちゃんだ。ぼくのことを、話している……。
 実体を持たない存在にも関わらず、声が届くにつれ、『影』は己の内に流れる血潮が脈打つような感覚を味わっていた。
 ――きっと、相手はあの『贄』に違いない。それもいいだろう。
 『影』はそんなことを考え、うっすらと笑った。
 ――やんちゃん、ぼくも『知って』いるよ。君と一緒にいた頃のこと。多分、君よりも深く……。
 声に誘われてか、『影』の持つ記憶が鮮明に浮かび上がる。『影』はしばし、そんな記憶の海に溶け込むことにした。



 中学三年生になると、教室が二階になった。
(あ、またあいつだ)
 授業中、岡湊斗は窓際後方の席からグラウンドを眺めていた。どこのクラスだろうか。五月晴れの空の下、白線がひかれたトラックを飛ぶように駆け抜ける男子生徒がいた。
 男子生徒の顔は遠くてよくわからないが、その体を運ぶ両足が車輪のごとく滑らかに、軽やかに回転している。後ろへ引くような腕の振りも無駄がなく、きれのいいフォームだ。
(それにしても、本っ当に速いなあ。でも陸上部うちにあんなのいないし、一体誰だろう?)
 湊斗は半ば惚れ惚れと、レースの行方に見入っていた。机上には数学の教科書が開かれてはいるがそれだけで、教師が黒板にせっせと図形の証明を書いていくのも、どこ吹く風だった。
 おそらく、百メートル走だったのだろう。男子生徒はあっという間にゴールする。と、その近くに、湊斗は知っている顔を見つけた。
(あれ、中井?)
 ゴール付近では、すでに走り終えた生徒たちが立ったり座ったりして、たむろしている。その中にいる、よく日焼けした男子生徒。彼は確かに、今年、陸上部に入ってきた後輩の一人だ。
(てことは、あいつも一年なんだ)
 教師がストップウォッチに刻まれた、男子生徒の記録を読み上げたようだ。わずかに聞こえてくる歓声を耳にしながら、湊斗は人知れず楽しそうな笑顔を浮かべた。


 部活動の休憩中、湊斗は例の男子生徒について、後輩の中井に訊ねてみた。
「それやったら、山那のことやと思いますよ」
 グラウンドの片隅で、中井は水筒のお茶を飲みつつ、関西訛りのある言葉で答えた。
「小学校でも、オレが転校してきた時には、あいつはもうダントツ足速かったんで」
 日焼けしても肌が赤くなるだけの湊斗とは対照的に、中井は色黒で、それがこの一年生部員をいかにも健康的に見せていた。もっとも数ヶ月前までは小学生だったので、背は低く、体つきもまだ幼いが、トレーニングを積めば良い選手になると予想できた。
「それほどの逸材なのに、本人は陸上やってないの?」
 湊斗もスポーツドリンク入りの水筒を手に、問いを重ねた。放課後の校庭ではいくつもの運動部が活動しており、活発なかけ声があちこちで飛び交っている。湊斗たちの近くでは、同じ陸上部の集団がトラックを疾走し、その向こうには、野球部やテニス部の練習風景も見える。
「岡先輩、山那を陸上部に誘たろと思てるんですか?」
 質問したつもりが、中井から逆に聞き返された。
「もしそうやったら、言いづらいですけど、多分あいつはあかん気がします」
「あかんって、断られるって意味? 他の部活してるとか?」
 小学五年の時に大阪から転校してきたという中井は、今にいたっても一向に大阪弁が薄れない。おそらくこの後輩は一生、西の言葉で話し続けるだろうと湊斗は思っている。
「はい、それもありますけど……山那はそもそも、走ることに興味なさそうっちゅうか、別に楽しんでないっちゅうか……眼中にないように見えるんです」
 他の一年生に比べ、いつもなら自分の考えをはっきり伝える中井にしては珍しく、やや歯切れの悪い物言いだった。
「ふ~ん……」
 湊斗はそんな後輩を不思議そうに眺めて、相づちを打った。
(山那、か)
 昼間より涼しい風が、湊斗の頬を撫でる。その風に呼び起こされるように、教室の窓から見た、颯爽と走る男子生徒の姿が思い出された。中井の話を聞いても湊斗の興味は失せることなく、むしろ膨らんだといってもよかった。
(できれば次は、もっと近くで見てみたいな……)
 西の方から赤くなり始めた空を見上げながら、湊斗は何とはなしにそう願っていた。

 そして、湊斗のその思いは遠からず実現することになる。

 
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